猫と風   作:にゃんこぱん

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1083年 9月のロンディニウムには、その年開かれていた祭事の影響があって、国内貴族の多くがロンディニウムを訪れていた。

地方貴族とはいえ、アリゾナ家も同じく一ヶ月ばかり家を借りてロンディニウムに滞在することになっていた。

庭園のある家で、鉄柵に絡まるような緑のカーテンが印象的だったと思う。

幼いアリゾナにとって、背丈を大きく超えた塀は実際の高さよりずっと大きく見えた。

畑の広がる故郷の風景とは全く違って、高くて大きな建物がずらりと並んだロンディニウムは本当に楽しそうで、不思議の街のようだった。

アリゾナ家が宿泊していた家は庭付きの豪邸だったが、その付近はあまり治安のいい場所ではなかった。

多くの貴族が市外から来ていた分、空いているホテルや貸し家が少なく、アリゾナ家はそこに滞在することになっていたのだ。

祭事というのはほとんど貴族同士の交流がメインで、貴族の子息の顔見せの面もあったのだが──ずっと田舎で暮らしてきて、貴族同士の交流をあまり知らないアリゾナは、そんなものよりも家から持ってきていた絵本に夢中で、行きたくないと駄々をこねた。

結局アリゾナは、使用人とともに留守番をすることになる。

だが外の世界への興味にも溢れていたグレースお嬢様はお転婆そのもので、よく使用人の目を盗んでは門の外へと脱走しようとしては捕まってを繰り返していた。

貴族の幼い子供が街に一人で出かけるなど──それも強盗や喧嘩の多発するような道に放り出すなど絶対に許可できない。

門には厳重な鍵が掛けられ、アリゾナは見事にその箱庭に閉じ込められることとなる。

そんな訳で見事不貞腐れ、山のように持ってきていた童話や絵本を読み漁っていたある日のことだ。

「もうっ、少しくらいいいじゃない! どうして外に出ちゃダメなのよっ……」

退屈で死にそうだったのだ。

外に出てはだめ、でも本を読むのにも飽きてしまった。

かといって、たくさんの人が集まる場所になんて怖くて行きたくない。

早く故郷に帰りたかった。慣れない家も、最初は楽しかったが慣れてしまったし。

お父様もお母様も、外に行きたいと言っても全く聞き入れてくれない。使用人のシェリーは堅物だし、ここには一緒に遊べる友達もいない。

「なにか起こらないかしら」

そんな少女の願いが通じたのか分からないが──。

庭園に面した部屋からはウッドデッキが張り出していて、大理石の丸いテーブルの上には絵本が散乱している。

緑豊かな庭園に差し込む日光も相まって、その風景はなかなかに幻想的だったのだが──そんなものは少女には関係のないことだ。

テーブルに突っ伏して、ぼんやりと外を眺めていた時のことだった。

がさがさと、高く茂った植物の葉っぱが揺れる音が聞こえたのだ。

「──誰かいるの?」

使用人のシェリーは今頃外へと買い出しへ行っているはず。今この屋敷にはアリゾナ一人のはずだった。

しかし、誰かいるはずもない。

この屋敷を囲う石の塀は、お父様よりもずっとずっと高いのだ。登ろうとしたことがあったが、全く歯が立たなかった。誰も入ってこれないだろう──。

だが、葉っぱの中から姿を表したのは人間だった。

自分と同じくらいの歳の、小さな少年だった。

黒髪と、狐耳。ボロボロのシャツで、警戒するようにこっちを見上げていた。

「あなた誰? どこから来たの?」
Кто ты(お前、誰だ)?」

初めて出会ったのは、この時だった。








少年と少女の交流は、なんとなく始まった。

「りんごよ、りんご。この赤い果物のことね」
「я──l、り、ぃ……んご?」
「そう! 言えるじゃない、ならこっちは?」

少年には言葉が通じなかった。

ウルサスではウルサス語と共通語、二通りの言語が話されているが、全員がそれを話せるわけではない。学校での教育も行われているが、二か国語が話せるかどうかはほとんど家庭環境に依存していた。

