夜も更け自室へと戻った私たちは準備を始めていた。
己の持ちえる最大の武力で、身を固めるために荷物をまとめて覚悟を固めた。
私は二通の文をしたためる。一つは
『危急の事態故に短文許し願う。富士の山頂へと悪童の跳梁あらんと報せを受け、ここに救援の願いを受け給う』
自らの指先を噛み、血でその名の印を書き記す。
本当に短い文章であったがこの封書の威力と来たら国家をも転覆出来るだけのものである。
「右烏よ。こちらを
私は純白の飼烏、右烏の両足に文を括りつけて、窓からその姿を見送った。
別の部屋より鳩が飛び立つ姿が見えた。竜人の六波羅局への救援要請の文であろう。
これで準備は整った。後は綾瀬と竜人の準備が整うのを待つだけだった。
成すべきことを成す。たとえそれが誰からも賛同されなかろうと正義の為であるのなら、正しきことであるのならそれを成すのが私の天狗道だ。
竜人より渡された小さな絡繰り『ポケベル』なる機械がいきなり音を鳴らすので私はびっくりしてそれを見た。
『
もう一度ポケベルがなり、同じ数字が画面に表示された。
二人の準備が整ったようだ。さてここから少々面倒なことが待ち受けている。
私は音をたてぬように自室の扉を開けて廊下を見渡した。真っ暗な廊下にポツポツと部屋の光が隙間より漏れている。
シンと静まり返ったエンマ荘の廊下に僅かにだが聞こえる息遣い、そして時折聞こえる郭公の発狂する声で、警戒している者の気配が感じ取れないが尻込みしている暇はない。
私は静かに部屋を抜け出し板張りの廊下が軋まないように慎重に移動する。
「……撫子ちゃん」
数部屋隣の綾瀬と廊下で合流して私は静かに廊下を進んでゆく。
私たちの部屋は二階、玄関まで行くには階段を降りなければならない。しかしその階段というのは荘長室の目の前にある。
「良いか綾瀬、走り抜けるぞ」
「うん……」
私たちは息を整え、走り抜けようとしたとき。
ヒタリ……ヒタリ……ヒタリ……。
小さいが確かに聞こえる肌音に鳥肌が立った。廊下の手前にある十字路の左角奥より聞こえるその音に思わあず怖気が立ち上ってきた。
静かに曲がり角より除けば
包丁を片手に涎を滴らせて四つん這いで荘内を巡るこのエンマ荘の主。山姥だった。
夜の暗闇に中てられ妖怪としての生来の本性が暴き立てられている。
夜闇の妖怪、人の血肉を啜る本来の姿。知性はあるが理性はない。この姿こそまさしく山へと捨てられた姥の怨念が生み出した妖怪。──山姥だ。
いきなりギロリとこちらを見た山姥がものすごい勢いでこちらに這いずり進んでくるではないか。
「気づかれた! 走れ」
私と綾瀬は玄関へと走った。
エンマ荘の夜が恐れられるのは郭公の発狂の声だけではない。この事もあり生徒たちは日が暮れたその時間帯は自室を出る事を自主的に禁じて閉じこもるを選んでいる。
何せ、山姥に殺されて食われる事だけは避けたいからだ。
何時も日の上っている時間帯は温厚で優しい山姥だが、その性は抗う事は妖怪であるのなら出来ようはずがない。
包丁が何度も何度も木製の床に叩きつけられ、その兇刃を私たちへと向けんと迫ってくる。
階段を駆け下り、下駄箱に手を掛けた時──。
「肉ぅうううううっ!」
山姥は既に背中にまで付けられ、身を逸らして振り返った時、包丁が下駄箱に打ち付けられたいた。
尋常ではない表情。人の姿であることが悔やまれるような怪物的な顔で襲い掛かってくる。
「
杖を抜いて呪文を唱えた。山姥の足に足枷が瞬時に縛り、その足枷を私は蹴り上げ転ばした。
靴を取り私たちは素足で外へと抜けたした。
息せき切らせて広島城へと走った私たち。既に竜人はそこにいて、懐中時計を見てため息をついていた。
「何してたんだお前ら」
「何って。山姥から逃げて来たに決まっておろう」
「お前ら玄関から出て来たのか。馬鹿だな」
