「どうした? 泣き喚くのはもう終わりか?」
もがき苦しむ私を見て、愉悦に浸っていたデニスがそう呟く。
けれど、私は彼の恫喝なんて耳にも入らなかった。もっとずっと、尊くて悲痛な叫びを聞いていたからだ。
「手を放すんだクレム。ほら、ナオが痛がっているだろう? ……なあ、頼む。いい加減に、目を覚ましてくれ」
真っ白な少女は、私を拘束したままピクリとも動かないクレムに縋り付き、震える声で訴え続ける。
その姿が、声音が、あまりにも痛ましくて、私は自分の惨状なんて気にもならなくなっていた。
今すぐ彼女を抱きしめたい。一緒に痛みを分かち合いたい。そう思うけれど、結局私は捕らわれたままで。
「ああ、なぜ私はこうまで無力なんだ。……世に何も為すことができないなら、なぜ知恵など得た。……泣くことすらできない私に、なぜ友など与えた」
端正な顔を悲痛に歪め、ミリーさんが慟哭する。
けれど、彼女はやはり涙を流すこともできず――
「ッ――」
それでも、切なる祈りは確かに届いた。
「え?」
腕の拘束が緩む。背中の圧迫感が無くなる。
全身を針金で縛りつけられたみたいに身動きできなかったのに、四肢の感覚が急に戻ってくる。その変化に、私は戸惑った。
「おいっお前何してるッ!」
デニスが椅子から立ち上がり、怒声を放つ。その間にも、私を押さえつける重量は完全に消え去った。そして、
「私は、いったい……」
困惑した声が耳朶を打つ。その美しく澄んだ響きを、聞き間違える筈がない。
「「クレムッ!」」
私は全身の痛みも忘れて立ち上がり、親友を抱きしめる。
ミリーさんも驚愕し、彼女のフードにしがみ付く。
「ナオ!? あなた、その顔――」
顔を腫らし、鼻血を流している私に、クレムが青い目を見開く。
ああ、いつものクレムだ。やっと彼女が戻ってきた。
「クソ、どうなってやがる。――おい! アングストの娘を拘束しろ!」
けれど、私たちの再開を阻む狼藉者が。
デニスに命じられ、手下の一人が突進してきたのだ。
「う――」
屈強な男が、まったくの無表情で走ってくる。
私はその威圧感に怯んでしまい、咄嗟に足が動かない。
だが次の瞬間、大男が車にでもはねられたかのように宙を舞った。
「な――」
空を飛んだ男は、壁際の書棚へとぶち当たり、凄まじい音を立てて地面に倒れ伏す。
いきなり目の当たりにした超常現象。でも、私ははっきりとその原因を見ていた。
まるで魔法のような光景だった。暴れ牛のように突っ込んできた大男を、クレムの細腕があさっての方向に投げとばしたのだ。
「お前たちが、ナオをこんな目に……」
フードの奥で、クレムの青い瞳が怒りに輝いている。
聡明な彼女は、一目で私たちの置かれた状況を把握したのだろう。彼女は私たちを庇うように、決然と一歩を踏み出す。
「……洗脳が解けたか。いくらなんでも早すぎるが、どういうことだ?」
部下がやられても、デニスは平然としている。やっぱり、コイツは他人を案じるような人間じゃない。
「面倒事ばかり起こしやがる。このままじゃ利益が消し飛びそうだ」
そう愚痴をこぼすと、デニスは指笛を吹く。
同時に、館に響く複数の足音。階下の手勢を呼び寄せたのだ。
「おい。糞ガキども。そろそろ俺は損切りもやむなしって気分になってきた。……これが最終勧告だ。抵抗は止めて俺の物になれ。断れば、文字通り「物」にしてやる」
彼が酷薄に宣言するや、執務室に男たちがなだれ込んできた。
総数十二名。全員が棍棒みたいな武器を持っている。
「クレム、ミリーさん……」
ようやく三人が揃った。でも、状況は悪くなる一方。私は目顔で二人に問う。すると、
「平気ですよ。――約束しましたよね。あなたはきっと、私たちが守ります」
クレムが透き通るような微笑を浮かべる。私を安心させるためだろうか。彼女がとても強いのはなんとなく分かる。けれど、この数を相手に戦うなんて無茶だ。
私ひとりなら、怖くたって我を張ることもできる。
でも、私の決断にクレムやミリーさんまで付き合わせることになったなら……
