すがすがしいほどの運ゲーですね
過去編、続きです。話が無駄に複雑なのは仕様です。すまない……
例え千年を生きる賢者にだって、幼かった頃というのは必ず存在する。
エールを名乗る青年にも、ブリーズを名乗る旅医者にも、無力で無知な少年だった時があり、無邪気で純粋だった少女だった時が存在した。
例え忘れていようと、確かに存在したのだ。
彼女はずっと覚えている。
スラムの生活というものには当初こそ慣れなかったし、恐怖だって当然多かったが、住めば都とはよく言ったもので、つまりは慣れてしまった。
「エール、おはよう」
しまいにはエールの朝が遅すぎるものだから、起こすのが日課になってしまっている始末。
不機嫌そうに目を覚ました顔を見て、アリゾナは少しだけ微笑んだ。
一緒に生活すると分かることだが、この青年はその雰囲気ほど怖いわけでもなければ、優しくない訳でもない。アリゾナの厚顔な要求──例えば、温かくて綺麗なシャワーを浴びたい、替えの衣服を用意して欲しいなど。厚かましすぎる──などにもぶつくさ言いながら応えていた。
今のところ頼れる人物がエールしか居ないにしても、それにしたって甘すぎではないだろうか。
「……。メシは」
「これからよ。起きてきたらどうかしら?」
「……出来たら起こせ」
「嫌よ。もう7時になるもの。睡眠は大事だけど、過ぎたるは及ばざるが如しよ。寝坊助さんには朝ごはん、作ってあげないわよ?」
「……誰の金だと思ってる。そもそも作ってくれなんて頼んだ覚えはないし、だいたいお前のメシは不味い……」
「失礼ね!」
ぷんすかと怒るアリゾナだったが、実際一理ある話だった。
田舎貴族とはいえ貴族は貴族──まさか、アリゾナが家族のために毎朝朝食を作っていたはずがない。そういうのは使用人のやることで、頼んだってやらせてはもらえない。
朝の早いアリゾナが、朝の空腹に耐えかねてエールを起こし、それなら勝手に何か作って食えと半分冗談でエールは言ったのだが、それを真に受けたアリゾナが本当に作り出したのがきっかけだ。
最も、調理経験などほとんどないアリゾナが、美味しい料理を作れるはずもなかったが……幸運だったのは、アリゾナの舌が少々馬鹿だったことだろう。
「もう怒ったわ。絶対に朝市に引っ張り出してあげる」
「……寝る。昼まで起こすな」
「話を聞きなさい、このっ!」
ソファーを寝床代わりにして寝っ転がり、体ごとアリゾナに背を向けてエールは目を閉じた。
「おーきーなーさーいー! このっ、重たいわね!」
強引にアリゾナは目を閉じたままのエールをずるずると引きずっていった。
大体いつもこんな感じだった。
失せ物探しは順調ではなかった。
少なくとも、アリゾナにはそう感じられた。
「それで、今日はどうするのかしら?」
「僕は別件がある」
「別件?」
「あんたには関係ないね。それにもう二週間ほど経つ──こういうのは時間が経つほど見つけにくくなる。さっさと諦めてもいいんだぜ」
「すぐそういうこと言うわよね。私は諦めないし、もうしばらくここで暮らしてみたいの」
「……やっぱりあんた、変人だな」
「もう、失礼ね!」
テーブルには硬いバンとスープ。どうにも塩気が強い。
安くてデカい堅焼きのパンは、その硬さから護身用の武器として使えることで有名だ。軽くて硬い、武器としては理想的だったが、食用としては最悪だった。石でも齧っている気分だ。しかも毎日それである。
少なくとも、エールはうんざりしていた。
「そうだ、私ここの近くの診療所でお手伝いすることになったわ」
「……マジ? お前……意外とすごい奴なのか?」
「そうよ? 知らなかったのかしら」
知らぬ間に意外な行動力を発揮するアリゾナはどことなく得意げだ。
箱入り娘とは言え、アリゾナは古典薬理学を修めた薬師であり、医療を得意とする。臨床経験は浅いが、強い目的意識と向上心がある。
それは別にエールの紹介で、という訳ではなく、スラムでの医療に興味を持ったアリゾナが自分の足で診療所を訪ね、治療経験のために無償での手伝いを申し出た。
「ふーん……」
