「ゆっくり、ゆっくりお願いします。毛布の上に、はいそこです」
「すみません、すみません……」
若衆たちが抱え上げたお婆さんを、そっと荷車に乗せる。私はお婆さんのお尻に布を当てて座らせると、すぐに雨避けマントを羽織ってもらう。
貧民街では今まさに、最後の住人の退去作業が進められていた。
「忘れ物はございませんか? あまり大きなものでなければ、お運びしますので」
歩けない人たちを荷車に乗せていると、クレムは民衆の間を練り歩き、声を掛けて回る。
トッドさんから説明は受けているだろうけど、それでも皆さん不安そう。警備隊に狙われ、住みなれた家を離れなければいけないのだから当然だ。
「皆さ~ん、寒くないですか? 雨具ありますから、遠慮なく使ってくださいね!」
私は場違いなほどに明るく人々に話しかける。気軽に声を掛け、積極的に雑談をして少しでも不安を紛らわせようとする。
トッドさんやピアソン一家の若衆はとても頼りになるけど、やっぱり老人や病人ばかりだから、男の人ばかりだと威圧感を与えてしまう。
私やクレムが間に立ってちょこまか歩き回れば、それだけで多少は安心感を与えられる。とはテオドラさんの談。
だから、避難誘導は危険だけど、私たちも志願して端に加えてもらった。
「確認してきました。残っている住人はいません」
「よし。では出発するぞ」
若衆たちが戻り、最終確認が済むと、トッドさんが一群にそう号令を掛ける。
私たちも動き出した群衆にくっつき、貧民街を後にする。
「えっと、マレトワ区ってけっこう距離あるよね? 北から回るの? 東から?」
こっそりクレムに道のりを聞く。
「グレイン区を通って北上するほうが近いでしょうか。それでも遠いですが……」
目的地であるキルナー家のお屋敷は、オストバーグ北方の貴族街、マレトワ区にある。南西の隅っこにある貧民街からは遠い道のりだ。たぶん、男の人の足でも一時間以上かかると思う。老人、病人の歩みで、それも二百人近い集団となれば、たぶん倍以上の時間を見ておいた方がいいだろう。でも、
「まあ、夜までには余裕で着くでしょ。それより夕飯の支度が心配になってきたなぁ」
と、私は務めて能天気にそう話す。楽観も予断も厳禁だけど、心配ばかりしても気が重くなっちゃうもの。
ただ、避難民たちの歩みはやっぱり遅く、なかなか前に進まない。
ピアソン一家の人も、疲労と緊張からピリピリしている。私はなんとか皆さんを元気付け、励まし、ゆっくりでも確実に進んでもらう。
そうして、私たちはオストバーグを流れるエネト川を渡り、グレイン区へと足を踏み入れた。
「……けっこう見られてるね」
「はい。好意的に受け止めていただければいいのですが……」
天気が悪いから出歩いている人は少ないけど、建物から多数の視線を感じる。市民が私たちの姿を盗み見ているのだ。
なるべく隠密裏に行っている貧民たちの避難だけど、やっぱり市中では噂になっているみたい。まあ、何百人も連れて歩き回れば、人目を惹くのは仕方ないけど。
「大丈夫だよ。ここらへんは職人街でしょ? つまみ細工の件で繋がりもあるし、きっと同情してくれるよ」
と、私はクレムに笑いかける。
グレイン区は職工人の街だ。鍛冶や木工、仕立て屋、その他なんでも。オストバーグで消費される様々な物品を一手に引き受ける、一大生産拠点だ。
私もつまみ細工の作り方を説明するとき、シーラさんに連れてきてもらったことがある。
「あ、そうか。だからルートに組み入れられてるんだ……」
「何がです?」
ひとりで納得する私に、クレムが疑問を浮かべる。
ピアソン一家はオストバーグの各方面に影響を持ち、手工業組合とも繋がりが深い。避難民を連れ歩いても、グレイン区では反発は少ないはず。テオドラさんたちはそこまで考えて指示を出してるんだ。
「なるほど……」
「だから、ここは結構安全なんじゃない? 時間がかかっても着実に進めばいいんだよ」
と、私は上述を根拠に楽観論を述べる。
自分で言ってみて、なかなか的を射ていると思う。肩の力も抜けてきた。
だから、その後トラブルに巻き込まれた時は、余計に混乱も大きかった。
× × ×
肌を刺すような緊張感と、じりじりと焼けるような感情の渦。
十分に熱が入ってはじける寸前の豆みたいに、辺りは剣呑な雰囲気に包まれていた。
「で、あなた方は何の権限があって俺たちを止めようってんです?」
普段は朗らかなトッドさんが、眦を決して威圧するように問いかける。髭を蓄えた筋骨隆々の男の人が、ドスの利いた声で尋ねるのだから、そりゃもう怖いなんてもんじゃない。
「大人数でこの雨の中どこへ行くつもりだ? 行状に不審の
でも、対面する男性たちも負けていない。
頭には鉄兜を被り、胸当てを付け、剣や槍を手にした一団は、オストバーグ市警備隊の兵隊たちだ。
彼らはグレイン区の中ほどに検問所を設け、私たちを待ち構えていたのだ。
「侯爵様に施しを戴けるんでさぁ。別に何も疚しいことはありませんぜ」
