夜の山道をのんびりと歩き続け、漸く家に着いた頃には日付が変わっていた。
完全な暗黒の中、燻莉による先導のおかげで私は難なく山道を進むことが出来たのだが…
そういえば私が一人で麓に降りた時は、何故一度も躓かなかったのか。
火事場の馬鹿力のようなものだろうか。
家に着いて燻莉が最初に放った一言。
「やっぱり、家が一番安心するわね。」
「ね、帰る場所があるって素敵。」
「ふふっ、なに年寄り臭いこと言ってるのよ〜。」
家に着いてからの燻莉は妙に機嫌が良かった。
許し難い存在を全て抹消したからか、それとも安心できる我が家に辿り着いたからかは分からない。
だが、機嫌の良い燻莉を見ると私はどこか安心するのだ。
先程まで何処か狂気的なオーラを放っていた事による怯えが、私の中にまだ残っていたのかもしれない。
まぁ、どちらにせよ燻莉の機嫌が良いことに越したことはない。
機嫌が良いというか…笑顔で居てくれたら、それでいい。
「さ、寝ましょ?灯音。」
心安らぐ笑顔を私に向けながらそう言った燻莉。
そこには先程までの狂気的なオーラは微塵も無い。
そういえば、麓に降りる時に拾ったバールを持っていたままだった。
私はバールをリビングの片隅に立て掛けながら燻莉を見た。
「うん…って、私と母さんは別の部屋じゃん。」
「あら?そうだったかしら?」
白々しく人差し指を唇に当ててしらばっくれる燻莉。
燻莉がわざとらしい冗談を言う時によくやる動作だ。
「ふふふっ、私はいつも灯莉と一緒に寝てるでしょ。」
そんな燻莉に私は笑いながら返し、寝室へ向かおうとする。
しかし、すると燻莉の雰囲気が突如変容した。
「…なに?灯莉…?」
「……え?灯莉がどうしたの?」
たった今まで母性溢れる笑顔を見せていた燻莉に突然現れた変化。
その表情は、真顔。
憤りも愛も、優しさも困惑も何も無い。
完全な無感情であった。
燻莉はその表情のまま、静かに寝室へ向かう。
「どうしたの?母さん…?」
「忘れていたわ。」
忘れていた…?
燻莉の可笑しな発言に困惑しつつ、私は寝室に向かった燻莉の後を追う。
燻莉が娘の事を忘れるなんて有り得ない、それは絶対に。
じゃあ何を忘れていたのだろうか。
「私とした事が、とんだ過ちね。」
燻莉は抑揚の無い淡々とした口調でそう言いながら、寝室の障子を開けた。
寝室には依然ぐっすりと夢旅行を楽しんでいる灯莉が、布団の中で気持ち良さそうにしている。
そんな灯莉を一切の感情も見えない赫い瞳で見下ろす燻莉に、私はゾクリと背筋に走る何かを感じた。
起きてはならぬ悲劇、起きるはずのない悲劇。
そんな未来が漠然と脳裏に映り、咄嗟に私は燻莉の前に躍り出る。
「……どうしたの。」
「灯音、邪魔するの?」
「邪魔するよ…っ何考えてんの!?」
再び燻莉に対して感じる怯えに、私は足をガクガク震わせながら耐え忍んだ。
直接的に襲いかかる恐怖に止まらない悪寒、鎮まらない両足。
普段あまり大声を出さない私だが、この時ばかりは感情が昂りすぎてつい声を張り上げてしまった。
そんな私の頭を優しげな表情で撫でる燻莉。
狂気的な情緒の変化に言いようのない恐怖を感じつつ、私は燻莉を睨んだ。
「灯莉が居なければね、お父さんはまだ生きてたのよ。」
「……は?」
「だってそうでしょう?あの人は灯莉を庇って亡くなったんだもの。」
「冗談…だよ……ね?」
「ふふふっ、灯音こそ冗談でしょう??大人になりましょう??」
信じられないことを口にしながら赫い瞳を針のように細めながら笑う燻莉に戦慄を感じた私は、恐怖が最高潮に達してついに膝を崩して座り込んでしまった。
とても似合わない下品な笑みを浮かべた燻莉は私を蹴っ飛ばし、ゆっくりと灯莉の傍に近づく。
蹴っ飛ばされた私は寝室の壁に身体を強く打ち付け、あまりの痛みにその場から動けなくなってしまった。
「待って…駄目だよ…母さん…っ!」