「もう少し興味を持ってもいいじゃない。そんなに私ってどうでもいいのかしら」
「ああ」
「こう見えて私、結構頭いいのよ。何か面白い話でもしてあげるわ──治療アーツの新しい分類に関しての話とか、興味ないのかしら」
「あるように見えるか?」
「まあ、見えないけど──けど、案外面白いのよ? あなたはそもそもアーツというものが何なのか、分かってるのかしら」
回答は沈黙だった。
「あなたは、アーツは使える?」
「大して役に立たないけどな」
──室内にかすかな風が吹く。
ブリーズは少し驚いて言う。
「……これ?」
「全く役に立たないけどな。ちょっと風を操る程度、目眩し程度にしか使えない」
「媒体は何を使っているの?」
「……あ? 媒体?」
「何かあるでしょう? 例えばエネルギー発散率の高いD系列の異鉄合金とか──そういう杖状の媒体が一般的だけど、まあ色々な種類があるじゃない?」
「……何それ、知らん……」
そもそも教育の度合いとしては初等学校も卒業していないエールがそんなものを知るはずもない。
アーツというのは、そもそもとして非常に理論的な運用が求められるものだ。氷結のアーツなどは、氷という事象に対し理解がなければ扱えない。ないしは運用効率が極端に低下する。
適正と研究、それと理解。
アーツというのは不可思議パワーではなく、体系のある学問である──と。
「……本当に知らないの? 逆にすごいわ、あなた」
「育ちが良くないものでね。それに知らなくても生きていける──けど、少し興味は湧いたな。あんたも使えるのか?」
「当然よ! って言いたいけど……ユーロジーがないと、使えないわ」
「使えないな」
「うるさいわね!」
特にヴィクトリアの大学などでは研究が盛んで、日々新しいアーツ理論が更新され続けているのだが──ここは貧民街。華やかなヴィクトリアの裏側に隠れた場所にそんな教養はない。
エールも、これまでの生活の中でアーツ理論など学ぶはずもない。スラムの住人はアーツとは基本的には無縁だ。そんなものより頼れるのは自らの拳とばかりに物理に頼るのが普通。
「でも適正はあるのよね。媒体なしにアーツを使えるってことは──」
アーツを使える人間と、使えない人間がいる。
一般的に、
アリゾナも、鉱石病ではないがアーツを使える。エールは鉱石病で、アーツが使える。別にどちらも同じことだ。少なくともエールにとっては。
「どこかの学校に入って、学んでみたらいいと思うわ。きっとあなたなら、成長すればすごい術師になるかも──」
「余計なお世話だな。鉱石病患者を受け入れる学校なんて、この世界のどこにある」
「……ごめんなさい。余計だったわ」
と、一応謝罪の言葉は口にしたが。
気がつくことがあった。
「でも、その口振りだと……もしも入れるのなら、入りたいのかしら?」
少し揶揄うような風になったのは否めないが、いつものように素っ気ない返答が返ってくるのだと思っていた。
「……分からない」
「え? 分からないって──」
「何でもない。忘れろ」
刺すような塩気のスープを乱雑に飲み干して、エールは立ち上がった。
「もう行くの?」
「早すぎるくらいだ。誰かさんが起こしてくれたお陰でな」
なんだかんだ言いながら、エールは用意した分の朝食は全て食べてから出発した。
そういうところが嫌いになれなくて、アリゾナは小さく苦笑いした。
*
事態が急変したのは、それから一週間余りが経ってからのことだった。
「……お前の探し物が見つかった。さる貴族のところにまで流れていてね。全く面倒だった──話はつけておいた。あとはお前が出向いて受け取れ。それで依頼は完了だ」
朝方のことだった。
二日ほど前からエールが家に帰って来なくて、突然朝に返ってきたと思ったら──。
「……え、ええっと……? 順番に質問させてもらうけど、まずこの二日間くらい何してたのかしら。それと突然過ぎよ。あと──その傷、一体何があったの?」
脇腹から血が滲み出て、服に染み出して広がっていた。
顔色も酷い。
