エール視点の過去編です
僕は彼女のことが嫌いではなかった。
だが僕は彼女のことが嫌いだった。
僕にとっては、どちらも同じことだった。
「初めまして。私はケルシー、ロドス製薬という会社で医者をしている」
──初めてその人に出会った時のことは、今でも思い出せる。
「君を……そうだな、スカウトしに来た。単調直入に言おう。私の元で働く気はないか」
ご丁寧にアポまで取って、表──スラムの住人はスラムの外を表と呼ぶ──のとある場所だった。
ケルシー先生にはその時に出会った。
その人はこれまでに出会ってきたどんな人間とも違っていた。
それはスラムの人間の下らない無駄話や意地汚さ、あるいは貴族連中の本当に自分が選ばれた人間だと信じ切っているようなものではなく。
真っ直ぐでなく、しかし曲がっているわけではなく。
「つまり、君を傭兵として雇いたい。私個人のな」
──何よりもただ、やるべきことをやる。
そんな冷たい在り方に、不思議と心を動かされたのかもしれない。
あの人の差し伸べた手を、僕は────。
某日、狐は一人
「アレは例の家の裏にでも置いてろ。金はいつもの通りだ。ほら」
「まいどありー。しっかしあんなもんどうする気だ? ダーツバーでも始める気かよ」
「よく分かったね。依頼人のお強いご要望だ。店を開くのが夢だったらしい」
「あんなボロの中古品でか?」
「そこはご愛嬌だろうさ。同情する気があるのなら、一つ新品のダーツマシンでも用意してやったらいい」
そうエールがいうと、チェーンネックレスをじゃらじゃらと垂らした男は鼻で笑った。
「ダーツ泥棒でもしろってか?」
「そりゃいいな。銀行強盗よりは楽しそうだ」
「はっ! 間に合ってるよ、んなもん」
缶コーヒーとタバコの煙。
雑多なクラブに錆だらけのサウンドスピーカー、流れる音ばかり大きく、このクラブにはいつも同じ曲が流れている。
内緒話にはうってつけの場所だった。
──人々は安っぽい酒と音楽で踊り狂い、明日への不安を投げ飛ばしている。日々の苦しい労働や暮らしのストレスから今だけは逃れられる。
底辺の暮らしでも、少々の耐久力があればそこから逃れることは不可能ではない。労働者でも貯金をして、住む場所や国を変えることで、元の暮らしに戻るまでは行かなくとも、スラムからは脱出できる。それは空想上では可能だ。
実際にそんなことは出来ない。薄汚い明日から逃れるために、酒やギャンブルで日々を紛らわす。そうでないとやっていけない。そうするうちに、またスラムから脱出するチャンスを自ら手放したことに気がつかなくなっていく。
ディスコの煙は、まるでその事実を覆い隠すようだった。
「それで、例の件に関して話を聞きたい。その例の、公爵様だかに繋がってるとか言い張ってる男の話」
「……おいおい、まさかエールともあろう男があんな与太話を真に受けてんのか? 冗談に決まってるだろ」
「信じちゃいない。だが可能性はゼロじゃない」
スヴィンという盗品専門の中古屋がいる。エールとも繋がりのある男で、話を聞いた。
ユーロジーは確かにそこに流れていた。スヴィンはユーロジーに大層な高値を付けたらしいのだが、それを買っていった者が居たという。
実はスヴィンの店には常連がいて、定期的に訪れては色々と大量に買い漁っていくらしい。初めて聞く話だが、要はスヴィンは転売業者を常連に持っているということだ。
珍しいことではない。ただ、一つここで問題がある。その転売業者は──顧客に、貴族を持っているのだと豪語しているという。
それが今の話に出た男のことだ。
「接触くらいは出来ないか?」
「まあ出来ねえこともねえだろうが……時間と金の無駄だろ? 紹介制らしいから人を探さねえといけねえだろうし」
「誰か紹介してくれそうな人に心当たりは」
「あるわけねえだろ。むしろそういうのはお前の専門じゃねえか。お前が知らねえってんならまあ、そいつがマジモンって可能性も逆に無くはないだろうが──あるいはただの物好きのアホか、だろ」
「その二つ、何か違うか?」
「ハハッ、何も」
ということでこの線は打ち切り──少なくとも、目の前の男からはこれ以上情報は得られないだろう。
「まあ、何かわかったら教えてくれ。情報料は払ってやるさ」
「なんだ、マジじゃねえか?」
「……ただの依頼だ」
適当に誤魔化す──ほとんど事実だったが、この件に関して突っ込まれるのも面倒だ。
「まあ値段次第だな。高く買ってくれるのなら、俺もやる気出すかもしれねえな?」
「情報次第だ。有用な情報なら、僕も金を出すかもしれないね」
