皆夢見心地でホロ衣カフェで惚けていた。
呆けているのはない、惚けていたのだ。
あの歌声に惚けて、心ここにあらずと言う様な様子で虚空を眺めていた。
言葉もなかった。いや、言葉に例えるにはあまりにも美し過ぎた。
美しいの一言に尽きるアーレント司祭の歌声に心を囚われてしまっていた。今迄聞いてきた歌、全て雑音のように感じてしまうほどにあの歌声は美しく、可憐で、言葉で例える事があまりにも蛇足に感じてしまうほどに鮮烈であった。
抑揚の付け方、声量、歌詞の選択、無数の音楽を奏でる要素を巧みに使い一種の神秘性を見出せてしまうほどに綺麗に紡ぎ出された歌だった。
「なんだか自信が無くなってきた……」
綾瀬がそう言い頭を抱えだした。
当然だった。あのようなモノを聞いてしまえば自分たちが行おうとしていることがいかに稚拙かを思い知らされているようなものだった。
質が違い過ぎた。精好な歌に比例して自らの粗悪を突き付けられているような変えられようのない真実が容赦なく突きつけられている。
アーレント司祭に悪意も他意もなくただ単にワインを届けてくれた私たちにお礼の歌を送っただけのこと、しかしそれは傷口に塩を塗るのと同義であり、無意識的にそれを見せつけてしまっていたのだ。
常識に捕らわれない歌声。超常の域へと達した唄。正しく
経験も質もまるで達していない。言う事はないだろうが、もしアーレント司祭が綾瀬達『白虎煉丹』の演奏を飯事と言われてもそれを認めてしまうほどの格が違ったのだ。
悔しき哉、恨めしき哉。才能はあまねく人々に平等に分け与えられるモノではない。
突出して現れるもの、それ即ち天からの賜りし才能、『天才』と呼ばれる者たちだ。
「あんなの聞いちゃあ今迄のリハがお遊戯みたいじゃない」
突っ伏して嘆く綾瀬の背を撫でる私であったが適切な慰めの言葉が思い浮かばない。
いや、慰める事などできない程歴然とした差があるのだ。思い浮かばないのが普通であった。
「でも、あのこえきれいだったなぁ……」
虚空に向かってジェームズがそう言い、みんなそれに同意するように頷いた。
人間は人知を超えたモノに憧れを抱く存在だ。アーレント司祭の歌声はただ人が歌い上げただけのモノではない、まさしくそれは神秘に属する歌声だ。
誰しもを魅了して止まない病的なまでの中毒性。その声に魅了され誰しもが身を滅ぼしているとも知らずに私たちもアーレント司祭に聞き惚れていた。
「もうあの歌声は聞けなくなるのかな」
卑屈にピーターがそう言った。
どういう意味かと皆が彼の顔を見て、その視線に気づいたピーターが言う。
「ゾディアックに狙われているんだろう。司祭って立場だから殺される……」
皆がハッと現実に引き戻された。
そうだ。今ヴァルプルギスには『殺人鬼』がうろついている。
栄光ある司祭ばかり狙う狂える鬼が今まさに誰彼構わず狙いわずに、ただ一点に、司祭を狙い続けている。
「酷い事をするものだ」
私はそう言うしかなかった。
ゾディアックの毒牙にアーレント司祭が巻き込まれないように願うのが関の山。それ以外の手立てが見当たらなかった。
私とてただゾディアックの跳梁を指を咥えて見ているだけなのは歯痒い限りであるが、多くの禍祓いが警備を固め、その中での犯行など行えようか? 。
いや、現にそれを行えている。繍司祭は全身の血を抜かれ、タイニー司祭は首筋にその噛み傷がありありと残っている。
厳重強固な警備体制の中でだ。
どういった手立てがあろうか。針の先の小さな穴に糸を通すよりも困難を極める中でどのようにゾディアックはその毒牙を突き立てんとその凶行を露わにするのか。
「ゾディアックを誘き出せないと意味がない。それこそ、俺たちが司祭に姿を変えて替え玉になるとか?」
シリウスがそう言い。どうだ無理だと言わんばかりに得意げにそして諦めの捨て鉢気味にそう言う。
確かにそうだ。私たち自体がまず司祭に近づけない為に出うることと言えば指を咥えて待つことだ。司祭に近づけないのならば出来るのは無責任な学生の仮面をかぶる事だけだ。