「悪いがもう時間がない。表側、時計台の場所は分かるな──そこに案内人を手配しておいた。いますぐ荷物を全てまとめて出て行け」
「……まず傷の手当てよ。そこに座って──」
「今すぐ行け、と言った……!」
尋常ならざるエールの言葉に気圧されるが、アリゾナはそんな柔ではない。
「あなたの身の安全が先よ!」
「……は。あんたは、やっぱり変な貴族だな」
扉を開けたまま、もたれかかるようにしてエールは初めて、微かに笑った。
「……元気でやれよ、グレース・アリゾナ」
それから、エールは持っていた紙の束をアリゾナに放り投げた。慌てて受け取る──札束だった。輪ゴムで適当に束ねてある。
何か言う暇もなく、エールの姿は消えた。それに続くようにしてボウガンの矢が開かれたままのドアを貫いて、足音が響く。
「どこに行った! 探せ、殺せ──!」
そんな声が聞こえる。
開かれた扉の向こう、狭い路地裏の壁から人が覗き込んできていた。
「──違う、ここじゃない。あっちだ、さっさとあのクソ野郎をブッ殺せ!」
すぐにその人は走り去って行った。
武器を持っていた。すごい形相だったし、明らかに暴力的な雰囲気だった。
「……何が、起きているの……!?」
おおよそ一ヶ月を過ごしたエールの家。例えばそれは人数分そろえた食器や、床下に備えた食料庫の中身。
二階の寝室と、ここのソファーでいつも寝ているエールの寝顔。
最初は汚かった家の中も、アリゾナが掃除を続けていくうちに綺麗になって──。
言葉に答えてくれる人がもういなくなって。
この家にはもう、誰も帰って来ないかもしれないことが、何だかとても寂しかった。
それだけだった。
言われた通りにした。
一人きりでスラムを歩くのには慣れていたが、貴族の正装で歩くのは気が引けた。
視線を感じる。だが日中は比較的安全だ。それは分かっていた。
背負ったリュックには、実家から持ってきていたものは全て入れてある。あとはユーロジーだけ。
そしてスラムを抜け出して、華やかな表通りに出てくると──そのあまりの違いに愕然とする。
壁の落書きや、散らばったゴミ、清掃の入っていない街灯、シャッターの降りた無人の道──。
行き交う人通り、仕立てた礼服や、建物の質、喧騒、遠くに見える王城、誰もが笑っていて。
ずっと気がつかなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
────この世の中に、こんな不平等なことがあったのだろうか。
「……こんなの、おかしいわ……」
おおよそ一ヶ月振りに見る景色は、あの時とはずいぶん違っていた。
思えばこの一ヶ月、貧民街から出たことはなかった。
こうして見てみると、貧民街はそこまで大きいわけではない。だが、封じ込められるような地形と、無数の路地から形成されていたため、まるで閉じ込められているようだったと思う。
暴力の気配の、カケラだってない。
皆、まともな常識を知っている。
アリゾナにとって当たり前の世界──だった。一ヶ月前までは。
さっきのエールの姿や顔、そしてその後を追いかけていった人たち。それがまるで嘘のようで、白昼夢でも見ていたかのよう。
エールだけじゃない。
診療所で手伝いをしていた時も、患者はみんな酷かった。化膿や壊死した傷跡がいくつもあったり、栄養素が全く足りていなかったりして。
何より、みんなお金がなかった。だからあの診療所はほとんど無償で治療をしていたというのに──。
そんな厳しい状況の中で、人を助けるために戦っていた医者も、分かりにくくて素直じゃない、実は優しい青年のことも──このロンディニウムに住む人々は、知らないのだろう。
どうしようもない、無力感と怒りだけでうなだれた。
大通り、悔しさで項垂れていると、話しかけられる。
「お嬢さん、何か困ったことでもありましたか?」
警官の服だった。
ロンディニウムの警官の肩には徽章がついている。国を表すマークが、さぞ誇らしげに──。
頼りがいのある姿で、今日もこの街を守っているのだ。
「……いいえ。何にもないわ」
その守るべき街の中に、あの汚い通りは含まれていないのだろうから。