男とは利害関係がはっきりしていた。要は仕事の取引相手と言うわけで、お互い便利屋をやっている立場からして協力することも多い。対立することも同じくらい多い。昨日の敵は今日の友、ということだ。
「あら、お帰りなさい」
──家に帰ると誰かがいる生活というのは、実のところ初めてだった。
小汚いアンティークに積んであった分厚い本はいくつも開いたままで、ページの文字はまるでアリの行列のようだった。
「あ、机は借りているわ。いいわよね?」
「……別にいい」
エールにとって医者というものは適当な手当てでぼったくってくる欲張りだったが、アリゾナは全くそんなことはないようだ。
服装だっていつの間にかスラムに馴染むような格好になっていたが、本と重なったメモ書きの数々はどうにも薄汚いこの家には似つかわしくない。
「今日は早いのね」
「これからすぐに出る。鍵は閉めとけ」
「あら、どこに行くの?」
「お前には関係ないね」
アリゾナはやれやれという風に首を振った。この男はそれしか言わない。
「そうだ。一つ聞いておくことがある。お前が探してるユーロジーとか言う杖は……一体何だ?」
「え?」
「え? じゃない。ただの杖じゃないんだろ」
「いえ、まあアーツロッドだし……ただの杖じゃないのは、そうだけど……」
困惑するアリゾナの顔に嘘はない。少なくともそう見えるし、例え嘘でもそれを全く表に出さずに居られるような人種ではないと思う。
「なんらかの特殊な事情はあるか」
「ないわ。どうしてそんなことを聞くの?」
「本当か?」
「私の知ってる限りなら、ないわ。まあでも、一応あれって私の家の家宝だし、何かあるのかもしれないわね。ユーロジーは私の家の教えを象徴しているのよ」
生地が破れて綿のはみ出したソファに体を預けて、エールは黙って聞いていた。一応何か手がかりがあるかもしれないとは判断する。
「貴族よ、弱者のために在れ──そういう家訓よ」
思わず笑い出しそうになった。そんな貴族がどこにいる。
「でも結局、それはお題目で……私は納得出来なかった。病が流行った時も、お父様は結局何もしなかったわ。家の存続が第一だ、とか言って……自分たちだけが助かろうとした。私は失望したわ。お父様にも……人々が苦しんでいる中、何もせず、何も出来なかった自分に」
別段興味のある話ではなかったが、別にわざわざ遮ることでもない。
アリゾナはもう何度も同じことを思っていたのだろう──別に、特別ぶった言い方はしなかった。後悔の思いはとっくに摩耗していた。
「ユーロジーはアーツロッド……媒体として優秀なの。拡散係数が高くて、特に広域に働きかけるアーツと相性がいいわ。多くの人に医療アーツを届けられるのよ。私とは相性が抜群に良かったけど、それを持ち出して領地のみんなを癒したりすることは禁止されていたわ」
「じゃあ何だ、お父様に黙って持ち出してきたのか?」
「……別に、そういうわけでもないのよね」
そこには何か事情でもありそうだったが、どうでもいいことは聞かなくていいと適当に頭の中で切り捨てた。あまり有力そうな情報は得られなさそうだ。つまりユーロジーなるものは他の貴族が欲しがるようなものなのかを知りたかったのだが。
どうやら何も知らないらしい。貴族の家宝ともなれば高級品だろうし、盗品は大抵相場より安い。
「お前、どうしても取り返したいのか?」
「……ええ。あなたに頼り切りなのが申し訳ないけど──」
「それはなぜだ? 高級品だからか?」
「違うわ。値段とか、受け継がれてきたからとか、別にそんなのどうだっていいの。私がユーロジーを取り返したいのには別の理由があるのよ」
「何だそりゃ」
そこでアリゾナは意地悪そうに笑った。
「あなたには関係ないわ!」
何でも屋崩れは貧民街には大量にいた。
職を失った連中が初めに考えるのは、どうやって明日の飯を食うかだ。買うか盗むか奪うか作るか。
次に金銭を得る手段。経済的な観念からすると、貧民街には大量の需要があった。衣食住、安全、娯楽……。ただそれが供給されないのは、購入されないからだろう。
そう意味では、何でも屋だとかいうふざけたものは都合が良かった。
だがその中で信用を勝ち取った人間はごく僅かで、それで食い繋いでいけるのは更に少ない。
ガラクタを売りつけている機材店には一人の女性がいて、ドアの鈴を鳴らしてもう一人が入店してきたところだった。
店を預かっているはずの店主はカウンターにいない。大体いつもいない──大抵は奥で寝っ転がっていることを知っている。
「……おや。誰かと思えば、君か。奇遇だな」
「あんた……確か、ケルシー」
「私の名前を覚えていたのか。君はそんなタイプには見えなかったが」
