7章良かったですね
Wさんかわい
引けて良かったです
スカベンジャーは古臭くて重苦しいドアを開き──カチリという異音を捉え、咄嗟に飛びのいた。
腰の大剣に手を伸ばし、ドアの向こう側を警戒。開いて出てきたのは真っ黒い人物──仲介人か? 表情は見えない。
「──なかなか警戒しているようだな。なぜ今、ドアから離れたんだ?」
「……爆発物トラップだと思った。あんたの仕業か?」
「そうだ。テストと言ったところか──無能は必要ないのでね」
男はくつくつと笑った。不快だった。
黙ったまま臨戦態勢を続けていると、男は話し出した。
「いや何、合格さ。悪い悪い。さあ、話をしようじゃないか。こっちだ」
「いや。このままでいい……この距離だ。この距離で話せ」
あからさまな警戒。だが、裏の仲介をやっていればこういうことも珍しいことではない。
「結構。さて、では最初の仕事を任せよう。何、とても簡単な仕事さ」
懐から取り出した一枚の封筒。何も書いていない。
「この一枚の封筒を、指定の場所まで届けろ。それだけだ」
「それだけか?」
「ああ、それだけだとも」
放り投げられた封筒をキャッチ。中身には何か紙が入っているらしい。
「君もこの世界で生きてきたのなら分かっているだろうが……
傭兵や仕事屋は都合のいい道具だ。誰の下に居ようとそれは変わることはない。例えエールの元に居ても、道具は道具のままだった。
そして、その警告を破ることで生まれる結末は一つ。死、それだけ。
裏切りはご法度だ。特に裏の世界では信用が大切。
スカベンジャーのような無名で信用のない傭兵に、最初から大きな仕事などは任せない。最初はこういう使いっ走りだ。
だが、いずれエールがスカベンジャーを使うために仕込んでおいた策でもある。
スカベンジャーはレオーネに所属しているが、書類上は存在しない。エールがほぼ個人的に雇っている傭兵だ。
幾らかの情報工作を加えて、エールはスカベンジャーの存在を消していた。故に、この時点でスカベンジャーがスパイだということに誰も気づいていない。ここがアルゴンの街ではないことも大きかった。
「ふん。で、どこに運べばいい」
「バオリア中央、フロウリーという飲食店の側……右側の路地を行った場所に、汚れた箱が置いてある。その中に入れろ」
「それで終わりか?」
「ああ。以後、リン家との連絡は全て俺を通して行われることになる。今後仕事の連絡は
パシっ、と乾いた音を立てて端末を受け取った。
エクソリアに置いて固定ではない電話はそれなりに珍しい。高級品だということだ。同時に、その秘匿性を示すものでもあった。
この携帯電話の欠点としては、対になるもう一つの携帯電話にしか通話できないことだが、その反面傍受の危険が少なく、エクソリアの裏側ではそれなりに使用されていた。
そもそも南部の生活様式に対して高度な技術を有さないエクソリアの電話技術は相性が悪く、連絡手段は手紙などであることが主だ。
だが同時に、この封筒の正体が一層分からなくなったのも事実。
おそらく、これはスカベンジャーに対するテストなのだろう。
能力があるのか。信用できるのかどうか。
初めてではない。この世界では裏切りや不義理が横行するが、皮肉にも信用というものが大切だ。
面倒だ──。
ただ、それでもこの任務をやり遂げようとしているのは、一体なぜなのだろうか。
この心をざわめかせるのは、一体なぜなのだろうか。
あれは、彼女の陽炎なのか。それとも、ただの人間か。
このバオリアの街に強い日差しが照り付け、大地の上に蜃気楼を作って、ゆらゆらと揺れていることにも、まだ気づけないまま。
*
エールには習慣がある。
習慣というよりは癖に近い。
考え事をするときの癖だ──これを自覚したのは最近になってからで、それまではほとんど無意識だ。
考え事、特に複雑なことを考えようとするとき、エールはどこか風通しがよく、景色のいい場所、なおかつ一人でいられる場所へ足を運んでいた。
ロドスにいた頃では甲板。ヴィクトリアにいた頃は街並みの屋根の上。そして今は、バオリアを一望できる丘の上。
エクソリアは緑豊かで、木々に囲まれている。
