メル君の誘導に従い、私たちは貧民街の片隅にある小屋に逃げ込むことができた。
「……付近に人影はない。だが、連中はまだ執拗に捜索を続けている。しばらくは動かない方がいいだろう。もう少し周囲を見てくる」
「わかりました」
「うん? どうしたの?」
呼び売り少年が案内してくれたのは、街路を清掃するための掃除用具が納められた物置小屋だ。
ただし、誰かが管理している訳でも無さそうで、狭い小屋には、粗大ごみのような物が雑然と押し込まれており、私たち三人は座ることもできない。
メル君は貧民街で寝泊まりしていたこともあり、隠れ家としてこの小屋を使っていたらしい。滅多に人が通らないし、そもそも意識から抜け落ちる建物だから、今まで誰にも見つかったことはないらしい。
「ありがとうございます。お蔭で助かりました」
と、クレムが一切の警戒を解かないまま、硬い声で礼を述べる。
私はまだ精神が昂ぶっていて、まともに言葉も喋れない。
「……うん。間に合ってよかったよ」
メル君も事態の深刻さを
「そのお顔は、どうなされたのですか」
クレムがそう尋ねる。本人にその気はないのだろうけど、真剣過ぎて威圧するような雰囲気になっている。普段の私なら執り成しているところだけど、まだ頭がちゃんと働かない。
「…………ごめん。姉ちゃんたちが追われてるの、たぶん俺の所為かもしんない」
すると、メル君が罪悪感を滲ませてそう呟く。
そうして、彼は知り得る限りの事情を説明してくれた。
――ことの起こりは、昼過ぎにまでさかのぼる。
いつも通り街で商品を売りさばいていた彼は、同僚のロレッタちゃんと遭遇したそうだ。
彼女は全然荷が捌けておらず、このままでは大損になってしまうと、二人して方々を売り歩いたのだが、その折に不思議な話を聞かされる。
――曰く、ナオ姉さまが光るスプーンを持っていた。と。
「~~~~ッ!!」
その話を耳にした瞬間、私の顔から音を立てて血の気が引いた。
私だ。この騒動を引き起こしたのは私の自業自得だ。
ロレッタちゃんにレモネードを淹れた時、私はいつもの癖でシロップ壺に挿したスプーンをそのまま使った。
なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう。あれだけミリーさんに気を付けるよう言われていたのに、私は他人の前で
「それで、事務所に帰ってもその話をしてたら、偶然居合わせた親方が血相を変えて……」
少年たちとは異なり、親方はその現象の意味を正しく理解したに違いない。
そして、上司や
「ごめん、ごめんよう姉ちゃん。でも俺、絶対喋らなかったんだぜ。……けど、親方にぶん殴られて気を失って、目が覚めたら周りに誰もいなくて、それで慌てて姉ちゃんたちに報せようと思って……」
語り続けるメル君の声が、涙で掠れる。
「違う、違うよ……」
私は喉から声を絞り出し、必死に少年の罪を否定する。
「私が悪いんだ。私の所為で、あなたも、ロレッタちゃんも酷い目に……」
「――姉ちゃん、ロレッタがどこ行ったか知ってるの!? 酷い目にあったって……くそ、あのデブ親父ッ!!」
私の呟きに、メル君が反応する。
あの呼び売り少女は今どうしているのだろうか。どうみてもあの子は自我を失っていた。暗示でも掛けられたのか、あるいは薬物でも使われたのだろうか。
怪我をしていた様子はないけれど、下手をすればそれより酷い。後遺症とか残ったりしたらどうしよう。
「う――」
鉛でも詰まったかのように頭が重い。ひっくり返りそうな程に胃が痛い。
私はもう、自責の念に押し潰されそうだ。
「どういった経緯であれ、まず咎められるべきは略取を企てた者たちです」