「なにおう! ならば貴様はどこから出たのだ!」
「窓から飛び降りたに決まってるだろ」
そう、あの山姥はエンマ荘だけに縛られる契約を結んでいる為にエンマ荘から出てくることはない。
ならばすぐに外に出ればいいだけの話で、わざわざ玄関を選んで出てくるのは愚かな事だった。
鹿島達の事ばかりでそこまで頭が回らなかった。
竜人に鼻で笑われ嘲られ、私は茹蛸のように真っ赤に膨れながら反論したいが当然のことだったためにし反論もできなかった。
二人は箒に跨り、私は羽根を広げて空へと飛んだ。
目指すのは富士裾野の樹海、あそこならば幾度も行った事がある為に勝手は知っている。
「石槌。巧い事エンマ荘から抜け出せたはいいが、こっからどうする気だ」
「まず、鹿島達を見つけ出さねばどうしようもならん。富士の樹海は広大なのだ」
方法はいくつかあるが、私の考えとしては。
「烏天狗たちに捜索を願おう。樹海には烏天狗たちが多く潜んで居る、連中も天狗里へ入り浸れるいい口実になる」
烏天狗は人の姿で生まれる事の出来なかった。天狗と同様に羽根を持ち多少の知能はあるが天狗たる由縁の神通力を失っている。
それ故に魔法省は魔法族亜種、スクイブと魔法動物の中間という扱いとされ放逐されている。
しかしながら彼らと知能があり、天狗里へ入ることをどいつも切望している。
天狗は寛大だ。連中を里に入れることも歯牙にも返していない。
木っ端妖怪と思っている者が多いからだ、私としてはいい遊び相手だった。
「捜索後だよ。いきなり殺し合いなんて言うなよ」
「何を言うか、そのような野蛮なことはせぬ。まず鹿島達の説得なのだ。そして『先生』という輩を取り押さえる」
ずっと疑問に思っていた事があった。何故、『先生』は生徒たちに殺生石を使った大虐殺をやらせようとしているのか。殺生石を手に入れる事の出来る力があるのだから自らの手でやれば早い話である。
しかしそれをしないとなると、僅かにだが考えも纏まってくる。
もしや『先生』は魔法を使えぬのではないのだろうか。
典子の話を聞く限りでは、今回の件を主導している女の先生は一度たりとも魔法を使ったと言う話を聞かない。使っていたのは大男の者だ。
そうなれば殺生石を手に入れた方法も見えてくる。
千体地蔵は『魔法族』を退ける装置だ。非魔法族、スクイブには機能しないとしたら、賽の河原より殺生石を手に入れる事は容易だろう。
魔法が使えない為に生徒を使って大虐殺を演出しようとしているのだろう。
そう考えればすべてが納得いく。連中は
「連中は恐らく魔法が使えない。故に鹿島達さえ説得できれば、今回の件はすべて丸く収まるのだ」
「その説得が出来れば、な」
この者はどれだけ痛めつけられようと軽口だけは健在だ。
その事に私も少しだけ安心できた。この男の不屈の精神は称賛に値する。
夜闇を切り裂き、私たちは下界の明かりにも目もくれず向かった先は、日本霊峰の元に広がる樹海のそこ、只人も常人も退けて征く自然の大結界。閉ざされた聖域だ。
深く広がるそこへと到着した私たちは舞い降りた。
虫たちの騒めきと悪獣悪鳥の言い知れぬ悪意が感じ取れる薄暗い闇の中、私は烏の嘶きの如く奇声のような呼び声を上げた。
すると何処からともなく現れる半鳥半人の同胞、烏天狗が幾匹も馳せ参じた。
「天狗、天狗」
「仲間、仲間」
同じことを何度も繰り返す烏天狗たちに私は寄って伝える。
「主たちに頼みがある。私が着ているこの洋服の者たちが富士の山を今まさに登っている筈。居場所を教えてくれぬだろうか」
「この服、この服」
「居場所、居場所──分かった」
私の言いたいことを理解したのか烏天狗たちは即座に飛んで行く。
「私たちも探すんだよね。こんなに深い森の中を歩くのは危なくない?」
綾瀬はどこか不安げであったが、勝手知りたる富士樹海だ。
今どこにいて、どちらに向かえばいいのかは分かっている。
