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園長から電話があった。小学校に入学してみる気はあるかという。月日が流れるのは早いもので、僕もまっとうな生活をしていれば九年間にわたる義務教育が始まる年齢になっていたのだ。
ずんぶん心惹かれたけど、もう少し何物にも縛られない自堕落な生活が送りたかったので丁重にお断りした。入学するとすれば私立聖祥大付属小学校一択という、どうにも堅苦しそうな選択肢しか用意されていなかったことに気後れしたというのもある。いくら僕とはいえ、小学生のお受験に失敗したらしばらく立ち直れそうにない。失敗前提で考えるマイナス思考は
この三年で変わったことはいくつもあって、でも正直自分で意識できることは少ない。背は多少伸びたが、身体能力は相変わらず最低値。時間停止を使っている割合から考えると同年代の平均と比べてもやや低めなこの体は少し嫌な予感が……深く考えるのはやめておこう。
髪は肩のラインでぱっさり切った。うっとおしかったし、手入れも面倒だったし。まあ結構この外見は気に入っているので、女の子に見えるよう最低ラインは維持していくつもりだ。
裏の社会方面でいえば『味方にすれば致命傷だが、敵に回せばそんなものでは済まない』と言われ親しまれている
結果として生まれたのは、ときどきZOOの上の方から流れてくるお仕事を適当にこなすだけで食うのに困らないという理想的な環境。学校に連行されていく黄色い帽子の同級生を窓越しに見下ろしながらホテルのベッドでごろごろ過ごす日常。
五歳にして僕の人生は絶頂を迎えているといってよかった。
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まだ肌寒さが残る春先の休日、この日の僕は珍しく朝に起きてホテルを後にしていた。
理由は簡単、フォックスにモーニングコールで起こされたのだ。
「うち、今日両親がデートに出かけてて夕方まで帰ってこないの」
ただでさえ淡々とした無表情な声が電話越しの電子音に変換されたせいで生気まで削ぎ落とされ、セリフに反して色気などあったものではない。まあもともとお互いピッカピカの小学一年生であるべき年齢なので色気があっても逆に困るが。あと五年か六年はほしいところだ。
頭の中に現在地と目的地の地図を描き、最短ルートを検索する。三十秒かけて無駄な努力だと悟った。地図の現物が目の前にあるのならともかく、頭の中でそんな器用なマネができるほど僕はスペックが高くなかった。
とりあえず大雑把な方角を割り出して、目の前にある公園を突っ切ることにする。日ごろの行いが悪いのか、歩いて三歩目ですぐに障害にぶち当たった。
「……………………(おろおろ)」
本人にはそんなつもりは全くないのだろうが、紫色の長髪に白いカチューシャをした、僕と同い年くらいの女の子が全身で困っていますと主張している。彼女の前には僕が三人手をつないで輪を作っても抱えきれないであろう大きさの木。彼女の視線の先には木の大きさにふさわしい高さの枝で小さくなって震えている一匹の子猫がいた。
彼女は子猫に集中していて、まだ僕には気づいていない。今ならまだ見てみぬふりをして通り過ぎることができるだろう。
そうだ、助けてどうする。僕が困っている人間すべてを見捨てないような善良な人間か? 違うだろう。今回ほんの気まぐれで助けたせいで、次もきっと助けてくれるに違いないと勝手に期待されたらそれに応えるというのか。それに応えなければきっと、助けてもらったという
助けられる側だってそうだ。人間は自らの成功体験に基づいて行動する。ここで彼女を助けたことで、困ったときはただ困っていれば誰かが助けてくれるという成功体験を彼女に積ませるつもりか? 確かに彼女は美少女だからいつも誰かが助けてくれるかもしれない。だからといって困ったときに、困った、助けて、と自分から言い出せない人間を作る一助を自分が担うつもりか?