少年の両親はウルサス語しか話さず、また教育というものは少年を放り出していたし、少年も教育を見限っていた。

まあつまり、少年は共通語が話せなかった。

「これ。私の大好きな絵本」

Alice in wonderland(不思議の国のアリス)と題されたその絵本は有名で、ちょうどアリゾナくらいの年齢の女の子に大いに受けた。

アリスという少女が不思議の国に迷い込む話だ。

最初は戸惑ったり、恐怖から涙を流していた少女だが、次第に豪胆になっていく様が人気を呼んだ。若干ホラーなのはご愛嬌だ。子供にはそのくらいのスパイスが丁度いいのだろう。

「分かる? アリスよ、アリス」
「Али──a、アリ、す」
「そうそう、その調子よ!」

お互いに小さな子供だ。

特にアリゾナからしてみれば、絵本の内容がそのまま現実に飛び出してきたようだった。

アリスが不思議の国にいくきっかけになった白ウサギ。ウサギなのに、人の言葉を話す変な生き物。

なんだか少年と似ていた。高い石壁に囲まれたこの家に、外から人が入って来られるはずがないのだ。特にこんな小さな少年なんて尚更無理だ。

その上聞いたことのない言葉を話す。そんな少年に、今言葉を教えていることがなんだか不思議で、退屈なんていつの間にかどこかに吹き飛んでしまっていたのだ。

「──アリ、す?」

得意げにして絵本を見せるものだから、何か特別なことがあるのだと思い、少年は一つ勘違いすることになる。

絵本の少女と、眼前に座る少女の髪の色が似ていたことから、アリゾナのことまでアリスという名前なのではないかと思ったのだ。

やけに楽しそうな顔が、そう勘違いさせることになる。

「え、私? 私はアリスじゃないわ、グレース・アリゾナって名前があるんだから、いえ」

最初こそちゃんと名乗ろうと思っていたのだが、少女の心は気まぐれで、いたずらっ気があった。それに、アリスのような女の子に憧れていたこともあって、アリゾナはこう名乗った。

「アリス。やっぱり私はアリスよ! そう呼んで!」

自らの顔を指さして屈託なく笑う様子が、少年の考えを肯定した。

少女の名前はアリスというのだ、と。

「じゃあ、あなたの名前を教えて?」

人の名前を聞いた次は自分の名前だろう。少年は言葉はわからなかったが、なんとなく何を言っているのかはわかった。指も指されていたし。

Алькурт(アルカーチス)Это другое(いや)──Меня зовут (僕の名前は)

少年はずっと心細かったし、不安だった。

言葉も通じない。知り合いもいない。お金もない。力もない。

故郷だって、似たようなものだった。誰一人として信頼なんてできなかった。

だから、少女が無条件に笑顔で接してくれて本当に嬉しかったのだ。

だから、そう名乗った。

Алия(アリーヤ)

ウルサスでは家族や親しい間柄では、名前の呼び方が変わる。愛情を込めて本来の名前を変えて呼ぶのだ。

例えばАриадна(アリアードナ)ならАдочка(アードチカ)Леонид(レオニード)ならЛеня(レーニャ)など。その呼び方は一つには限らず、様々な呼ばれ方がある。

少年は、その愛称で呼ばれたことがなかった。うわべの呼び方ですら、他人同然の名前の呼ばれ方をされてきていた。

他の家の親が子供の名前を呼ぶところを見ては、なんとも言えない疎外感や、劣等感に苛まれてきていた。

もっと簡単に表現するなら、親の愛情に飢えていた。

「えっとー、アー、リエ? 変な名前ね」

別に少女にそれを求めたわけではない。

ただ、そう呼ばれたらどんな気持ちになるのか知りたかっただけだ。

「А──ali、アリー、や」
「アリーヤ?」
「……Дар(うん)

