「あ、あいむ、ひゃんぐりー」
「違う違う、アイム・ハングリー。お腹空いたって事」
「うぬぅ……」
私は出航ギリギリまで外来語の勉強に頭を悩ませ続ける。
教本を見ながら、読みから、発音の練習に四苦八苦しながら綾瀬に手伝ってもらいながら必要とされる会話を教えてもらっていた。
しかしながら上達しないのが現状で、拙い言い方が抜けず、日本のカタカナ英語にもなっていない。
珊瑚の宮の大広間で二・三・四年生が一堂にかえしてようやく百人程度の学生らがいと狭しと言わんように船の準備を待っていた。
教員は三名同行することになっている。生徒の引率を団芝三と鴇野美奈子、そして船の船長として郭公が同行する事となっている。
郭公は航海魔術兼言語学教諭、私の欲する道先案内人と不足している外来語の勉強に大いに役立つ。
しかしながらあの発狂をものともしない流暢な英語を輪が耳で聞けば少々気味が悪い。
何せいつもが異常な大声と声量から繰り出される奇声からは想像もできないような流暢さである為に、何と言うか“いめーじ”が崩壊してしまう。郭公には失礼だがいつまでも発狂した郭公でいて欲しいものだ。
「皆さん、そろそろ出航しますよ」
美奈子がそう言い学生たちがやっとかといった感じのため息で動き始めた。
それもその筈で、一ヶ月間という長期間の修学旅行である為に荷物がかさばる。船内には風呂、洗濯場、便所などが完備しているとは聞いているがそれはそれとしても嵩張る物は嵩張る。
下着、歯ブラシ、正装、その他諸々。土産などの事も考えればさらに荷物となる。となれば皆が選ぶ荷物入れは歩荷の背負子のように大きなものとなり一見すれば夜逃げの様相である。
美奈子の先導で珊瑚の宮の奥にある海へと続く螺旋階段を下りて行き、南硫黄島の島をくり抜いて作られた入り江に付いた。
真っ暗で見えなかったが、突如として火が灯り入り江を照らし上げた。
入り江に鎮座している巨大な船。それは──。
「ようこそなのであああああああっる!
「嘘だろ。おい」
竜人が船を見てそう言った。
眼前に見えた船は一言で表すのなら『混沌』であった。
貧困街の一角を切り抜いたようにバラックが船の上に建てられ、到底船と呼ぶには相応しくない外観のその構造体。
軍艦にしてはその船体はやけにずんぐりしており、客船にしてはいい加減な造りの船体。全長はおおよそ百メートル程度だろうか。横幅は普通の船なら広い方だろう。喫水は浅いように見えるが、しかしながらその外見は船と称するに船に烏滸がましいような見た目を披露していた。
甲板の上に広がるバラックそして倉庫群、綺麗に整理されているならまだしも、そんな訳はなくただ手当たり次第に一緒くたに甲板に詰め込めるだけ詰め込んだと言えるオンボロたち。
風が吹いていないと言うのに香る匂いは潮風よりも強い錆の香りの出所はその船であり、船体は鋼鉄製であろうがあちこちに赤錆が浮き上がり、破損個所も目立ちそれを補強する物はどこぞより持ち寄った資材を力技で打ち付けたその風体。
襤褸資材、襤褸鉄、襤褸木のすべてが老朽化して一種異様な雰囲気を漂わせる一大混沌。
この世の理、浮力物理学、造船力学への挑戦とも思えるその船が鎮座し今にも沈没しそうなその見た目はこれを船と口にすれば正気を疑われそうだ。
そう、それ即ち郭公が操舵を任された魔法処魔法学校の所有する学校外授業用移動船──
「風向きは追い風でああああああっる! 航行には最適な日和でああああああああああっる!」
舵輪を握り締めた郭公はいつにも増して狂気じみた声で、今にも脳の血管が切れて昇天しそうな顔色で浮足立っている様子だった。
私が入学して今迄、郭公は只の言語学教諭として教壇に立っていたがもう一つの授業、本来は航海魔術の専攻の生粋の船乗りである。三年間のおあずけを食らっていればこのようになっても致し方なかろうと思うが、今の郭公はその域を超えている。
根を張ったようにピンと背足を延ばし万力の様に舵輪を握り締める手には青筋が浮かんで握り割らんとしている。そのような状況で瞬きを一切せずに目の渇きも何のそのその場を一切動こうとしない。
