「あなたが忘れていても、私はずっと覚えているわ」
少年にとって、世界とは暗く沈んだ夜の底に押し潰されるようなものだった。
息もできないほど、目も開けられないほど、心が潰れそうな。
もっとも怖かったのは、道端でうずくまる自分に関心も寄せられないことだった。
「おいガキ! このケース全部外に出しとけ」
「……」
「どうした? さっさとやりやがれ、クソガキ」
がなるように言われても、何を言っているのか分からなかった。だが何をすればいいのかはわかっていた。
「
積み上がったケースには緑色の瓶が六本ずつ入っていた。それが10ケースほど積み上がっている。
わずか10歳ほどの少年が運ぶには、少々重かった。
「……
だがわずか10歳ほどの、言葉も分からない少年にできることは、この程度しかなかった。
腰に力を入れて運んでいると、後ろから衝撃があって、ケースと一緒に倒れ込んだ。
「おっと、悪いな? 小さくて気が付かなかったぜ」
「……」
「あ? なんだその顔。何か文句でもあんのか?」
黙って散らばった瓶を拾い集めていると、瓶を掴む手を蹴り飛ばされた。
瓶は飛んでいって、壁にぶつかって割れた。破片が汚い床に散らばる。
「片付けとけよ、ガキ」
「おいおい、あんまりいじめてやんじゃねえよ。可哀想じゃねえか」
「いいんだよ、どうせ言葉も喋れねえクソガキだ。生意気な目つきしてな」
いつだって煙草臭い店だった。
暖かな気温と相まった
そして、こんな場所に頼らないと生活できない自分が何よりも嫌だった。
「つかよ、そのガキ、名前何つーんだ?」
「知らねえ。何言ってんのか分かりゃしねえからな。俺はエールって呼んでる」
「エール? 何だそりゃ、酒の名前じゃねえか」
「別に大した意味じゃねえよ。こいつの仕事は開いた瓶を外に運んでくことで、一番多いのがエール瓶だからな。だからそう呼んでんだよ。似合ってんだろ?」
緑色の瓶はこの酒場で一番頼まれる酒だ。
一度こっそり飲んだことがあるが、不味くて仕方ない。どうしてこんなものが一番飲まれているのだろう。
「おいエール、さっさとやっとけよ!」
「……
働きアリのように滑稽でも、それでもやるしかなかった。
全て終わらせると、店主は数枚の汚れた紙幣をエールに渡した。
「ほら、今日の分だ。さっさと出てきな」
「ひっでえ。何だこりゃ、端金じゃねえか。かっわいそ〜。メシ買えねえんじゃねえの?」
「こんぐらいのもんだろ。仕事ってのはどんだけやったかじゃなくて誰がやったかだ。働かせてやっているだけ感謝すべきだっての」
いいさ。別に何を言われてるかなんて想像がつく。
この後は──。
「……
壊れたカラーポールを目印にして路地を抜ける。高い壁を越えるために雨樋のパイプを掴んで登り、3メートルはある壁を乗り越えれば、庭園に生えた一本の木の太い枝に手をかけて地面に降りる──側から見れば、猫のような身軽さで簡単に侵入を果たした。
軽く身を潜めて音を伺う──。身を隠す植物は多い茂っていた。
「お嬢様、それでは少し出て参ります。1時半までには戻りますので、誰が来ても門を開けてはいけませんよ」
「もう、分かってるわよ。毎日言われているんだから」
「……お嬢様は最近はお留守番でも聞き分けがよくなられましたね。旦那様も喜びます」
「え? そ、そうかしら?」
「ええ。何かありましたか?」
「ええ!」
誰かとアリスが話している声。より身を低くして隠れる。
「でもないしょなの!」
「ふふ、そうでございましたか」
使用人のシェリーも、まさか外側から子供が侵入しているとは思わなかった。梯子でも持って来なければここには入って来られないのだ。
「それでは言ってまいります」
「いってらっしゃいシェリー! 甘いお菓子、買ってきてねー!」
