──煙を吐き出す。
長く長く。夜の湿気の紫煙が溶けていくように。
エールはホテルのベランダで煙草を吸っている。
はっきり言って想定外だ。考え事が止まってくれない。
思考停止できないのは、この道を選んだからだ。
歩みを今更変えられないのは、運命を呪ったからだ。
煙草を辞められないのは、夜が暗いからだ。
「どうする────?」
状況は想像以上に複雑化していた。
これでは銃を手に入れるのも楽そうではない。
だがそれ以上に、エールは答えられなかった。
フォンの
「何がー?」
「! 居たのか、アンブリエル。びっくりした……」
「え、結構さっきから居たけど。どしたの、あんた。スーロンに接触したんじゃないのー?」
「……いや、まあね」
気が抜けていたのか。人の気配には敏感な方だ──やはり、自分は少し変になっているらしい。
「まー、そう悩みすぎない方がいいってー。ほら、あたしって狙撃手じゃん? 気配を消すのはお手の物ってゆーか」
「いや、別に君に気付けなかったことで悩んでる訳じゃないんだけど……。というか、何か用?」
「いや、別に用とかないけどさ。なんとなく来てみただけ」
「そう……」
吸って、吐く。
いつの間にか染み付いていた動作、慣れた味。夜にあって、煙草の火はよく見える。日中では、この光は見えない。
「ふ────……」
一息の沈黙があって、アンブリエルは不意に口を開く。
「ねえ」
ちらり、と目をやった。いつも通りの気怠げな表情。風呂上りなのか、いつものサイドテールがないのが印象的だった。
「それ、美味い?」
「……時と場合によるね」
「はぁ? 何それ」
「言葉通りさ。今は……あんまり美味くないけど。でもまあ、美味い時は本当に美味い。酒だってそうでしょ? 美味い時と不味い時がある。朝っぱらから飲むビールが美味いと思う?」
「んー、あたし別に飲まないし……」
「僕だって飲まないよ。酒は嫌いだ」
「そうなんー? まあ、あたしも酒は嫌いだわ────」
ゆらゆらと揺れる煙を、背後の室内灯が照らしている。曖昧な灰色に光を照らすと、煙の輪郭をなぞった。
「てか明日はどうすんの? あんた、早いとこ銃を調達しないといけないんじゃない?」
「言われるまでもないさ。ただ……少し状況は複雑でね。決めあぐねている。全く、こんなことならもう少しこの国の情報を集めておくべきだったかな。アンブリエル、この国には詳しい?」
「んー、まあここらへん一帯の国の情報くらいは頭に入れてるって感じ? 一応ほら、ラテラーノ出る前に調べといたし」
吸って、吐く。一呼吸空いてエールは問う。
「君の正体を、聞いてもいいかな」
「や、ただの守衛隊の一兵卒だって。最初っからそう言ってんじゃん」
「答える気がないなら別にいいんだ。無理に知りたいとまでは言わないさ」
「いや、だからさあ……」
すっとぼけるアンブリエルに、エールは何一つとして動じない。
……流石に無理があるだろ? わざわざNHIに同行までしていたんだ。明らかに一兵卒じゃないことはわからない筈がない。
少し前、ラテラーノの部隊がエクソリアに来ていた理由は、正式には判明していない。だが推測では、ウルサスによるエールの暗殺の依頼だったのではないかと思う。長距離武器を持つラテラーノ銃は暗殺には最適だ。そういう理由でもなければ、ラテラーノが関わる理由が存在しない。
「言っちゃなんだが、君はラテラーノへ帰るつもりなんだろう? だからそこまで君のことを知る必要があるとも思えなかった」
「まーね」
「だが僕の本音を話すならば、エクソリアに残って欲しいと思っている」
「え? あたしがってこと?」
「そうだ。正直銃の扱い方なんて分からないし、詳しい人間が欲しいとずっと思っていてね。でもまあ、君がそのつもりじゃないのならいいんだ。巻き込まれただけの人を、巻き込んだままにするのも悪い」
「え……そうだったん……?」
「ああ。だが長距離狙撃の技術は魅力的だ。ボウガンとは桁違いの射程を誇る力なんだ、欲しいに決まっている。それに何より」
煙草を鉄柵に押し付けて消した。
「僕は君のことが好きだからね」
──この男、一体何を言っているのか。
アンブリエルは一瞬頭が真っ白になった。
ぱくぱく、と口を動かそうとするが、動かない。
顔が急激に熱を帯び始める。顔の色はまるで、アンブリエルの髪色のようだった。
そんなアンブリエルに背中を向けたまま、エールは構わず話し続ける。
「狙撃手らしい視点を持ってる。高い視野と言うべきかな……。そういう人材はそうそう見つけられるものじゃない、とても貴重な能力だ」
あっ、好きってそういう……? 一瞬冷静になる。
「それになんというか……君の話し方が好きだ」
また顔が熱くなる。忙しい──。
問題なのは、エールがそれに一切気がついていないということ。
「僕はどうにも気を張りがちになるからさ、君みたいな人がとてもありがたいと思う。雰囲気とかもそうなんだけどさ、たまに君に癒されている僕がいることに気がつく」
──やばい。
何がやばいか分からないけど、やばい。
やばい。
どうしよう?
