「お前、自分がどれだけ愚かな真似をしてるか分かってるのか?」
デニスは紳士の擬態をかなぐり捨て、暴力団の首領に相応しい冷酷な表情となる。
「分かってます。だから私とクレムをここから逃がしてください。そうすれば、このスプーンはお渡しします」
腰が抜けそうなほどの恐怖に襲われながらも、私は刃物のような殺意を真っ向から受け止める。
「短慮は起こすなと言っただろうナオ!」
私の突然の行動に、ミリーさんが慌てふためく。
ひたむきに私の身を案じてくれていた彼女に何の相談もしなかったのは悔やまれる。けど、クレムと無事に帰るにはこれしかない。
「いいや、何も理解していない。いいか? お前は自分から糞桶の中に頭を突っ込んで、悦に入ってる真正の阿呆だ」
デニスが野卑な口調でそう告げる。……残念ながら、怯んだ様子はなさそう。
「俺は女に優しいんだ。お前を死んだ方がマシに思うような目に遭わせて「お願いですからあなたの為に働かせてください」と歌わせるのが忍びないから、こうして気遣ってやってる。なのに何故面倒を掛けようとするんだ?」
まったく理解できない現象に出くわしたかのように、指でこめかみを突きながらデニスが尋ねる。
「……あなたと居ると、私たちが危ないからです」
私は懸命に恐怖を呑み込み、男にそう答える。
「――ああ、なるほど。確かに、俺たちは少々出会い方が悪かった。怖がるのも無理はない」
デニスははたと思い当ったかのように手を打ち、やれやれとため息を付いた。
「だが、よく考えてみろ。あれだけの兵隊がお前を守るんだ。もう二度と危険な目には合わない。それともお前は、市壁で雑魚寝してる屑どもが頼りになると思うのか?」
やっぱり、この人は何も分かっていない。きっと私と彼では、思考に埋めがたい断絶があるのだろう。
「私に利用価値があるうちはそうでしょうね。……でも、その前提が崩れたら、あなたはきっと私を襤褸切れのように捨てる。あなたの部下たちと同じように」
その溝を、私は明確に言葉にする。
「それに、私はともかくクレムはどうなるの? 私の大切な友達は? 彼女は私を従わせるための首輪? それとも銀行からお金を引き出すための証文かなにかですか?」
彼の他人への価値基準は、己にとっての損益だけだ。
そんな人間の世話になって、どうして幸せになることができるだろう。
「……信じがたい愚物だ。まさかアングストのガキの為に一生を棒に振るなんてな」
「動かないでくださいッ!」
脅しに応じないと見るや、デニスは億劫そうに椅子から立ち上がる。
私は慌ててそう叫ぶと、手にしたスプーンの先を口で咥えこんだ。
歯が折れるかもしれないけど、全力で噛めば木製のスプーンだって壊せる。
「ッ――そろそろ冗談では済まさないぞ」
私の行動に、
室内の空気がピリピリと張りつめていく。もう、後戻りはできない。
「……想像してみろ。
デニスは立ち止まったまま、静かな声で語り出す。その顔貌には、先ほどまでの
「ただ殺すだけじゃない。女に生まれてきたことを後悔するよう、ありとあらゆる尊厳を奪って見せしめにする。二度と俺に刃向おうとする奴が出ないようにな。……もちろん、アングストの娘もだ。アレの親に身内を殺された奴も大勢いる。そいつらに教えてやれば、きっと面白い見世物になるだろうな」
陰惨にそう嘯き、デニスは悠然と歩を進める。
「でも、あなたはきっとそんなことしない」
「おいおい、頭が花畑にでもなってるのか? 何の根拠があって俺の考えが分かる」
私がそう断言すると、彼は興味深そうに片眉を上げて立ち止まる。
「あなたが本当に欲しいのは
一息で説明すると、彼は感心したように目を見開く。
「……頭の軽い田舎娘と思ったが、なかなかどうしてよく気付くじゃないか。――ああ、その通りだ。俺が欲しいのは
「なら――」
「だが、お前は俺を舐めた。そのことについては、どう落とし前を付けるつもりだ?」
「ッ……」
私は返答に窮し――それでも怖じずにデニスを見詰め続ける。
「…………まあいい。確実な手段を取ることにしよう。おい、あの娘を連れてこい」
どれほど時間が経ったか。
神経をすり減らす沈黙の後、デニスが手下にそう命じる。
そうして、私はようやく親友と再会することができた。
× × ×
屈強な男たちに囲まれ、執務室にフード姿の少女が現れる。
「「クレムッ!」」
彼女の姿を見た途端、私とミリーさんは揃って声を上げた。
「感動の再開だな。――ああ、茶番は早いところ済ませてくれよ?」
私たちの心境などまったく斟酌せず、デニスが口元を歪めて皮肉を述べる。
クレムの状態は、最後に見た時とまったく変わっていなかった。
「ッ……」
美しい顔貌には何の感情も浮かばず、宝石のような蒼い瞳はぼんやりと宙を眺めている。
