本当に驚いた時、人間は悲鳴さえ上げられないのだと、私は初めて知った。
「ッ――」
衝撃で頭がジンとする。今、目の前で起きている筈のことが、現実感を失う。
私の腕を鷲掴みにする、節くれだった手。
その持ち主が、ロレッタちゃんを脇へ押しのけて我が家へと上がり込む。
「こんな時間に悪いなぁ。お嬢ちゃんたち」
現れたのは中年の男性だ。
背が高く、筋肉質で、でもお腹周りはでっぷりと肥えていて。ようするに大きくて威圧感がある体つき。
街でよく見かけるような平凡な顔立ちでありながら、その目つきはどこか陰惨で、あざ笑うかのような口許と共に、ひどく残忍な印象を与える。
「ひッ――」
「
大男に腕を掴まれ、怯える私。するとクレムさんが直ぐに駆けつけ、大喝する。
「おおっと、こいつは失礼! でも、あんまり大きな声だしちゃ駄目だぜ。近所迷惑だろう?」
男性は私からすぐに手を離すが、クレムさんの怒声には悪びれた様子もなくそう
「断りもなく住居に入り込み、婦女子に狼藉を働くなど、許される行いではありません」
まだパニックから立ち直れない私を庇うように、クレムが前に出る。
すごい。この子、なんでこんな熊みたいな人に物怖じせずに立ち向かえるんだろう。
「おいおい。別に君らの家でもないだろう。流れ者の貧民に法を説かれたってなぁ」
けれど、男性はにやにやと薄笑いを浮かべて私たちを揶揄する。……どう見ても、まともな人じゃない。
「あなたは何者ですか。名を名乗りなさい」
クレムが氷のような声音で詰問する。その横顔は凛と張りつめて、まるで別人みたい。でも、友達の頼もしい姿に、私もようやく感情が落ち着いてくる。
「名乗るほどの者じゃないさ。ただ、うちのガキどもが世話になってるみたいだから、遅まきながら挨拶に寄らせてもらったんだ」
すると、大男が嘲るように来意を告げる。
――この人、呼び売りの親方だ。メル君やロレッタちゃんから上前を撥ね、足りなければ折檻する、裏社会の商売人。
「……なるほど。確かに、先にあなたに話を通すべきでしたね。それはこちらの落ち度でしょう。わざわざの訪問、痛み入ります」
クレムは刃物のような緊張感を纏ったまま、呼び売り親方にそう話しかける。彼女、相手の威圧にまったく怯んでいない。
「あなた方の所轄で仕事を始める以上は、従うべき法がある。――それは認めましょう」
凛然とクレムが言い放つ。
「おそらくみかじめ料の徴収に来たのだろう。……毅然と対応し、払うものを払えば、穏便に済ませられるかもしれん。大丈夫だ、ナオ。気を落ち着けてくれ」
ミリーさんが怯える私に寄り添い、そう教えてくれる。
「改めてお尋ねします。ご用件はなんでしょうか。……こちらもなるべく、誠意をもって応じたいと思います」
威風さえ感じさせる立ち姿で、クレムは呼び売り親方に真っ向から告げる。すると、
「いや、大したもんだ。ちょっと脅しつけたぐらいじゃ効かないか。やっぱりどんな商いでも、成功するには胆力が必要だよなぁ」
彼は小馬鹿にした風に笑う。そして、
「けどな、こっちはそんな安い話で来たわけじゃねえんだ。――あんたらが持ってる、光るスプーンについて教えて貰おうか」
先ほどまでの態度が遊びだったかのような、冷酷な声でそう告げた。
私はその恫喝に衝撃を受ける――暇もなく、次に起こった光景に目を奪われた。
「――え?」
ぱん、と乾いた音。
眼前にいたクレムの姿が、一瞬ぶれたように見える。
すると、まるで糸の切れたように人形のように、呼び売り親方が腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「え、――え?」
なんで、この人いきなり倒れたの? さっきの音、ひょっとしてクレムが殴ったの?