「……医者がこんな場所で何をしている?」
ラックに吊り下がった剥き出しの基板や空っぽのケース。中身の見えるケーブル、錆と土の付いたさまざまな装置。どこからどう見たって売り物にならないガラクタだ。
「視察だ。君こそ何か用があったのか?」
「視察? お医者ってのは社会の面倒まで見てくれるのか。そいつはいい」
「前にも言ったはずだったがな。ロドスはただの製薬会社ではない──以前話していた依頼は終わったのか?」
「あんたに話す義理はないな。それに僕はそのロドスとやらに行くつもりはない。言っただろ、他を当たれって」
ケルシーは冷たい瞳をエールに向けた。
「一年ほど前、ある貴族の子息が死んだ。対外的な情報では事故死とされている。だが実際には殺害されたようだ」
「……何の話?」
「二つの貴族がいて、ある鉱脈の権利で争っていた。元々鉱脈の権利は片方の貴族が持っていたのだが、鉱脈の採掘場に天災が来て、そこを破壊し尽くしていった。その後の鉱脈には
ケルシーの語る内容は遠い世界の出来事のようで、実際現実味はなかった。
「問題になったのはその金属の使い道だ。
「で、それが何か僕に関係があるのか?」
「まあ聞け。そして最終的に元々鉱脈の権利を有していた貴族と、別のとある貴族のどちらかが鉱脈の権利を有することになり、争い合った。特段珍しいことではないが、どこかのタイミングで武力的な干渉が発生した。普通ならば圧力での干渉で済ませるのが普通だ。だが──初めは相手の使用人を買収することから始まったそうだが、そのうちに貴族に怪我人が出て、貴族の面子や立場上の必要性から報復に出た。たかが利権争いに、段々と着地点を見失っていった」
特に貴族というのは大きくなるにつれ面子が大切になる。舐められてはいけないからだ。
「報復には報復を──馬鹿な話だが、お互いに止まれなくなってしまった。いつしか元々の鉱脈の利権のためではなく、報復のための報復を行うようになり、片側の貴族はついに外側から人員を雇った。命令は──敵貴族の子息を攫ってこい、だった」
「……で?」
「だが外側から雇われた人間は、その手で子息を殺した。その後は姿を眩まし、争いは死人が出たことで終わる。結果的に二つの貴族は確執を持った。証拠こそないが、誰がそのきっかけになったのかは明らかだった」
「だから何?」
少しだけ、エールの手に力が入っていた。ポケットには折りたたみのナイフ、すぐにでも喉元を掻き切ってやれる。
「その貴族の子息を殺したのは君だな?」
「
全身の筋肉をバネにして首元まで一直線に手を伸ばす。コンマで展開したナイフで首を切る──。
「よせ。私は君を脅しているわけではない。これはただの確認だ」
金属同士がぶつかり合う甲高い音に驚いて咄嗟に飛び退く。
ケルシーの背中から──なんだ?
何かがいる。背中から飛び出して──おそらく爪か牙か分からないが、それがこちらを向いて、見てきている。
そいつの爪がケルシーを守ったのだろう。
「……何が医者だ。ふざけやがって」
「多少君のことについては調べさせてもらった。だがこれを公にするつもりはない。だが一つ聞きたいのは、なぜ殺した?」
「逆に聞くが、僕があんたにそれを教えてやる理由などあるのか? 調べただと? それを知っててただの医者じゃ済まさない」
「スカウトしに来た身だ。相手のことくらいは調べてあるさ。知ったのはつい二日ほど前だがな。君はこのスラムの生活を疎んではいないのか? ロドスに来れば少なくとも気を張りながら生活することはない」
「信用する気はない。所詮は傭兵だろ。今とたいして変わらない。そしてそのことを知っていて尚僕が欲しいってんだろ? ドブさらいが欲しいんならBSWにでも頼めばいい」
「生活は今よりもずっと良くなるとしても?」
「首輪付けられるのは性に合わない。飼い犬はゴメンだ。野良犬の方が自分に従って生きられる」
──君は犬というよりは狐だろう、とケルシーはにこりともせずに言う。
用事はあったのだが、そんな気分でもなくなった。
「もう少しばかりロンディニウムには居る。気が変わったらいつでも連絡してくれ」
「……は、冗談だろ」
それから五日ばかりが経った。
アリゾナがエールの家──まあ雑多な建築物に囲まれた隠れ家のようなものだったが──に転がり込んで一ヶ月弱、いつの間にか当たり前になっていた。
前住人を叩き出して住み始めて五年ほど経つが、その当たり前がたった一ヶ月で上書きされていくのはなかなかに衝撃的だったと思う。飯の不味さは変わらなかったが、外食の回数は格段に減っていた。