私たちの呼びかけも、きっと彼女にはまったく届いていないのだろう。それどころか、こちらを認識しているかさえ怪しい。
「さて、お前の望みは叶えてやったんだ。次はそっちが誠意を見せる番だろう?」
「まだです。まずはこの子の催眠を解いてください!」
恩着せがましく要求するデニスに、私は毅然と抗議する。すると、
「朝になれば正気に戻るだろうさ。それまではおしめでも履かせときな」
彼は舌打ちをついてそう吐き捨てる。
「……あるいは、彼には解除できないのかもしれない。
そうミリーさんが呟く。……確かに、そうかもしれない。自分でできるなら、部下はとっくに正気に戻しているだろうし。なら、やっぱり時間経過を待つしかないのだろうか。
「さあ、早く
苛立たしげにデニスがそう告げる。でも、このスプーンは私たちの命綱だ。そう簡単に手放す訳にはいかない。
「……私たちが安全な場所まで移動してからです」
「おいおいいい加減にしろよ。安全な場所だと? お前らが
と、デニスは今度こそ怒りも露わに脅してくる。
確かに、彼らの主張ももっともだ。何とかして妥協点を探らないと……
「教会に庇護を乞え。夜間だが大聖堂であれば誰かしらは居る。教会内部に入った時点でスプーンを渡すと言うんだ」
私が迷っていると、ミリーさんが提案する。
何でも教会の権威は凄まじく、また歴史的に聖俗の区別がきっちりしており、保護してもらえればならず者といえども迂闊には手が出せないらしい。
教会を頼るのはずっと避けていたけど、ここまで切迫した状況なら仕方ない。それに、彼らに
「……ふん。まあ順当な落としどころか。いいだろう。面倒だが大聖堂まで送ってやる」
ミリーさんの指示通りに提案すると、デニスがさもつまらなさそうに鼻を鳴らした。そして、
「おい。そこの娘にくっついて行け」
マネキンのように立ち尽くしていたクレムにそう指示する。
途端に彼女は歩きだし、私たちの側へとやってくる。
「ああ……」
私はたまらず吐息を漏らす。
まだ彼女の心は取り戻せていないけど、ようやく、ようやく彼女が帰ってきた。
――今にして思えば、彼は私が安堵する瞬間を待っていたのだろう。
「とりおさえろ」
酷薄な声でデニスが呟く。
その意味を理解するよりも早く、私の身体に衝撃が走った。
「ッ――」
手首を掴まれたと同時に、足元が刈り払われる。一瞬の浮遊感。次いで、私の身体は勢いよく床に叩き付けられた。
「ぐぇ」
私の喉から無様なうめき声が漏れる。
そして衝撃から立ち直る暇も無く、背中と手首に激痛が走る。
――クレムが私を投げ飛ばし、圧し掛かって腕を捩じり上げたのだ。
「痛ッ――」
容赦なく肩と手首の関節を極められ、私は悲鳴を上げる。
膝で背中を押さえつけられ、床に縫いとめられてしまう。反射的に抵抗しようとするも、身動きすれば即座に激痛が走る。
彼女とは体重もそこまで変わらないだろうに、私は為すすべもなく取り押さえられてしまった。
「クレム! クレムッ! お願い放して、正気に戻って!」
「結局、頭が軽いのは事実だったな」
床に転がる私を嘲笑いながら、デニスが悠然と歩み寄ってくる。
この男、最初から私たちを逃がすつもりなんてなかったんだ。それにしても、クレムに私を捕まえさせるなんて、なんて底意地の悪い。
「さてさて、随分と面倒を掛けてくれたな」
「きゃっ」
デニスは何の躊躇も無く、私の頭を踏みつける。
床板に顔面が当たって、鼻血がまた噴き出した。
彼は捩じりあげられた私の腕から、容易くスプーンを奪い取ると、
「今後はこういうことを考えないように、ちゃんと躾けてやらなきゃな。……そうだな、スプーンを摘まむ以外の指は不要だし、切り落とすか」
残忍な拷問方を呟きながら、嗜虐の快楽にゲラゲラと笑う。
そして彼はスプーンを大事そうに手にして、部下たちの方まで下がった。
私はその間も必死にクレムに呼びかけ続けるが、彼女はまったく無反応。
「ぅ……」
然しもの私も、恐怖で頭が真っ白になる。
絶望が身体を凍らせ、神経が麻痺する。喉から出るのは悲鳴じみた金切り声だけだ。
「いい様だな。さっきまでの威勢はどうした? もう一度可愛い声を聞かせてくれよ」
「~~~~!」
豪奢な椅子に座り直し、勝ち誇ったように
何か手立てを考えなければ。絶対に諦めてはいけない。
そう思うも、恐怖と混乱がなけなしの理性を奪う。
悪党に再び捕らえられた恐怖と、友達を助けられない悔しさで、私はつい涙を溢しそうになる。――その時、
「お願いだクレム! いつもの君に戻ってくれ! ――ナオは大切な友達なのだろう!?」
鈴を転がすように愛らしく、それでいて身を裂かれそうなほどに悲痛な声。
幽霊少女のミリーさんがクレムに取り縋り、大声で訴えかけているのだ。