──危機契約、お疲れ様でしたッッッッ
わかりにくいですが過去編の続きとなっております。本当に分かりにくいなこれ
「……なあ、あんた」
「あんた、じゃないわ。私はグレース・アリゾナという名前よ」
「どうでもいい」
あからさまな冷たさにアリゾナが感じたのは怯えなどではなく、むしろ憤りだった。
「良くないわ! 人のことはちゃんと名前で呼ぶものよ」
「下らない。いちいち人の名前なんて覚えてられるか」
「覚えなさい!」
「ちっ……うるさいな──お嬢様ってのはみんなこうなのか?」
お互いに、今まで出会ったことのないタイプの人種。同じ種族とは思えないほど、生まれも育ちもかけ離れている。
「グレースでいいわ。そうやって呼んでちょうだい」
「僕が人の名前を覚えるときは、それが必要な時だけだ。アリゾナお嬢様」
「私はあなたのこと、エールって呼ぶから。決まりね」
「おまけに話も聞かない……」
薄暗い部屋には似つかわしくない、奇妙な騒がしさ。
しかめっつらのまま、エールは階段を登って地下室から出ていく。慌ててブリーズもついて行った。
「どこに行くの?」
「……情報収集だ。面倒ごとはさっさと済ませるに限る」
「私もついていくわ。何か役に立てることが──」
「ないね。明日にでもここに来い。分かったことはちゃんと教えてやる」
ここまで徹底的に拒絶されると、いっそ清々しかったが……。
それでも、アリゾナには引き下がれない理由があった。
「お願いします。私も連れて行って」
「なんでそんなことをしなきゃいけない。余計な面倒を抱えたくない──この辺りがあんたを連れて歩いていても安全であるなら話は別だけど」
「私はこのスラムのことを何も知らないわ。だから知りたいの」
「なんで」
「私の──するべきことを知るために」
「……そうか。もう少し人と話す練習をした方がいい」
「それはこっちのセリフよ!」
冷たい足音を立てて、アリゾナは一階へ上がっていった。
カーペットも引かれてない無造作なコンクリートの部屋。空気が壁に冷やされてひんやりとしていた。
天井近くに備え付けられた窓一つから、昼間の日差しが差し込んでいた。
ぱっと見たところ、ここで生活しているようだった。大きめのソファが一つと、汚れたテーブル。貴族としてそれなりに裕福な生活を送ってきたアリゾナの目からでなくとも、清潔とは言えなかった。
薄緑の髪は、黒くくすんでいた。伸ばしっぱなしの髪は乱雑にまとめられていて、まるで野生で暮らしているようだと思う。
エールはアリゾナを放って扉を開けた。木材同士が擦れて軋む音。
当然のようにアリゾナはエールの後を追った。
「……着いてくるなよ」
「着いていくわ」
「着いてくるな」
「嫌よ」
濁った水溜りを踏む水音。ぱしゃん──エールはそんなことを気にしないが、アリゾナは避けて歩いた。
スラムは無数の細い通りから構成されている。ヴィクトリアにおいて行政が手をつけていない、半分放置されているような無法地帯。
スラムはその住人が一般区画へと進入してこないのを暗黙の了解として、その存在を黙認されていた──。
太陽の上っている時間帯、貧民街は大人しい。夜と昼でその形相をガラリと変える──アリゾナには意外だったが、貧民街といえどごく普通の店……例えば食料店や雑貨店などが開かれていた。
ブリキの看板が軒を構えるその中の一つに、エールは慣れた様子で入っていった。
「ベニー。居るだろ、僕だ」
おっかなびっくり後ろを着いていく。
なんの店なのだろう?