だから、何でもないのだ。
これは何でもないことなのだから。
「それは何よりです。何かありましたら、ロンディニウム警察にまですぐお届けください! 市民の皆様の安全は、私たちがお守りしますので!」
「……そう。ありがとう」
果たして、誰が悪いのだろうか。
そもそも誰かが悪いのだろうか。
アリゾナは歩き出した。リュックにはエールから受け取った札束が入っている──その意図もよく分からないが。
少なくとも、もうスリなんて遭わないようにしなければ。
……また笑われてしまう。
時計台というのはロンディニウムのランドマークで、その名前の通り巨大な塔の上にある大時計が特徴だ。
その前にはちょうど冠水広場があり、マイナスイオンが涼しく、待ち合わせとしてよく使われている場所である。
至る所に広告のポスターが飾られていた。建物の屋上に張り出した新しい飲料のキャッチコピーとか、モデルの売り出しとか。
「お前、グレース・アリゾナか」
「え? ええ、そうだけど……」
「よっし。俺についてこい」
「え、ええ?」
突然話しかけられたのは、複雑な気持ちで歩いていた時のことだった。
エールに似たような雰囲気を持つ、チンピラのような男に連れられる──顔つきからしてまともな気質にには見えなかった。
「……あなたは?」
「ただのトランスポーターってヤツさ。俺の依頼はお前をある貴族の元へ送り届けること。それ以上はお互い知る必要はねえ。そうだろ?」
──サルカズのトランスポーター。
見るからにチンピラだった。ジャラジャラした格好や、顔つきは明らかにギャングの類ではあったのだが。
まあ、世の中色々な人がいる。
「……あなたの、依頼人って?」
「名前は知らねえ。黒髪のヴァルポだったが──まあ珍しくもねえことだからな。とにかく、着いてきな。手早く済まそうぜ」
手配しておいた──とは、このことなのだろう。トランスポーターを雇ったらしい。
言われるがままついていく。
エールが手配したのなら、信用はする。
不思議だが──なぜだか、自分はあの男を信じているのだ。
十分も歩かない内に、その場所には辿り着いた。
ロンディニウム風──黄銅色の豪邸が、背の高い植物に囲われていた。
正門は、鉄柵の門だった。見張りがついているところを見ると、相当な豪族なのだろう。
「よぉ兄ちゃん、ここ通してくれねえ?」
トランスポーターは軽々しく門番に声をかけた。
「……何用だ」
「聞いてねえか? アリゾナ家が長女がここ訪ねるってよ。貴族様のお通りさ、道を開けよ──つってな」
茶化すような態度はさっぱり真面目ではなかったが、実際のところ話は通っていたらしい。
鈍い音を生みながら、門が開いた。看守は無愛想にそっぽを向いている。
「さて、さっさと済ませるこったな」
「……あなたは?」
「こんな貴族臭い屋敷に入るのなんざまっぴらなんでな。ここで待っててやるさ」
「待っててって……あなたの依頼は、どこまでなのかしら」
「最後まで見届けること──それが、承った依頼さ。見送りの一人も居ねえんじゃ、あんたも寂しいだろうってんでな」
「……余計なお世話ね。行ってくるわ」
最後だけ妙な気を回すものだ。
いつもはあれだけ冷たかったのに──こんな、最後だけ。
これまでの一ヶ月が嘘のように、アリゾナはユーロジーにまで辿り着いた。
それは酷く冷ややかな対応だったと言えよう。
一応は貴族としての同格を備えるアリゾナに対し、それこそ出迎えもなければ、茶の一つも出しはしなかった。
玄関から使用人が現れ、一応は丁寧な仕草でユーロジーをアリゾナに渡す。
一月ぶりに受け取ったユーロジーは重たく、冷たく、懐かしい感触がした。
「お礼を──申し上げた方が、いいのかしら?」
「必要ありません」
しゃらん。
ユーロジーの先端が、まるで鈴の音のように鳴った。
アリゾナは踵を返す。
盗まれたはずのユーロジーがどうしてこんな貴族の手にまで渡っていたことや、エールがどうやってここまで辿り着き、どうやって”話をつけた”のか。