信念に基づいた行動ならともかく、気まぐれな人助けなど百害あって一利なしだ。
さて、じゃあ理論武装も終わったし助けに入りますか。
十分に距離を取り、助走をつけた僕は少女の横をすり抜けて、全力全開でスピードの乗った飛び蹴りを木の幹に叩きつけた。ごきりと嫌な音がして関節が壊れた時の痛みが鈍く足に奔る。
「ええっ!? な、何しているの」
着地に失敗してごちんと頭から落ちた僕に驚愕した少女の声が降ってきた。
「猫っていう生き物は足から落ちるように構成されているんだ。子猫はただ怖くて降りられないだけだから、無理やり落とせばいい」
きな臭さが鼻の奥から脳髄まで広がるが、慣れっこなので声は平然と紡ぐ。虹色に変色しがちな視界で確認するが、僕の右足首を犠牲にして得られた結果は葉がかすかにざわめく程度だった。小学校一年生の身体能力としては妥当なところだ。
それにしても……ふむ、白か。妥当すぎて面白みもない真相だったが、まあこの年頃って男子も女子もそう変わらずおんなじ教室で着替えるような年頃だから仕方がないのかもしれない。
「そ、そうなんだ……。…………?」
意味不明に思えた行動にそれなりの理論があることに納得し、それでもやっぱりよく考えてみれば何か納得いかないことに首を傾げる少女。そのなんとなくだけどやっぱりおかしいという感覚は大切だから大事にするといいと思うよ。まさか小学校一年生くらいの女の子のスカートの中を覗くために大木に飛び蹴りかます人間がいるなんて思わないだろう。僕も思いたくなかった。
全人類の半数が追い求める桃源郷であり、ちらりと見えるのは芸術の一言だが、いつまで見ていても楽しいものではないので体を起こし立ち上がる。蹴りの代償で右足首が使い物にならず、立っているだけでグラグラ揺れるありさまだった。痛みは言うに及ばずだ。
「だ、大丈夫?」
とりあえず違和感をわきに置くことにしたらしく、純粋に僕の身を気遣ってくれる名前も知らない少女。その良心の痛みを握力に変換して拳を握り、微妙に表皮の削れた幹に叩きつけた。拳と木がぶつかり合う鈍い音が響く。
「見ての通り、大丈夫だよ」
「見た限りぜんぜん大丈夫そうじゃないよっ。……木を揺らすのは諦めた方がいいんじゃないかな。やっぱり落とすのは猫ちゃんがかわいそうだと思うし、それに私や君の力じゃこの太さの木は揺らせないと思う」
「うん、そうだね。君の言うとおりだ」
打つ、打つ、ひたすら打つ。まるで拳を鍛える格闘家のように木を打ち続ける。皮膚が破れ、血がにじみ、女の子が慌てる。木はさわさわと揺れるだけで僕の無駄な努力を気にも留めない。
「けがっ、血、血が出てるよ」
「それでも僕は諦めない。猫がかわいそうだと思うなら君が落ちてくるところを受け止めればいい。たとえ百パーセント負ける戦いだったとしても、ゼロパーセントでも勝率があるのなら僕は諦めない!」
無駄に熱血バトル少年漫画並みに熱く見えるがその実意味不明なセリフを吐きつつ
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄むゲホッ、ごほごほ」
最後に決めきれないのは僕のチャームポイントか何かなのか?
いまだ劣化中だがそれでもBランクのパワーによるラッシュを受け木端微塵に砕け散る大木の木片を顔に浴びながら、僕は嘆息した。ん、これって器物破損になるのかな?
「え、えぇ? ……え?」
何が起きたか理解が追い付いていない少女。まあ彼女の視点から見れば貧弱な僕の拳で殴られていた大木がいきなり鋼の拳を持ったヘビー級ボクサーのラッシュを受けたかのようにぼこぼこに砕け散ったのだから思考停止もするだろう。目と鼻の先に殴り倒された大木が倒れ伏しても、その風圧でスカートが完全にめくれ上がっても、目を見開いたまま硬直していた。
ふむ、下から覗いたときには暗くてよく見えなかったが猫のアップリケがしてあったのか。これは根っからの猫好きなのかもしれないな。
ちなみに運よく木の下敷きにならずに済んだ子猫は何を血迷ったのかすごい勢いで僕の頭の上にのぼっていた。パニックに陥るのもほどほどに。君にも生存本能というものがあるのだろう?
まるまる一分は経過しただろうか。ようやく硬直から解き放たれた女の子はぺたんと座り込んだ。まあ軽く無駄に九死に一生を味わったのだから無理もない。ただ、予想と違い失禁はおろか泣き出すこともなかったところを見ると意外と気丈なのかオカルトに体性があるのか。
「な、なにが起きたの?」
「さあ? 僕の頑張りに免じて神様が奇跡を起こしてくれたとか、僕の秘めた力が解放されたとか、そんなんじゃない?」
泣き出しはしなかったものの、蒼白になって細かく震えているのはやはり命の危険が画面越しにしか存在していない平和な日本の学生といったところだろう。幸い、僕は彼女の気を紛らわすのに最適なものを持っていた。
「フギャウ!」
「あー、この子怪我しているみたーい。はいどうぞ」
「え? あ、ありが、とう?」
「病院に連れて行った方がいいよ」
「うん、そうだね。……あ、き、きみも病院に行った方がいいよ!」
自分以上に弱いものが隣にあるとき、人は普段以上に力を出せる。自分以上に混乱している人間がいるなら冷静になれるし、自分以上に幼い兄弟がいるのなら自分は我慢できるようになる。そういうものだ。傷ついた子猫という弱いものの詰め合わせを慣れた動作で胸に抱いた少女は、顔色は悪いままだがこちらを気遣える程度に精神状態を回復させた。
「大丈夫だよ。ほら、足もなんともないし手の傷も塞がっているから」