少しだけ、少年──アリーヤは笑って見せた。

その仕草で、少女──アリスも少年の名前が、アリーヤだと分かった。

言葉もわからないのに、笑顔につられてアリスも笑った。

心が通じ合うというのは、まさにそんな様子だったのだろう。

それはまだ、子供だった時の話。

初めて出会った時の話。

──1083年 9月某日のヴィクトリア。ロンディニウム市アラン区イーザ通り、とある屋敷の中での出来事。

少女は少年に出会った。



1096年7月19日:もしも夜空から一つ光が消えたとして -4

 

 

 

「ハノル。いい加減答えてもらうぜ、セイのこと、何か知ってんだろ」

「でしたらそろそろ決めてください。やるのかやらないのか」

「──てめえらの出鱈目な金の出どころ、分かりかけてきてるつってもか?」

 

深夜だった。時計の針は0時を回ったところで、白電球が暑い夜の一室を眩く照らしていた。

 

密会というよりは、むしろ対峙しているように見えた。

 

一人の元スーロン構成員と、ノース代表のハノルが向き合っている。

 

「なんのことです?」

「惚けんじゃねえよ。いつまで自分が優位に立ち続けられるか、試してみてもいいんだぜ」

「では試してみましょう」

 

どこまで行っても不気味な男だった。

 

こんな深夜なのに、首にはネクタイを垂らしている。

 

見るからに高級なスーツ。

 

「実は昨日の夜遅く──まあほんの5、6時間ほど前ですが、バオリア軍病院で騒ぎがあったそうです」

 

スーロンの構成員は怪訝な顔をした。当然だった。

 

「何やら侵入者らしき人物がいたらしく、人物は負傷していた兵士一名を殺し、軍医一命に重傷を負わせ、逃亡。そして現場には、一丁のハンドガンが残されていました」

「……それがなんだ。ハンドガンの一つくらい──」

「そのハンドガン、他とは違うのですよ」

「あ?」

「オリジナル、ですよ」

「──ッ! ざけんじゃねえ、んなこたぁあり得ねえッ!」

 

その一丁は元々はスーロンのエンジニア、フェイズが所有していたもので、フォンに譲り渡されていた。

 

それからずっとフォンが持っていたはずで──それが現場に残されていたということは、その犯人がフォンであるということだ。普通に考えるならば。

 

「負傷した軍医というのがまた少し特殊な方でして。レオーネ特別顧問、エールの恋人なのですよ」

「……んだと」

「今頃はそう、犯人を血眼になって探しているのではないでしょうか」

「何考えてんだか知らねえが、あいつはバカじゃねえ。てめえらの思い通りになるかよ」

 

あくまで強気の姿勢を崩さない男に対し、ハノルはよりビジネス的な笑みを強めた。

 

「どうでしょう。あなた方には実際アリバイなどない訳ですし、動機だって十分ですよ」

「動機だと……!?」

「ええ。あなたたち元スーロンは、随分冷遇されているそうではありませんか。独立部隊といえば聞こえはいいですが、要は程のいい厄介払いです。感染者だけで構成された部隊など前代未聞ですから、押し込めてよそにやっておくのが一番です。大方、エールに一泡吹かせてやろうとでも思ったんじゃないですか?」

「っざけんな! 俺たちがんなことするかよ!」

「スーロンの元リーダー、フォンが仮に──そう、仮にエールの前に姿を表さなかった場合、決定的になるとは思いませんか?」

 

それで誰がやったのかが明白になる。あの銃はフォンしか持っているはずがないのだ。

 

「脅してやがんのか、てめえ……ッ!」

「まさか。だから最初から協力しようと言っています」

「……これ以上話すことはねえ。交渉は決裂だ──そこであぐら掻いてろ。引き摺り落としてやるよ、クソ野郎」

 

そう吐き捨てて、背を向けて去っていく男に対し、ハノルは薄く笑った。

 

