『────ッ!』
濁流。そう表現するしかない。
人の心がこんなに混沌とした渦の上で成り立っているなんて想像もしえない程に、猥雑で、滅茶苦茶で、渾沌たる様を私はセウの心の中で初めて知った。
人の心は書物のように読み進めるのではない。嵐の海の夜に小舟で漕ぎ出して、そこから浜辺より流された小さな砂粒を探し当てるようなものだった。
私自身の心が痛い。引き裂かれるようで、引き千切られるようで、目まぐるしく押し寄せる感情の波に私は溺死しかけていた。
苦しい、不快で気持ち悪い。何もかもが一緒くたに私の中に流れ込んでくる。
私自身それから逃げれる権利はあるが、しかしながらそれより逃げる事を私は望んでいなかった。
少なくともこの者は、セウは私の中では友の中にいる人物だ。それをみすみす見逃してゾディアックに仕立て上げるなど私にはできなかった。
友を見捨てる事ほど不心得を極めていない。
清く、正しく、天を覆う天上天下唯我独尊の天狗の名前を戴く者として無辜の者を見殺す事罷りならない。
正義は成る。それ即ち天狗魔道の光明成るぞ。
踏み入ったセウの心の濁流の中を深く、さらに深く私は潜っていく。
『──お前は出来損ないだ』
微かに私の意識の横を過ぎ去っていく声を聴き、それを掴もうと必死それに辿り着こうとした。
酷く弱弱しい無意識の裡に潜む心の弱点。心の深層へと私は近づいていた。
『僕は、こんな事したくないんだ!』
真っ赤な閃光が濁流に混じり、血の海の中を潜っているかのようにドロリと、ねっとりとした人の血の如く熱を佩びて私の意識を更なる地獄へと誘った。
弱っていた。これは誰も望まないひどく脆い心の箇所が垣間見えた。
誰しもが持っている薄暗く見せたくもない個人足りえる弱点。負なる過去。
『──殺したくなんてない』
叫んでいた。
血の海に沈むそれを抱きかかえて哭いていた。
セウの家の、『ロビショメン家』のセウが否定したがっていた因習。
その骸の姿を見れば分かる。小さな子だった、しかしながらその見た目は人とは懸け離れていた。
人狼、狼人間の子供だった。
まだ歯もろくろく生え揃っていない子犬同然のその子をセウは抱えて泣いていた。
『いつまで泣いている。人狼程度に流す涙があるなら、それでこいつらを殺すんだ!』
『なんで殺さないといけないんだよ! 兄さん! 父さん!』
その姿が
彼らに罪なんてなかった。罪になりえるようなことは何一つしていなかった。
ただ殺されるだけの事をしていないのに、ただ狼人間であると言う事だけで殺された。
確かに非道に走る狼人間は数多くいる、しかしながら皆が皆、悪魔に魂を売り渡しているわけではない。
彼らは、彼らのコミュニティはいたって平和だった。
狼になる時は、皆で助け合って他の者たちに害をなさぬようにしていた。
なのになぜ! なぜ殺さねばならなかった! 。
それがロビショメンの習慣だから? 吸血鬼として一魔法族として認められる方法だから? ただの言い訳じゃないか。いくら僕たちが訳を言い繕っても彼らに罪はなかった。ただ狼人間だったという事実だけで殺されるなら、僕たち吸血鬼だってこの心臓に杭を突き立てられる理由にだって幾らでも取り繕える。
忌まわしき因習だ。狼人間を殺す事に何の意味がある。
兄さんを手助けしない
でも僕の『ロビショメン』という名前は永遠に切り離す事の出来ない呪いとして付きまとい続けた。
どこへ行っても、何をしても、成功しても失敗しても、笑っても泣いても──すべて『ロビショメン』と言う名前が付きまとい続ける。
大いなる呪詛。どこまで行っても僕は『ロビショメン』の血に引き摺られ続ける。
血に刻まれた吸血鬼一家という変えようのない呪い。カステロブルーショの皆が、誰しもが、地を歩く血液袋に見えて仕方がない。
堪え難い渇き、吸血鬼としての宿命。
喉が渇く、いくら水を飲んでも、酒を浴びるように深酒に溺れようと。
どれだけモノを喰らおうと、吐いてもどすほど食べようと。この渇き、飢えは消えなかった。
方法は見えている。
だが、
必死になって堪え続けていた。でも限界はある。
カステロブルーショの先生に
その人に縋りついて懇願した。この飢えと渇きから解放してくれと。──殺してくれ、と。
今迄飲んだことのない甘美な味。これ程までに心休まる味の血はここに来るまで飲んだことがない。
これぞ、
僕はそれから
しかし彼女は笑って、カステロブルーショの教鞭をとり続け。そして──消えていた。
あれだけ嫌っていた兄さんや父さんにも頼み込んでその人を探してもらったが分かった事と言えば。
『
日本の大層名のある家名の者だった
唯一の救いであった
不思議ともうあの渇きに苛まれることもなくなり、
しかしあの味には劣る。あの甘美な天使の血に比べればそこらの魔法族の血なんて泥水にも等しい。
日本へと帰った
天使の血こそ吸血鬼から只の魔法族へ孵す救いの血なのだと。
盲信妄言なのは分かっている。しかし彼女は天使なのだ。
神の使い。神がその天より遣わされた使者。天の御使い。