訳も分からず立ち尽くす私の手を、クレムが掴む。そして、
「この場から離れましょう! 急いでッ!」
かつてないほど緊迫した表情で、そう叫んだ。
「ミリー様!」
「分かった」
私たちの横を、幽霊少女が駆けていく。壁をすり抜け、最短距離で外へ。そして十秒も経たないうちに戻ってきて、
「すでにかなりの人数に囲まれている。だが東側の路地の見張りは一人だけだ」
「承知しました」
クレムとそう言葉を交わす。
「なっ――なにが……」
「問答は後です。――ナオ。私を信じて」
そして私は彼女に手を引かれ、暗闇の路地へと飛び出す。途端に、
「おい出てきたぞ。逃げるつもりだ!」
と、闇の向こうから男の人の声。
「ッ――」
クレムの青い瞳が鋭く光る。ミリーさんは周囲を見渡し、端的に状況を説明する。
「ナオ! 頑張ってください、走って!」
その場から動けなくなってしまった私を、クレムが悲痛な声で励ます。
「ち、ちが、違うの、ロレッタちゃんが……」
私の歩みを止めたのは、マネキンのように路地に立ち尽くす女の子だ。
状況なんてさっぱり分からない。けど、こんなに恐ろしい人たちと彼女を一緒にさせられない。私は反射的に呼び売り少女へ駆け寄ろうとする。だが、
「ひっ――」
ようやく私に気付いたかのように、ロレッタちゃんが振り返る。その瞳は虚ろで、あどけない顔には感情の欠片さえ浮かばない。
そして彼女は、先ほどと同じように、手を伸ばして私を指差した。
「な、な……」
「彼女は尋常の様子ではない! 聞き分けてくれナオ!」
ミリーさんが叫ぶ。恐慌に駆られた私は、すぐには答えることもできない。
「身柄を押さえろ。怪我させるなよ!」
そうこうしている間に、路地の向こうから屈強な男たちが近づいてくる。
「ふっ――」
軽やかな呼吸音と共に、クレムの姿が朧のようにぼやける。
濡れ手拭いを
「な――うわ、きゃ!」
そして驚く間もなく、私はクレムに無理矢理手を引かれて駆けだした。
× × ×
「いったい、何がどうなって……」
夜の貧民街を全速力で走りながら、私は泣きごとのようにそう溢す。
どうしてこうなったのか分からない。さっきまで、楽しく夜のひとときを過ごしていたのに。なんで怖い人たちに追いかけ回されているのか。
「駄目だ。回り込まれている。このままだと鉢合わせするぞ!」
「迂回します!」
「きゃっ」
クレムに手を引かれ、私は脇道へと引っ張り込まれる。
私も懸命に走るけど、彼女の足が速すぎて、引きずり回されるような感じになっている。いや、それでも彼女はきっと、私の速度に合わせてくれているのだろう。繋いだ手からは、決して離さないとの意思を感じる。
「二つ先の角に三人! 次の路地を左に曲がれ! 貧民街を抜ければ、連中とて無茶はできない!」
ミリーさんは幽霊の身軽さを生かして、先々の状況を偵察してくれる。私たちは彼女の誘導に従って、なんとか追っ手を撒こうとする。けれど、
「不味いな……主だった結節点は全て抑えられているようだ」
幽霊少女が苦々しげに呟く。貧民街の広場のほとんどに、怖い人たちがいるらしい。……いったい何人に狙われてるっていうの?
「一旦どこかに身を隠します。追跡を振り切りましょう」
クレムは萎えない気力でそう告げる。確かに、私たちの周りからは男の人たちの怒声と足音がひっきりなしに聞こえてくる。このままじゃいずれ見つかっちゃう。
「わかった。直ぐに調べる」
ミリーさんがそう言って、周囲の民家に入り込んだ。私は壁にもたれかかり、荒れた息を懸命に調える。
心臓は破れんばかりに鼓動を打って、汗が止めどなく噴き出す。でも、体はずっと恐怖に震えていて、暑いんだか寒いんだかも分からない。
「……平気ですよナオ。きっと、私とミリー様が御守りしますから」
混乱の渦中にある私に、クレムがそう語りかける。
「え――」
顔を上げて見れば、彼女はいつもの暖かで優しい微笑みを浮かべている。さっきまでの、凛々しく毅然とした表情とは、まったく別人みたい。
「う、うん。私、頑張るよ」
親友に励まされ、私も少しは落ち着きを取り戻す。でも、
「――すまない。近くに身を潜められそうな空き家は見つからなかった」
と、戻ってきたミリーさんが苦しげにそう報告する。
「ッ……」
クレムもすぐに真剣な表情に戻る。
「あ、ど、どこかのお家に匿ってもらえないかな」
私がそう提案すると、二人は揃って首を振る。
「これだけの騒ぎにも関わらず、住人は誰も出てこないだろう。みな関わり合いになるのを恐れているのだ。こちらから転がりこめば、間違いなく突き出されるぞ」
そうミリーさんが説明してくれる。
「おい、居たか!?」
「くそ、何処に行きやがった! 逃がしたらラーナーさんに殺されるぞ」
相談している間にも、遠く近くから男の人たちの声が聞こえる。貧民街は真っ暗で迷路みたいに入り組んでいるけど、このままだといずれは見つかってしまう。
焦燥がじわじわと脳を蝕んでいく。でも、クレムとミリーさんはまったく諦めず、冷静に善後策を協議してる。その時、
「おい! 姉ちゃんたち! こっちこっち!」
闇の中から、声量を絞った呼び声が聞こえる。
周りで飛び交う男性たちのそれとは違う、明らかな子供の声。
驚いて出所を探ると、狭い路地の角から少年が手招きしている。
そこには、呼び売り少年のメル君がいた。だが、
「そ、その顔どうしたの!?」
私は一瞬、彼が誰だか判別することができなかった。闇の中に垣間見える少年の顔は、左半分が痛ましく腫れ上がっていたからだ。