……気づけば辺りはすっかり闇に身を落としていた。
夜の海を見るのはどうも落ち着かないが、今日の空は雲一つない快晴のためか、水面は月を美しく反転させている。
「……お姉ちゃん、か」
突然の来訪者達は既に此処を後にし、“城”へと向かった。
かくいう私はここに残り、ボーッと水平線を眺めながら余韻に浸っている。
その余韻は、他でもない姉の香り。
「灯莉にとっては、15年振りくらいだね」
私、カナ・アナベラルの中に存在する柊灯莉。
哀れにも15年前に自我を侵されてしまった、かくも幼き少女。
その少女の自我は悪夢に耐えかね、霊魂自体を人の形へと変容させた。
「けど私はもう、柊灯莉とはいえない」
私は紛れもなくカナ・アナベラル。
悪夢が柊灯莉の自我を崩壊させ、もはや柊灯莉と名乗るのを拒むのだ。
私が柊灯莉。
そう思うだけで悪辣な重圧に押しつぶされそうになる。
その重圧を飾るのは責務なのか、恐怖なのか。
もはやそれはカナ・アナベラルにはおろか、柊灯莉にすら分かり得ぬ事だ。
「私は、カナ・アナベラル。ただ柊灯莉の残滓をほんの少し含むだけの騒霊」
脳髄に喧しく響き渡る己の心音に苛立ちを覚えつつも、私は再び自己暗示をかける。
そうでもしなければ、きっと壊れてしまう。
冷や汗が滲み、私の体から温度を奪っていく。
寒い、寒いよ。
標識をアスファルトにガツンと打ち付け、ガタガタと震える己の体を抱き締める。
あぁ、大丈夫だ。私は最早、柊灯莉ではない。
冷や汗と共に寒気が治まり、私は再び水平線へと目をやった。
「……よし、神社に帰ろう」
一息をついた私は標識を水平線と重なるように掲げ、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏の黒いキャンパスに描くのは
彼女は博麗神社の縁側に座し、足をブラブラさせながらボーッと空を眺めている。
その彼女に触れた途端、そのキャンパスは再び真っ黒に塗りつぶされてしまった。
そして静かに目を開け、虹彩に光を取り込む。
「…ふぅ」
光に目が慣れてくると、目の前には博麗神社の境内が広がっていた。
魂、人格のみの転移。
未だにどういう原理でこれを可能としているのかは定かではない。
そもそもこれは私の知る限りでは無いのだ。
この術を私に教えた張本人は適当な人間だし、原理やらなんやらを聞いたって面倒くさがって教えてはくれない。
「一応、親族のはずなんだけどなぁ…」
はぁ。と溜息をついた私は標識を抱き枕のように抱え、縁側で横になった。
なんだか、酷く目眩がするのだ。
「疲れちゃったのかな、まぁたまにはそんなことも……」
ふと、考えてしまった。
目眩?疲れ?今までそんな事は一度もなかった。
人であるならばそれらの症状は至極当然、誰にでもあるだろう。
だが、私は騒霊。
騒霊の、カナ・アナベラルなのだ。
「………違う、私に余計な霊魂を嵌め込まないで」
柊灯莉?誰だそれは
私はカナ・アナベラルなのだ。
柊灯莉なんかではない。
違う。
違う。
違う違う違う違う違う違うチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウチガウ
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「よぉ、本物との乖離は済んだか?」
「ん、抜かりはないよ。キミも心配性だね」
「っせーなァ、完璧主義なンだよ」
「ふふっ、完璧なのは唯一神のみだよ。いくらキミでもたどり着けまいさ」
とある廃教会にて。
ガラの悪い男と幽鬼のような女は、相変わらず仲が良いのか悪いのか判断しかねる会話を繰り広げていた。
女は瓦礫の中から木箱を引っ張り出し、木箱に入っているワインボトルと2つのグラスを取り出す。
保冷に丁度いいのだろう。
瓦礫の下には他にも様々な要冷蔵品が押し込まれていた。
この様子を見るに、おそらく女はこの廃教会に暮らしているようである。
「ひとまず、鍵は揃ったようだね」
「あぁ、これでようやっと動けるわけだ」
女は2つのグラスにワインを注ぐと、一方を男に手渡した。
「さて、作戦前の晩酌といこうか」
「おうよ」
並々と赤いワインが注がれたグラスをゆっくりと掲げた両者は、静かにグラス同士をぶつけ合った。
「「乾杯」」
カチンと小綺麗な音を立てたグラスからは、三粒の赤い水滴を落としていた。