あくる日の未明。私はいつもの自室で、いつもの通りに目を覚ました。
「ふぁ……」
大きな欠伸を一つ。睡眠は短めでも平気なんだけど、床に着いたのが遅かったから流石に眠い。
昨日、ピアソン一家の手伝いを申し出た私たちだけど、私とクレムはほどほどの所で家に帰された。色々用事もあったし、ロレッタちゃんたちが心配するからだ。
「う~ん、降らなきゃいいけど……」
窓を開けると、空にはどんよりと雲が立ち込めている。大変な時期だし、せめて天気ぐらいはすっきりしてくれたら嬉しいんだけど。
そして私は大きく伸びをする。室内に幽霊少女の姿は見つけられない。
ミリーは今も、シーラさんたちと懸命に働いている筈だ。
「ほらクレム。朝だよ起きて~」
もう一つのベッドへ近付き、寝こけている友人を揺り起こす。
ホントはゆっくり寝かせてあげたいけれど、そんな訳にはいかない。
「……わたしが……まもりますから……」
むにゃむにゃと寝言を呟くクレム。
普段はどんな夢を見てるか謎だけど、今日ははっきりとわかった。
私は暖かい気持ちになって、お礼に十秒待ってから彼女の布団を勢いよく引っぺがす。
それから身支度を済ませて、クレムと厨房で作業に取り掛かる。すると、
「お、おはようございます。ナオ姉さま!」
緊張した面持ちでロレッタちゃんが入ってきた。
「あ、おはよー。昨日はちゃんと眠れた?」
「はい。ぐっすりです!」
ロレッタちゃんと、一緒に降りてきたお母さんのイライザさんとしばしお話。新しい生活に不都合はないか尋ねる。
「早速手伝ってもらっちゃってごめんね?」
「いいえ、頑張りますから!」
それから、ロレッタちゃんの手も借りて作業を続ける。イライザさんはまだ体調が優れないそうだから、部屋で休んでもらう。
「お、上手だね、綺麗に野菜剥けてるよ。でも手だけは切らないよう気を付けてね」
パン生地を発酵させている間に、サンドイッチの具材とスープの準備をしておく。
私はロレッタちゃんに指示しながら、手早く食材の下ごしらえを進める。
市警の取り締まりが厳しくなって、呼び売り業はしばらくお休みだ。元締めのピアソン一家は、各業種団体に市警を刺激しないようお達しを出した。
そんな訳で、私も商品を用意する必要はないのだけれど、今作っているのはそのピアソン一家に差し入れする食事だ。
勢い込んでシーラさんに手伝うと申し出たはいいものの、私とクレムはただの小娘だから、居ても居なくても大して役に立たない。なので、せめてピアソン一家の人たちをサポートしようと、給仕を買って出たのだ。
大勢が動けば、やっぱり食事だってそれなりに手間がかかる。ピアソン一家の人だけでなく、相談に来た人たちだってお腹を空かせているんだ。食べ物は多いに越したことがない。補給だって立派な協力なのだ。
「じゃあ後はお願いね? 火の始末だけ気を付けて。何かあったら、ピアソン不動産に来てくれたらいいから」
そしてお昼前に料理は全て完成。私はロレッタちゃんに酒場のことを任せる。
迎えの馬車は、約束の時間通りに来た。
荷車も一緒に来ていて、若衆が料理を積み込んでくれる。シーラさんと友達だからか、皆さんとっても気を使ってくれて、なんだか恐縮してしまう。