と、トッドさんは事情を明け透けに説明する。別に法に違反していることは何もないから、正論で押し通すつもりだ。
けど、警備隊の人たちは付近の住民から通報があったとか、荷物を検めさせろとか、あれやこれやと理由を付けて通してくれない。
もちろん、取り調べを受ける訳にはいかない。でっちあげでもなんでも、嫌疑さえ掛けてしまえば向こうは堂々と武力を行使できるからだ。
トッドさんは若衆を引き連れて、真っ向から警備隊とにらみ合いをしてる。
こうなれば、避難民を連れているこちらは分が悪い。緊張が伝播して、人々はあっという間に不安と恐怖に支配されてしまう。
「気にしないでください、平気ですよ! なんでもないですってば!」
私は人々の間を歩きながら、馬鹿みたいに明るく声を掛ける。それくらいしか、できないからだ。
事態の打開策が見当たらない。私は避難民が恐怖に駆られてバラバラにならないよう、必死に
「クレムっ! そっち大丈夫!?」
私は集団の後方へ、同じく沈静化に務めていたクレムに走り寄る。
「…………」
けれど、彼女はなぜかぼんやりと立ち尽くし、困惑した様子で辺りを窺っている。
「どうしたの、何かあった!?」
ただ事ならぬ様子のクレムに、私は不安も露わに問いかける。流石に、明るい振りをするのもきつくなってきた。
「い、いえ……あの子が、あの男の子が急に通りがかって」
と、クレムはしどろもどろに呟く。いつもの理知的な姿からは想像できない慌てぶりだ。
「ちょ、ちょっとちょっと、分かるように説明して」
私はクレムを落ち着かせ、話を伺う。
すると、彼女は何と、いつぞやに出会った不思議な男の子が、今しがたまでそこに居て、目を離したすきに忽然と姿を消してしまったと言うのだ。
「不思議な男の子って、オストバーグに来た時の?」
「……はい。間違いありません」
その子は確か、私たちがオストバーグに始めてきた時、クレムに話しかけてきたという少年だ。彼女は度々その子を探していたみたいだけど、結局会うことはできなかったみたい。けど、
「なんでその子が? っていうかここに居たの? 避難民じゃないよね」
「だと思うのですが……」
あまりに脈絡がなさ過ぎて混乱する。そりゃあ驚くのもわかるけど、今は誰に会ったかより、これからどうするかを考えないと。すると、
「あの子は、教会を目指せと、そう仰っていました」
クレムが真剣な声音でそう告げる。え? それってその男の子が指示したの?
「な、なんでそんなこと……」
「わかりません。ですが、確かにそう告げられました」
困惑する私に、クレムは青い瞳を輝かせて説明する。
誰かも分からない子供が突然通りかかって、いきなり指図してきたなんて、意味不明すぎる。けど、
「教会……」
ぽつりと、避難民の間から声が漏れた。
「そうだ、教会に行けば……」
「ああ、マルヴィナ様、どうぞ我らの祈りを……」
呟きは、波のように群衆に伝わっていく。
「え、え?」
先ほどまで恐怖に震えていた人々が、口々に祈りと聖句を唱え始める。ある種異様な光景だけど、私は人々の心が急速に落ち着いていくのを肌身で感じ取る。
教会という存在を思い起こし、彼らの恐怖が一気に和らいだのだ。
「確かに、このまま北上するのは難しいかもしれません。東に進路を取ってユクレスト区を経由すれば、目的地には着けます。……大聖堂に近付けば、人心も落ち着くでしょうし」
と、冷静さを取り戻したクレムがそう告げる。
言われてみれば、少し遠回りになるけどルート的には悪くないかも。ユクレスト区は官庁街だし、教会の近くなら警備隊も悪辣な真似は控えるかもしれないし。
「……分かった。とにかく相談してみよう」
私は小雨の中を走り、警備隊と押し問答をしているトッドさんへとその意見を告げる。
すると彼は即座にその案を受け入れてくれた。ただ、
「私たちが、ですか……」
避難民の誘導を私とクレムに頼みたいと言い出したのだ。それも、有無を言わさぬ断定的な口調で。
「で、でも……」
その悔恨に満ちた表情に、ワンテンポ遅れて理解が追い付いた。
この人たち、警備隊を足止めするつもりだ。最悪自分たちが逮捕されても、民衆を避難させようというのだ。
「……はい。全力を尽くします」
男たちの決意を、
私は胸を張ってその任を請け負う。そうして、
「じゃあ皆さん、大聖堂に寄ってから行きましょっか!」
進路を変え、再び動き出す民衆たち。荷馬車の馭者を務める男性以外、本当に何の力も持たない人々の群れ。
制止を振り切って歩き出した私たちに、警備隊が怒声を上げて反応する。けれど、
「おや、どうしたんでさぁ皆さん、急にかっかしなさって。――別に道を歩いちゃいけない法律なんて無いでしょうに」
トッドさんとピアソン一家の若衆が、壁になって彼らを止めてくれる。
今にも喧嘩が起きそうな気配。けど、トッドさんたちはきっと無抵抗を貫くつもりだ。
どれだけ殴られようと、いかなる責めを負わされようと、貧しい人々の盾となる。
男たちの覚悟を背に、私たちは再び行進を始めた。