タイヤのゴムとアスファルトが激しく擦れるカナギリ声と、夕暮れの街に響いた鈍い衝突音。
真っ赤に染まった横断歩道で、灯莉がそれを血飛沫だと気づくまでに数秒の間があったらしい。
無理もない。突然の事だし、灯莉はまだ幼いのだ。
「夢……?」
灯莉はただひたすら立ち尽くす事しか出来なかった。
目の前の、拉げた血塗ろの肉塊と化した物が父親だということを分かってはいても、解らなかった。
私と燻莉が駆けつけたのは、それから十分後の事だ。
現場のすぐ近くに店を構えていた知り合いが電話を掛けてきたのだ。
この山には勿論、麓の街にも医者は居ない。
排他的である住民達は私たちのような余所者を快く思わない。
いつでも冷静沈着だった燻莉は酷く動揺しており、そんな燻莉を私が宥めながら山道を走ったのをよく覚えている。
現場に近づいていくにつれて鉄錆の匂いが漂ってきて、その匂いから予感される残酷な映像に燻莉は走りながら涙を流している。
何故かは分からないが、漠然と着実に二人に近づいている事を理解する事が出来た。
現場に着き、私達の瞳に映った
そこには血塗れで立ち尽くす灯莉と、灯莉の足元に無造作に転がった血塗ろの生肉と臓物達。
どれほど目を凝らして見ても、それが祢音であるという証明なんてとても出来ないような肉塊。
けれど私達は、それが祢音であることを瞬時に理解してしまった。
「うそ……ッ」
「……っ」
瞬時に肉塊の正体を理解してしまった私達は息を呑み、数秒の間立ち尽くす。
けれど、まだ幼い灯莉はこの光景を十数分もの間見続けていたのだ。
肉塊の前で崩れ落ちる燻莉に対し、私は呆然と立ち尽くしている灯莉をそっと抱き締める。
「灯莉のせいじゃないよ、大丈夫。」
「あ…おね、えちゃん……」
私とて、なぜ自分がここまで冷静なのかは分からない。
いや、冷静では無かったのかもしれない。
ただ目の前の現実を受け入れることが出来ず、灯莉に目を移す事でその光景から逃れたかったのかもしれない。
少し離れた所に停まったトラックの全面は酷く拉げており、運転手は頭部から血を流して動かなくなっていた。
恐らく、この運転手もまた事切れているのだろう。
肉塊の前で崩れ落ちていた燻莉は、無造作に散らばった祢音の肉達を抱えて立ち上がった。
「二人とも、帰りましょう…ここに居ても、辛いだけよ。」
「……うん。ほら、灯莉。」
「…………」
祢音の残骸を見つけた時こそ酷く動揺していた燻莉だが、さすが大人と言うべきか、辛い現実をどうにか受け入れて私達を導いた。
こんな現実、とても認めたくはないが。
祢音の残骸を抱えた事で、燻莉の白いワンピースは赤色に変わっていた。
しかし燻莉はそれを気に止めることも無く、私達を連れて山奥の自宅へと足を運んだのであった。
〇
あれから数日。
祢音を失った事の傷が癒えたわけではないが、祢音の埋葬も終えて私達は少しずつ元の生活へと戻りつつあった。
決して忘れてはならない、しかし引き摺るわけにもいかない。
そんな忌まわしき現実、忘れろという方が無理な話である。
そんな中の出来事だ。
未だ暗く重い雰囲気の宵の我が家に、とある一通の封が届いた。
燻莉がその封を開け、そこに畳まれていた文書を読んだ時、燻莉の目が恐ろしい程に見開いた。
その瞳から感じ取れたのは、衝撃、疑問、怒り。
燻莉はその文書を読んで間も無く立ち上がり、流れるような動作で外出の支度を整えた。
「灯莉、灯音、少しお出かけしてくるから、良い子で待っててちょうだいね。」
「いってらっしゃい、おかあさん」
「…気をつけてね。」
「ふふっ…今夜は庭から良い景色が見えると思うから、楽しみにしていてね。」