何かの店なのだろうが、棚ひとつない。小さな空間の向こうはスライド式の古びたドアがあるだけだ。
少しすると、奥から人影が現れる。その人物はエールを見ると苦笑いした。
「あんたか。どうした、女連れてるなんて珍しいじゃねえかよ」
「こっちは放っとけ。聞きたいことがある──お前のところに、黒い高級そうな杖は流れてきてないか?」
「杖? いや──知らねえなあ。探してんのか」
「ああ。”カモ狩り”で盗まれたらしい」
「ローザんとこでか。そりゃ確かに、俺んとこの管轄だ……けど、今んとこは来てねえ。もしかしたらスヴィンの方に流れてるかもな。最近はあっちの方に客が流れてる」
「そうか。何か分かったら知らせろ。邪魔したね」
アリゾナは結局、小さな店を出るまで一言も話せなかった。
「……何のお店だったの? さっきの彼は──」
「お前には関係ないし、別に知る必要もない」
「ちょっと、そんな言い方しなくたっていいじゃない! 教えてちょうだいよ」
「ち……。盗品専門の商店だ。表の方で盗まれたものは、大抵ベニーかスヴィンのところに持ち込まれる」
「そんな場所が、いえ……そんな商売が、成り立っているの!?」
「なんだ、意外か? 変な話じゃないと思うけどね」
「そんな……」
犯罪を前提に成り立つ商売。それはつまり一過性のものではなく、日常的に行われているということ。
聞いたことがないわけでも、全く未知なわけでもなかった。だがそれがまさかロンディニウム……栄光の街、王家のお膝元で存在しているなど、想像できる訳もなかった。
「あなたも、
「何がそうなのかは知らんけど、僕はスリなんてみみっちいことはやらない」
「みみっちいって──……」
「いちいち説明するのも面倒だから先に教えておいてやる。僕はこの辺り一帯の用心棒もやっている。奴とはその繋がりだけだ」
「……そう、なのね」
貧困に追われると、生きるための手段は限られてくる。明日のパンにも困るようになると、強盗や盗みへの躊躇が無くなる。
貧民街にも、料理店や服飾店は存在する。だが犯罪への対策が必要になる。警察はスラムから表側に漏れ出す犯罪に対しては敏感だが、スラム内で起こる犯罪になど目もくれない。
よって、手段は限られる……自分の力で敵から身を守るか、あるいは対価を払って暴力を
「いわば抑止力って訳だ。自慢じゃないが、僕の名前はそれなりに通ってるんでね。僕と繋がりのある場所を襲おうものなら、後で痛い目を見ることになる──そういう認識が、このシステムを成立させている」
「……まるで、警察のシステムそのものだわ」
「はっ! なんだ……案外分かってるじゃないか、あんた」
公衆から税という対価を受け取り、治安という報酬を支払う。同じように、何らかの対価を払って安全を買っている。
警察がスラムを守らないのは、税金が払われないからなのかもしれない。
しかしスラムの住人が表側へ出ることは許されない。もし華やかなロンディニウムの道を歩こうものならば、待っているのは投石から始まる排斥だろう。
金がなく、汚れている。一度落ちると、もう元には戻れない。
だが──金があるか、ないのか。
たったそれだけの違いで、スラムの住人は苦しみを余儀なくされている。同じ人間なのに──と汚れた少年は空を見上げて呟いた。
それを横目にアリゾナは歩いている。
実家から飛び出してきたままのアリゾナは、貴族を象徴するような服は着ていなかったが、それにしたって着ていたのは安物ではなかった。
微かに、服が汚れてしまうと思ってしまった自らを、アリゾナはきっと許すことが出来ないだろう。
*
結局その日、収穫はなかった。
それはアリゾナの依頼に関してもそうだったし、エールが抱えている他の仕事に関してもそうだった。
端的に表現すれば、アリゾナが邪魔だった。
「……なんでお前、まだ居んの。帰れよ」
ぎくりなんて音が聞こえそうなほど、アリゾナは気まずそうに笑った。
「お、おほほ……」
というのは、行く宛がない────。
ホテルか何かに泊まろうと思っていたのだが、いつの間にか財布が無くなっていた。
「お前、まさか……それもスられたのか」
「い、いいえ? ち、違うわよ?」
「……見逃さなきゃよかったな」
まあ確実にスられるとは思っていた。今度は多少用心しているだろうと思ったし、別に貴族のボンボンにはいい気味だろうと片付けていたが……。
どこかで気を抜いたのだろう。エールが気にかけていたのはアリゾナ自身に加わる危害のみで、別に小物ひとつなんてどうでもよかった。
どうでもよかったのだが……。
外は暗い。
昼間外を散々見てきたアリゾナは、スラムの危険さが流石に理解できていた。
「……お前、行く当てあるの」
下手くそな口笛が返答の代わりとして、微妙な空気の空間に響いた。
「……ここ、泊めてくれないかしら?」
絞り出すような一言は、どう考えても正気ではなかった。
「あんた貴族なんだろ。その辺の繋がりとかないのか?」
「うっ……今、家出中なのよ……」
「家出……? 他に止めてくれるようなヤツに心当たりは」
「いないわ……」
「ここは僕が拠点として暮らしている場所だ。お前……それがどういう意味かぐらいは分かってんだろうね」
単純な話──男と女が2人だけで、同じ家で夜を過ごすことの意味は、そう多くはない。
アリゾナとて、それくらいはわかっていた。
「……いえ、やっぱり……やめておくわ」
冷や汗を流して、出口の方へアリゾナは歩いていく。やっぱり怖くなったので出て行こうとしていた。
「まともそうで何よりだ。だが──明日の朝までちゃんと無事に過ごせるんだろうね。お前の依頼は続いてる……別にそこら辺で襲われたって僕の知ったことじゃないが──」
「うっ、うるさいわね! いいわ、どうにかなるかもしれないじゃない!」
乱暴に閉じたドアの向こう、夜が迫っている。
それを見届けて、エールは疲れたように息を吐き出した。
まあ間違いなく無事じゃいられないだろう。特に夜の入りにかけては物騒になる。
女の一人歩きは、腹を空かせた狼の前を羊が横切るようなもので、無事では済まない。特にあんな裕福そうなお嬢様などは一発で──。
──だから、何だ?