「……何にも知らないし、分からないのね。私は──」
独り言は、本心だ。
きっと、エールにはもう会えない。あれは多分そういうことなのだろう。
門のところまで戻ってくると、トランスポーターがあくびをしている。
「なんだ早えな。もういいのかよ」
「こんな呆気ないのね」
「で……俺の依頼は見届けることだ。あんたのコンパスがどっち向いてるかは知らんが、あんたこれからどうすんだ?」
「……そうね。どうしようかしら。今朝からずっと……訳の分からないことが続いているの。今までの普通が……壊れていく。こんなことってあるのね」
トランスポーターはぽん、と手を打って言った。
「ああ、なるほど。”その日”が来たんだな」
「その日?」
「そうだ。こんな世界で暮らしてりゃ、誰もに訪れる日──信じていたものや、家族、現実……それらが突然、前触れなくぶっ壊れる日が来る。あんたの場合、それが今日だったのかもな」
「ユニークな考え方ね。トランスポーターってみんなそうなのかしら?」
「知らねぇ。だが悪いことばかりじゃねえさ。嵐の後ってのは必ず青空が広がってるように、破壊の後には再生が待ってる」
ふと、リュックから取り出したのは、エールから放り投げられた札束。
ぱっと見で何十万龍門幣だろうか。こんなお金、一体どこから──。
こんな大金を輪ゴムで適当に留めてしまう神経は、彼らしいとは思うが……。
札束の中に、一枚のメモが挟まっていた。取り出して読んでみると──
“上手く使え”
汚い共通語で、それだけだった。
「……あなた、トランスポーターなら依頼は受けるのよね」
「まあ、そうだが……」
「私からも依頼するわ。依頼料は……これだけあれば足りるわよね」
その札束をそのままトランスポーターに放り投げる。
「……いや、何の依頼だ?」
「行かなければならない場所があったことを思い出したの。ボディーガードをお願いできるかしら?」
「なるほどな。だが別に
「あら、ありがと」
片手にはユーロジー。
最後の心残りを終わらせに行こう。
「……随分荒らされてんな」
トランスポーターが言う通り、見る影も無かった。
アリゾナが出て行った時にはまだ何もなかったはずの家は、ドアが剥がれ、食器は全て砕かれている。
「こんな場所で暮らしてたのかよ?」
「今朝までは違ったわ……。何よ、これ」
憂さ晴らしをするような破壊痕だった。
ひっくり返ったテーブルの壊れ方は、アリゾナの感情をいくらか揺さぶったのは確かだ。だが、そんな怒りをどこにぶつければいいのだろうか。
「で、何しに来たんだ?」
「もしかしたら戻って来てるかもって思ったのよ。でも……やっぱり居なかったわね」
予想していたとはいえ、落胆するしかなかった。
エールがもしかしたらこの家に戻ってきているかもしれないという淡い期待は、当然の様に裏切られた訳ではあるが。
「しっかし相当恨まれてんのか? こりゃ家探しって感じじゃねえ、完全な八つ当たりもいいとこだ」
「分かるの?」
「何となくだがな」
アリゾナはカーペットを捲って、地下室への階段を開く──こっち側は無事だろうか。
「
実際、エールはこの場所をかなり秘匿していた。
あの警官がこの場所を知ったのは本当にたまたまで、この地下室の存在は数人も知らないのだ。
地下室はひんやりとしていて、どこか息苦しかった。
あの青年と初めて出会った時のことを思い出すが、あの椅子には誰も座っていなかった。
その机は意外にも安物ではなく、頑丈な作りをした木造だった。引き出しがいくつかある。
「……鍵がかかってるわ」
「はっはーん。こりゃあれだな、秘密の箱ってヤツだ。間違いねえ。面白えモンの一つや二つは入ってんじゃねえか?」
机の上には何もない。
「鍵だけ壊してくれるかしら」
「いいのか?」
「……最後だもの。いいわ」
トランスポーターが取り出したドライバーは、その本来の使用用途から大幅に外れて使われることになった。
「どうしてドライバーなんて持ってるの?」
「入国審査の時に便利なんだよ。ほら、空いたぜ──って、何だこりゃ」
がらんとした引き出しの中に、何かがある。