「セントエルモたち! 久しい仕事であああああああっる!」
絶叫と共に甲板に二つ並んでそそり立つ煙突から火が立ち上り、火は隕石弾の如く降り注ぎ、燃え燻りながら徐々に不規則な揺れ動く形状が形を表した。
顔も、腕も、そして足もしっかりと確認出来て色味は緋色より青、緑、金と様々な個性豊かな幾人かの成員たちを生み出されていく。
「こりゃあ驚いた。アッシュワインダーの亜種か」
竜人が物珍しそうに生み出された船員を診た。
「どうかしたのか竜人?」
「いや、魔法処の学生なら普通気にならねえか
セントエルモと呼ばれた船員たちがきびきびと仕事を始めた。
スッと気配を消して私たちの後ろに立った団芝三。不意に声を掛けられ驚いてしまう。
「それが気になるかな?」
『うわっぁあああっ!』
カカカっと笑った団芝三が船員の肩を叩いて労いながら説明した。
「彼らは『セントエルモの灯』と命名しておる。安部君の言う通りアッシュワインダーの亜種であるが、産まれ方が少々違う。船に宿った魂、そして悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象から生まれ大変短命であった。しかしながら田路村くんの独自の魔法でサイクロプスの船員として使っておる」
「マジっすか、黒髭って新しい魔法とか作ることできたんですか!?」
「うむ、気は触れおるがな、あれとて禁書の棚の管理の影響で本来であれば田路村くんは博学なのであるぞ」
なんとも驚愕な話である。気の触れていない郭公の姿など想像するだけで怖気がする。
博学多才の郭公、ある意味では気味が悪い。
「さてさて、田路村くんの調子も良好なようだ。サイクロプスへ乗船しようではないか」
団芝三が、襤褸船のサイクロプスへ足を進め、舷梯に足を掛けた。
それに続く生徒たち。私は今にこの船が軋み異音を立てて沈まないか不安で仕方なく恐る恐る乗り込んだ。
「早く行こう。撫子ちゃん」
「う、うむ……」
船に乗るのは初めてだ。大抵は神足通で空を駆ければいいだけで、わざわざ海路を選んで船に乗るなどはしなかった。
初めての体験に私はおっかなびっくりサイクロプスに乗り込んだ。
ギシギシと軋みを上げる舷梯に赤錆が雪の様に振ってきた。頭に降り積もる赤錆の雪を払い私はげんなりする。
「いやいや待て。これは魔法処の魔法の船だ。ただの襤褸船な訳ないのだ」
私はそう言い聞かせて、船内に入ろうと葛飾北斎の水墨画のように珍妙な模様を浮かべる錆の浮いた扉を開こうと取っ手に手を掛けた。
魔法の集合地たる魔法処でこのようなオンボロはあり得ないだろう。きっとこれを開けた先はきっとエンマ荘こと野良犬荘の見掛け倒しの絢爛豪華な内装の空間拡張を広げているに決まっている。
そう切望していた私は本当に馬鹿だ。
軋んだ音を立てて開かれたそこに広がっていたのは、見た目通りのオンボロの通路だった。
人一人が荷物を両手に抱えれようやく通れる程度の道幅で、天上には無茶苦茶な配管が通っており、通路全体に香る匂いは
鼻が曲がるようなその匂いを我慢して進んで割り当てられた船員室を開けば、狭苦しい二段ベットが詰め込まれた四畳程度の部屋あるばかり。
日差しも差し込まなければ、この強烈な匂いに中てられ気が狂いそうになるのは目に見えている。
「天狗たる私が何故にこのような拷問を受けねばならぬ!」
喚いてもいいだろう。日程表ではこれを三日間も仕向けられその上三日間の内に船内清掃、授業、炊事と生徒は身の回りの事は自らすることとなっている。
私は早々に荷物を下ろして、一刻も早くこの激臭から逃げたくなり甲板に向かった。
何人か私と同じ心情の生徒たちと出会い共に甲板へと走った。
この匂いを嗅ぎ続けるぐらいなら入り江のあの錆臭い匂いの方が幾分かマシであり急ぎタラップを駆けのぼり、甲板の扉を開けたとき郭公の奇声が轟いた。
「出航おおおおおおおおおおおおおおおっ!」