夏の湿気が木々の緑から滲み出してきているようで、じっとりとした汗が張り付いていた。
開拓のされていない丘は、ツタや雑草が生い茂り、その上に熱帯特有の黒い木々が緑を彩っていた。
一般人がこの丘の上にたどり着くのは、なかなかに難しいだろう。雑草には虫や蛇が潜んでいるかもしれないし、足場も悪ければ、歩くのも難しい。
だがエールは太い枝に腰掛けて、昼下がりのバオリアを見下ろしていた。
広く、大きい街だ。エクソリアの感覚からすれば、十分に都市と呼んで差し支えない。
開拓された土地では、今日も人々が働いているのがこの場所からでも見えた。それほどはっきりと見えるわけではないが──。
農業都市の別名を取るだけはあり、巨大に開拓された土地の中心に、簡易建材の白い建物が無数にひしめいていた。
その一角で、今も掃討戦が展開されている。
掃討戦そのものに関しての心配はない。勝つことは前提、その上でどれだけ彼らを殺さないで終われるかが鍵だ。だがグエンがいれば最悪の事態にはならないとエールは考えていた。
奇妙なものだと思う。
バオリアは今日も、いつもとそう変わらない生活を営んでいるのに、そのすぐ側では戦争だ。
そして、一発の銃声をエールは聞き取った。
それが意味するものを理解し、また状況の悪化を悟る。
あとどれくらい殺し合えば、僕らは満足するのだろうか。
あとどれくらい死人を増やせば、この国は変わるのだろうか。
「……それとも、この国の人々を全て殺せば、この戦争は終わるのか?」
呟いた一言は、自嘲か嘲笑か、どっちだったのか。エールにもわからない。
ガサ──伸びきった雑草が揺れる音。
「ちょっと、そこのあなた!」
木の上から見下ろせば、人がいる。
いや、人?
未開拓の丘に人?
息も荒く、エールを見上げているのは、一人の女性とも少女ともつかない人物だった。
スカートから覗く足は泥で汚れている。それも当然、そんな場所を踏破するなら汚れて当然だ。
追いかけてきたのだろうか?
自分の命を狙う連中は多い。だが尾行に警戒していない。どうせ襲われても、どうにでもできる自信があった。
「……やっと、見つけたわよ! エール……いえ、アリーヤと呼んだ方がいいのかしら?」
──────。
可憐な顔立ちをした、金髪のヴァルポ族。瞳は悪戯げに輝き、ここにたどり着くまでに苦労があったのだろう……疲労の色が見て取れた。
「……君、は────」
無表情で呟くエールの、どことなく驚いた顔を見て、その反応に満足げな人物は右手に掴んだアーツユニットを地面に立てて、少し胸を張った。
悪戯が成功したような表情だった。
言葉の続きを待つが、エールの一言が全てをおじゃんにした。
「……誰だ」
……。
…………。
………………。
……………………。
そよ風が肌を撫で始めて、吹き終わるほどの時間、沈黙が横たわっていた。
「は、はあ……──はああああああああああああああぁっ!?」
金髪のヴァルポ、ブリーズは叫ぶほかなかった。
「あ、あなた……え、エール、よね? 人違いだったりしないのよね?」
「……僕のことをアリーヤだと言ったね」
「え、ええ。間違っているかしら?」
「……いや。それが間違いでないからこそ……分からないね。なぜ、その名前を知っているのかな」
腰を下ろしていた幹から飛び降りた。
エールにとっては未知の人物で、戦闘能力、およびその意思は感じ取れないが、警戒はする。
問いの回答を待っていると、目の前の人物は、表情を変えていった。
「質問に答える気はないってことかな」
「……いいえ。でも、一つ……聞かせて欲しいの。あなた、その右腕……。見間違いかと思ったけど────」
「その前に、君が何者なのかを答えろ」
「いいえ、私の質問が先よ。エール、あなたは……なぜ、右腕を無くしているのかしら」
「君の正体によっては教えられない。それに、慣れているとはいえ一方的に名前を知られているのはそう気分がいいものじゃない。もう一度聞く。君は誰だ」
「……本当にエールなのよね?」
「どのエールか知らないが、確かに今はそう名乗っているのは確かだね」
