不思議と、この部屋は居心地が良かった。
金の間の最下層に位置する日本魔法族亢進倶楽部の部室にはごちゃごちゃとゴミとも取れる過去の遺物で埋没している風景に重力の方向が狂ったこの情景に、私は不思議と心地よさすら感じていた。
それはなぜか、深く深くここに来てからずっと考えていた。
ジメジメヌメヌメとした魔法生物がいるからか? それとも小うるさくダダダーンと音を鳴らすセウと高千帆の連弾の賜物か? 違う。
皆が、私を特別扱いしないからだ。
天狗という家系は否が応でも崇拝の対象になりえる。五十六大天狗の序列最下位になる者であっても常人にとっては天上人のそれである。
そして私は五十六大天狗の序列一席の『石槌山法起坊』の娘だ。
クラスメイトも最初は半信半疑だったが、私の羽根を見て見る目が変わった。そう、私を畏れたのだ。
私の気分を害すれば殺されるかもしれないと勝手に悟って、おべっか使いの媚び諂い。
そんな態度に私は心底嫌気がさしている。気兼ねなく接してくれればよかった、それが出来たのはほんの僅かな人間だけ、綾瀬、竜人、薫だけだった。
全生徒が私に恐れをなした、張りぼての神輿を担いでいた。
阿呆で、愚かで、見苦しい。そう口に出すだけでも皆卒倒するだろう。だから胸の奥に仕舞いこんで無理に納得していた。
しかしここではどうだ。
皆が、関係なかった。自分自身しか興味が無いようであった。
大樹は自らの計画が成功すると言って憚らず高説を垂れ、高千帆は演奏をやめない。
吉川は気色の悪い生き物に気持ちの悪い声で笑い、
みんな自分の興味に心身を研ぎ澄ませ、それに向かって研鑽を積もうとしていた。私はそれに感銘を受けていた。
他人を解さず、己を突き詰めていく様は天狗に通ずる。
天狗の涅槃の道のりとは即ち自らを見つめて解脱を求めることと外ならず、この姿が真に涅槃への道のりと言えるのかと言えば結論としては違う。相反する両方の姿が混在してて目的もあやふやに自らが満たされていく様こそ混沌と言える。
その混沌こそ私が真に欲した知的好奇心の源であり、研究という大義名分を背負ったごろ寝の様に他ならない。
これぞ人間、これぞ力を欲する愚かしき全盛期の天狗の様の事この上ない。
心地が良い、何とも居心地の良い部屋だろうか。
エンマ荘の自室も過ごし易いが如何せん暇を持て余す、しかしここは学校、私の理解の外にいる生き物たちが混在する場所であるからに暇がない。
「吉川! いい加減にその気持ち悪い茸始末しろよ。こっちの食欲がなくなる」
「茸じゃねえし、菌類じゃねえし。無脊椎多触毛軟体タコ目だし」
「よく噛まずに言えますね」
部室でワイワイと騒ぎながら、皆が用意していたのはなんと夕餉の準備であった。
火気厳禁の鯉の上り回廊で炊き出しをやるのは一苦労であるが、しかしながら私たちは魔法使いだ。火を使わずに熱することなど容易で、水の満ちた鍋に杖をこつんと叩けばお湯が沸き、空を撫でれば一人でに包丁が振るわれ野菜を切る。
エンマ荘の外での初めての夕餉はなんと──何の変哲もない牛丼であった。
ここには何でもしてくれる山姥はいない、風呂もない。水は出るが炊事場のような利便性はない。
ならばどうなるか。まさしく巷で言われ始めた
ありあわせの道具に貧相な毛布に包まって皆、寝食を共にしていると言う。
金のある部活は寝袋や豪勢な食事をしていると聞き及ぶが、しかしながらこの部活は底辺を走って恥じない極貧倶楽部、食材と毛布があるだけましなのだと言う。
天井があり吉川の飼うヌメヌメジメジメとした生き物のおかげで寒さに震えないのでこれ幸いと皆が開放的であるのは気のせいか。
何ともまあ、
まさしく不届き、敬意とは何ぞやと寝転がって放屁する阿呆のそれだ。
そんな不届き共の吹き溜まりで同じ飯を喰らう私も当然のように、不届き者である。