バコンと異様な振動がサイクロプスを襲い、ぐらぐらと揺れ動く船体が次第に前進して入り江を出て、そして徐々にだが上昇する感覚がある。
甲板に出た生徒たちは縁の手すりに張り付いて海面を見れば、船首が水を切り裂き波が立っているが次第にその波は消え失せ、遂には変哲もない水面が姿を現した。
ゴゴゴゴ、っと異音が船全体を揺らしてなり響き、私たちはその異変に気付いた。
この船、
「風向きは我らにあり、追い風であああっる!」
いつにも増して狂気じみた声で宣言する郭公を見れば、あの狂気の顔はどこへやら、清々しい顔つきで地平を望むその目は正気の目で私たちが見た事もない郭公の姿があった。
「えんやこら。密航者は、簀巻きだぞ!」
「巻いて縛って逆さ吊り、終いにフカの餌と成れ!」
「俺たちゃそれで晩酌だ!」
セントエルモたちは歌いだし、郭公を船長に皆が上機嫌と言った様子でこの航海を始める。
初めて見る正気の郭公の姿に驚きを隠せないが、それよりも驚きなのはこの船が浮き上がり空を航行している事だろう。
空海を渡る赤錆の船。
船員は聖人の名を冠する炎の使い。船長は気の触れた狂気の教諭、そして乗客は年端もいかない我々だ。
船はどこまで行こうぞ。向かうは欧州の果てである。夜祭の日取りはいつなりて、ヴァルプルギスに夜に我々は結ばれん。
「────」
私は正気を失ってしまったのだろう。
台湾を横断して中国の瀘沽湖を渡っている頃合だっただろうか。大陸の爽やかな風、美しい風景が私を徐々に壊していく。
船内は例えられない
乗船している者は身の回りの事は大体自分でしないといけないのだが、しかしながらセントエルモたちが気を利かせて炊事洗濯を生徒全員の代わりにやって、私たちのやる事と言えば授業だけであった。
語学の授業であるが郭公は操舵で忙しい為に、代理で他生徒や美奈子などが代りにやってはいるが本職に比べれば質の劣る授業、五十歩百歩だ。
その授業が終わってしまえば。
「暇なのだ──」
私は甲板でひっくり返って流れる美しい風景に精神を蝕まれ、言語を発することもやっとになるくらい暇をもらっていた。
そしてその時は唐突に訪れた。
誰ぞ生徒が持ち込んだラジオカセットプレーヤーでビートルズの『Help!』が甲板に流れ、壊れた。
甲板の襤褸板を力いっぱい何度も叩いて周囲の目を引くことも気にせず、バタバタと暴れ倒した。
「撫子ちゃんどうしたの!」
「いぇーい、乗ってきたのだ!」
「どうしたの? ホントどうしちゃったの?」
「制御が、体の制御ができぬのだぁ……」
あまりにも暇すぎると人は壊れてしまうのだ。
五時間も何もしないでひっくり返っていれば人の自律神経はおかしくなり自分でも驚くくらいの奇行に走り出すものだ。
「へるぷみーいふ・ゆーきゃんあいむ!」
歌詞も滅茶苦茶に大声でラジオカセットの流れる『Help!』を歌って暴れる。
この歌詞の言っている通り、助けてほしいくらいだ。いっその事郭公の朝のように奇声を発して走り回りたいくらいだ。それくらいに暇を持て余していた。
「山本、そいつどうした?」
「撫子ちゃん暇すぎて壊れっちゃったみたい」
「雲が豆腐なのだー!」
訳の分からない事を絶叫して私はモップが如く甲板の汚れをその
「確かに暇だな……」
「暇なのだぁ……」
晴天の空を見上げて私たちはそう呟いて仕方がない。
何もすることがない、何もやることがない。それだけで人はここまで壊れて脆い事に私は驚きよりも奇行に走りたい衝動に突き動かされ、相変わらずバンバンと甲板を叩き続けていた。
「しりとりするか!」
「は?」
「なに?」
私の唐突な提案に面倒くさそうに返答する二人を無視して、単語を云った。
「鹿」
「か、かに」
「人間。はい、終わり」
竜人が面倒で、『ん』を付けて強制的に終わらせるが私は無理にでも続けた。
「かば」
「あ?!」
「止める気ないみたい……」
「かば」
綾瀬と竜人は呆れながら竜人は言った。
「バッキンガム宮殿。終わりだ」
「竜人とやっても楽しくないのだ」
私は初めて郭公の奇行の理由、気の触れた気持ちを理解したようだった。