別に何を気にすることもない。
あの警官のおっさんが多少やかましいかもしれないが、それもどうでもいい。
あんな連中は僕の利益に何も関わりがない。生きようが死んでようが、こっちに迷惑をかけない限りどうでもいい。
さっきはああ言ったが、本心では依頼など流れてしまえばいいと思っている。何も利益などないのだ。
少し目を離した隙に行方が分からなくなってしまった、とか。丁度いい状況もあることだし。
──さっきから、誰に言い訳しているんだ?
最初見た時から……本当に、胸がざわめく。
イライラさせる女だ。力もないのに、妙に知りたがりで、スラムの様々な面を見ては勝手に衝撃を受けたような顔をする。
何も出来ないくせに、自分には何か出来ると思っている。
それは思い上がりだ。
それを知っている──本当の意味で、人は何かが出来るなんてことはありえない。少なくともこんな場所で、何かを生み出したり、守ったりすることなどない。
一体あの女に何が出来るだろう?
まるで、何かの使命でも帯びたような面だが、大切な杖は盗まれるわ財布は取られるわ……馬鹿で間抜け。
だというのに──なぜ、僕はまだあいつのことを考えているのだろうか。
好きか嫌いかで言えば間違いなく嫌い。そもそも貴族は嫌いだし、役立たずは嫌いだし、邪魔をする奴は嫌いだし、偽善者は嫌いだ。本心から正義を信じているような奴はもっと嫌いだ。
なのに、どうして────。
どうして、重なるのだろう。
遠い記憶、彼女の笑顔が────まだ、脳裏に焼きついたまま。
アリゾナの顔が、思い出させる。
──思い出すな。
あの甘ちゃんは間違いなくどこかしらで襲われる。そして助けられるようなこともないだろう──ここは貧民街、適当な連中の欲望の捌け口にでもされ、最後にはどこかに捨てられる。
だから、どうでもいいんだから……考える必要なんてない。
誰が生きようが死のうが、どうでもいいのだから────。
なのに、どうしてだ────。
まとまらない感情と理屈が、自分でも分からないまま。
夕日の赤が青い闇に消えて行って、街灯も灯らないような道は不気味だったが、引けに引けない状況というのが今。
ずんずんと進んでいくが、無論目的地などない──。だが何となく、貧民街を抜ける方向へと向かっていた。
点滅する街灯が、無数の暗闇を生み出していた。
視界の端には黒い人影がいくつもあるような、ないような。
アリゾナは怯えを隠すように早足で歩いて行く。
──ふと、物が倒れる音がしてアリゾナは振り向いた。
乱雑にガラクタが捨てられている壁に、ちょうど人間大の影が立っていた。だがよく見ていると、ビニールシートが盛り上がっているだけで、誰がいる訳でもない。過剰な怯えと緊張がそう思わせるだけだ、と結論づけて、ほっと息をつく。
早く貧民街を抜けよう──と思い直し、去ろうとするが。
「────ん、んん……っ!?」
背後から顔に布が巻かれて、視界と声が一気に奪われる。息が出来ない。
「──っ! ん、────っ! っ!」
当然必死で抵抗するが、あっさりと担がれて、その誰かは素早く走り去ろうと──。
くぐもった悲鳴はどこへも届かない。ましてこの暗闇、スラムの住人とて危険であるため出歩かない。
誰も助けてくれる人はいない──。
その中で、必死に体を動かして抵抗した。それが上手くいったのか、アリゾナの体は何者かの肩からずり落ちて、地面に衝突。
顔を覆う布を乱暴に取り払うと、眼前にはやはり人。暗闇が表情を覆い隠すが、身なりからしてそう上品そうには見えなかった────すぐに、押さえ込んでいた感情が頭を出す。
恐怖──怖い。
地面に落ちた時の痛みや、嫌に静かな周囲の状況、そして明らかに大きな体格。
これから自分がどうなるのか。
言葉は出てこなかった。手を伸ばせば届きそうな距離で、男は沈黙を保っている。
擦りむいた足に力を込める。上手く動いてくれるだろうか。
……逃げるのよ、グレース・アリゾナ。怖がってないで、逃げるの。
不意をついて走り出す。方向は今までと真反対。
必死に、これまで生きてきた中で一番速く足を動かす。前へ、前へ──逃げ切らないと。
だが現実というのは嫌にあっさりとしていた。それに思い出す。アリゾナは、運動神経があまり──いや、全く良くなかった。