そうして私たちは、一路ピアソン不動産へ向かった。
× × ×
事務所は相変わらず戦場のような慌ただしさだった。
お昼時だというのに、誰も休んでいる人がいない。相変わらず書き物をしている人や、駆け足で建物を出入りする人ばかりだ。
ただ、同じ慌ただしさでも、昨日ほどの切迫感は感じない。皆さん大変そうだけど、どこか前向きに、明るい調子で仕事に励んでいる。
「お前ら! お嬢のご友人が差し入れを持ってきてくれたぞ!」
建物中に響く声を張り上げたのは、トッドさんだ。皆さんが一斉にこっちを向く。
私は和やかに手を振って、それから配膳の準備に取り掛かる。
台所を借りて、事務所の皆さんに食事の手配。
評判は上々で、皆さん美味しいと褒めてくれる。そうして食事が行き渡ると、余った分は摘まめるように用意しておく。
メニューは代わり映えしないけど、かなり大目に作ったので、たぶん明日までもつだろう。お腹の空いた人から、銘々勝手に食べてもらう形で。
食事の配膳が済むと、私たちは奥の執務室へ向かう。
「こんにちは~。皆さんお疲れ様です」
ノック音も軽やかに、私たちは部屋へ入る。すると、
「おわ、なんだかすごいですね」
部屋の様相が昨晩から大きく変わっている。
「ああ、ナオさん。食事の件ありがとう。みんな喜んでいるみたいね。ここまで声が聞こえてきたわ」
気さくに声をかけてくれるのはシーラさん。
彼女は壁全体に張られた巨大な市内地図を眺めながら、ペンであれこれと書き込みをしている。昨日もほとんど寝ていないだろうに、信じられない気力と体力だ。
「色々頼んじゃってごめんね。お店の方は大丈夫だった?」
と、優しく尋ねるのはテオドラさんだ。
彼女は山積みにされた書類を片端から手に取って、凄まじい勢いで選り分けている。この人も泊まり込みだろうに、壮麗な美貌には少しの陰りもない。
「あれ、ユニスさんはどうしたんですか?」
室内を見渡せば、昨晩一緒に泊まったであろう学者先生の姿が無い。
「ああ、あの子は大学よ。朝一で出かけて行ったわ」
と、シーラさんが地図を眺めながら答える。そうか、ユニスさんは普通に仕事があるから、ずっとは居られないんだ。でも、その上で協力してくれるのは、やっぱり嬉しい。
「ついでに、学校の方にも仕掛けをしてもらうよう頼んでおいたわ。上首尾に運ぶといいんだけど」
テオドラさんは何やら含みのある事を言う。仕掛けって、いったい何を企んでいるんだろう。
「ミリーの姿が見えませんが……」
そう問いかけるのはクレムだ。あの子はシーラさんたちのお手伝いをするって、こっちに残ってくれてる筈。
「少し出てもらっているのよ。……あの人、本当に凄いわね」
心底感嘆した風にシーラさんが呟く。
あ、ちなみに、三人のお姉さん方には私の髪の毛を指に結わえてもらっている。これで、あの子と自由に会話ができるのだ。
「ミリーちゃんのお蔭で、かなり相手の思惑が見えてきたわ。本当に頼もしい味方よ」
と、テオドラさんが半ば畏敬の念を込めてそう呟く。飄々とした彼女にそこまで言わせるなんて、ミリーいったい何したの?