「……んだこりゃ。紋章の……バッチ、いやペンダントか。それと何だ? これ……絵本か?」
大きく、薄い……ボロボロになった絵本。
トランスポーターは訝しがる。依頼主のイメージにはさっぱりそぐわない一冊の絵本は……明らかに少女向けのものだ。
「不思議の国のアリス……あんだっけ、有名な童話だったか。で、こっちの紋章も何だか解らねえが……あんた、分かるか?」
ずっと黙ったままのアリゾナの方を見ると、アリゾナは固まっていた。
まるで幽霊を真正面から見てしまったような。
「……嘘、よね。これ……この、紋章……そんなわけ、だって……」
────なぜ、エールがこれを持っているのだろう。
「これ……この、落書き……私の──、」
赤い絵本を捲ると、ちょうど隅のところに猫か何かの落書きがしてあった。
確か、庭に迷い込んできた野良猫を描いたのだったと思う。
「……そんな、ことって……偶然? いえ、ただの間違いよ……」
──あの青年は、ちょうど私と同じくらいの歳で。
絵本一つだけだったら、ただの偶然で済ますだろう、考え過ぎだと否定できる。
だが、もう一つ……この紋章がある。そうだ、彼にあげたんだ。その意味もわからないまま、喜んでくれると思って渡したんだ。
「だって、それじゃあ……ずっと、この街で────ここに居たのは」
この街の名前はロンディニウムで。
この絵本と、この紋章が何よりの証明ではないのか。
「……あなた、だったの? アリーヤ────」
だとしたら──。
「……ずっと、持っていてくれたの?」
その記憶を、まだ忘れていないのだろうか。
「おいおいおい、話についていけねえんだが。なんか感動系のヤツあったか?」
「……あなたは、運命って信じてる?」
「唐突だな……」
「どうなの?」
「信じちゃいねえ。だがあるかもしれないとは思ってる。癪だが……そういうものは、あるのかもしれねえ」
コインのようなペンダントは冷たく、通ったチェーンは切れていた。
錆びついた気配もない。手入れされていたのだろう。
その紋章は──。
「この紋章は、私の家の家紋なのよ」
「……あん? つまり……どういうことだ?」
返答はなかった。
アリゾナはその絵本とペンダントを机の上に戻して、階段を登っていった。
荒らされた家を後にする。
トランスポーターはため息をついた後、その後を着いて行った。
「で、探し物は見つかったのか?」
「ええ。本当なら今すぐにでも彼に会いたいところだけど……でも、もう会えないのでしょうね」
「まあな。厄介な連中に追われてるだろう──会わねえのがお互いのためだ」
だとするなら、どうするべきだろう。
この真実を知って、何がしたいのだろう。
「──決めたわ。まずリターニアね」
「なんだ、旅立ちってやつか?」
「そうね。近場から巡っていくことにするわ」
「……まあよく分かんねえが……道が決まったのなら何よりだ。依頼は完了でいいな?」
「十分よ。ありがと」
「ああ。じゃあな」
──今、この人生の使い方を決めた。
あるべき貴族の姿と、エールの話し方や、最後の顔。
遠い記憶、幼い過ち、その罪と。
この世界は不公平で、間違ってる。そしてこの体には、貴族の血が流れている。
「……いつか」
今は力が足りない。
経験が足りないし、全く届かない。
もっと知識を蓄えるべきだ。経験を積むべきだ。諸国を巡って、学ばなければならない。
「いつか──」
そして、もう一度会いにいかなければならない。
伝えなければならないことが、たくさんある。
「あなたを、”そこ”から救い出して見せるわ。アリーヤ」
長い旅が始まった。
(過去編はこれで終わりでは)ないです。
・アリーヤ
ごん、お前だったのか……
・アリゾナ
かわい
幼馴染ポジだった可能性が生まれた。こういうのは私の趣味です
・トランスポーター
サルカズのトランスポーター。
この作品においてはモブ
もうちょっとだけ過去編は続きます。
こっちはずっとアリゾナの視点で書いていましたが、次回の過去編はエール視点になるはずです。長い……。