すると、クレムが凛然とそう告げる。
「確かに、みだりに富を見せびらかせば、誰かに悪心を抱かせるやもしれません。ですが、それを奪おうとした人間より罪深いことがありえましょうか」
真っ暗闇を通して、彼女の気遣いが伝わる。
「今は、目の前の事だけを考えてください。全ては危局を脱してからです」
クレムが力強い語気で、私をそう励ます。すると、
「実際問題、状況は加速度的に悪くなっている。早急に手を打つべきだろう」
小屋に新たな声が。偵察に出ていたミリーさんが戻ってきたのだ。
「追っ手はラーナー一家の手の者だ。呼び売り親方が構成員だったらしい」
ミリーさんは小屋の外を見張りながら、声だけで会話に参加する。
「連中、諦めるつもりは毛頭ないようだ。貧民街の出口を抑え、民家を片端から調べて回っている。ここはしばらく安全だろうが、夜明けまではもたないだろう」
「包囲の詳細は?」
「貧民街の東と南を封鎖し、東から虱潰しだ。人数も続々と増えている。……流石に警備隊も動いているが、まだ押し問答をしている段階だ。どちらにせよ、彼らにラーナー一家と事を構える気があるかは疑問だが」
「西には市壁がありますし、逃げるとすれば北ですね。橋は見張られているでしょうが、いざとなればエネト川を泳いで渡りましょう」
「え? さっきから誰と話してんの?」
クレムとミリーさんが小声で作戦会議をする。メル君が困惑しているが、流石に説明している余裕はない。
「機会を窺い、一気に北上します。サレス区さえ抜けることができれば、当座の危機は脱せる筈です」
「妥当だな。その後はどうする?」
すっかり萎縮してしまった私は、二人の会話に耳を傾けることしかできない。
「……やはり、教会をお頼りするしかないでしょう」
「そうなるか。……やむを得ないな」
二人は街からの脱出方法、延いてはその後の身の振り方まで話を詰める。
なら、まず頼るべきは治安組織なのだろうけど、市の警備隊は評判が悪いことで有名だ。私たちは流れ者だし、暴力団との軋轢をおそれて、下手をすれば身柄を売られかねないとのこと。
直接、王宮や貴族の家に助けを求めるという手段もあるけど、手元に
この街の有力者で、個人的な繋がりがあるのは大聖堂のケンプ様だけだ。
世間的な建前はともかく、あのお爺さんは私やクレムに同情的だったし、事情を話せば保護してもらえるかもしれない。
「でも……そうしたら」
私はおずおずと口を開く。
頑なに教会を頼ろうとしなかったのは、クレムと離れ離れになりたくなかったからだ。
仮に教会に助けてもらっても、処刑人の娘の彼女と、
「致し方ありません。……私はナオが、友達が無事でいてくれるなら、それだけで心から幸せです」
クレムが私の手をそっと握る。ほのかな温もりが、恐怖に凍えた体に染み入る。
「……でも、でも、ホントにそれでいいのかな」
けれど、私はその話を承服できず、子供のように嫌々をする。
「え?」
「だって、それじゃあ私、何にも返せてない。――メル君に、ロレッタちゃんに迷惑かけて、クレムやミリーさんに全部おっ被せて、それで私だけ助かるなんて……」
言葉をつかえさせながら、私は胸の内を語る。
異世界にやってきた私は、たくさんの人に迷惑を掛けた。
食べる物も着る物もなくて、ぜんぶ人から恵んでもらってばかりで。
でも、それだけの善意を受けたのに、誰にもお返しする事もなく、面倒を押し付けて逃げるなんて、そんな真似をして、ホントにいいんだろうか。
そんなことを考えられるような状況じゃないし、現実的な手段なんて限られてるのも理解している。
けれど、私の胸の奥底で、他ならぬ私自身が問いかけるのだ。
――ここで逃げて、いいのか。