少女の胸の中でぐったりしている子猫に頭部への打撲も含め押し付けた結果なのだがそんなことはおくびにも出さず、右足を三回踏み鳴らして手をひらひらと振ってみせる。もっとも、今の僕が
「血塗れでわかりにくいけど、傷口ないでしょ?」
「………………うん」
どこかぼんやりした様子で少女はうなづいた。子猫の両前足から流れ出す血で服が赤く滲んでも気にした様子も見せない。容量オーバーかな? 視線は僕の手に食いついて離れず、光の加減か藍色かがった黒い瞳が今は赤く光っている。
って、なんでだよ。何をどう間違えたら藍色がかった黒が光の加減で赤く染まるんだ。日光で血の色が透けて見えているにしてももうちょっと穏やかな変化だろう。
この子、人外か。人血に反応して尻尾が出たってことかな。見かけどおりに幼いのなら、相次ぐトラブルのせいで心のタガが緩んだというところだろう。
「舐めてみる?」
「えっ!?」
ケーキからはがしたフィルムについた生クリームを虎視眈々と狙うフォックスと似た視線を感じたので何とはなしに聞いてみたのだが、地雷だったらしく女の子の顔色が一気に赤く染まり、続いて急激に青ざめた。髪を振り乱す勢いで首を横に振る様は恐怖と嫌悪をひしひしと感じさせる。
自分が人外であることを受け止めきれていないのかな。まあ人間社会の中で擬態して生活してるのなら少数派である自身の身の上に気後れすることもあるか。裏社会に頭からどっぷりつかるこちらとしては化け物であることにれっきとした根拠のある人外は、経緯なしに人間やめてる人間なんかよりよっぽど親しみの湧く存在なのだが。
「そっか。まあそうだよね。木くずがついた手なんか誰も舐めたくないよね。悪かった」
「……え? そういう問題?」
「それ以外に何か問題がある?」
傍目にもわかるくらい混乱している人外少女をからかうのは楽しい。いぢめるのは好きだが傷つけるのは嫌いという僕の性分を満たしてくれる可愛い反応は、
まあ
「だって、血だよ? 人間の血。そんなのを舐めるなんて、気持ち悪いと思わないの?」
そんな気持ちを込めてやさしい瞳で見守る少女は、おどおどびくびくしながらどこか期待を否定しきれない表情で僕をじっと見上げてきた。身長はほぼ同じなのだが、彼女がうつむきながらこちらを見ている結果だ。いわゆる上目づかい。たぎる。
「ぜんぜん」
だって、人間という存在そのものが取り返しがつかないくらい気持ち悪いから。それに比べたら吸血の人外くらい可愛いものだ。そう続けようとしたのだが、ポケットの中でマナーモードにしてあった携帯が震え中断を余儀なくされる。
「おっと、失礼。もしもし」
『わたしフォックスさん。いま、あなたを歓迎するために入れた紅茶が冷めていくのを無感動に眺めているところなの』
「悪かったよ。急いでいく」
残念ながら寄り道はここまでのようだ。電話越しとかそんな単純な理由だけではないであろう生気と感情が削ぎ落とされた電子造りの声にそう答え、返答を待たずに受話器を置くボタンを押す。ついでに電源も切った。電話で急かされるのは好きじゃないから。
ぽかんとこちらを見ている少女には爽やかな笑顔を。笑顔は人間関係の潤滑油。
「ごめんね、急用ができちゃった。猫のことよろしくね」
さてと、時間を止めて空飛んでいこうかな。計画を変更している僕にどこか切羽詰まった声がかけられた。
「ま、待って!」
「ん、なに? 時間ないんだけど」
「ご、ごめんなさい。えと、その、私、月村すずかって言います! あなたは……」
どういう気持ちが込められているのか、僕にはさっぱりわからない。ただ、この行動はこの子――月村すずかにとって、とても大切なのだろうなということは想像できた。
「僕の名前はリンクス・クロスライン」
特に偽る理由もなかったし気も向かなかったのでいつも使っている名前の方を答えておく。ちなみに五割くらいの確率で適当に即興で作った偽名の方を答えていたと思う。すずかちゃんは運がいい。
「どこの学校に、ううん、違う。また会えませんか?」
「運が悪ければまた会うことになると思うよ。君が裏の世界に通じているのならね」
まあまったく表の人間ということはありえないだろう。先祖返りの突然変異で人外に目覚めたというパターンならあり得なくもないが、彼女はそれにしては安定しすぎている。きっと先祖代々人外が続く血統のはずだ。間違っていても何ら困らないので偉そうに推測を積み重ねる。
でも僕は味方にしても致命傷な
でも彼女はすでに表の世界にいながら僕と知り合ってしまっている。運がいいとは言い難いので、もしかするとまた『遭う』こともあるかもしれない。それにしては僕の
もしそうだとするなら今更過ぎる発見を得ながら僕はすずかちゃんに背を向けた。
「じゃあね、月村すずかちゃん」
もしそうだとしても僕にはどうすることもできないし、どうということもない。考えるのは上の仕事。僕は自堕落に従っていればそれでいい。
時間を止めると、そのまま時間と操る程度の能力の応用で空間を螺子曲げ空に浮かびあがる。できれば休日の朝の散歩を楽しみたかったが、フォックスの機嫌をこれ以上損ねることと天秤にかけることができるというほどのものではない。
上空から街を見下ろして、ようやく僕はあの公園が昔なのはちゃんと出会った思い出の場所であることに気づくのだった。
サブタイトル、スタイリッシュスカート覗きの話。
途中まですずかの言動が砕けたものなのは、リンクスのことを同年代の少女だと認識していたためです。