釈迦に向かって唾を吐き正道を踏み外した天狗の一族だ。この程度がちょうど居心地の良いのだろう。
黄色に黄ばんだプラスティックの丼に山のように注がれた米に牛丼の具を掛けその上からさらに汁をかけて丼の底が牛丼出汁で沈んでいる。
この位がちょうどいい私はニッとセウに笑って見せる。セウも笑って使い慣れない箸を拙い手つきで使って牛丼を食べていた。
極貧万歳。それでも私たちは生きている。
ゴキブリ根性のことこの上ない意地汚さで、みんな食うことに必死になっている。
何せこの夜の食事が、エンマ荘に帰らない生徒の一日での唯一の食事であり、昼の弁当も用意するに能のない家事能力皆無の連中ばかりで、試行錯誤の末に牛丼を作っているのだから正しくこれを食えていることが奇跡なのだ。
「まともに食えるモノを作れるって、魔法を使えるくらいに奇蹟だよな」
大樹はそう言って憚らなかった。
私はそこまでく詳しく本格的な料理は出来ないまでも
しかしだ、ここにいる日本魔法族亢進倶楽部の連中ときたら料理の『り』の字も理解していなかった。
大樹は火加減というモノを知らずとにかく食材を炭に変え、
結果としてこの牛丼の殆どを作ったのは私であったが、
そうでなければこの者たち日頃いったい何を口にしているのか怪しくなる。
そこらに生えている気味の悪いあの茸や、虫すら口にしている可能性もある。ゾッとする。
「石槌さんがこの倶楽部に入ってくれれば、食事には苦労しませんね」
目を輝かせて男子共もそう願っているように頷いている。
そう煽てられると入ってやることもやぶさかではないが、しかしながら豚もおだてりゃ木に登る同じようにひと時の気持ちでここに居座るのはどうだろうか。
よく考えろ、風呂もない、布団は粗末な毛布とハンモック、便所はあるが野クソ同然の汚い和式便所。
「ん?」
よく考えれば考えるほど、
風呂がないのは当たり前だ、布団もない、野クソは当然。吹きさらしの山中で寝たて悪獣に怯えて火を絶やさないようにしたり、寒さに震える事もない。
天と地の差があった。
地を這う様な地獄を知っているとどれだけ極貧の生活を目にしてもマシに見えてしまうのが弊害か。
エンマ荘の最上の極楽に比べれば確かに差があるが、しかしながらここは巡業のそれと比べれば過分に良い。
どうしたものか、これはまったく以て由々しき事態だ。
私としても部活という未知の行動に興味を抱くが己のやりたいことを今一に理解していない。
魔法の研究も大事だが、天狗本来の涅槃への試みも試さなくてはならない。
「んんっ! 自由最高!」
吉川はそう言って牛丼を胃に流し込んで大欠伸をする。
食って寝るばかりの彼女は健康優良な子供であることは言うまでもないが、確かにこの時間帯、体内時間でもう夜中に差し掛かっていることも考えれば確かに眠たくなる時間帯だった。
皆が早々に餓鬼の如く牛丼を貪って食う姿は哀れで惨めであったが、そんな事はさて置き洗い物も部室の端に追いやって皆が寝支度を始めていた。
それぞれがそれぞれに、自分の定置のハンモックを吊るした中に潜り込んで行った。
照明も落とされ私とセウに雑に渡された布切れで好きな場所に寝床を作れと言う大樹に、え? と聞き直そうとするが瞬く間にいびきを掻き始めて話にならない。
私とセウは顔を見合わせて手頃な場所を見繕おうと四苦八苦する、それもその筈で重力の位置がバラバラである為にどっちに向いて寝るのかも定かではない。
寝返りを打って床や壁、天井に激突する危険性もあるし慎重に寝場所を探し回った。
セウは板張りの戸棚の隙間が気に入ったらしくそこに寝入り、私はくしゃくしゃの古紙のゴミ山を陣取った。
布切れを敷いて、寝転がれば不思議とそこは極楽。いつでも瞬時に眠れそうであった。
うつらうつらと現と夢を行ったり来たり。