何もかも捨てて、ただ安寧を買って、それで私は、自分を許せるのだろうか。
脳裏に響く、鈴の音。逃れられぬ過去が、私の心を締め付ける。
私はもう二度と、後悔したくないのに。
「ナオ……」
クレムが心配気な吐息を漏らす。手を握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
「それもこれも、追っ手を撒いてからだ。彼らに捕まってしまえば、一切の自由は奪われてしまう」
心情を吐露する私を、ミリーさんが冷静に諭す。
確かに彼女の言う通りだ。まずは逃げ延びないと、思い悩むこともできない。
「うん。ごめん。……ちょっと変になっちゃってた。今はとにかく、頑張って逃げよう」
私は何とか勇気を奮い立たせ、気力を取り戻す。
奇妙な笛の音が聞こえてきたのは、その時だった。
× × ×
「いったい何の合図だ。……気を付けろ。連中が動きを変えるやもしれん」
「う、うん――」
ミリーさんの警告に、私は緊張に唾を呑み込む。
深閑とした夜の貧民街に響く、笛の音。
それだけでも十分気味が悪いのに、さらに奇妙なのは、旋律が嫌に陽気なことだ。
「なんでこんな楽しそうな……これ、行進曲?」
私は石壁の向こうから聞こえてくる笛の音に、思わず顔を
奏でられているのは、運動会でよく流れるような明るく楽しげなマーチだ。笛の音色だけだから賑やかさにはどうしても欠けるけど、旋律はことさら愉快で、思わず聞き入ってしまう程上手で、それがかえって異常さを際立たせている。
「分からない。普通に考えれば仲間への符丁だろうが、こちらを威圧する意図でもあるのだろうか」
ミリーさんが苦々しげに呟く。
確かに、屈強な男性たちに追い回されている私からすれば、嫌味を通り越して恐怖を感じるような選曲だ。
「やはり気になるな。今一度連中の動きを見てこよう。クレム。ナオたちを頼む」
「…………」
ラーナー一家の出方を探ろうとするミリーさんに、しかしクレムは無言。
あれ、そう言えば、いつの間にか彼女は私の手を放している。
「クレム?」
「え、ちょ、ちょっとどうしたの!?」
彼女の様子を
「な、なにを考えている!?」
冷静沈着な幽霊少女も思わず叫ぶ。
何と、クレムは私たちが隠れている小屋の戸を開け放ち、路地へと身を晒したのだ。
「隠れてないと危ないよ! いきなりどうし――」
私は慌てて彼女を引きとめようとして、その顔貌を目の当たりにして絶句する。
「…………」
クレムの青い瞳には、何も映っていなかった。
あれほど美人で、凛々しく、そして優しいあの子の顔から、一切の感情が抜け落ちている。その顔はまるでマネキンのようで――そこで私は既視感に囚われた。
「め、メル君までっ!」
クレムに続くように、呼び売り少年も路地へと出てくる。
生意気盛りの少年の腫れあがった顔からも、意思の光が消えている。
「こ、これって……」
生気を失った彼女たちの姿を、私は知っている。
我が家を訪ねてきたロレッタちゃんが、正に同じような状態ではなかったか。
「止まってクレム! どこ行こうって言うの!?」
夢遊病患者のように歩を進める親友を止めようと、私は必死に声を掛ける。
けれど、無視されるどころか聞こえているような気配すらない。
「っ――」
たまらず私はクレムにしがみ付くが、彼女は私を軽々と引きずって歩き続ける。駄目だ。力が違い過ぎる。
「ナオ、周りを見ろ!」
ミリーさんが叫ぶ。
私は言われるままに首を巡らし、そして今度こそ息を呑んだ。
「な――」
夜の貧民街に、次々と人影が現れる。
私たちを追いかけていた裏社会の人じゃない。老若男女を問わない人の群れは、この貧民街の住人だ。
彼らは一様に生気の失せた顔で、石畳を踏みしめてどこかへ向かう。
