ようやっとエピローグです。ここまでが長すぎる……。タイトルはヨルシカの楽曲「花に亡霊」から拝借。
グエンがエクソリア南部大統領に当選して、一日が経っていた。
大統領邸への引っ越しが大体終わって、見晴らしのいいテラスにグエンが出てみた時のこと。
「……エールさん。まだ体は万全ではありません。病院に戻ってください、今から訪ねに行こうと思っていたところでしたのに」
2階のテラスに出入り口は一つだ。だというのに、エールは当然のようにそこにいた。
「祝いの言葉を伝えたかったんです。大統領就任おめでとうございます、グエンさん」
「全く……。主治医の言葉は聞くものです。自分の体のこと、本当にわかっておりますか」
「もう僕の主治医をやる時間もありませんよ、これから一ヶ月──忙しくなります。申し訳ないが、これからは政治にかかりっきりになってもらいます。医者は当分休業です。レオーネの方も、当分は僕に……いや、他の幹部たちに任せてください。グエンさんにしか出来ないことがあります。そして僕にしか出来ないことがあるように」
深いシワを動かして、グエンはため息をついた。
若者は──いや、エールは本当に言う事を聞かない。特に自分自身の体のことに関しては尚更。
「余命がさらに減りますよ」
「僕が死ぬ前に戦争は終わらせます。もう一年もかけるつもりはありません。終わらせるんです。終わらせなければならない」
相変わらずなエールだった。この青年と出会ってもう半年ほど経つが、わかってきたことがいくつかある。
恐ろしいほどただ前に向かって進み続ける青年だということ。良くも悪くも器用であり、不器用だということ。
危なっかしくて目を離していられないことや、めちゃくちゃな手段で困難をどうにかしてしまうタイプの人種だということ。
エールには運命があると、グエンには理解出来ていた。
「そういえば、エールさんに手紙が届いています」
「いつものくだらない戦争感想文は事務で処理してもらってください」
「いえ、どうやら少し違うらしいですよ。こちらの包みも一緒に」
渡されたのは灰色の封筒と、小さく無骨な包みだった。包みの方は小さいながらもすこしずっしりとしていた。
「これは?」
「トランスポーターからの手紙です。なんでも……ヴィクトリアからの手紙だとか」
「ヴィクトリアから? 裁判所とかかな……」
エールは適当に封筒を開いて、畳まれた紙切れを開いた。どうやら手紙のようだ。
「──────……」
最初は適当に読んでいたエールだったが、すぐに表情は消え失せて、すぐに真剣な顔で読み始めた。
そして2分ほどかけて読み終わると、包みを開いた。
中に入っていたのは、年代物のライターと、タバコが一箱だけ。
ライターは古めかしいデザインで、重厚感と使用感があった。タバコの方は、あまりエクソリアでは馴染みのない銘柄だ。
「誰からの手紙でしたか? 知り合いですか」
「…………。知り合いなんかじゃありません」
タバコを手に取って、慣れた手つきでエールは箱を開いた。
一本を取り出して咥える。
「喫煙も勧めませんよ。
入っていたライターはそのまま使えるようだった。
火がついて、煙草から煙が立ち上っていく。
「……この手紙は、あるロクデナシからの手紙です」
「ろくでなしですか」
「はい。……僕を拾った、とある男のことです。鬱陶しい男でした。奴は他人でしたが、僕の生活や性格に事あるごとに口出してきて……その度に、口喧嘩や、殴り合いになっていました。僕が奴より喧嘩が強かったものですから、奴は大人気なくあの手この手で僕に嫌がらせをしていました」
そんなエールも、今は怒りや苛立ちの感情はないようだった。あれからずいぶん時間が経っていた。
「認めたくないですが、保護者というか……大人の後ろ盾があることは、僕にとって大きな助けだったことは確かでした。いくら強かろうと、所詮僕は子供で……何も知らなかった。癪ですが、僕が奴から離れるまでの三年間……ヤツの助けなしに、僕は生活できなかった」
「エールさんが自分の話をするのは、初めてですね」
片腕の背中に果てしなく大きなものを背負っていた。
だが、ほんの少し変わったようにも思えた。
「僕は奴のことが嫌いでした。心の底から嫌っていました。はっきりしない甘さや、押し付けがましい優しさ、あるいは……大人のくせに一丁前に苦悩する姿が、この上なく情けなく思えました。奴が煙草を吸っている姿が、僕は嫌いでした。格好付けている、と奴は言い張っていましたが、僕には現実から逃げているだけとしか思えなかった」
──ライターと一緒に入っていたのは、奴の吸っていた銘柄の煙草だった。
エールがその安っぽい紙巻きを指で挟んでいる姿は、あの男とそっくりだった。
「でも、今なら……あいつの考えていたこと、分かるような気がします」
煙草は嫌いだった。でもエールは結局吸い始めた。
この世界はどうしようもない矛盾ばかりだということを知ったからなのかもしれない。あの時は認められなかったあの男のことも──。
「……僕は、あの男の名前を一度も呼んだことがありません。七年間……一度も。僕はあの男を認めたくなかったんです。そして、今では奴の名前も思い出せなくなってしまった」