燻莉は笑顔を貫いていたが、私には分かった。
彼女はとても大きな事をしようとしている。
それがどんな事かは分からないが、文書を読んだ時の表情からして、きっと良い事では無いのだろう。
しかし、私は止めなかった。
というより、止めれなかった。
彼女の奥に存在する何かに、どこか怯えのようなものを感じてしまったのだ。
「…胸騒ぎがする。」
「おねえちゃん?どうしたの?」
私の真剣な表情を訝しげに思ったのか、灯莉は私の顔を覗き込んで怪訝な顔をした。
いけない、灯莉はまだ幼いのだから私がしっかりしなくては。
今の灯莉に負の感情を悟られてはいけない。
私はどうにか微笑み、灯莉の頭を撫でた。
「ううん、なんでもないよ。そうだ、ドーナツ食べる?私の分あまってるからあげるよ。」
「いいの?でも一緒に食べたいから半分こしたいな」
「灯莉は良い子だね、じゃあ持ってくるから座ってて。」
「うんっ」
ずっと笑って元気な声で喋っていた灯莉だが、祢音を土中へ送って以降は微笑むことはあっても元気な声で話すことは無くなった。
そんな灯莉を見る度、私は胸が締め付けられるような思いになる。
だからと言って、前のように元気になれと言うつもりは無い。
灯莉は最も近くで祢音の最期を見た者なのだ、切り替えろ等と到底言えたものでは無い。
私は今年で16歳になった。
もう義務教育も終えて、体も心も大人になっていく頃合いだ。
しかし灯莉はまだ11歳、燻莉が居ないなら私が守ってやらねばというものだろう?
「ドーナツには…ミルクティーが良いか。」
残しておいた二つのドーナツをお皿に乗せ、フォークを二本用意する。
そのお皿を大理石の台所に置いておき、冷蔵庫からミルクティーのパックを取り出して二つのグラスに注ぐ。
私は少し意地悪いので、ミルクティーは私のだけ少し多めに淹れた。ミルクティーは好物なのだ。
私はそれら全てをトレイに乗せ、灯莉の待つリビングに持っていった。
「お待たせ灯莉…灯莉?」
私がリビングにドーナツ達を持ってくると、先程灯莉が座っていた場所には誰もおらず、灯莉は姿を消していた。
リビングを見回すと、庭に直接繋がる掃き出し窓が開いている事に気づく。
「灯莉ったら…。」
ふぅ、と溜息をついた私。
テーブルにトレイを置き、私は開いている掃き出し窓から庭に出る。
庭に出ると、灯莉が崖っぷちの柵から麓を見下ろしていた。
「危ないよ、どうしたの?」
「おねえちゃん見て、綺麗だよ」
「うん?」
灯莉に手招きされ、私は灯莉の隣に並んで柵から麓を見下ろした。
山の麓にはここいらでの唯一の街が存在しており、その地点はいつも夜は白い光がポツポツと存在しているだけだ。
しかし、今日は黄色いような橙色のような色の大きな光がゆらゆらと揺らめいており、非日常を確かに感じさせた。
耳を澄ますと、沢山の人の喧騒が微かに聞こえてくる。
「お祭りかなぁ、この時期にもやるんだね」
「祭り……。」
灯莉はそれを見てニコニコと微笑んでいるが、私には分かった。
その特徴的な光の正体は炎。
火の祭りというものは実在するそうだが、この炎はどう見ても街中を包み込んでいる。
聞こえてきた喧騒も、全て街の住民による悲鳴なのだろう。
一通の文書、突如外出した燻莉、大火に包まれた街……
「母さん……?」
燻莉が外出した時の胸騒ぎが更に酷くなってゆき、私の胸を押し潰さんとしている。
母さんが危ない…?命の危険…?文書の内容は?駄目だ、文書は母さんが持って行ってしまった。
私はニコニコと微笑む灯莉の隣で、ただ呆然とその様子を眺め続けたのであった。