適当な店で晩飯を済まそうと思っても、不味い飯を作っているであろうアリゾナを思い出してしまってどうにも気分が乗らなかった。何だか侵食されているようで気に食わなかったことは確かで、本当に認めたくはなかったのだが──。
こんな生活も悪くないのかもしれない、と。
1パーセントくらいは思っていた……のかもしれない。
今はもう思い出せない。
「あんたがエールか? 噂は聞いてるぜ、
だがこうして下卑た雰囲気の男と向き合うと思い出す。
自分が誰なのかを。
「ディーンっていうのはお前か?」
「ああ。スヴィンから聞いたぜ、どうしても俺に会いたかったんだってな? 何をお望みだ? 車くらいまでなら用意できるぜ?」
「僕は業者からは買わないようにしている。メーター弄られたくないんでね」
「ハッ、言いがかりはよせよ」
「噂で聞いたが、貴族と繋がりがあるんだって?」
「──ああ、そっちの話か。なるほどな? まあ飲もうぜ」
とある地下の酒場──形式としてはカジュアルバーだったが、カジュアルというよりは
スヴィンにはかなり無理を言って紹介してもらった。何でも一度でもディーンから何かを買ったことがあると顧客と認められるらしいのだが、スヴィンはディーンから買ったことがなかった。
「酒は嫌いだ。飲まない」
「んだよつまんねえな──」
ドラッグの甘い臭いのする店だった。別段気にすることもないが、改めてその臭いが気になって少し店が嫌いになる。
「俺は勝手に飲むぜ。おいマスター、なんかウィスキーくれ。薄めんじゃねえぞ」
こういう場所で仕事の話をすることは多い。
誰しも一つは信用できる店を持っているものだ。マスターは話が聞こえていても、
薄められたウィスキーを煽ってディーンは気を良くしたようにべらべらと喋り出した。
「んで何だ、貴族に手を出そうってか? それとも取引か? 何でもいいぜ、金さえ払ってくれりゃあ何だって売ってやるよ」
「転売業者がか?」
「他人の安全を転売してんのさ。いいだろ?」
「最高の仕事だな」
ふざけ合うような会話で表層を繕う。
「とある杖を探しててさ。あんたが貴族に売り払ったって話を聞いた。どこの貴族に売ったんだ?」
「ああ、思い出したぜ。あの高そうで黒いロッドだろ? 確かに売ったな。だがこっからは秘密さ。プライバシーってヤツだよ。信用は守んなきゃな」
「大口の取引でも取り持とう。60年代のフォード、まあ盗難車だけど──」
そんな言葉を遊ばせると、ディーンはニヤリと笑った。
「ナンバーは変えてあんのか?」
「別料金で承るよ」
「どこに置いてある?」
「さあ、どこだろう。僕が持ってるわけじゃないからね。現金一括、70万だそうだ」
「60年代だろ? なら60万だろ」
「残念、交渉相手は僕じゃない」
「ハハッ、そこはどうにかしてくれよ」
「67だね」
「65だ」
「ここを奢る。どう?」
「その言葉が聞きたかった! マスター、一番高い酒出せ!」
口を歪めて握手した。
そんな訳で、転売業者は他人の信用を転売することになった。そうすると貴族の情報を漏らしたことになるが、別に珍しいことでもない。
裏切り裏切られ、売って買って──昨日の敵は今日の友。
「で、どこに売ったって?」
「聞いたら驚くぜ? ベクタ・ウェル・ヨーク──まあつまり、ウォード総督家だ」
「──!」
「国防を担う貴族様にゃあ収集癖があってな。面白えモンを買っていただけてる訳だ。まあもちろん盗品だとは
ロンディニウムだけで貴族の家は100を超える。その全ての名前など覚えてはいられない。だがエールはその名前に聞き覚えがあった。エールが殺した貴族の子息──あの依頼をしたのはウォード家だ。
一年ぶりに聞く名前だった。
「ベクタが──なるほどね。今後ともよろしく頼むよ、ディーン」
「ハハハ、お互い様だ。困った時は助け合い、持ちつ持たれつ。隣人は愛さなきゃな」
「ハッ! 全く持ってその通りだ。おお神よ、迷える我らを導きたまえ──」
「ハハハハッ! 神様バンザイ!」
結局これだ。
下卑だ笑い声を響かせることが、楽しくて仕方ない。
まるで理性のない獣のようだと、そう思った。
・ケルシー先生
時期的な考察をすると沼にハマりそうなので深くは考えません。この作品ではこの少し前にバベルからロドスになったと考えています。テレジアに見つかるとマズいのでスラムとかに潜っている設定
・エール
最初はオペレーターとしてではなくケルシーの私兵としてスカウトされたことが発覚。s.w.e.e.pに所属していた世界線があった可能性が微レ存……?
・名前付きモブの人たち
名前付けたほうがそれっぽいんで名前出しました。別に覚える必要はないです
・アリゾナ
かわいい。かわいくない……?