今日は実りのある一日であったと心の中からそう思い意識を手放そうとした時だった。
かさかさと足元の方で音が聞こえるではないか。
何の音かと思いながら寝返りを打つとまたかさかさと音が聞こえる。
古紙の擦れる音だろうとそう思い薄目を開けて何事かと周囲を見渡すと、薄暗い部室の中でたった一つ机の上に置かれたカンテラの光で淡く周囲を照らしている部室の中でちらりと妙なものが見えた。
気のせいだと思い私は目を閉じて寝返りを再度打つ。
「んー」
蒸し暑いせいか、寝苦しい。
真夏の夜の中で寝ているようで蚊が飛んでこないか少し心配になってくるが、それ以上のものが実際は足先まで来ていた。
足先が冷たい。ひんやりとして気持ちいと思った時だった。
体全体に重みを感じて私は跳ね起きた。その瞬間、目の前が一瞬にして黒く染まった。
何かが私の体の全部に絡まって来ているようで身動きが取れない。
その何かが私の顔の穴という穴を塞いで息が出来ない。まるで濡れタオルでも押し付けられているかのように冷たくそして生々しいほどの瑞々しい布のような感触に、悲鳴が漏れそうになった。
しかし口を開けば、それが押し入って来て悲鳴も出ない。
体を振るわせて振り解こうとしても無駄だった。
なんだ、何が起こっている。それすらも理解できない。
その瞬間だった。
「
白銀の閃光が私の視界を支配して、それが引き剥がされた。
何事かと皆が飛び起きて、カンテラの光が一斉に私を照らし出した。
スルスルと空を舞うそれは黒い布のようなモノと、白銀の九尾の狐が空中で戦っているではないか。
黒く禍々しい布は私はすぐに理解できたあまり宜しくないモノで私を襲った物であると、物というより生き物の様で自在にその布状の体をくねらせている。
対する白銀の九尾の狐は明らかに魔法であった。しかも相当に高度な魔法だ。
今迄あのような美しい魔法は見た事がない。命を持ったように黒い布を打ち負かし、どこかへ誘導しているようで、誘導先には。
「たく……どこから湧いて出たんだか……」
竜人がいた。
白銀の九尾の狐が黒い布を鉄製の箱に押し込んで、バンっと力強く閉めた竜人は素早くその箱を施錠した。
何が何やら混乱で頭の中がグチャグチャだった。
黒い布の事もそうだし、あの九尾の狐も、竜人がこの場にいる事も。
「無事か」
ぶっきらぼうにそう聞いてくる竜人にポカンとした私は首だけ縦に振って答えた。
「レシフォールド。“生ける経帷子”とかって呼ばれる危険な肉食魔法生物だ」
「おいなんだ! 俺の部室で何暴れてやがる!」
大樹は寝ぼけ眼で寝袋から這い出てきて足取りがおぼついていない。
皆唐突に起こった事態に何事かと顔を覗かせている。
私もそのことに関しては、当事者でる竜人に詳しく聞きたかった。
いや、問い詰めたかった。
竜人はガタガタと暴れる箱を抱えて、素知らぬ顔であった。
「いないはずの、危険な魔法生物が入り込んでたのを見つけたんだ」
「それでなんでこの部室なのだ?」
「レシフォールドは僅かな隙間でがあればどこにでも入り込める。第一にレシフォールドは闇に属する魔法生物だ。『不浄』が、穢れや澱みの集まりやすい天岩戸の隣の部屋出るここに吸い寄せられたんだろうよ」
「それでなぜ私が襲われるのだ」
「それこそレシフォールドの気分次第だ。手頃な位置で寝てたお前が悪い」
箱を背負ってぶっきら棒に言う竜人はどこか焦った様子であった。
白銀の九尾の狐が竜人の隣に座って、コーンと一鳴きした様子で霧の霞の如く霧散していった。
何と美しい魔法か。襲われた恐怖よりもその美麗さに心を奪われた私はそちらに惚けていた。
部室を出て行った竜人の残した奇妙な空気感に皆が恐れるように、困惑したようにまた眠りについた。
レシフォールド、白銀の九尾の狐。今宵は様々な事が起き過ぎだ。
私もまた床についたときには手早くその意識を手放していた。