「だから、君さえ良ければエクソリアに残ってくれないかなーとか思ったりしててね……って。どうしたの?」
顔を覆うアンブリエルへ振り向いて、エールは不思議そうな顔を浮かべた。
「ちょ、こっち見んな! マジ、マジ今はダメ、あっち向いてて!」
「……え? いや……なんで?」
エールの致命的な欠陥。鈍感という言葉で済ませられないほど救いようのない点が一つ。この欠陥は残念ながら改善されることはなかった。
「い、今はダメなんだって! うぅ……に、逃げろーっ!」
アンブリエルは逃走した。
ベランダの扉を思いっきり開きそのままエールの借りている一室から飛び出して自分の部屋へ。勢いよく扉を閉めて鍵を掛けた。
「……え? なんで?」
その疑問に答える人物は、残念ながら存在しなかった。
──隊長ってば、マジ隊長っすね、と。
誰かの呆れる声だけがエールにだけ聞こえていた。
「……いや、え? なんで?」
『だからさあ、隊長ってばさー……。ホントさー……』
虚空から幻覚が現れる。エールにとっては慣れたものだ。イーナの姿。
エールは慢性的な幻覚、幻聴の症状を発症している。あとたまに頭痛、それと視力の低下。鉱石病によるもの、とグエンは診断していたが、詳しいことは分からない。
「なんだってんだ……。イーナ、君は分かるの?」
『ホントマジ、隊長さー……。なーんで死んでからも隊長の世話見なきゃいけないんですかー。たいちょーってば自分が何言ったか分かってますー?』
「はぁ……。時々、君たちは実は僕の幻覚なんかじゃなくて、本当は化けて出てきた幽霊なんじゃないかって思う時がある。勘弁してくれないかな……」
『ぎくっ。いやー、幻覚ですよー。ユーレイなんていませんって。いる訳ないじゃないですかーやだなー』
「……いよいよ僕の頭も末期だな。相当参ってるらしい」
『元気出してくださいよー。ほら、順調じゃないですかいろいろ』
「順調な訳あるか……」
項垂れるエールと、その背中を叩くイーナ。もっとも、それはエールにしか見えないものだ。少なくとも、それだけは分かっている。
『てか、アンブリエルさん? が好きなんですか?』
「ああ。気に入ってると言い換えてもいいかな」
『……そんなところだと思いましたよ。ほんとにさっき言ったような理由なんですかー』
「実はもう一つある」
幻覚と話すなんて、いよいよ僕もやべーやつの仲間入りだよな、とか思いながらエールは話す。側から見れば独り言だが、別に誰も気にはしない。
「──あの目が、僕と似ていた。あれはたくさんの人間を殺してきた目だ。必要とあれば殺せる側の人間なんだよ、彼女は」
夜空を見上げる。
同時に、その罪を背負いながら生きる姿が、エールにとってはある意味での光でもあった。
「僕と同じだ。けど……彼女の目はどうにも綺麗でね。僕とは大違いなんだ、不思議だよね」
『まあ隊長の目は結構汚れてますからね』
「幻覚のくせによく喋る……。余計なお世話さ」
『はいはいすみません。で、何です?』
「まあ──他人と思えない。それだけの話さ、多分ね」
『たぶん?』
「ああ、多分。もしかしたらの話に過ぎない。本当のところがどうか、なんて分からないよ。ただ……僕はまだ、彼女がちゃんと笑ったところを見たことがない。もしアンブリエルが笑ったら、どんな顔をするか……僕は見てみたいのかもしれない」
人殺しの罪を背負って笑えるのか。彼女は幸せになれるのか。
その軌跡に自らをなぞらえてみた。
まだその答えは見えない。
まだ見えないままだ。
まだ。
*
一夜明けて、朝。
何階建てかのホテルの一室、ヴィクトリア風の廊下に出て、エールはアンブリエルの部屋のドアをノックした。コンコン。
「起きてる? 僕だけど」
返事はない。
「……うーん」
昨日の夜のこともよく分かってない。怒ってる……とかあるだろうか?