いや、どこかじゃない。彼らは明らかに笛の音色に引き寄せられている。
「――
「うそ……」
端正な顔に焦燥の色を浮かべ、ミリーさんが呟く。
私はもう、呆然と呟くしかなかった。
路地に溢れだす人の群れ。まるでゾンビ映画の中にでも入り込んだようなその光景が、魔法のアイテムによって引き起こされたなんて。
「そんな! じゃ、じゃあどうすればッ」
「とにかくクレムに声を掛け続けろ! 叩いても構わない。正気を取り戻させるんだ!」
ミリーさんは私にそう告げ、ぱっと目の前から姿を消す。
きっと人々の向かう先、笛の持ち主を確認しに行ったのだろう。
「クレム! ねえクレム! 目を覚ましてっ! そっちに行っちゃ駄目だよ!」
私は声の限り叫び、彼女の身体を力いっぱい揺さぶる。
けれど、フード姿の少女は私を無視して歩み続ける。
「ッ……」
叩こうか、或いは足にしがみ付いてでも引き留めようかと考えたけど、それでもし彼女が怪我をしてしまったらと思うと、躊躇してしまう。
「あ、メル君待って!」
私に足止めされなかったメル君は、もう先行く人波に紛れてしまった。
「お願いだから目を覚ましてッ!」
私は親友の耳元で、悲鳴にも似た絶叫を上げる。
――笛の音がピタリと止まったのは、次の瞬間だった。
「不味い! ここから離れろナオ!」
けれど、私は彫刻のように立ち尽くすクレムに取り縋り、身動きすることができない。
路地の向こうから、複数の明かりが近づいてくる。
「あ――う――」
路地に立つ貧民街の人々を、まるで荷物でも扱うかのように乱雑に押しのけ、男の人たちが現れた。
屈強な男性たちは、ラーナー一家の手の者だ。しかし、彼らの顔からも、理性の光は消え失せている。
「「魔笛」を耳にしてなお正気を保っている。間違いない、お前が
そして男たちの群れから姿を現したのは、横笛を手にした不気味な男だった。
× × ×
鬼火のようなランタンの群れに照らされた男の姿は、あからさまに異様だった。
星明りさえ拒むかのような漆黒の広つば帽を被り、身に纏うのは同じく闇のような外套。無精ひげの浮いた口元には皺が寄り、年齢はそれなりに髙そうに見えるが、目元を
枯れ木のような長身痩躯に、手入れの行き届いていない長髪。
まるで絵本の中から出てきた悪魔のような見た目なのに、手にした笛だけが美しく輝いている。
超常現象を引き起こす、光る物品。
間違いない。あの笛がクレムたちを操った
「ぁ……」
でも、それが分かったところで、私にはどうすることもできなかった。
クレムは相変わらず目を覚まさない。ミリーさんが必死に逃げるよう促しているが、この子を置いていくなんてできない。
そして恐怖に恐れおののく私を尻目に、黒衣の男がゆっくりと手を伸ばす。
「
「あ、ちょ、クレム!」
黒衣の男がそう告げると、クレムは縋り付く私を振り払うように歩き始めた。
彼女の背中を追いかけようとすると、それを阻むかのように、屈強な男たちが近づいてくる。
「やめ、離して、離せッ!」
男たちは虚ろな表情で、それでも丸太のような腕を伸ばして私を掴む。
必死に身を捩り、叫び、力の限り抵抗するも、私は手足を縛りあげられてしまう。
「クレ――むぐぅ!」
のみならず、男たちは私に猿轡を噛ませ、厳重に目隠しまで施す。
私はそれでも諦めずに暴れ続け、担ぎ上げようとする手から逃れる。
無様に石畳の上に転がり、芋虫のような姿になっても、彼らには絶対屈しない。けれど、
「げ――」
私のお腹に、突如として鈍器で殴られたような激痛が走る。
込み上げる嘔吐感。せり上がった胃酸が喉を焼く。
猿轡の隙間から反吐を吐き、私は訳も分からないまま意識を失った。