これでいい。むしろ交渉は決裂していい。計画通り。

 

そう、全て──計画通りだ。

 

計画は一貫している。エールを排除し、レオーネの軍事力をそのままそっくり奪い取る。これはそのための手段。

 

「……もう少しだ。もう少しで……」

 

全てが手に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バオリア掃討戦は5日目に突入していた。

 

北部兵の投降が目立ち始め、戦闘らしい戦闘もなくなり始めている。

 

元々からして非対称戦だ。これはまだ生まれて半年程度しか経っていないレオーネを戦闘に慣らす側面もある。

 

アンブリエルはレオーネの中で唯一と言っていいサンクタ族で、同じく唯一の長距離狙撃手(ロングスナイパー)だ。

 

射撃部隊の教官を務めていることから、そのまま射撃部隊の隊長を務めていた。

 

そして戦況も下火になってきたため、後方支援部隊の大半を前線から下げることになった。

 

久しぶりの実戦を経験した兵士たちにはわずかではあるが、休暇が与えられることになった。

 

もっとも、アンブリエルのような隊長クラスは、今回の戦闘の改善点や戦術解析などの報告書を仕上げなければならず、結局休暇は潰れることになる。

 

そんなわけで、アンブリエルはその腹いせとしてエールの机で報告書をガリガリと書き殴っているのである。

 

「っはー……。なーんで休みがなくなったん……。マジだりー……」

 

戦闘という極度のストレス状態の後は当然力が抜ける。アンブリエルが専門としていたのは暗殺であって、殺し合いではない。慣れていなかった。つまり寝たかった。

 

現在時刻は朝の5時。太陽はまだ登っていない。

 

こんなクソ早い時間に起きる羽目になったのは、多少事情がある。というのも前線基地で眠っていたら叩き起こされ、補充部隊が基地に入るから後方基地に戻れなどと言われ──。

 

今思い出しても腹が立つ。気持ちよく眠っていたというのに──もう少し人の気持ちを考えて計画とか練れないものなのだろうか──とか思うが、組織とは大体そんなものである。

 

そんなわけで所在なく帰らされた射撃部隊の多くはそのまま1日分の休暇を頂いたのだが、アンブリエルは”お前明日までに今日までの分の報告書仕上げとけよ”とか言われることになる。

 

ふっざけんじゃねぇそんなことやってたら休みなくなるじゃんとかいう反論は無意味だった。軍人は黙って従うのみである。

 

「はぁー……」

 

吐く息から魂が抜けていくようだった。

 

未明の街は暑いんだか寒いんだかよく分からない気温で、湿度ばっかり高くてうんざりだった。エアコンのあったラテラーノでの生活が恋しい。

 

そもそもエールの部屋にさえエアコンないってどゆこと? この国ってそんな文明の利器ないん? 頭の中では文句が無限に生まれ続ける。

 

事実、アンブリエルは誰がどう見ても疲れ切っていた。なんといっても教え子たちの初実戦だったし、そもそも指揮なんて何も分からないのに自分以外に出来る人がいないし。挙句エールの野郎はどこで何をしてるのか分かりゃしない。

 

「……何してんだろ、あいつ」

 

流石にエールも寝ているはずだ。あの男は寝る場所も不定なので、会いに行こうと思ってもどこにいるか分からない。

 

「……仕事しよ」

 

日が登る直前に寝ようと思って上手くいった試しはあんまりない。さっさとで仕事を終わらせて寝よう──そう思い直してペンを持ち直す。

 

──勢いよく近づいてきた足音と共に開いた扉の音に、アンブリエルは驚いてペンを落とす。

 

ここはエールの執務室で、しかも午前5時。こんな時間に誰も来るわけがないと思っていたからここを使っていたのだが、まさか誰か入って来るとは。

 

「え、ちょ……エール!?」

「……君か。ここで何をしてる」

「机借りてる」

「……まあいい」

 

