悪夢を沢山見た気がする。思い出したくも無い嫌な記憶や、起こるかどうか分からない未来の恐怖まで、不愉快な話がミックスになって、延々目の前で流れ続けたような。
「う……」
おまけに今度は騒音だ。子供の悲鳴のような甲高いノイズが、耳元で止まることなく鳴っている。一体誰が、何でそんなに泣いているのだろう。
「――ッ!!」
数瞬の
気を失う直前の光景を思い出すと、恐怖と焦燥で心臓が早鐘を打つ。すると、
「ナオ! ナオッ!! ああっよかった、よかった……」
視界いっぱいに移り込む、悲痛な少女の顔。
必死の形相で呼びかけていたのは、幽霊少女のミリーさんだ。
「え……ミリー、さん?」
「腹はまだ痛むか? 吐き気やめまいはないか? 私のことはちゃんと見えているか?」
神様が
涙こそ流していないけれど、彼女は確かに泣いていた。
幼い風貌だけれど、とても大人びていて、滅多に感情を面に表さないミリーさんが、大粒の涙を溢さんばかりに取り乱し、私に縋りついている。
そんな彼女の姿に呆気にとられているうちに、なぜか私の胸の恐怖が薄れていく。
知らずと間に、私はミリーさんを抱きしめようとしていた。自分の置かれた状況なんて頭に無くて、とにかく彼女を慰めたいと思ったからだ。でも――
「ッ――」
身動ぎした私は、自分が無様に敷物の上を転がっていることに気付く。
目隠しと猿轡は外されていたが、私の手足はいまだに縛られたままだ。
「無理に動くな。――それに、私との会話にも気を付けろ。……監視者がいる」
ひとまず私が無事なことを確認すると、ミリーさんはすぐにいつもの冷静さを取り戻す。
首を捻って辺りを見れば、私が寝かされていたのは豪奢な室内だった。
惜しげも無く並べられたランプに照らされた部屋は学校の教室よりも広くて、
壁一面の本棚や、ピカピカに磨かれた執務机。それに応接セットと、何処か偉い人の事務所みたいな感じだ。
私が寝かされている場所も、毛足の長い高そうな絨毯が敷かれている。
でも、部屋の隅っこで、出入り口まではかなり遠い。そして、
「やっと目が覚めたか。面倒を掛けさせやがって……」
部屋の内装とは明らかに不釣り合いな、粗暴でねちっこい男の声がする。
私の視線の先、扉を塞ぐように立っていたのは、忘れもしない。我が家を踏み荒らした呼び売りの親方だ。
「――あなたっ!」
「落ち着けナオ! むやみに刺激するな!」
反射で罵声を浴びせそうになる私を、ミリーさんが窘める。
急いで口を紡ぐ私に、呼び売り親方は威圧するようにのしのしと距離を詰めてくる。
「お前の所為で上を下への大騒ぎだ。この責任、どう取ってくれるんだ? ああ?」
「ッ……」
私は怯えた振りをしながら――振りではないけど――壁際に寄りかかる。その間に、ミリーさんが気を失っていた間の事を掻い摘んで教えてくれた。
まず、貧民街で拘束された私は、抵抗する余り男の人に誤ってお腹を踏んづけられたらしい。
それで気絶してしまい、彼らに拉致された。
連れてこられたのは、マレトワ区の外れにある三階建ての大きな建物だ。
元は酒場兼宿屋を営んでいたらしいこの場所は、今ではラーナー一家の事務所の一つになっているらしい。
私が運び込まれたのは、三階のVIP室。ラーナー一家の元締め、デニス・ラーナーの執務室だ。
「……クレムは何処?」
「お前が質問できる立場か? 糞ガキが、いちいち反抗的な面しやがって……」
私が尋ねると、呼び売り親方が忌々しげに吐き捨てる。もちろん、アンタになんて聞いてない。
「一つ下の階の、別室に軟禁されている。……ならず者に何かされることはないだろうが、残念ながら、まだ心神を失ったままだ」
ミリーさんが悲痛な面持ちでそう教えてくれる。私は彼女にだけ分かるよう頷き、目顔で感謝を伝える。
「どういった事情かは分からないが、あの笛の
ミリーさんの説明が続く。
あの不気味な黒衣の男が近くに居ないことは不幸中の幸いだけど、それでも状況はとんでもなく不味い。この建物から逃げ出すには、何とかこの
でも、何で仲間まで意識を奪っちゃったんだろう。っていうか、私が無事だったのも不思議だし。
「いいか? お前が逃げまわったせいでこっちは大損こいてんだ。これ以上迷惑かける気なら、容赦しねぇぞ」
わざわざしゃがみこんで、呼び売り親方が威圧する。
敵意は最初からだけど、それにしても何か違和感が――この人、焦ってる?