慣れない全力疾走により、足場の悪さも相まって派手に転倒。肌を擦りむく鋭い痛みが現実的だった。
……こんな時に、どうして私はドジっているのだろう。
きっとこんな場所へ来るべきじゃなかったのかもしれない。あの憎らしげな青年にも散々嫌味を言われてきた。お嬢様は平和な世界で暮らしているのがお似合いだとか。
本当はわかっている。この道は困難だ。家を出たのなんて、人から見れば愚かの一言では言い表せないほど馬鹿な行為だって。
ずっとあのまま、窮屈だが平和な日々を過ごしていた方がよかった。そんなことは分かっている。だが──。
定められたような日々、正しいと認められない貴族の掟、両親の厳しい表情。
──そんなものが本当の人生だと認められなかったから、家を飛び出してきたのではなかったか。
倒れたまま後ろを振り向くと、暗闇の中で男は笑っていた。にちゃりとした、気色の悪い口元が見えた。
「……あなたなんかに、私をどうすることなんて出来ないわ」
負け惜しみではない。だが暴力なんかに屈したくもなかった。この世界で最も有力な手段であるが、最も下劣なもの。
アリゾナの肩に手を伸ばすその男を、アリゾナは最後まで睨み付ける──────。
ふと、夜の風がアリゾナの髪を微かに揺らした。
「ああ────クソッ!」
乱暴に叫んだ声には聞き覚えがある。あの青年だ。
背後から疾走するヴァルポの青年が、勢いのまま男の顔面に右膝を叩き込んだ。
「……え?」
よろめく人影にエールは畳み掛ける。側頭部、鳩尾────瞬く間に急所へ拳を叩き込む。
遠い記憶の、その姿が──重なって、目を疑う。
鳩尾を抑えてうずくまった男の首の裏──脳髄へ肘を叩き落とすと、男は地面へ伏した。
エールの鋭い目がアリゾナを捉える。
「……助けて、くれたの?」
まるで何かに苛立っているようだったエールの表情は、アリゾナを見てさらに歪んだ。
「クソ……僕は何をしてるんだ────」
呟いた言葉は小さかったが、アリゾナの耳にしっかりと届いた。
それから呻く男を乱暴に掴み上げて、八つ当たりでもするように投げ飛ばした。それは細い体には見合わない腕力で、男は壁にぶつかって鈍い音を生み出す。
それからまた静かに、男の方に近寄って見上げた顔を蹴り飛ばす。
明らかにやりすぎだ。アリゾナの目からしても、力の差は明らかだった。
「ち、ちょっと──やりすぎじゃない!?」
駆け寄るが、アリゾナを見返す目は冷たいままだ。
「……お前、さ。こいつに何されそうになったか……分かってるのか?」
「分かってるわ! けど……」
「──けど、なんだ。いいか、この類のクズに容赦なんていらない。攻撃には報復を──それこそ二度と手を出そうなんて思わない程の暴力、或いは……さっさと始末してしまうか、だ」
男はまだアリゾナを視界に入れて笑っていた。気色の悪い口元で、懲りていないような。
「それがお互いのためだ。こいつも手を出しちゃいけないヤツが誰だかわかるし、お前は面倒を抱えなくて済む──それとも、このクズに大人しく襲われていた方が良かったか? もし邪魔したら悪かったね」
「暴力は……新しい暴力を生むだけよ」
「……襲われかけて、よくそんな眠たいことを言ってられるね。それは優しさか? それとも正しさとかいうものか? もし僕がここに来ていなくても、お前は同じことが言えるのか?」
「……っ」
言葉に詰まった。
それは一つの観点から見て、正しい言葉で、正しい考えだ。
身を守ること。そのために手段を選ばないこと。
しかも、守ってもらった身で──何を図々しいことを言っているのか自覚している。けど──。
「けど……”それ”じゃ、何も変わらないじゃない────……」
平等でない世の中において、むしろ持っている側に立っていたにも関わらず、アリゾナはそれを良しとしなかった。
それはただの言葉だったが、エールの動きを止めた。
「──────。なら……」
懐から取り出したナイフのカバーを外し、白銀に輝く刃を男の喉元に当てる。
「お前、大人しくしてろよ──もし暴れたら、うっかり殺してしまうかもしれない」
ぐったりと壁に倒れる男は、いまさら抵抗する気もなかったが──。
「お前の答えを聞かせてみろよ。こいつに下す判決を聞かせてみろ」
