学生が殺人の起きた会場をフラフラしているのは頂けないモノだと世間一般は思う事だろう。
私だって、殺人犯がうろついているかもしれない場を遊び歩く事罷りならないと思うが、しかしながら私たちは無罪放免を確約されている上に、何より、その会場がそれを許してくれない。
夜更けの中、私はフラフラ、フワフワとバタービールのグラスを座禅を組んだ膝にのせて、私は空に浮かんで何気なしに空を見上げながら無想する。
何ものも求めることなく、思考と言うものを捨て去ったこの状態こそ常に維持し続ける天狗が必要としている状態、即ち無我へと至った状態であり涅槃への歩みの一つだった。
こうした思考をしていること自体、無想とはと思うが、唐突に訪れる何ものにも囚われない虚無なる状態とは何ようなものなのか。
人間だれしもがあるだろうと願いたい。その虚無が内なる人間性に潜んだ現象であることを。
意識がより鮮明に、何ものにも囚われていないがために研ぎ澄まされ、より多くを見通せる。
それ即ち神通力の足掛かりであり最も修行するに適した状態であった。
やる気とは唐突なことで訪れるものだ。暗くならねばやる気の起きぬものも居れば、眠くなければやる気の起きぬもの、その引き金は人それぞれ、その切り替えを心得ている者は偉いものだ。
「…………」
薄く目を閉じて、夜の空に浮遊する私。
夜闇の暗黒を見据えて欠けた月に私は現象をそのまま受け入れて、受け止めた。
時の流れをその身に感じ、音を聞き、空気を肌で感じ、匂いを嗅ぐ。
すべての現象がなる様にしかならない。
色即是空、空即是色。人の肉体と精神を切り離し、より高度に思考する事を求め、そして未だに揺らぎあやふやで形のない存在を、物体として存在し得ない概念をより深く考え込む。
一人勝手に空に浮いて修行に励む私の下には喧騒と焦燥、愛と憎悪と、楽と哀の二極端な感情の鬩ぎ合いを魂で感じる。
世界を知り、人心を知り、時間を知り、魂を理解しよう。
常世、精神、時の流れ、霊魂。この四つを制する天狗は涅槃へと至れり。
「………………」
天狗とはいったい何者なるや。
例えは幾らでもある。
天下不遜の迦楼羅天に列せられる者たち。凶事を知らせ、帝に害成す存在、魔縁魔王の一族。
例える事ならば幾らでもできよう、しかし私たちとて他者と対話して思考している。
故に衆生に囚われる魂である事、釈迦の教えに通ずる憐れな輪廻に囚われる者たちである。
天狗とは何者たるや。
自らに神の御業を体現する現人神たる存在。断じるのならそうであるが、手段を問うなら魔道を列する下界の者たちとてそれに通ずる。
神とは一体、人とは一体、私とは一体──。
「そこで何していらっしゃるの!」
不意に声を掛けられ私は下を見下ろした。
そこにいたのは。
「薫?」
今迄あまり係わりのない藤原薫がこちらを見上げているではないか。
相変わらず、重そうな十二単を着込んでこちらを見ているではないか、私はその座禅を組んだ状態のまま薫の前までゆっくりと降りて行った。
「何用なのだ?」
むっすっとした顔であった薫。その表情からまるで煙たいと言わんばかりの表情に私の穏やかな水面のような心に小石を投げ入れてくるようではないか。
波風のない心の内にその波紋が立つが、ここは小さな揺らぎと心得よう。
煙たそうに私につんけんした態度で接してくる薫に仏のように穏やか応じよう。
「竜人様はどこにいるか知りませんこと?」
「竜人ならばゾディアックの事件の捜査であろうな。この会場にはいようが、どこにいるかは知らぬ」
「はァ、当てになりませんわね」
何とも失礼な奴だ。いやいや、ここは穏やかに、仏の如く。
「何故に竜人の事で私に訊くのだ?」
「……ふんッ! 癪ですけれども貴方が竜人様と親し気になされているから居場所を知っているのではないかと思ったのよ。目先で浮かんでいるものだからそれで声を掛けたまでの事。大意はありませんわ」
何とも勘違い甚だしい事この上ない。竜人と私は親しいのではない。恨めしいのだ。