「ミリーさんには市警の内情を探ってもらっているのよ。得られた情報を上手く使えば先手を取れる。……本当に、あの人には感謝してもしきれないわ」
シーラさんがそう呟く。
誰からも見えず、どんな場所にでも自由自在に入り込めるミリーは、市内各所に情報収集へ赴いているらしいのだ。
地図に書き込まれているのは、市警の巡回ルートや次に手入れの標的になりそうな建物。かなり詳細だけど、これ一晩で調べたんだろうか。
「この騒動の表向きの首謀者は、警備隊の隊長ジェフリー・アランよ」
手元の資料を処理しながら、テオドラさんがそう教えてくれる。
そのジェフリー・アランというのは、男爵家の次男で、軍隊に務めた後、警備隊に入隊。大粛清の後に前任者の穴を埋める形で市警の隊長に収まった人だそうな。
「典型的な権力志向の男ね。市警隊に回されて腐っていたみたいだけど、いったい誰に
と、テオドラさんは呆れた風に息を吐く。
うん? 表向きとか、唆されたとか、まるで裏に誰かいるのが確定してるみたいな物言いだけど。
「どうも、このオストバーグ浄化作戦で立身が叶うと考えているらしいのよ。貴族や市民に恩を売って、名望を高める気みたい」
シーラさんが説明の続きを受け持ってくれる。
ミリーの夜通しの諜報活動で、市警の動きはもちろん、その行動理念も徐々に明らかになってきたそうな。
どうやら、市警は街に蔓延る貧民や不逞の輩を摘発することで、貴族や政府に働きかけ、自分たちの地位向上を狙っているらしい。
今まで全然やる気がなくて、非市民からゆすりたかりをしていた警備隊が、突如として精力的に動き出したのはその所為だ。
「オストバーグ警備隊。って言えば聞こえはいいけど、内情は酷いらしいのよ。隊員はごろつきと大差ないし、給料の遅配だってしょっちゅう。ゆすりが黙認されているぐらいだから、よっぽど待遇は悪いのね」
と、シーラさん。
そんなところの隊長なんて、要は左遷先みたいなもので、貴族の人たちからは物笑いにされる立場らしい。ジェフリーという人も、随分不満を抱いていたみたい。
「だからって、貧しい人をいじめて成り上がろうなんて……」
私は思わず顔を顰めてしまう。動機は分かったけど、それじゃあ貧民の人たちは只の点数稼ぎの的じゃないか。街を守ろうって人たちが、率先して人々を虐げるなんて。
「まあ、向こうには向こうの大義名分があるでしょうけど」
テオドラさんはしれっとした態度でそう流す。確かに相手にも理屈は立つんだろうけど、それでも何か、釈然としない。
「で、大事なのは誰がその話を持ちかけたか、って所なのよ」
シーラさん曰く、市警の活動には、裏で糸を引いている人物、団体が居るとのこと。
「非市民の一斉摘発なんて、明らかに危険が大きすぎるわ。市内に無用な混乱を引き起こせば、逆に警備隊が処罰されかねないもの。断じてジェフリー単独の思い付きじゃない。裏である程度の話が纏まっている筈。そうでないと、流石にここまで勢いよくは動けない」
確信をもってそう告げるシーラさん。
ほぼ間違いなく、市警の後ろにはそれなりの大物貴族が控えているだろうとのこと。
「あの……聞けば聞くほど、貧民街の人たち関係ないように思えるんですけど」
私は胸中に芽生えた疑問をそのまま口にする。
ずっと警備隊と非市民のいざこざだと思ってたのに、なんだか話が大きくなりすぎて、想像が及ぶ範疇を軽く超えてしまった。
「最初からそうよ。これはイシダール王国内の政治闘争だもの。市警は駒に過ぎないし、貧民街はまぁ……巻き込まれただけかしら」
「なっ――」
当然のことのように説明するテオドラさんに、私は絶句する。
じゃあロレッタちゃんの家族や貧民街の人は、そんな事の為に追い立てられて、涙を流したって言うの?
「……それでは、私たちはどのように応じればいいのでしょうか」
驚愕に立ち尽くす私に代わって、クレムがそう質問する。彼女も心痛を浮かべていたけど、私よりはずっと心が強い。
「いくつか手立てはあるけど、即効性がありそうなのは、貧民の価値を無くしてしまうことね」
「――え? そ、そんな!」
思いがけないテオドラさんの発言に、私とクレムは目を丸くする。貧しい人をこれ以上虐げるなんてあんまりだ。つい、私の喉から非難めいた叫びが出る。すると、
「あら? ごめんなさい。言葉が足りなかったわね」
と、テオドラさんは苦笑を浮かべ
「無くしてしまうのは、
そう言って、彼女は秘中の策を明かしてくれた。