「……ラーナー一家としても、あの黒衣の男を頼ったのは不本意だったらしい。私たちを取り逃がさぬよう慌てて
と、ミリーさんが推論を述べる。
あの笛の
幽霊のミリーさんはともかく、私に効果が無かったのは、私が
「配下に催眠に掛けたのは流石に外聞が悪いのだろう。他の者に知られぬよう、君と共に纏めてこの建物に押し込んだらしい。……経緯を知る、この男を目付け役にして」
なるほど、このおっさんがピンピンしているのは、クレムに殴られて昏倒していたからか。意識が無い方がまだ好感度高いって、よっぽど嫌な人だな。
「これからお前は、何を聞かれても「はい」と答えろ。いいか? 靴を舐めろと言われても、股を開けと言われてもだ」
「ッ……」
訂正。最低野郎だコイツ。
「頭が鈍いのか? 返事が聞こえねえぞ。わかったなら「はい」と言え」
男が目を剥いてすごむ。
唾でも吐きかけてやりたかったけど、正直、かなり怖いし、それにここで逆らっても何のメリットもない。
「…………はい」
せめて最大限嫌がっているのが分かるように、私はそう呟く。
すると男は鼻を鳴らして満足げに立ち上がる。コイツ、きっとメル君たちもこうやって脅していたんだろう。
「いいか。黙って俺たちの言う事を聞きゃあ、面倒なく暮らしていけるんだ。もし下手な真似したら、もう一人のガキともども娼館にぶち込むからな」
と、男は得意そうに脅しを掛ける。
「……あの子に何かしたら、絶対に許さないから」
私への侮辱なら、まだ耐えられた。けれど、クレムにまで言及されて、一気に頭に血が上る。
私は顔を上げ、ありったけの憎しみと敵意を込めて男を睨みつける。すると、
「手前、まだ立場が分かってねぇみたいだな」
いきなり節くれだった手が伸びてきて、私の首を鷲掴みにした。
「ぐっ――」
そして喉輪の体勢で、私を無理矢理引き立たせる。
「いいか? お前が口にしていいのは、「はい」と「やらせていただきます」だけだ。それ以外の事を抜かしてみろ。顔の形が分からなくなるまで殴ってやる」
生臭い息を吐きかけ、男が脅しつける。
「ッ――」
首を絞められたまま立たされ、私は悪態をつくことすらできない。もう爪先は床から離れそうになっている。コイツ、返答なんて聞く気ない。暴力で私を屈服させるつもりだ。
「なんだその目はッ!!」
それでも私は、決死の形相で男を睨む。こんな、人を踏みつけにするのを何とも思っていないような奴に、断じて屈してなるもんか。
けれど、私の決意はかえって火に油を注いでしまったらしい。
「がっ――」
喉を締め上げる力はさらに強くなって、私はもう息もできない。血流を遮断され、意識が段々遠のいていく。その時、
「薄汚い手を今すぐ離せ!!」
ミリーさんの叫び声が室内に響く。
「あ――なんだお前! 何時からそこに居やがったッ!!」
幽霊少女の存在を今初めて知った呼び売り親方は、信じられないモノを見たかのように慌てふためく。
しまった。ミリーさんを見られてしまった。現状、私たちが有利な唯一の点なのに。
動揺した男の手が緩んだ。私はとにかくその手を振りほどこうと首を逸らす。
すると、拘束から免れたことに焦ったのか、男の手が再び伸びてくる。私はたまらず、その指に噛みついた。
「
怒声と共に、顔面に強い衝撃。男が左手で私の顔を殴りつけたのだ。
「ぐぁ――」
吹っ飛ばされた私は書架に背中からぶち当たると、そのまま床へ倒れ込む。手足を縛られているから、受け身すらとれない。
「舐めやがってこのアマ! 殺されてぇのか!」
男が半狂乱になって喚く。私は殴られた衝撃で目がちかちかして、まともに頭が回らない。
「ッ、さっきのガキは何処に行った!? おい手前ッ! いったい何を隠してやがる!?」
口汚く罵るが、私は咳き込んで喋るどころじゃない。
「答えろって言ってんだろうがッ!!」
そんな私に逆上して、男が暴力的な気配を撒き散らしながら近づいてくる。
これはヤバい。私の本能が死の気配を感じ取る。けれどその時、
「おいおい、これはいったいどういう事だ?」
瀟洒な部屋に、嫌に気取った男の声が響いた。
× × ×
いつの間にか、執務室のドアを開けて男たちが入室していた。
一目で高級品と分かる洒脱な服を纏い、室内の惨状に嘆息してみせるのは、三十過ぎの酷薄そうな男だ。
「なぁフレーザー。俺はお前に留守を頼んだはずなんだが、どういう理由で部屋を荒らしてるんだ?」