あの者は私に
私を誰と心得る。私は六代目石槌山法起坊天狗の石槌撫子であるのに、あの者と来たら──。
仏の揺らぎのない心の水が、竜人の事を考えいるとぐつぐつと煮立ってくるように大きな波が産まれてくる。今にして思うと奴はかなりの無礼を我に働き掛けてきているではなかろうか。
私を餓鬼と扱い。仕返し合戦でゴキブリ箱を彼奴のエンマ荘自室に送り悲鳴を引き出せば、そのまんま返しのゴキブリ箱が私の部屋に送られ、私の口から悲鳴が飛び出た。
杖術の授業で鬼灯より点数を竜人よりも多く賜れば、竜人は他学科でより多くの点数を取って私を鼻で笑ってくる。
まるで私ががりがりに痩せた野良猫の如く餌を集る憐れな生類の如く扱う事、天狗に対して失礼であろうに、それを平然とやってのけるその根性たるや、それ無礼と知れ。
「……今にして思うも腹立たしいのだ……あのような者何処へでも行けばよい」
「貴方には不釣り合いな方であるのだから、あまり側に寄ってほしくはありませんわ」
「不釣り合い? はて、奴が私に不釣り合いであろう。その言い方まるで私が竜人に不釣り合いと言っているように聞こえるのだ。逆であろう、逆」
「
こやつも大概の口ぶりである。辻風にてナポリ湾まで飛ばしてくれようか。
十二単だ。さぞ風をその身に受けてよく飛ぶことは見て分かる。
私の手が怒りから団扇に手が伸びそうになるが、そのどこか蕩けた表情に私は鼻を尖らせて聞いてみることにした。
「
「何をおっしゃいますの?! 竜人様は唯一無二の方でしてよ」
「そうか?」
あのような者、憎まれ口を叩く匹夫の者だ。
それこそ代りを見つけるのは苦労しない。夜の町に繰り出せばそこかしこで居ように。
私からしたら俠客者の方が竜人よりもよっぽど人間味に溢れる人であろうと感じるが、力強く薫は否定する。
「あの方は、竜人様はお優しい方なのです。弱きを助けて、悪鬼を懲らしめる。それこそ良識のある聖天子のようなお考えは私たち日本の魔法族を導くに相応しい方ですわ」
大層持ち上げる薫の言い分を聞いてみることにして見よう。百聞は一見に如かず、され百見は一触にしかずとも言う。私という色眼鏡で見た竜人と、薫という色眼鏡で見た竜人はその印象はがらりと変わるものだ。
「あの方は六波羅局での働きと来たら、それこそ破竹の勢いで様々な難事件も解決に導いた聡明な頭脳を持ち、それを鼻にかける事もなく、優しく慈しみ深くそれでいて優雅に私たち正七位の者たちにも助けを差し伸べてくださる方なのです」
はて、そんなことなど私はしてもらった覚えは一度もないが、彼女はあるのだろう。
よくよく思えば、薫は陰陽寮の出身だ。六波羅局勤めの竜人と係わることは多くある。その折に関係をお持ち、その血統の紫式部と安部晴明関係を示唆する流言飛語で自ら絆されているのだろう。
しかしながら私としても竜人の人となりはあの大層憎たらしい態度しか知らない。根性はひん曲がり、良識と善性は持ち合わせているが腐った魚の臓物にも劣る性根以外に彼奴を知らない。
「六波羅での竜人とはまた興味深いのだ。私はよくよく思えばその方らの過去を知らぬ。妙な言い掛かりもその内容では認めてやらんこともない」
何とも上から、竜人の人心を私が預かっているかのように薫と竜人の過去を聞いてみることにした。
私の偉ぶった態度にフンと鼻を鳴らして、彼女ら二人の過去を語った。
「あの方は、私が陰陽寮に入り立ての頃に私に手ずから技を授けてくださったのよ」
「陰陽術をか?」
「当然でしょう、日本なのだから。……陰陽寮に入り立てで右も左も分からず、技も拙い私、教官たちの厳しい訓練に心身共に私は崩れていたのよ。その時に竜人様は私に優しく教えてくださって。私の心は救われましたわ。それが私にとってどれだけ救いになった事か、貴方にはお分かりになって?」
「分かるはずないのだ。主は主、私は私だ」
まあ事情は察する事が出来る。
陰陽寮の年少者は五歳からその家系の系譜によって入寮することが決まっており、その身柄を陰陽寮預かりとなる。