どうすればいいのか、どうすべきなのか。責任という重荷を背負うべき立場ではないのはここにいる全員が重々承知している。
私たちは子供だ、ただの子供。ちょっとばかし魔法を繰る事の出来る子供でしかない。
しかし憧れるモノを奪われるだけのそんな非力で憐れな子供でいる事は我慢がならない。与えられた玩具を無慈悲に奪われて堪るものかと皆がそう思っていると、ふと薫が言った。
「その案、いいですわね」
「は?」
唐突に言うのであるから皆が疑問の声を上げるのも無理はなかった。
「何も知らないで仰ったの? 姿を変えて身代わりになる事なら出来ましてよ」
「ど、どうやって?」
ルーピンがそう聞くので、ぶりっ子ぶった仕草で指先を宙に絵を書いて見せる薫は説明した。
「ポリジュース薬ですわ。かなり強力な魔法薬の一つでなりたい人間の姿に変わる事の出来る薬ですわ」
「そんなものがあるのだな」
「ええ、材料の入手に相当な労力が必要ですけど、ここは天下のヴァルプルギス、ありとあらゆる惚れ薬の材料に混じって様々な魔法薬に必要な材料が取り揃えられていますわ。それを分かっていらっしゃったのでは?」
シリウスの提案はそれこそ天に祈るように実現する確証などない他力本願な戯言であったが、この世に蔓延る魔法界のすそ野が広さときたら私たちの想像をはるかに超えてきている。
私たちは顔を見合わせた。
アーレント司祭を護れるのは私たちだけだ。禍祓いの無能さはこれまでの三件の事件で実証された疑いようのない事実だ。
ならばやれる事はなんだ、やるべき事はなんだ。
「一世一代の大悪戯を仕掛けてみる気にならないか」
ジェームズがそう言い、マローダーズがいやらしく笑う。
綾瀬と薫、リリーは何の事かと疑問であるようだが、私は彼らの流儀を知っている。
人に害成す悪戯をせず、大義を背負った笑わせる悪戯を行い候。
何と馬鹿げた事か。とち狂っていると言われればまさしくその通り、若さ故に成しえる狂気の賜物であるがために『殺人鬼に悪戯を仕掛ける』などという恐ろしく馬鹿げた事を思いついたのだ。
「ミス藤原……だっけ? そのポリジュース薬を作ってくれるってことできないかな?」
「えぇ。構いませんとも。行きずりの仲、無下には扱いませんわ。ただ──」
『ただ?』
マローダーズと私は薫の顔を見て、それを聞いた。
「買い出しに行ってくださいな」
十二単の身重な薫にヴァルプルギスの人でごった返す場を走り回れと言う方が大変な労働であろう。
それも察したうえで私たちはバラバラになり、会場を刻一刻と差し迫る確証のない焦燥感に突き動かせられ、興奮と緊張のただ中に子供のお使いに奔走する。
「クサカゲロウ、満月草、ニワヤナギ、ミャンマー産の十二センチ大のヒル……」
渡されたリストを私は確認して一つ一つ確実に揃えていく。
誰がどれを買うかと言った話し合いをする暇もなくホロ衣カフェを飛び出した私たちは各自バラバラに素材を集めていた。
途轍もない量の魔法薬が出来るのではないかとふと思う。
でもそれはそれでよし、悪戯の道具然り、必要な時に足りないより余るほうがよっぽどましだ。
酒樽一杯の量が出来たのなら私たち五人で回し飲もうとも。
あらかたのモノはもう揃えたが、しかしながらとある二つの素材が不足していた。
毒ツルヘビの皮のベーコンと、
毒ツルヘビは何処にでもいるが皮の加工が非常に困難な事で有名な素材だ。二角獣、要はバイコーンと呼ばれる魔法生物なのだがこれは非常に生息数が少ない事で有名だ。
ただでさえ生息数が少ない為にそれを手に入れる事は双方の素材の入手には困難を極める。
ただでさえバイコーンの角と、ユニコーンもそうだが、その角はよく偽装されて売られていることが多いい。原材料にイッカクの牙をユニコーンまたはバイコーンの角と偽って売られている。
毒ツルヘビのベーコンも、加工のしやすいニシキヘビのベーコンとすり替えられていることが儘ある。
偽物を偽物と見破れるだけの審美眼を持つ必要がある。
──しかしだ。
「どれがどれなのだ……」