「えっと、その……なんだか人違いかもしれないって怖くなってきたから確認させて欲しいのだけど……あなた、昔ヴィクトリアで暮らしていたことがあるわよね?」
これで、ますます分からなくなっていく。
質問に答えることにした。話を進める。
「なぜ君がそれを知っているかは問わない。少しばかり君を信頼して答えよう────あるよ。もう何年前か分からないが……」
「ロンディニウム市よね?」
「その通りだね」
「十歳の頃から八年近く、スラム街で暮らしていた?」
「……君は、本当に誰なんだ? 全く分からない。僕のことを知っているのだろうが……君のような人物に見覚えがない……」
「え、嘘!? ほ……本当に? ほら、私の顔をご覧なさいな、これでも本当に思い出せないの!?」
「……」
端正な顔立ちだ。
気品と自信に溢れた顔立ちは、今は不安と焦りに染まっているが……一見して分かるほどに、高貴な雰囲気が溢れていた。
少なくとも、エールは悪印象を持つようなことはなかった。
人の精神は顔だちや表情に現れる。
彼女は、どこからどう見たっていい人にしか見えなかったし、感じられなかった。それに嘘や悪感情があるようには見えない。
「いや……。分からない。君のような人に出会っていれば、記憶には残っているはずなんだが……すまない。君の名前を教えてくれ」
「えーっと……。い、いえ……いいのよ。別に、覚えてなければ、ええ、覚えてないっていうのなら、仕方ないのよ……ええ。仕方ない、仕方ない、わよね。ごめんなさい、突然驚かせるようなことを言ってしまって」
ここまで露骨に落ち込まれると、かえって申し訳ないような気もしてくる。
「えっと……。私の話をする前に、場所を変えないかしら? 虫が多いじゃない、この辺り……っていうか追いかけるの、本当に大変だったのよ!?」
雑草を踏みつけて話していたが、言われて見ればそうだ。特に平気で足の肌を出しているような、自然を舐めきっている服装。
エールは適当に辺りを見回し、大きな岩に辺りをつけた。
あそこでいいか。
自然な動きで、左腕で目の前のヴァルポを抱える。
「……えっ? ちょ、え、エール? 何して────ええええええええっ」
そのまま跳躍して、それなりの大きさ────ちょうど、二人が並んで座れるくらいには大きい岩までそのまま飛び乗った。
「はぁ──っ、はぁ──っ、ちょ、れ、レディーの扱い方までは、学んでいないようねっ……!」
岩肌に腰を下ろす。
ここならば雑草が届かないし──虫の心配も、幾らかは薄くなる。
エールに続いて、ちょこんと座る。その座り方さえ、エールのように乱暴なものではなく、どこか丁寧だった。
「さて、聞かせてもらうよ。君が誰なのか」
「え、いきなり? 私が言うのもなんだけど、もう少し勿体つけてもいいんじゃないかしら?」
「最終的に話してくれるのなら、君の望む通りにしよう。言いたいことがたくさんありそうな顔をしているから」
「……もしも、あなたが私の知っているエールだとしたら……変わったわね、あなたは」
黙って続きを促した。
「”君”……なんて。似合っているのかいないのか。私の知っているあなたは、もっと粗暴で……”お前”とか、”てめえ”とか使っていたし……そんな表情も、したことなんてなかったわ」
それを聞きながら、エールは彼女のことを思い出そうとした。
だが凛とした表情に見覚えはない。それこそヴィクトリアを思い出してみても思い出せない。それは、時間の経過によるものか、それとも……別の要因によるものか。
ここまで好き勝手に言われるからには、どこかで出会っているのだろうが。
「グレース・アリゾナという名前に、聞き覚えはあるかしら」
ほんの少しだけ寂しそうにして、彼女はそう問いかけた。
エールには、確かに心辺りがあった。その名前は、まだ忘れてはいなかった。
「……これはまた────……」
驚きから、マジマジとグレースの顔を見た。言われて見れば、確かに。
「君も、人のことは言えない……。僕が知っていたのは、世間知らずで甘っちょろい、ボンボンのお嬢様だったはずなんだけどね」
だが、目の前にいるのはしっかりとした芯を持つ、一人の女性だった。