アンブリエルの使うデスクの前、ガラスのテーブルを挟むソファにエールは倒れ込むように寝っ転がった。ソファをベッド代わりにするのはスラム時代からの癖だ。

 

「こんな時間にお疲れさんよねー」

「……少し面倒なことになる。考えを整理したい──少し話を聞け。聞くだけで構わない」

「なんか偉そうなんだけどー?」

「……そうかな」

 

目の下の隈からして、エールはほとんど眠っていないようだった。

 

アンブリエルの当たりは若干強い。

 

エールの隠れ家を使って以来顔を合わせていなかったアンブリエルは、少し接し方が分からなかった。もっと簡潔に表現するなら、あまり素直になれなかった。

 

それにどうにもこの男から妙な気配がする。どこが出どころかは分からないが、なんかエールに恋人がいるだとかいう噂を聞いて以来気が気でない。

 

「情けない話だが、今の僕にはあまり余裕がなくてね」

 

エールは一睡もしていなかった。

 

ブリーズの傷の手当てに付き添ってから、ずっとこの後のことを考え続けていたためだ。

 

一睡もしないというのは控え目に表現して馬鹿だが、実際エールは焦っていた。

 

来たる大統領選、その票の集め方。ハノルの取る戦略の予想、対策など──考えるべきことややるべきことが多過ぎた。それとフォンの行方がわかっていないことも考えるべきことだった。

 

客観的に見ればすぐにわかることだが、エールの負担はかなり強かった。

 

貴族関連のことはほとんどエール一人がやっていたのだ。スカベンジャーがエールの刀として動いてはいたがそれだけだ。

 

「誰か頼ればいいのにさー。一人でなんでもできるとか思ってんじゃないのー?」

「……危険な仕事だ。ある程度の強さと独立性を備えた人材が必要になる。だがそんな人材は貴重だ。そう見つかるものじゃない」

 

だからこそスカベンジャーの有用性は際立っていた。

 

換えが効かないとは言わない。だがエールには必要な人材だった。

 

せめて彼女が去る前に、この山は片付けなければならない。

 

手のひらで目を覆って、だらりと体をソファーに預けているエールは、傍目にも結構参っているように見えて、なんだか珍しかった。

 

この男が弱さを見せるのは、実はそれなりに珍しいことではある。

 

「もっと探してみたらいーじゃん。案外そこらへんにいるかもしんないしさー」

 

自分を使え、頼れ──と、素直に言えない自分が恨めしかった。

 

片手で顔を覆ったエールの表情は見えないが、口元だけが形だけで笑って、エールは自嘲気味に言う。

 

「……かつてはいたんだ。僕にも……心の底から信頼できる仲間たちが」

 

──いや、前も話したか、と付け足して。

 

口元だけは笑っていた。

 

今、どんな目をしているのだろう──報告書を書く手は止まっている。

 

「……すまない。君に言っても仕方のないことだな。忘れろ」

 

明らかに参っていた。これまで見た中で、一番力なく、そして自嘲した声で──聞いてられない。

 

そんな声にいい加減限界が来て、アンブリエルは椅子を立った。

 

そして──。

 

「……何のつもり?」

 

アンブリエルはぐいっとエールの頭を持ち上げ、空いたスペースに座り──そのまま頭を下ろした。

 

横になったエールと目が合う。

 

力の入っていない、掠れるような声で──。

 

見ていられない。

 

「あんたが情けないから……仕方なく、よ」

 

どこからどう見ても膝枕だった。

 

そう、これは仕方なく──仕方なくだ。

 

柔らかい感触がする。

 

「……はは、僕もずいぶんやられてるみたいだ」

 

だが、その顔から自嘲の色を取り去ることは出来ない。

 

「気を遣わせたね」

 

体を起こそうとするエールの頭に手を置いて押さえる。

 

体は起き上がってこなかった。

 

「……ま、話してみ?」

 