私ときたらその手の眼鏡は曇るどころか割れているようであった。
粉は粉だ。ベーコンはベーコンだ。色合い、形の違いはあるだろうがそれ以上でもそれ以下でもないモノたちが立ち並ぶヴァルプルギスの惚れ薬屋の品揃えたるや、まさしく砂浜から一粒の砂粒を拾うような物であった。
杖魔法や魔法動物学にばかり胡坐をかき、語学や魔法薬学を疎かにしているツケが今にして回ってきたのだ。
もう少し勉学に真摯になって向き合っていればよかったと悔いるが時すでに遅しとはこの事である。
微かな違いを正確に見極め、そして売手に騙されないだけの胆力が必要だ。
しかし一介の天狗。百年も生きていない豆天狗にそうそう人を信用するなという方が無理な話なのだ。
「嬢ちゃん。これが二角獣の角の粉末だよ」
薄気味の悪い笑顔で惚れ薬屋の売手が持ってきたのはただの炭の粉であった。
しかしながらそれを偽物と見破れるだけの審美眼のない私はそれをしげしげと見つめて、唸るばかりであった。
「五ガリオンでどうだい? そうそう出回らない品だ、十ガリオンでもいいくらいだよ」
「ぬぅ……半額となれば確かに破格であろうな……」
うんうん唸って半信半疑の私の様子にもう一押しと言わんばかりに言いくるめ様とする売手の姑息さたるや悪徳商人のそれである。
私も私で郭公や美奈子を探して共に買えばいいだけの話なのだがそれを思い浮かべない脳味噌はまさに幼子の思考である。短絡的とでもいうのか一人でも何とか成ると妙な自信と、尊大な矜持が邪魔をして一匹狼的とでもいうべき行動力になっていた。
私もいつまでも店頭で唸り続けるわけにもいかず、これを買おうと声を上げようとした時だった。
「偽物を五ガリオンだって? ボッタくりも程々にしなよ」
鉤鼻で肌色は土気色の不健康そうな青年が私の後ろで嘲笑じみた声で売手に言い放った。
私たちはハッとした顔でその青年を見た。その青年は明らかに見下している。
売手のやり口のそうだが、それを見破れぬ私自身も見下しているようなそんな様子であった。
「君みたいに素材を見る目のない人間が騙されている姿を見ていると、大変気分が悪いし目覚めも悪い。それはただの炭の粉だ」
「ケッ! なんだよなんだよ。商売の邪魔だよ!」
塩でもまき出しそうな勢いで煙たそうに私たち二人を追い払う売手に私はぽかんとしてしまう。
あの様子であるならこの青年が言った事は確かであり私は詐欺に合いかけていたことになる。
「うぬぅ……済まぬな。ぼられる所であった」
「もう少し魔法薬学の勉強をした方がいいじゃないかい。見るからに騙されているのが素人でも分る素材だったよ」
蔑んだような声で青年が言うので私は恥ずかしくなり頭を掻いた。
いやはや全くその通り。私の不勉強の致すところ底知れずだ。
喚き散らして私は天狗であるとこの者に宣言するのもやぶさかではないが、しかしながらそれはまた今度にしようと思う。何せ薫にポリジュース薬を調合するようにと頼みつけて待たせているのだ。
「済まぬな! 主よ。このあたりで毒ツルヘビのベーコンと、二角獣の角の粉末を取り扱っている店は知らぬか!」
この者は相当な魔法薬学の造詣があると見初めた私。この者の雰囲気、気配と言うべきか何処か薫と似たような雰囲気を感じるのだ。
薫は何を隠そう魔法処では竜人に次ぐ魔法薬学の麒麟児である。それと同じ気配となれば分かる事と言えばそっちの方面が強い事であろうと。
青年はどこか訝し気に私を睨んで頭から爪先まで見て静かに言った。
「一ブロック先のテントの方が良心的な値段設定だ。ここは詐欺まがいの者が多いからさっさと行った方がいい。グレップ・ビー・フレッズという薬屋ならその二つを取り扱ってる」
青年はその店のある方向を指差すので私は笑顔で返した。
「そうか! 済まぬな!」
くるっと青年の指差す方へ向き走って向かおうとした時に、青年が聞いてきた。
「その二つの素材を何に使うんだ?」
「ちょっとした悪戯の為に使うのだ!」
人も捨てたモノではない。そう思う私であった。