力無くその場に倒れ伏した私は震える手をどうにか燻莉に伸ばすが、届くはずがなく、灯莉に牙を剥こうとしている燻莉をただ睨みつけることしか出来なかった。
そんな私の目線を冷たい瞳で見下ろした燻莉は、ふふっと微笑みながら灯莉を踏みつけた。
「いッ…!な、なに…?」
燻莉に踏みつけられた痛みによって目を覚ました灯莉は、状況を読み込めないといった表情で燻莉を見上げた。
寝ぼけ眼で大切な母親の顔を見た灯莉は、痛みを感じつつも安心した表情で燻莉に手を伸ばす。
今の状況を、何も分かっていないから。
「おかあさん〜…おかえりなさい…」
己を今まさに踏みつけている母親に向けておかえりと言いながら手を伸ばす灯莉に驚き、目を見開いた燻莉。
すると燻莉は踏みつけていた足を離し、既に見慣れた慈愛に満ちた微笑みを灯莉に向けた。
「ただいま、灯莉。」
「母さん…?」
先程まで何の感情も感じさせなかった燻莉が、いつも通りの表情に戻った。
今までの燻莉は何処か可笑しくなっていただけで、無垢な灯莉によって正気を取り戻したのだろうか。
「起きて早々ごめんね、灯莉…」
その場にしゃがみこみ、温かい微笑みで灯莉の頭を撫でる燻莉。
寝起きの灯莉は、頭を撫でる燻莉の手にニッコリとした表情を浮かべた。
その姿はまるで猫のようである。
しかし灯莉を撫で続けているにもかかわらず、再び燻莉の表情から一切の感情が抜け落ちた。
安心も束の間、燻莉のその表情を見て背筋にゾクリとした悪寒を感じて息を呑む私。
燻莉は灯莉の髪の毛を掴んで乱暴に持ち上げ、寝室の壁に向かって灯莉を投げつけた。
「…
「痛いッ…おかあさん…ッ!」
「灯莉…ッ!」
壁に強く打ち付けられた灯莉は、額を押さえて燻莉に向けて手を伸ばす。
灯莉が抑えている額からは大量の血液が溢れ出していた。
涙を流しながら痛みを訴える灯莉に歩み寄り、灯莉が伸ばした腕を優しく掴む燻莉。
「ごめんなさいおかあさん…私なにかした…?」
「灯莉は何もしていないわよ。」
そう言った燻莉は灯莉の腕を乱暴に引っ張り、その反動で引き寄せられた灯莉の顔面を殴りつけた。
「…かは…っ!」
人智を超えた燻莉の腕力で灯莉の頭は吹き飛びそうになるが、燻莉が依然腕を掴み続けている事で身体は固定され、灯莉の首は嫌な方向に折れ曲がってしまう。
首が折れたことでマトモに声も出せなくなった灯莉に対し、燻莉は何の感情も抱いていないといった表情で灯莉を殴り続けた。
「
「母さん…っ!もうやめてよ…っ!!」
見るに堪えなくなった私は必死で燻莉を止めようとするが、身体の動かない私はただ叫ぶことしかできない。
あまりにも惨い、あまりにも残酷。
燻莉は私達の母親ではなかったのか。
私達が燻莉を愛するように、燻莉も私達を愛していなかったのか。
最早訳が分からなくなった私は、何も出来ずに止めどなく溢れ出る涙を流し続けるばかりであった。
「やめて…っ、お願い…っ!かあさん…っ。」
私の言葉も全く届かなくなった燻莉は、依然灯莉をひたすら殴り続けている。
灯莉はとっくに動かなくなっているのにも関わらず、燻莉はまるでサンドバッグを殴るかのように永遠と灯莉に拳を叩きつけていた。
こんなの見るくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がマシだ。
「かあさん……っ、どうして……っ。」
「はは…あはっ…!あはははははっっ!!」
口から血を流す私に見向きもせず、燻莉は下品な笑い声を上げながらただひたすら灯莉を殴り続けた。
殴る度に大量の血飛沫が舞い、寝室と燻莉に血液を浴びせながら。
結局は舌を噛み切る勇気も力も無かった私は、ただその地獄のような光景を夢だと願って見つめるしかなかったのであった。
その後、どうなったのかは覚えていない。
気づけば私は大人になり、気づけば傭兵になっていた。
何故それを忘れていたのかも、全く分からない。
こんなの、忘れられるはずがないのに。