「私に続くのだ。はぐれては妖怪に勾引かされるのだ」
先頭を行く私。
日の高い時であれば富士山を登る道は四つ。
しかしながら、ただその道を連中が選ぶとも思えない。
私たちは今は吉田道近くにいるが、駿河、甲斐の側へ降りているとなれば追う事は非常に困難だ。
飛んで追うこともできるだろうが、飛んでいる最中に見つかった場合、鴨撃ちにされかねない。
連中も夜闇の中で烏天狗たちの生息域で不用意に飛び彼らの餌食にされる事は避ける筈だ。
烏天狗は人は食わぬが、夜の帳が下りたなら夜の空は烏天狗たちの庭と化す。
それを知らぬ魔法処生徒ではなかろう。
歩いて、富士山を登るしかない。
目的地は分かっている、少しでも近づくべく、渦を巻くような道のりを選んで私たちは進んでいく。
剣ヶ岳の山頂には既に何人かの天狗たちの気配が漂い、すでに到着している者たちがいる。
心強い援軍だ。右烏が文を
「綾瀬よ、大丈夫か?」
「うん……運動不足かな。息が上がってる」
少し苦しそうにそう言う綾瀬を気遣いながら私は微かに辻風を綾瀬の口元に吹かせて空気を送った。
魔法使いは座に付きその学を深める者たちが多い。それ故に運動不足の者たちが目立つ。そんな者たちが初めて登山を挑むとなれば息も切れよう。
しかも今回の道のりはただ山道を歩く訳ではない、より長く富士の傾斜を堪能する道だ。
私だって、少し息が切れ始めていた。
心臓が高鳴り、足が棒切れにならんと疲れを溜めてゆく。
だが、止まるわけには行かなかった。もう連中の企みは始まっている。
小一時間ほど歩き、吉田道から須走道を跨ぐ頃に烏天狗が私たちの元に戻ってきた。
「いた、いた」
「妙なの、一緒、一緒」
「何処におったのだ!」
「御殿場、御殿場、七合目」
烏天狗たちはそう言うとカーと嘶いて飛び立った。
御殿場の七合目、となれば連中は日ノ出館で小休止をしている可能性が高かった。
「連中小休止をしておるやもしれぬ。急ぐのだ」
私たちは足取りを速めた。
石道、崖道、雪道を踏破して見えたのて来たのは山小屋。
崖に埋め込まれたように石垣の中に見えた日ノ出館。そこには既に明かりが灯っており、そこにいた者たちの顔が見えた。
「鹿島達だ」
竜人はそう言い、身を低くして日ノ出館へ近づく。
だが、タイミング悪く。一人が外に出てきた。私たちは地面に体を伏せてその者を見た。
どこか薄笑いを浮かべたポニーテールの女。鼻が高く、日本人の顔ではない。
「あやつが──」
すぐに理解できた。
典子の言った、『先生』だった。
胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた彼女は大きくその紫煙を肺に溜めて息を吐いた。
疲れていると言わんばかりの様子ではない。どこかわくわくしたような幼稚で、浮足立っているような雰囲気だった。
「これからどうするの。撫子ちゃん」
「ええ、っと……」
声を殺して聞いてくる、綾瀬に私は言い淀んでいた。
「決めてないのかおめえ、鹿島達説得するって言ったろ」
「言ったがどう接触しろというのだ! あれでは鹿島達だけを説得は出来ない」
連中に聞こえないように喚てしまった。どうしようもない。
あわよくば富士樹海に鹿島達が居れば攫って説得する気でいたが、よりにもよって動植物の一つも、ぺんぺん草も生えない赤土の御殿場道を使っているとは考えていなかった。
やはり私の考えが甘いのだろうか。
竜人は呆れかえったようにため息を付いた。その瞬間だった。
ズドンっと、私たちの目と鼻の先に銃声が鳴り響いたではないか。
その銃声の元を見れば煙草を吸いながら、その紫煙を吐く『先生』の姿。
まるで見透かしていると言わんばかりの薄ら笑いがこちらを見ていた。
「出てきてください。誰かさん」
次回、殺生石編を最終回にしたいな