乳離れもまだまだの幼子を親元から離し、苛烈な訓練を受けるとなればその心境は察するに余りある。
そんな中で竜人のような才覚ある者から優しくされたのなら、絆されるのも致し方なかろう。
「そして何より、私は藤原香子の直系の家系、安部晴明の直系であらせられる竜人様と私が惹かれ合ったのはまさしく運命の悪戯と言っても過言ではありませんわ!」
いやそこは過言であろう、と私は心の中でツッコみを入れていた。
竜人は薫を煙たく思っているし、薫のそのかなりの熱量がただ単に一方的な押し付けがましい恋愛の駆け引きとなっているのは明々白々の事実であるが、恋は盲目、熱より覚めて凍える風邪とも逆の患いであるとは先人の者たちもよく言ったものだ。
「貴方には似合う筈もありませんわ、竜人様は尊き方で有らせられるのよ」
「ふん、あのような者が尊いのならゲンゴロウでも御仏のそれであろうに」
「まあ! なんて言い方なのかしら! 貴方のような人は竜人様に見合うことなど絶対にありませんわ!」
見合いたくもない、と心の底からそう思い。
恋仲となるのならさっさとなれば良かろうと思うのだが、なんならあの男は逸物を去勢しているのではないかと思うほど色恋の話を聞かない。脇より産まれ出でた仏陀の無欲さを体現しているようであるが、しかしながらその憎たらしさと来たらまさしく天邪鬼のそれだ。
何時何時でも竜人を私の辻風の餌食としても良いのだが、団芝三にも
そんな御触れを言われていなければ、即刻、地天を一周するような辻風であの世に昇天させてやってもいいのだが、仕方がなかった。
「まったく、見合う見合わないなど、私にはどうでも良いのだ。あのような者を欲するのなら如何様にでもくれてやる」
「本当ですの!」
詰め寄ってくる薫に浮かんだ状態の私は紙風船が如く、突けば突くほど避けていくのは自然の摂理であり、私を追ってくる薫はまさしく犬のようである。
「竜人様が貴方を気に掛ける意味が分かりませんわ。貴方のような憎たらしい子を」
「気に掛ける? 竜人が?」
「そうですわ。いつもいつも貴方を目で追っているようで、常に貴方を気にしていらっしゃる……その目を独占する貴方が羨ましいのですわ」
今迄そのような事気づきもしなかったし、気にもならなかった。
竜人が私を目で追っている? 。きっとそれは私をより良き好敵手と認識していると言う事ではなかろうか。私も竜人はより良き好敵手であり、競うには最も適した人物。それを蹴落とそうなどと勘が手入るが、目で追うほどの余裕は持っていない。
競うのだ、狙うはその喉笛であり、目ではない。
何とも不思議でならない。
「竜人様は貴方に焦がれている。恨めしい、恨めしい。何とも恨めしい。貴方が天狗などでは無ければ、この場で亡き者としてやりたいぐらいですわ……」
天狗であって本当に良かったと今にして思う。
この女の事だ有言実行は、なおのこと。盲信盲目の恋慕に焦がれる手に負えない者となっている。
故にこの者は本当に実行に移すだろう。私が天狗で無かったのなら、その手で蟲毒の毒を私の喉に流し込んで苦しみ抜いて死んでいた事だろう。
笑い話にもならないが、本当に天狗で良かった。
「うぬ? 噂をすれば何とやらだ」
私は会場を歩く竜人が目に入り、それを薫に告げた。
忙しそうに目を走らせる竜人の顔は只ならぬ剣呑な雰囲気であった。
まあ、それも致し方ない事であり、今竜人は職務に従事している。あの男の気質だ、仕事と言えど気を抜くほどの阿呆ではない。
隣を歩く女性は知らないが何やら親し気に話している。
「りゅ、竜人様ぁ……あのような年上を求めていらっしゃるの……!」
とんだ二次被害であろう。他人の趣向性癖を勝手に決めるのは何とも身勝手な事であろうに。
しかしながら本当に親しげに話している。年齢を考えれば、祖母孫位の年齢でもおかしくはないだろうが、私としては本当に──。
「勝手にすればよろしいのだ」
「ちょ、ちょっと!」
ふわふわと空へと舞ってゆき、再度瞑想へと戻った。