夜の空に、微かな月明かりが雲に隠れて光が消える。
暗闇の静けさが、まるで自らを押しつぶそうとしているようだった。
「……どういう意味、かしら」
「分からないか?」
意地の悪い笑いが、暗闇の中に見える。そして光のない瞳が、見えないはずなのによく見えた気がした。
「このクズを生かすも殺すも──僕はお前に問いかけているんだよ。この男の罪がどれほどのものなのかは、お前が決めろって……そう言っている。さあ答えろ」
「え────」
「見逃すのもいい。この男の”良心”と”理性”を信じ、再び同じことをしないと信じるのもいい。だが面倒だから殺してしまうのもいい。まあ僕なら……指の二、三本でも切り落とす程度で済ませるかな。”一度目”はそれで済ます」
言葉を失ったまま、アリゾナは呆然とする。
心の準備というか、突然そんなことを言われても──どうすればいいのか、分からなかった。いや──そもそも時間を与えられても、難しい問題だろう。
「……法の、下で……裁かれるべきよ。……人が、人を裁くなんて……身勝手なことだわ」
絞り出すような答えを受けて、エールは白けた。不機嫌に顔を歪めて、ナイフを男の首から外す。
「結局それか。いいか? そもそもこの貧民街は法律による保護を最初から受けちゃいない。生命の保証、財産の自由──何一つ、この場所には与えられていないんだよ。法で裁かれる人間は、法の下で暮らしている人間に限るだろう。さもなくば法律などただの暴力装置だ。この男も……この国の刑罰に従う義務などない。まあ、このクズがスラムの住人でないなら話は別だが、生憎とそうは見えない」
思考を巡らせる。
不意に、壁へ倒れたままの男が口を動かす。
「……た、助けて、くれ。頼む────」
言葉を聞いたエールが乱暴に男の顔面を蹴り飛ばした。地面に倒れて呻く。
「命、だけは……頼む、頼む……」
さっきまでにちゃりと笑っていた男の顔色は、いつの間にか怯えに染まっていた。
「ほら見ろよ。これが人だ。勝手で汚れた動物だ。なあアリゾナ、お前はこのクズに怒りや憎しみを覚えないのか?」
「……だったら、どうして私を助けに来てくれたの?」
そんな言葉を吐くくせに、結局助けに来ている。それはちぐはぐな行動だ。
「……質問を質問で返すなよ。今は僕が聞いている。さっさと答えろ──それとも、お前は答えられないのか?」
「間違っているのは、この社会のシステムよ──本質的には……きっと、スラムそのものは悪ではないのよ」
「綺麗事だな。事実だとしてもなんの役にも立たない。それに、このクズの犯した罪を帳消しには出来ない。他人任せにしてないで、お前が決めろよ。言え……さっさと示してみろ。どうなんだ、グレース・アリゾナッ!?」
──なんだ。
名前、覚えているじゃない。
「もう十分、痛みは与えたわ。あなたが代わりに与えてくれた。だからいいわ。その人を離してあげて」
「……。それが答えでいいの?」
「ええ」
それから、アリゾナは寂しそうに微笑む。
「今の私には……あなたたちを、そこから救うことは出来ないわ。ごめんなさい」
月下に照らされる儚げな口元が──重なるのは、あり得ないことだ。そのはず──似ても似つかないはずなのに、どうして連想させる。
「どうして謝る……」
この国の貴族の一員として、腐った現状をどうにもすることができないから、とか──助けてもらったことの分とか、色々あったが。
「……なぜかしらね。私も、分からないわ」
怒りとも悲しみともつかない表情をするエールを見て、初めてアリゾナは理解できた気がした。
自分とは全く違う人種だったし、まるで理解できる気はしなかったが。
自分と同じ、ただの人間だということに、アリゾナは今更気がついたのだ。
・エール
この頃は誰かから奪い取った家で暮らしている。治安が悪い男。ツンデレ(?)
暴力! 暴力! 暴力!
・グレース・アリゾナ
古臭い貴族の掟にうんざりして自分探しの旅に出かけ中。無事ろくでもない目に合う。
かわいい。
・スラム
とりあえず主人公の出身スラムになりがち。
便利な設定だからね、仕方ないね
今更ですが、評価感想、ここすきなど歓迎しております。評価とかもらえるとモチベになります。よろしくお願いします