しばらくして、鉄柵を閉じる音が聞こえた。
「……よし。もう出てきていいわよ、アリーヤ!」
名前を呼ばれると、なんだか温かい気持ちになった。
ほらみろ、僕の名前はエールなんて変な名前じゃない。僕はアリーヤだ。
「こんにちは!」
「うん。こん、にちは」
「今日は何をしようかしら!」
ひまわりのような笑顔だけが、アリーヤを救ってくれるのだ。
アリーヤにとっては、それだけが真実で、後は全て偽物だった。
*
アリスと出会ってどれくらいが経ったのだったか。
「ねえアリーヤ。実はね、私は明日、帰らなきゃいけないの」
「かえ、る? どこ?」
「……私の故郷に」
「こきょう?」
「ええ。私の生まれた場所、私の育ったあの草原の大地に」
「……もう、会えないの?」
やがてその時はやってくる。
貴族の交流会が終われば、アリゾナ家がロンディニウムに留まる理由は無くなる。つまり、アリスも帰らなければならない。
「……お父様に、私だけでも残りたいって言ったの。でも……ダメだ、って」
「いや、だ──。もう、会えないのは、嫌だ」
「……うん。私も……アリーヤと、離れたくない」
お互いに初めての友達だった。
自分の全てを見せることができて、自分の全てを分かってもらえる。
一緒にいて、心から笑うことが出来る存在。
「……いつか、大きくなったらね? 私、アリーヤに会いに来るわ。いつになるか分からないけど……いつか、必ず会いに来るわ」
「……うん」
「だから、その時まで──”約束”、忘れないでね」
ぼろぼろと泣きながら、無理にでも笑おうとして、アリスの顔は泣き笑いのようになっていた。アリーヤも似たようなものだ。
──お互いを守ること。
世界を知っているならば、それがこの世界で最も難しいことの一つであると分かったはずだ。
少年は子供だった。少女は子供だった。何も知らなかった。
「……うん。絶対、忘れない」
しばらくその時間を噛み締めて、絶対に忘れないために脳裏に刻みつけていたら、アリスが不意に言った。
「ねえ、最後に行きたい場所があるの」
「……うん。どこ?」
「あなたの住んでいる場所に、行ってみたい」
静かな声でアリスは呟くように言った。
アリーヤは、それに頷いた。
「……うん。案内する、僕の住んでるところ」
最後の機会だったのだ。
絶対に見せたくなかった場所でも、最後の言葉だったから。
きっと受け入れてくれると信じたくて、アリーヤはそうすることにした。
「こっち、気をつけて」
するすると壁横の木に登っていったアリーヤは、片手に背丈ほどの黒い杖を持ったアリスに手を差し伸べた。
「ちょ、ちょっと待って。こんな高いところ、登れないわよ!」
「大、丈夫。僕が、いるから」
アリスにとって、外の世界というのはとても面白そうな未知の世界であると同時に、恐怖も感じていた。
外へ行くときは、側にはシェリーやお父様、お母様が側についていたのが当然だったのだ。子供二人で、しかも全く知らない場所へ──。
ユーロジーを持ち出してきたのはそういう理由だった。
アリーヤだけでは心細いとまでは言わないが、日頃からユーロジーには加護が宿っているとお父様が言っていたので取り敢えず持ってきたのだ。
なんとかして壁の上に辿り着く──。
「……わぁ! すごいわね!」
壁の上から見た外の世界は、なんだか不思議の国のようだった。
錆びついたトタン屋根、無造作に積み上がった違法建築物、カラフルで刺激的な落書き、そこらじゅうに不法投棄されたガラクタ。
見たこともない世界。
「って、アリーヤ? どこにいるの?」
声は下から聞こえてきた。
アリスが上に登るために邪魔だったユーロジーを預かって、もう地面に降りていた。
「おりてきて」