「……ナオに出会うまで、私は死人も同然でした。ひとりぼっちで、山奥で朽ち果てていくのをずっと待つだけの、木石と大差ない存在だったんです」
私の煩悶を読み取ったのか、クレムが静かに言葉を紡ぐ。
「けど、あなたと出会って私は救われた。もう一度、世界に居場所を見つけてみようと、そう思えるようになったんです」
クレムが肩越しに私を一瞥。青い瞳が、歓喜に輝いている。
「全部、ナオのお蔭なんです。――だから、私はどんな決断でも受け入れます。あなたの心を、聞かせてください」
力強く問われて、私の鼓動が跳ね上がる。
「私は…………」
視線を横へ動かすと、幽霊少女も頷いてくれる。
「私は、この人たちのお世話になんて、なりたくない」
友達からの全幅の信頼を受け、私は胸に蟠る思いを言葉にする。
「この国の法律なんて知らない。社会の仕組みなんてわかんない。――けど、弱い人たちを暴力で抑えつけて、脅して従わせて、幸せを奪い集めるなんて、きっと許されることじゃない」
体の震えが止まる。痛めつけられた体から、活力が溢れてくる。
自棄になってるんじゃない。胸を動かすこの力は、きっと勇気だ。
「だから、私たちはあなたには従いません。このお話は、絶対にお断りします」
この上なくはっきりと、私は悪党たちに否を突きつける。
怖いけど、悔いはない。後はもう、力尽きるまで抵抗するだけだ。
「……散々待たせた挙句、結局は決裂か。阿呆が、泣きながら後悔しろ。明日の昼でも同じセリフが言えると思うなよ」
「ッ――」
デニスがため息を付き、片手を上げる。配下の男たちが一斉に棍棒を抜いた。その時、
「ああ?」
一触即発の気配を押し留める、不可思議な現象が起きた。
× × ×
クレムの胸元から、淡い光が漏れている。
ランプの火とは明らかに異なる、白く清浄な輝き。
唐突な出来事に、デニスさえ呆気にとられて動けない。
その光を生み出したモノとは――
「それって、あの宝石?」
悪党に向けて啖呵を切ったばかりの私が、慌ててクレムを覗き込む。
彼女が胸元から取り出したのは、アングスト家の家宝の青い宝石だ。
空色の宝石が眩く発光し、執務室を照らしだしているのだ。
この現象、前にも見たことがある。
「おいおい、こいつはいったいどんな幸運だ? まさか一晩で二つも
いち早く気付き、快哉を叫んだのはデニスだ。
――そうだ。これは確かに、
でもなんで? いったい誰が? 脳裏に浮かんだ疑問は、一瞬で氷解する。
「――――」
青い宝石を祈るように握りしめ、神妙に目を瞑るクレム。
いや、まさしく今、彼女は祈りを捧げているのだ。
淑やかで穏やかな横顔。凛々しく、直向きで、何者にも侵し難い立ち姿。
きっと彼女は世界の理に、神様の奇跡に触れたのだ。
「そいつらを捕まえろ。殺すなよ。だが手足の一本や二本はへし折っても構わん」
興奮に笑み崩れたデニスが、残忍な指令を発する。
下知に従い、手下たちが一斉に飛びかかる。その時、
「判決は下された」
厳粛な声が、執務室に響く。
祈りを終えたクレムが、目を開く。たったそれだけのことで、殺到する男たちが足を止めた。
「デニス・ラーナー。略取、監禁、傷害の罪によりて、汝の名誉と権利を
朗々と罪状を告げるクレム。
その表情、立ち姿は神々しいまでに美しく、なのに、恐ろしく抗しがたい威風を纏っている。
傀儡となった男たちが動けない。人ならざるものが乗り移ったかのような雰囲気に、圧倒されているのだ。
「な――」
あの大悪党のデニスですら、クレムの変化に戸惑いを隠せない。
そして彼女は自らの胸元に手を伸ばし、青い宝石を掴む。
――転瞬、彼女は虚空に向けて腕を薙ぎ払った。
「えっ――」
突如として世に現れ出でた奇跡に、私は驚嘆を漏らす。
いつの間にか、クレムの手には剣が握られていた。
冴えわたる空のような、深い深い海のような、曇り一つない完全な
宝石が姿を変えたその剣を、クレムは高々と天に掲げる。そして、
「汝、父母の接吻を受くることあたわじ。ただ伏して祈り、神の慈悲を乞うべし。
――罪は償われる」
厳かに、刑の執行を宣言した。