少し経って、ドアがそーっと開く。
ドアチェーンの向こう側に、ちらりとこちらを伺うアンブリエルの顔が見えた。
「おはよう、アンブリエル」
じーっ、と。
何も言わない様が、まるで警戒をしている猫のようだ、とエールは思った。
「確か一階で朝食があるんでしょ? 食べに行かない?」
じーっ。
ばたん。
ドアが閉まった。
取り残されたエールの横を、宿泊客が横切って行った。寂寞。無常。
「おーい。行かないの?」
ドアが開く。チェーンはかかったまま。
「……」
無言の圧力とともに睨むアンブリエルだが、エールはそれに一体何のメッセージが籠もっているのか理解できなかった。
エールはアンブリエルに、出来る限り自然な微笑みを浮かべた。
にらめっこが始まる。
三秒経過。五秒経過。
堪えていた両者だが、アンブリエルの顔がみるみる内に赤らんでいき、ドアが乱暴に閉まった。ばたんっ!
「…………おーい。ごめんって」
静寂。
「出ておいでー。おーい。おーいってば」
出てこない。
「昨日のことだけどさ、怒らせちゃてたらごめん。でもあれ全部本心だからさ、特に訂正する気はないんだ」
がしゃーん。部屋の中で何かが倒れる音がした。
「いや、本当にごめん。怒らせる気も、悪気もなかったんだ。ぶっちゃけ君が何で怒ってるのか僕には分からない。えーっと」
思いつくままに口を動かすエール。
部屋の中からは何も聞こえない。
「君の髪ってとても綺麗だよね、さらさらでさ。サイドテールもよく似合っていると思うよ。君の容姿は率直に言ってとてもかわいいと思う。女性として魅力的だ」
ついに思いつくままにアンブリエルを褒める作戦に出たエール。
こういった場面に対する対応の仕方がわからないため、何でもやってみよう作戦に出た形となる。無論、本人は至って真面目である。大真面目にアンブリエルの機嫌を取ろうとしている。
別名、
「細かい部分にも気を使っているよね。ほら、君って今は一応レオーネの制服を着てるけどさ、袖の部分とか細かくアレンジしてるよね。そういう部分って、とても好ましいと思うよ」
ばたーん!
人が転けて床に衝突した時の音が室内から響く。
これは効果があるのだろうか、とは思ったが他に方法が思いつかないのも事実。
「天使の輪っかとか、羽とかも相まって僕はたまに君のことを本当の天使と見間違える時があるんだけど──」
「わ、分かったっ! 分かったからっ! 分かったからこれ以上そんな場所でそんなこと言わないでよねーっ!?」
ホテルの廊下、アンブリエルが聞こえるということは──他の客にも聞こえているということ。よく臆面もなくそんなことを言えるな、とアンブリエルは高速で回転する思考の中で思った。
「やっと出てきた……」
「やっと出てきたじゃないでしょーっ!? 何であんたが疲れた顔してんのよっ! 朝っぱらから一体何言っちゃってくれてんの!?」
「どうしたの、そんな顔真っ赤にして……。そんなに怒ることもないじゃないか、ひどいな」
「ひどいのはあんたの方だーっ!」
怒ってないし──怒るよりもっと強烈な感情がアンブリエルを支配していた。
「今日もやらなきゃいけないことがある。だからちょっと、あんまり手間取らせて欲しくないんだけど……」
「あたしかっ!? あたしが悪いってのかーっ!? 何苦笑いしてんのよ、あんた自分が何言ってるか理解出来てないの!?」
「えーっと、出来る限りの語彙を使って君の魅力を並べた……。やっぱり嫌だった?」
「い、嫌っていうか……。な、なんて言うか……」
「まあ……ご飯食べに行こうよ。朝食は大事だ」
「こっ……この男……! おかしい、こいつ頭おかしい……っ」
耳まで真っ赤にして、アンブリエルはぶつぶつと小声でエールを罵った。
「クレイジー、戦闘狂、訓練バカ、腹黒、若白髪……! 爆発して死ねっ、死ねぇ……っ」
全てに聞こえないフリをしてエールは歩いた。
まあ、出てきてくれたことだし……。
「死ねっ、死ねこの……っ、バカ、アホ、理性0っ、クソ狐……っ!」
この状態のアンブリエルをどう宥めるか、そればかりが問題だった。