「お、降りてって……どうやって降りるのよ、こんなの」
地上三メートルというのは、別にアリスでなくとも怖いものだ。落ちたら危険な高さ。だがアリーヤにとってはそうでなかった。身体能力を活かして、そんな高さなど簡単に飛び降りてしまう。
「大丈夫。とんで」
「と、飛ぶ……って、無理よ! 怪我しちゃうじゃない!」
「僕が、受け止める、から」
「……っ」
ユーロジーを立てかけて、アリーヤが前に出した両手は──すっぽりとアリスを抱える形を取ってはいたが──。
受け止めるなんて、そんな無茶な話があるだろうか。
「大丈夫、だよ。ちゃんと、まもる……から」
数十秒の逡巡ののち、アリスは断崖絶壁から身を投げるような覚悟で飛んだ──怖いので目を瞑ったまま。
重力が身を引いて、髪が空気に揺られてバタバタとはためいた。一瞬にも永遠にも感じられる浮遊の感覚がなくなって──。
「……ほら、目をあけて。大丈夫、だよ」
「え──?」
お姫様抱っこの形でアリーヤはアリスを抱えていたので、アリーヤの顔が近くて思わず顔を背けてしまう。顔が熱い。
地面に下ろしてもらうと、まだ膝は震えていた。
「これ、返す」
返してもらったユーロジーを歩行杖に使って──。
視界は、上から見た時と違って──とても狭く見えた。
「こっち。ついてきて、1人になっちゃ、だめだよ」
どちらからともなく、手を繋ぎながら。
「ついたよ」
増築されすぎたせいで長方形がいくつも集まったような建物があった。建材の多くは廃材同然のガラクタで、柱以外は継ぎ接いだような、そんな今にも壊れそうな建物。
その端に、ビニールシートを吊るして壁代わりにした家とも呼べない場所があった。
「……僕は、ここに住んでる」
綺麗で大きなあの屋敷とは比べ物にならない、ここは貧民街だ。
あの高い壁は、この世界とあっち側を隔てる壁として十分に相応しかった。
──ビニールシートの内側には、拾ってきたぼろぼろのクッションがいくつか敷いてあった。
「家じゃないないわよ、こんなところ……」
子供ゆえの無邪気な言葉。
「あなたにもお父様はいるでしょう? こんなところに住ませているなんてひどいわ! 私が一言言ってあげる!」
こんな場所に住んでいると、知られたくなかった。
だけど、受け入れて欲しかった。
「いないよ」
「え?」
「僕に、父さんも、母さんも、はじめから……いない」
望まれない子供で、必要のないものだった。
だからそんなの、こっちから願い下げだ。
「……ごめん、ね。やっぱり、戻ろう」
「え、ちょっと──アリーヤ、待って! 待ってってば!」
踵を返して帰り道をゆくアリーヤに、アリスは慌ててついていった。
何か、伝えるべき言葉はあったはずなのだ。だが何を伝えればいいのか分からなかった。
二人の間に会話はなかった。
「──ああ? んだよ。お前、エールじゃねえか? こんな場所で何してやがる」
そんな声が聞こえてきて、顔をそちらに向ける。
数人の大柄な男たちが歩いてきていた。
エールが働いている酒場の店主と、よく店に来ている2、3人の客。
「ガキのくせに女連れか?」
「……
口の中でつぶやいた言葉はアリスにも聞こえなかった。
「なあ、そっちのガキ。その杖ちょっと見せてくれよ」
「え?」
「それだよ、その黒いの──」
フォルテの男が手を伸ばした先にはユーロジー。ミノス出身の男は物珍しい紋章の刻まれた杖に興味を持った。
ぱしっ、と伸ばした手をアリーヤは弾いた。
「これは、アリスの、だ。触る、な」
少年は二倍近い背丈のフォルテの男を睨み上げた。
「……おいおい、かっこいいなぁヒーローくん。好きな子の前なら格好つけねえとなぁ。おいジョン、お前も見習えよ! 格好わりーからあいつとヤれなかったんだぜお前」