思ったよりも柔らかくて優しい声が自分の喉から出てきて、アンブリエルは少し驚いた。あとエールの重さがなんだか心地よかった。

 

服越しに感じる髪の感触や、狐耳の柔らかさ。

 

「……ノースに不穏な動きがある。議員の動きが厄介そうでね──他企業への根回しで、レオーネへのあらゆる物資供給を断ち切られるかもしれない」

 

届いた書類、深夜の来客──。

 

「うん」

「要求は単純だ。そうされたくなければ、さっさとノースの要求を飲めってさ」

 

要求、つまりはレオーネがノース、つまり企業連合の経済支援を受けることだ。だがそれはレオーネ内に貴族の影響が入ることを意味し、これからの戦争に強い影響を及ぼす。そもそも北部との戦争に負け続けてきた貴族にリードを渡すわけにはいかない。

 

「……ヤツにしてみれば、明らかに僕が邪魔なのは分かってる。ヤツの目的も今ひとつはっきりしないが──だが、敵対しているのは明らかだ」

「うん」

「それと問題なのは来月に迫った大統領選だ。残り二週間を切ってる──もう時間がない。特にレオーネは新興の組織だ。議会への影響力はそう強いものじゃない。政治的な部分はノースの方が明らかに数段上だ。どうすればいいのか分からない。だがこのままでいいとも思わない。この国のトップを奪われる訳にはいかない」

 

淡々と事実を並べている中に、苦しさが紛れていた。

 

「うん」

 

だから、アンブリエルはただ頷くことにした。

 

「……フォンの行方が分からない。元スーロンの連中が何か妙な動きをしている。フェイズが関わっていないのが救いだが、あの銃は……連中が関わっている。誰が病院を襲撃したか分からない。何の目的があってブリーズまで襲ったも不明だ」

 

女の名前が出てきて問い詰めたくなるが、ここはぐっと我慢。

 

「うん」

「それと感染者の扱いだ。この国で労働者としての地位が安定するかどうか、今が瀬戸際なんだ──そのための政策を打ちたいが、もう前のようなゴリ押しが通じそうにない。議席での発言権が必要だが、そのための力が足りない」

 

感染者に対し同情はない。

 

人間など手段だ。道具だ。力が足りないのだから。

 

「時間がない。手段が分からない。使える人間が少ない」

「うん」

 

足りないものばかりだ。

 

それでも戦うと決めたのだから。

 

「正しいことなのか分からない。何が最善なのか判別がつかない」

「うん」

 

そして──。

 

「……僕に出来るのか、分からない」

 

そんな声を、初めて聞いた。

 

弱気になったこの男の姿など──実は、初めて自分が見たのではないだろうか?

 

「うん」

「……大きな問題としては、その程度だ」

 

長い息をエールは吐いた。

 

「……少し休みなよ、エール」

 

そう言うと、初めてエールは穏やかに微笑んだ。

 

貼り付けたような顔ではなく、心からのような──。

 

「……二時間だけ、寝る。アンブリエル」

「なに?」

「……ありがとね」

 

──もうエールが目を瞑ってくれたことを、この上なくありがたく思った。

 

こんな顔、見られたらきっと恥ずかしさで死んでしまう。

 

今すぐにでも逃げ出したい気持ちと、いつまでもこうやっていたい感情の波の中で、アンブリエルは実に五時間ほどそうしていることになる。

 




五時間も膝枕してたらいい加減痛くなると思うんですけど(名推理)

・ブリーズ
今更なんですが、グレース・アリゾナだと名前はグレースになるんですよね。私は何となくアリゾナとか書いてますが、多分苗字で呼んでる感じになって変だと思います。でも今更直すのもアレなので、過去編での表記はずっとアリゾナです
幼少期の主人公くんと遭遇していたことが発覚。この時にちゃんと名前を教えていれば本編は変わっていたのかもしれない

・エール
そういうとこやぞお前

・アンブリエル
久しぶりに登場した。天使か?
天使だった。
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