その血に真なる救済があったとしても何も疑わなかった。何度も何度もカステロブルーショの同じ学年を行き来しようと稀少な
半分諦めかけていた時、遂に
『ロビショメン』の悪徳や頽廃の人狼狩りを罰するのならそれでいい僕も吸血鬼だ。それを焼け硫黄の雨を浴びるのなら喜んで浴び焼き尽くされよう。
ただ、死の間際に一滴の血を僕に恵んでくれ。僕は無実という名の罪を被ったただの卑劣者だ。
『──なんだ?』
僕は天狗の彼女を探し回る最中に、見える会場の一角で行われたそれを見ていた。
男女二人の前で跪いて首を垂れるその者たちの密会を。
その者たちは匂いからして普通の魔法族であることは分かった。女性の方は魔法族ではなくスクイブだ。
彼らは何やら話をしてそして跪く男の腕に何やら魔法を使って焼印を刻んでいた。
その魔法の呪文は。
『
そのあとすぐに女性が捨てた煙草の火がテントに燃え移りその顔が露わになった。
なんとも楽し気な顔だ。ポニーテールのその女、下顎が焼け爛れまるで骸骨の様で恐ろしい顔。その右目の当たりより蛇の尾のような刺青がのたくって動いていた。
『さあ、始めましょう。ゾディアック。闇の皇帝、ヴォルデモート卿への供物はまだ10人もいるんですから休んでいる暇はありませんよ』
『はい。分かっております。イヴ』
ふと大男がこちらを向いて、僕に魔法を撃ってきた。体が石のように固まって動けない。
僕は何やら見てはいけないモノを見てしまったようだった。
『おやおや、いけない鼠がいますね』
『────』
ぼそぼそと大男が女に耳打ちして僕は見逃された。
跪いていた男ももう姿を消し、彼らはまるで祭の続きがあると言わんとするように暗闇に消えて行った。
「──カッ! っか、はぁ、はぁはぁ──」
現実に引き戻され、私は口から異様に垂れる涎に咽て咳き込み、息を切らせてセウの体から離れた。
確かに感じた、読み取れた。
──セウの過去を。
一体どれだけの確執をセウは抱えている事か。それはこれだけ見てもほんの氷山の一角程度なのだろう。
私は他心通で無意識の心をほんの少し撫でただけで、ここまで濃密な心の一部を読み取ったのだ。
それをすべて読み解こうとするならば、今の私は壊れてしまいそうだ。
激しく私を揺する竜人を私は落ち着かせる。
「おい! 何が見えた、何を見た!」
「すこし、少し落ち着かせるのだ……」
私はテントの端で蹲って座った。
何故だろう。心を読んだせいか。セウの悲しみに私も感化され知らず識らずに涙が溢れてくる。
セウは天使、天狗の教師を愛していたんだ。それの死を知った彼の心を思えば、私に言い寄ってきた気持ちも分からんでもない。
代替品であったのは少しいただけないがそれでも、彼が救われたかったのだ。
私の血が少なくとも『吸血鬼を癒す妙薬』と考え、人として死にたがっていた。
無論、天狗の血にそんな驚きの効果はない。彼の勘繰りだ。
だが、しかしだ。私はセウの心に触れて感じてしまったのだ。
ロビショメンの忌まわしい過去より、その呪詛から解放されたがっていたのだ。
慰めにもならないがしかしながら私は動かずにはいられなかった。
自らの手首に歯を突き立て噛み切って血が噴水の如く溢れ出た。
「おい何やって──!」
「気は触れておらん! 少し待て」
血の垂れる腕をズイっとセウへと向けた。
「私の頸筋へその牙を立てる事は許されぬ。しかしせめてもこの血を望むのならば与えよう。悲しき吸血鬼よ」
その行いにセウは嬉しそうに、いや、哀し気にもその血に舌を伸ばして飲んでいた。
それこそ涙を流して、その血を呑んでいた。
救いを求めてられ救わぬ愚か者になってなるものか、私は天狗、天上天下唯我独尊自らの正しきを行う不遜な天狗足らんと日々動かねばならない。
涅槃とは仏のそれになる事だ。ならば救うわぬ神がいるのなら私は救う神になって見せようぞ。
「血ぃ流して少しは頭の血も引いたか?」
竜人は呆れたように椅子に座って、訊いてくる。
「うむ……少しな」
「何が見えた? ゾディアックに関連する何か見たか?」
「見たのだ……連中だ」
私は目を顰めてあの情景をありありと思いだした。
ヴァルプルギスのあの火災。連中が行った放火だったのだ。
だが私は混乱する。あの者たちは間違いなく富士山で死んだはず、女の方は袈裟懸けから百足丸の餌食に、大男は神通力の竜巻で紅葉おろしにされたはずだが、なぜ生きている。
不可解。黄泉帰ったのかと思ってしまうほどその健全な姿をセウの前に露わにしたそれに私は奥歯を噛み締めた。
「
「……そいつは本当か……」
「ああ、セウの心の記憶にしっかりと刻み付けられていた」
「厄介なことになったな……じゃあ犯人は緑龍会か」
「いや、奴らに傅く者がいる。その者がゾディアック。ヴォルデモートに仕えている」
竜人と相方が顔を見合わせ、何やら深刻になったといった様子であった。
ゾディアック、ヴォルデモート、
「何か特徴はあった?」
相方の方が私に訊いてくる。
「ゾディアックの腕に髑髏と蛇の焼印があるのだ。魔法で印された焼印だ。──闇の印だ」