「ちッ! てめえ、言葉話せてんじゃねえかよ。舐めてんのか、クソガキが」
店主の男はそのことに苛立って、適当にエールの頭をいつものように殴ろうとして──鮮やかに捌かれる。
捌いた下の中に潜った少年の目が──ただ、鋭く睨んでいた。
「……なんだよ、その目はよ」
女に振られた後で、男は荒れていた。一丁前に女連れたクソガキにさえ苛立った。
「生意気だっつってんだろ、クソガキがよッ!」
振り下ろした拳は空を切る。どころか振り下ろす時の無防備な顔に、アリーヤの打撃が入っていた。
「てめえ!」
「
遅くて下手くそ。当たるかよ。
子供の拳は軽い。だがスピードがある。数打てば大人といえど平気ではない。
「おいおいジョン! ガキにやられてんぞ!? だっせえな、こりゃ女にもフラれるに決まってんな!」
煽る男たちの側で、アリスは肉食動物のようなエールの顔を初めて見た。
「うっせえんだよ! このッ、くそ、ぶッ! てめえ、このガキッ! ぶっ殺す、ぶへ──」
「
倒れ込んだ男の顔面を何度も力を込めて踏み潰す。何度も何度も──足を掴まれればもう片方の足で手を踏み潰す。反撃を許さない一方的な蹂躙。
蹴りすぎて足が痛くなってきたところで、後ろから叫び声があった。
「おいガキ! こっち見てみろよ」
足元の男は呻いていた。
そっちを見ると──手にナイフを持って、アリスの肩にもう片方の手を置いていた。
「
「動くなよ、ちょっとお前やりすぎ。大切なんだろ? じっとしてろよ──」
その男たちの反応が間に合うよりも先に、アリーヤはまるでバリスタの矢のように飛び出した。
アリスに危険が及ぶかも知れなかったのに動いたのは、結局のところ、男の発音が酷くて”動くな”という言葉が聞き取れなかったという理由だったのだが。
結果的には正解だった。
飛び上がる狼のような瞬発力の上段飛び蹴りがナイフを持った男の顔面を撃ち抜いた。
その時、手に持ったナイフも弾かれて──ほんの少しだけ、アリスの頬を切った。ほんの少しだけ。
痛かった。
ツー、と。一筋の鮮やかな赤色の絵の具が頬というキャンバスに引かれる。
そのことにアリーヤは気が付かず、素早くナイフを拾った。
「ふざけたガキだ、こっからは冗談じゃ済まねえぞ……ッ!」
残った二人の顔色に、侮りはなかった。
まるで戦うことしか知らない野生動物と相対しているようだった。ナイフの切先がこちらに向けられているなら──。
それはもう、まさしく殺し合いだった。
「後悔すんなよ、ブッ殺してやる!」
「
それを、アリスは呆然と見ていた。
一対多数でも、アリーヤは飛び回る四足歩行の獣のような俊敏さと体の小ささを生かし切っていた。
まるで後ろに目でもついているかのような動きで攻撃を交わし、自分だけが攻撃し続ける。
ナイフが胸を斜めに切り裂いた。脂の混ざった血が地面に落ちて汚す。
「こいつ、マジでぶっ殺してやるからな! 囲め、所詮はガキ一人だろうが!」
掠りさえもしない。
「痛え、刺されたッ、こいつ、マジで殺しにきてやがる、──イカれてるぞこのガキッ!」
「許さねえ、ぜってえ許さねえ! 殺す、ぜってえ殺してやるッ!」
触れるはずもない。
頬を流れたのは──涙ではなかった。
アリスの頬を流れてたのは涙ではなかった。指を当てて見ると──それは赤くて、
「……やめて」
血だった。
「があああッ、痛え、! 指が、俺の指、飛んでっちまったッ!」
「このクソガキがぁぁあああああッ!」
同じように、アリーヤも血で汚れていた──全て返り血だった。
喉を掻き切る。父さんにしたように。
「殺しやがった、バーグを殺しやがったな、てめえええええええッ!」
正面から心臓を貫く。母さんにしたように。
「嫌だ……死にたく、ねえ……」