屈強な男たちが次々に部屋に入ってくる。彼らは一様に無表情。洗脳された手下たちだ。
「あ、ああ総長。いや、このガキ、――この娘が逃げ出そうとしたもんで、取り押さえてたんでさぁ」
フレーザーと呼ばれた呼び売り親方が、先ほどまでの怒気を忘れたかのように、へりくだった態度で男性に事情を説明する。
「へえ。ほう――そりゃ難儀だったな」
くすんだ金髪をした細面の男は、その弁解を聞き流しながら悠々と外套を脱ぎ、手下に預ける。
「いえ、そんな手間じゃありませんで……いや、部屋を汚してしまい、申し訳ありません」
呼び売り親方は手でも揉み始めるんじゃないかって低姿勢で、細面の男に歩み寄る。
「別に部屋はかまわんよ。ここは仕事場だ。壊れて困るような物は置いてない」
そして男は手袋を外し、襟首を緩め、次いで手下の腰から棍棒のような物を抜き取ると、――呼び売り親方の顔面を思いきり殴った。
「がぁぁああっ!」
赤い鮮血と、白い歯が室内に飛び散る。呼び売り親方、フレーザーは両手で顔面を抑え、もんどりうって倒れる。
「取り押さえろ」
自分が引き起こした惨状に、何の感慨を抱いた風も無く、細面の男が周囲に命じる。
すると屈強な男たちが素早く近づいて、フレーザーの腕を捩じり上げてしまった。
「ゆ、許してください旦那! 俺は決してアンタを裏切ろうとした訳じゃ――」
弁解の言葉は、二度目の殴打によって遮られた。
「なあフレーザー。部屋の事は気にするなっていっただろう? 肝心なのは、何故あのお嬢さんが怪我をしてるかってことだ」
と、総長と呼ばれた男は手にした棍棒で、私を指し示した。
「知ってるか? 俺は市警の糞どもの顔を拝んできた帰りなんだ。気晴らしに可愛らしいお嬢さんと語らうのを楽しみにしてたのに、何だってこう面倒を起こすんだ?」
男は棍棒の切っ先を呼び売り親方の首にねじ込む。
「か、勘弁してくださいデニスさん」
哀れを催す声音で、フレーザーがそう詫びを入れる。
だが細面の男――デニス・ラーナーはさも呆れたように首を振る。
「そもそも、お前がお嬢さんをちゃんとお連れすれば何の不都合も起きなかったんだ。手勢を集める必要も無かったし、先生に声を掛けなくても済んだ。――なあ、夜分遅くに皆さんに迷惑をかけて、申し訳ないと思わないのか?」
あくまで平静に、デニスがフレーザーを問い詰める。
「市警の連中をあしらうのにも、面倒な段取りがいるんだ。ああ、もちろん只じゃない。守銭奴のアランに幾ら払ったと思う? お前の上がりの何か月分だろうな。ガキを何人か潰したら、金の卵でも産んでくれるのか?」
そう言って、デニスはフレーザーの腹に棍棒を突き立てる。
「ぐっ――すみません。埋め合わせは必ず……」
涙の滲んだ声で、呼び売り親方が謝罪する。先ほどまでの威勢は、もう欠片も残っていない。
「いや、金の話は別に良いさ。それにお前が志願したこととはいえ、お嬢さんに振られたのも責めない。――ただ、必ず無傷で連れてくるよう、そう申しつけた筈だがな」
四度目の打擲。フレーザーはもう呻き声しか上げない。
「ガキを小突き回すしか能のないお前が、どんな思い違いをすれば
デニスは呆れたように、けれど冷酷極まりない声でそう嘯く。
「……」
ようやく衝撃から立ち直りつつあった私は、けれど目の前で繰り広げられる出来事を呆然と眺めるしかできなかった。
おそらく呼び売り親方があれだけ威圧的だったのは、私たちを取り逃したことで侵した失点を取り戻すためだ。
フレーザーの怒りには、ある種の人間臭さがあった。だから、怖くはあっても理解はできた。でも、このデニスという男は何かが違う。
「……手足を縛って地下室に繋いでおけ。後で見せしめに使う」
まるで些事でも片付けるかのように、デニスが手下にそう告げる。
「ま、待ってくれ!」
腕を捩じりあげられたフレーザーが、そのまま廊下へと引きずられていく。
「畜生! この糞ガキがッ! 俺はお前の親父の代から一家に仕えてたんだ! 俺は功労者だぞ! お前のような青二才になんで殺されなきゃならねぇッ!!」
「あー、口も塞いどけ。喚かれるとご近所さんに迷惑だ」
フレーザーの泣き喚く声が、どんどん遠ざかっていく。
私は恐怖に身を凍らせながら、その光景を見守るしかない。
「さて、挨拶が遅れたな。俺はデニス・ラーナーだ。お見知りおきを。お嬢さん」
そして、細面の男は私に向き直ると、うそ寒いほど爽やかな笑みでそう言った。