それを思い出せなかったのは、あまりにも変わり過ぎていたからか、それとも──。
「! ほら、覚えているじゃない……でも、それは私にとっても一緒よ。私が知っていたのは、粗暴で頭が悪くて、品のないスラムの掃き溜めの一人だったはずよ」
ほっとした表情を見せるアリゾナ。
覚えていてくれた。
「散々な言い草だね。そんな風に思っていたとは、少しショックだな」
「本当に?」
「まさか。嘘だよ」
自嘲気味に笑い、エールは器用に左手だけで煙草を一本取り出して火をつけた。
煙が風に流されて、溶けていく。
「……いつだか、煙草なんて吸う奴の気持ちはさっぱり分からないとか言っていませんでした?」
「ん……ああ。そうだったかな」
「そうよ。早死にするわよ、やめた方がいいわ。忠告よ」
「……そうだね」
そう言いながら、別に火を消さない辺りにこの会話の虚しさが存在していた。
「でも、驚いたな。エクソリアに来ているなんて……命が惜しくないのかい?」
「惜しいわ。でも──……エール。あなたに、いくつか伝えたいことがあるの」
「僕に?」
「ええ。一つ確認するけれど、あなたは今……この国の軍隊の指導者で、英雄なのよね」
「レオーネは実は、正式で公式な軍隊じゃない。法律上は、僕が勝手に立ち上げた民間組織に過ぎないんだ、まだね」
「そんなのどうだっていいの。説明して欲しいことは山ほどあるわ。でも、先に言いたいことを言わせてもらうわよ」
「聞くだけは聞くよ。久しぶりに会った知り合いの言葉だしね」
知り合い、という表現に、アリゾナは少し詰まるものを感じながら、エールと同じようにバオリアの広い街を見下ろして言い放った。
「この戦争を、今すぐやめて欲しいの」
それから、エールが煙を吐き出す音が、静寂の穴を埋めていた。
「似たようなことを、よく言われるよ。この国の人々からね。それは手紙だったり、直接レオーネを訪れたり、あるいはもっと直接的に訴えかける手段を持って、僕のところへやってくる」
「あなたは、それになんと答えるの?」
「何も。代わりに、この国の現状が答えてくれる。一度転がり出したボールを止めるのは、実はそう簡単なことではない。それが坂道を下るボールは加速し、運動はより大きくなる。それはもはや、誰かが捕まえることなどできない。戦争ってのものは、
「答えになってないわ。ねえエール。これは、あなたが自ら望んでいることなのかしら」
「その質問に答えるのは難しいね」
吸い殻をブーツの踵ですり潰した。
「君はどうしてエクソリアへ?」
「支援活動よ。いくつかの危機契約を結んでいるの────それと、あなたがここにいるっていう噂を聞いて」
「はは、噂……? ジャーナリストの記事を、噂とは呼ばないだろう」
「そうね。でもあなたの名前はそれなりに、有名よ」
「さて、この名前とこの国は、果たしてゴシップ記事よりも人目を引くのかい?」
「別に新聞だけじゃないわ。それに、別に私が戦時下にある国を訪れるのは初めてじゃないもの」
「……本当に、変わったね。この世界はどう? 君が期待していたようなものだったかな」
アリゾナは、無表情で街を見下ろすエールと同じく、俯瞰したまま答えた。
「私が期待していたほどでもなかったし、きっとあなたが思うほど酷くもなかったわ」
「なるほど。確かに、僕は現状の認識を間違えているかもしれないね」
「昔した質問を、もう一度するわ。ねえエール、あなたは……何かのために生きているかしら」
「僕には……やらなくてはならないことがあるんだ」
「そのために、右手も……そして、その頬の源石結晶……鉱石病の進行も、別に構わないっていうのかしら」
「どうしようもないことだ。治療も確かに結構なことだが、それはあくまで延命に過ぎない。根本的なところを変えられるわけじゃないんだ。ならば、それよりも早く……というのは別に、おかしな話じゃないだろう」
アリゾナは手を伸ばして、エールの頬の結晶に触れた。
体温の暖かさが、固い感触を通して伝わる。
「触れるな」
「どうしてかしら?」
「鉱石病が移る。感染したくはないだろう」
嘘だった。なんでもないように吐いた嘘の真意は、触れられたくなかったからだった。