アリーヤはいつの間にか笑っていた。
獰猛で狂気的で、正気的で本能的に、自然と笑っていた。
「……もう、やめて」
血の匂いだ。
魂を震わす。
心を満たす、血の温もりだけが自分を肯定してくれる。強いのだから、生きていいのだと言ってくれる。
それをもっと寄越せと、自分の中の獣が叫んでいるのだ。
「やめて、アリーヤ!」
──────その声で、ふと正気に帰った。
後ろを振り向くと────。
「ひっ……」
怯えた表情のアリスが身を縮こませて、まるで化け物でも見るような目で、アリーヤを見ていた。
歩み寄ろうとして──。
「やめて……」
そして、アリスは力の限り叫んだ。
「来ないでっ!」
──どうしようもなく怖かったのだ。
友達が、友達ではなくなった。
べっとりと頬についた返り血は、まるで食事の食べかすにも見えて、どうしようもなく怖かった。
「来ないで、私の方に来ないでぇっ! 誰か、助けて……」
アリスの後ろの方から何人もの人間が駆け寄ってきていた。
「お嬢様! 大丈夫ですか!?」
「グレース、どうした!? 何があった! こんなところで何を──」
身なりのいい男性がアリーヤを見ていた。
「お父様、シェリー……」
その男性はアリスを庇うように一歩踏み出して、血みどろのアリーヤに相対する。
「大丈夫だグレース、私が守ってやるからな……!」
シェリーがアリーヤの方を睨みながらアリスを抱きしめると、アリスは泣き出した。
「大丈夫ですお嬢様、私たちが守ります、大丈夫です──」
そう言って。
「
「こっちに来るな化け物! お前が殺したのか!?」
きっと周りの死体を言っているのだろう。
「
だけど……どうして、僕が悪いみたいになっている。
これじゃまるで、僕がアリスを怖がらせたみたいじゃないか。
「シェリー! すぐに警察に連絡して、グレースを安全なところへ!」
「畏まりました、旦那様!」
呆然と手を伸ばしても、アリスの姿は見えない。
──周囲に人が集まってきた。
──逃げないと。
父さんたちを殺した時みたいに、逃げないと。
「ッ、逃げるぞ!?」
俊敏な動きで、アリーヤは貧民街のシルエットの中に消えていった。
アリスはいつまでも泣いていた。
走り疲れて倒れ込んだ。
「は──はははっ、あははははははははっ……」
笑ってしまった。乾いた笑いが誰もいないゴミ捨て場に響いていた。
「……最初っから、嘘だったのかな……」
空には雨雲。雷の音が聞こえた。
「……会いたいよ、アリス……、僕の、友達……」
気温が急激に低下する。雨の前兆だ。
「嘘だよ……。アリスが、僕を拒絶するなんて、あり得ないよ……」
本当は分かっていた。あの顔は、友達に向けるものじゃないって。
「痛いよ……」
走り疲れて、痛かった。
「誰か、助けてよ……。一人は、寂しいよ……寒いよ、父さん……」
温もりが欲しかった。
「父さんは僕のことが……殺したいくらい、憎かったの? 邪魔だったの? いらなかったの?」
愛して欲しかった。
「母さんは、僕のこと……なんにも興味なかったの……? 頑張って勉強したテスト、ゴミ箱に捨てられてたの……知ってたんだよ。あんなにくしゃくしゃにして……他のゴミと一緒に、捨てたんでしょ……?」
必要とされたかった。
「僕のこと、愛してなかったんでしょ……? 愛そうとするフリだけしてさ……。一回だって、僕のこと……アリーヤって……呼んでくれなかった……」
アルカーチスというただの羅列、血の通わない呼び方。
ウルサスでは、親族は愛称で呼ぶ習慣がある。
アリーヤは、一度だってそう呼ばれたことはなかった。
「憎むくらいなら……最初っから、産まないでよ……」
通り雨が降り出す。誰もが軒を求めて大慌てで駆け出す。
「知ってたんだよ。アリスが僕のこと、本当は見下してたの……心の中で、バカなやつだって……見下してたの、分からないと思った……? 言葉が分からなくても、分かることはあるんだよ……?」
少年の涙は雨粒に隠れて見えなくなった。
仰向けになって空を見れば、雨粒がはっきりと見えて、とても不思議だった。
「知ってたんだよ……。父さんたちは、僕に死んで欲しくて仕方なかったってこと……。邪魔だったんだよね、要らなかったんだよね……」
本当は全て分かっていた。
「先生も……いっつも、僕のことを面倒だと思ってたんだよね。フェゼイとか、スイーザには笑顔なのにさ……僕を見た途端、嫌そうな顔をする……。別に、僕が先生に何かしたことなんて、一回だってなかったじゃないか……」
生まれつきだ。
「酷いよね……。それがすごく痛いってこと……知らないのかな……」
なぜだか、上手く生きられなかった。
「僕が愛されるために……何か出来ることが、本当にあったのかな……」
上手に生きようとしても、どうしても言葉より先に手が出てしまった。
「父さんを愛するために……一体、何が出来たのかな……。生まれた時から、誰からだって愛されてなかった……知ってたよ。全部分かってたよ……。そんなの……ずっと分かってないフリをしてただけなんだって……分かってないフリをしていたかっただけなんだって……」
知っていたさ。
「愛されてなかったなんて……認めたくなかった。知らない方が……よかったよ……」
知っていた。
「……復讐してやる」
降り出した雨が体温を奪う。
「みんなにされたこと、全部やり返してやる……」
涙ともつかない水が流れる。
「父さんも母さんも、死んで当然だ……。殺して当然だった……! あんなクズども、殺してやって当たり前だ……! 僕は悪くなんてない、悪いのは……あいつらじゃないか……、この世界の方じゃないか……!」
こびりついた返り血が雨で流れる。
「優しい人なんてどこにもいないじゃないか、誰だって……嘘つきだ、嘘ばっかりだ……! 助けてくれる人なんてどこにもいない……。みんな……僕から奪って、騙して……」
少なくとも、それは少年にとっての真実だった。
「だったら……だったら────ッ!」
少年は一人だった。教えてくれる人は、誰もいなかった。
「アリーヤなんてやつは、最初っから居なかったんだ……。要らなかったんだ、だから……」
少年は拳を握った。
「……、……。もう名前なんて、どうでもいい……好きな風に呼ばせてやる……僕は、エール……エールだ……ッ!」
生まれ変わるように、そう名前をつけた。なんだってよかった。アリーヤは必要なかった。
「あいつらが僕をそうやって名付けるんなら、望み通りにしてやる……二度と僕を侮れないよう……二度と、僕から奪わせないように……強く、強く────」
強くなって、それで。
「……アリス。もう、二度と……泣かせたり、したくないから」
流れた涙は雨に汚れ、少年は空を見上げた。
「強くなるから……。君を絶対、傷つけさせないくらいに……」
泣き笑いの顔に光る目の輝きは汚れ、染まり──
「もう一度出会えた時、今度は……助けられるくらい、強くなるから──」
少年はこの世界を生きることにした。
涙は捨てよう。悲しみは捨てよう。
優しさは捨てよう。喜びは捨てよう。
僕を弱くするものは、ぜんぶ捨ててしまおう。
「うっ、うぅぅ……、くっ、うぅ────ぁ、ぁぁぁぁぁぁぁあああああああ……──!」
だから、涙はぜんぶここに捨てていこう。
もう二度と泣くことなんてないように。
もう二度と傷付かなくていいように。
もう二度と後悔しなくていいように。
もう二度とこの場所に来ないように。
あの約束を嘘にしないように。
どうか嘘になりませんように。