「いいえ。感染者との接触で、鉱石病は移らないわ」
チラリと横を流し見た。アリゾナの表情は、エールの知っていたものではなかった。
そんな表情をするようになるまで、どんなことがあったのだろうか。
「それに、私も感染者になったの。あなたと同じよ」
初めにエールが感じたのは、浅い絶望だった。
心のどこかでは、彼女は違うと思っていた。
「……。それ、冗談で言ってる?」
「いいえ、本当よ。ある感染者支援活動で感染したの」
「……。そう、か。君も……か。感染状況は」
「顔に出るほどじゃないわ。専門の機関で調べてもらったけど、それほどでもなかったし」
「……そう」
額に手を当てて俯くエールに、ブリーズは微笑みかける。
「あなたが気にすることじゃないわ。これは私の責任で、私が選んだことよ。あなたにどうこう言う権利も、心配する必要なんてないのよ」
「分かっちゃいるさ。ただ、分かったような気分になっているだけさ……。アリゾナ、感染者の人々には、君が命を投げ出してまで救う価値も、必要性もないのだとしたら……君の行動は何かが変わるのかな」
「それ、あなたが言うのかしら」
「どう言う意味かな」
「そのままよ」
ため息。
「それと、今はブリーズと名乗っているの。そう呼んで頂戴」
「
「あら。バカにしているのかしら」
「君には親から貰ったいい名前があるだろう。グレーズ・アリゾナ」
「確かにその名前は嫌いじゃないわ。でもあなたに言われたくはないわね」
「どうしてかな」
「あなただって、親に貰った名前を名乗っていないじゃない。アリーヤ」
だが、彼女がそれを知っているはずがない。エールは目の前の昔馴染みが、どこでそれを知ったのかを考えたが、まるで思いつかなかった。
「一つ、おかしいのは……少なくとも、僕は君にアリーヤなどと名乗ったことなんてない。あの時はとっくに僕はエールだった。正直、そう呼ばれるのはいい心地がしない」
「そうかしら。名前なんてただの記号よ。それでもまあ、
「確かに、酒の名前からから取ったのは確かだが……」
「後から調べてみたの。ロンディニウムのスラムでは、エール酒は安酒の代名詞なのよね。原料の段階から色々混ぜ物をして量を傘増しさせるって言うのが普通だった……合ってるかしら」
「よく調べたね。確かにスラムの酒場なんかじゃあ売り物の酒を水で薄めて量を増やすことは当たり前だ。取り分けビールに限って言えば、原料の麦に雑穀を混ぜると、酒税法と原料上安上がりになるため、もっぱら貧民が好んで飲む。ロンディニウムでは、普通のビールと区別するためにale酒、または
明日の食い扶持にも困るようなロンディニウムの裏側に住む底辺層が、日々の貧困を紛らわすために好んで飲んだ。
そのもっとも好まれた要因は二つ。安いこと。それと、簡単に酔えること。
もっとも、酒場などで売られる際は通常のビールとして販売される。マトモな酒場であればそんなものは出さない。スラムにのみ存在した、貧困を象徴する酒だと言われている。
「どうしてそんなものを名前にしたのかしら」
「……さあ。なんでだったかな。もう忘れちゃったよ」
「いいわ。別に、無理に知りたいとは思わないもの」
「話を戻そう。どこで、僕の名前を知った」
「それはどうしても知りたいことなのかしら。それとも思い出せないだけなのかしら」
「よく意味が分からないね。思い出すと言ったのかな」
「ええ。……あ、いえ、別に……思い出せないのなら、いいのよ。思い出されても、ちょっと困るし……」
あからさまに話を濁すアリゾナ──ブリーズに、多少気になることはあるが、エールは追求はしないことにした。
その真相がなんであろうと、今更終わった話だ。現在に影響は与えない。だから別に、知る必要はない。
「それに、聞きたいことも話したいことも山ほどあるの。何かあったの──いえ、何があったの?」
「生きていて何もないなんてあり得ないことだろう。君もそうだ。まるで信念を得たような、そんな顔をしている」
「ええ。信じられるものを……信じると決めたものを見つけたの」
強く照りつける太陽の元、二人分の濃い影が岩肌に映し出されていた。
木々を揺らす風が、熱気の中でほのかな涼しさを運んで、微かに心地いい。
「だからあなたがこの戦争の原因なら、私はあなたを止めなければならないわ」
「止める?」
「ええ。止めるの。戦争が肯定されていい理由は、存在してはならないわ」
「それが君の答え?」
「ええ。……今の南部を、少しだけ歩き回ってきたわ。凄惨ね」
「バオリアのことかい?」
「ええ。実は、病院を訪ねてきたわ。レオーネの──」
先の防衛戦で発生した負傷者たちの中には重傷を負い、まだベッドから起き上がれない者たちも少なくない。エールでさえ回復には一ヶ月程度を要していた。
バオリア防衛戦から一ヶ月と少し、爪痕はまだ消えない。半年ほど前、北部にバオリアを占領された際の戦闘は市街地への被害が激しかった。
「兵士たちに、話を聞いたわ」
急増した負傷者に対応するために、軍病院が設立され、主に兵士たちの治療を行なっている。一般人の診療も受け付けていて、それなりに風通しのいい施設だった。そのため、ブリーズのような部外者でも入り込むことが出来た。
「味方を誤射してしまって心的外傷を抱えた兵士がいることを、あなたは知っているかしら」
「……ああ。彼のことか」
「敵と見間違えて、仲間を撃ってしまって……それが原因で、殺してしまった。些細なきっかけでフラッシュバックするそうよ。普通の生活に戻れるようになるには、長いリハビリが必要になるわ」
「ああ」
知っている。
彼がもう二度と銃を握れないことも、些細な会話がきっかけになって突然叫び出してしまうことも。
「体の傷も、心の傷も……彼らは加害者であると同時に、被害者よ。どうして人を傷つけなければならないのかしら」
「なら、少し意地悪な質問をさせてもらう。戦うことが悪ならば、南部は北部に降伏してしまえばいいのかな」
「いいえ、そんなこともないわ。それは非暴力ではなく、ただの防衛権の放棄よ」
「ではどうするべきだろう?」
「言葉を持って、話し合うべきよ。傷つけあうだけなら、それは獣と一緒よ。ただ奪い、殺し……ただ生きようとするだけなのは、言葉を持たない獣のやり方よ。私たちは言葉を使えるわ」
「なるほど、確かにそれもそうだ。分かり合えることが出来れば、戦争は終わると考えているんだね」
「そうよ。大抵の争い合う理由は、お互いの不理解にあるわ。エクソリアは元々一つの国じゃない。どうして同じ国の人同士で殺し合う必要があるの?」
あまりに真っ直ぐな言葉で、エールは小さく笑みをこぼした。嘲るものではなく、ずっと変わらない古い知り合いに、少し嬉しくなってしまったのかもしれない。
「はは……君は、あまり変わっていないな」
その寂しそうな顔を見て、ブリーズはエールへの視線を外す。
そんな顔をするくらいなら、やめてしまえばいいのに。
「だが……降りる訳にはいかない。どれだけの人の人生を破壊して、ぐちゃぐちゃにしようとも、やらなきゃいけないことがあると……信じている」
「どんな理由があろうと、それは間違っているわ。どんな崇高な理想や目標でも、その手段に暴力を選んでしまうと、必ず汚れてしまう。その果てにあるのは、結局の所……破滅と、絶望しか残らないわ」
「そうかもしれない。だが暴力は必要なものだ。力なき正義は無力で、無意味だろう」
「じゃあ、どうするって言うの?」
「パスカルがいう所に拠れば、手段は二つあるという。力を持つものを正しくあらせるか、正しくあるものに力を持たせるか、だ。しかし、これは実質的には一つだけしか選択肢が存在しない。なぜならば、正しさに力を与えることは出来なかったからだ」
呟くように話すエールは、ブリーズの記憶とは大きく異なっていた。
まるでイメージが異なっている。かつての面影がまるでない。
「尽きるところ、正しい暴力というものが存在することを信じるほかにない、という事になる」
「抽象化した話を出して、煙に巻こうとしているのかしら」
「まさか。そんなことをする必要はどこにもない」
「……もう少し、話し合う必要がありそうね」
「昔話に花を咲かせるのも悪くはなさそうだが、あいにく今は時期が悪い。それと忠告だが、この国では昼間でも路地裏には入らない方がいい」
「そんなこと、分かってるわ。あ、そうだ……ねえエール、一つお願いがあるの」
「……、いや。聞かないでおこう」
「実は今日エクソリアに着いたばっかりで、無一文も同然なの。こんなことをお願いするのは貴族の一員として心苦しいんだけど……家、泊めてくれないかしら?」
シリアスが崩壊した。エールは顔を顰めて即答。
「絶対に嫌だ。他を当たれ」
「そ、そう言わずに……ね?」
「断るね。まるでいつだかの焼き直しだ。やってられない」
「一生のお願いよ! この国に私が頼れる人なんて、エールくらいしかいないのよ!」
「何。君さあ、ずっとそんな感じなの?」
「……」
「なるほどね。あまり変わってないらしい……。適当なホテルを用意する。それでいい?」
「──いえ、そこまでしてもらう訳にはいかないわ。悪いもの」
「その申し訳なさを、僕には向けてくれないものかな……」
まるで理論が通っていない。
アルゴンではレオーネの本部のソファーで寝ていたが、バオリアでは選択肢が狭まる。レオーネの現在レオーネの掃討部隊が駐屯しているバオリア基地程度しかない。
しかし、エールの個人的な理由でブリーズを入れる訳にもいかない。
一箇所だけ、エールが個人的に所有している所が一つ。
「と、当然あなたにも見返りはあるわよ? 毎朝の健康的な朝食とか……」
「食費」
「う……ほら、掃除洗濯とか……」
「まさか。冗談だろう──」
ブリーズがそんなことをしている姿など想像できない。
「えーっと……じゃあほら……ね?」
「……。一つ、街の中に隠れ家がある。僕はレオーネの方で寝るから、そこを好きに使えばいい」
「え? いえ──悪いわよ。あなたが使っているところなんでしょう? 追い出したみたいで嫌だわ」
「追い出したんだよ」
「いえ、別に……いいわよ?」
「何がだ」
「────……。その、お邪魔する身だし、やっぱり私の気持ちがすっきりしないわ」
「君さ。さっき僕を止める的なこと言ってなかった?」
「それはそれ、これはこれよ」
……。
「……いや、別に……僕は気にしない。バオリア基地に戻るだけだし……」
「い……いいえ! ダメよ。すごく気にするわ。それにほら、使っていい物とか私だと判断できないわ。エールがいた方が私も気が楽よ。女の一人暮らしは危ないじゃない」
「……いや、正気とは思えない。エクソリアに来てどうやってやっていくつもりだったんだ」
「まあ……それは、ほら。どうにかするつもりだったのよ。ほら、今だってどうにかなったわ」
「なってないが」
「なったわよ」
「いいや……。そもそも、どれぐらいこの国に留まるつもりなんだ」
「最初は半年ほどと考えていたけれど……あなたがいることが分かったから、あなたを止めるまで、この国に居るつもりよ」
「おいおい……悪い冗談だ」
「都合が悪いのかしら」
「逆に聞くが、悪くないのか? 僕の立場的に、君は周囲から僕の恋人か何かだと思われるんじゃないかな」
「こ……恋人!?」
ブリーズは声を荒げた。
エールは割と真面目に話す。
「今この国の貴族と事を構えている。連中は手段を選ばないからね──正直、君が狙われる可能性もあるかもしれない……聞いてる?」
「恋人……。恋人……って、そんな────まだ、早いわよね──、ふふっ」
まるで聴こえていない。
エールはブリーズの呟いた言葉の意味がさっぱり理解できなかった。
「じゃあ決定ね! しっかりと私を守ってちょうだい!」
「……。ええ。やだ」
「やだって言わない!」
真正面から暴論をぶつけられると、それはいくらか残っていた理論性が崩壊することを意味していた。
エールがブリーズの強引な言葉に、エールは当然のように押し負けた。
・ブリーズ
購買資格証で来てくれる。かわいい
登場させたかったので登場させました。これ以上ヒロイン増えるってマ? 正直まとめ切れる自身がなくなってきました
・エール
エール酒は実際別にそんな安い酒でもないっぽいんですが、設定上そういうことになりました。酒税法云々に関しては日本の酒税法を参考にしています。ビールが高い理由ですね。