グエンはそんなエールの言葉を聞いて、穏やかに諭した。
「話を聞く限り、その方はエールさんの親だったようですな」
「僕も……本当は分かっていました。ただ、認めたくなかっただけです。反抗期ってヤツだったのかもしれませんが」
「手紙には何と?」
「……まるで自分の子供に送るような内容でした。トランスポーターを雇ってまで送るような話じゃないでしょうね」
あのロクデナシには似つかわしくない内容だった。体の心配など、余計なお世話だ。
「話が過ぎました。下らない話です」
「いいえ、親の話に下らないものなど一つもありませんよ。どのような形であれ──親というものは、自分を形作るものです。人の繋がりの中で、最も強い縁なのですよ」
グエンも、エールの隣に並んでテラスの柵に肘をかけた。
まだ若いエールと、長い歳を重ねたグエンが並んでいる姿は、側から見れば不思議な組み合わせだった。だが──ちょうど一人分空いた二人の距離感には、不思議な信頼感が表れていた。
人との距離の取り方がそう上手ではないエールに、人間関係を長く積み重ねてきたグエンが上手く合わせているからこその距離感だった。グエンが人々に慕われる理由でもある。
「私も、家族がおりました。一家が丸ごと集まると、一部屋には収まり切らなかったものです。父、母、祖父……兄妹は合計で五人にその息子や娘たちも合わせて……もう、誰が誰やら分からないと人には言われましたが、私には一目瞭然でした。この国では珍しくもないことです」
懐かしむようにグエンは話した。それらは全て過去形だった。
「エールさん、私があの時あなたに微力ながら力を貸したのは、私自身のためでもありました。国を守ると言った決意に嘘はありません。ですが、これは私自身の復讐でもあるのですよ。ですから、私はあなたの復讐に口を出すことはしません」
グエンもずっと苦しみの中にあった。息子を失い、妻には先立たれ──それでも、全てを失ったわけではない。
「ですが、一つ人生の先達としてのアドバイスを伝えます。きっとあなたは、自分の持っていた全てを失ったと感じたことがあるでしょう。ですが、それは勘違いなのです。生きている限り、これまで生きてきた全てを無くすことなどあり得ませんよ。人の縁というものは、それこそ死んだって途切れることはないのです」
息子を失って絶望したグエンには、まだ息子の子供──孫が残されていた。まだ赤子だった。その時、まだ生きていようと思った。せめてこの子が大人になるまで……きちんとした幸せを掴める世界にしようと。
「私たちはこれから戦争という深い罪を背負います。ですから、殺した人々を上回るほどの人々を救わなくてはなりません。私は、あなたには幸せを掴む義務があると思っています。罪には罰を与えなくてはなりませんから」
「……どういうことですか?」
「幸せになることが、これまでの罪に報いることである場合もあるのですよ。特に、自分が許せない人などは──ちょうど、あなたのような」
返答はなかった。そう意外でもなかった。
「さて、私はまだ作業が残っています。この辺りで」
グエンには察しがついていた。トランスポーターによれば、手紙は特定契約に基づいて配送されたものだった。特定契約というのは、条件を満たすと配送されるトランスポートのオプションの一つ。
大抵は、自分の死後に配送してほしいという依頼だ。
外を眺めて佇むエールを一人残して、グエンは去った。
残されたエールは、ずっしりとしたライターを眺めて、ライターのキャップをかちゃりと閉じる。
煙草の煙は、たまらなく苦かった。
「……そうか、死んだのか──、…………」
ライターと煙草はあの警官の遺品だ。それが分からないほどエールは鈍くなかった。手紙の内容から察するに、病気であっさりと死んだらしい。争い事で死んだわけではなかったのだから、多少はマシなのかもしれない。
「……親父」
あの時認められなかった警官のことを、今になってやっと親だと認めることが出来て──。
そしてもう会うこともない、ロクデナシの顔を思い出した。
*
薄暗い部屋だった。
物置のようなガラクタの散らばった暗い倉庫には、小さな鉄格子の窓から微かな光が刺していて、埃を照らしていた。
合計して10人ほどの人間がそこにはいた。だが誰も喋らない。視線を伏せ──というよりは、ナイフを撫でていたり、あるいはずっとコインを弄っていたりしていた。異様だった。
それもそのはず、これらの人間は前歴が犯罪者だったり、あるいは危険人物とされて捉えられていたのだ。人格破綻者もいる。全員に手錠がかけられていた。
そして共通点は一つ──何か一つ、特別に秀でた能力を持っていること。
絶対記憶だったり、あるいは高い侵入技術や変装など、特に犯罪に関連する技能が多かった。
そして倉庫の外には、エールが一人、鍵のかかった倉庫の門に保たれている。
夏の盛り、木々の緑はより深い。遠くには蜃気楼すら滲んでいるようだった。草原の大地と、真っ白に太陽を反射するバオリアの街並み。
──時間を確認する。あと1分もすれば正午になる。
「さて、彼女は来るかな……?」
楽しみにしたように呟いた言葉は──さて、もうすぐだ。
正午まで残り10秒。
──これは、ハズレか? 期待した結果にはならないかもしれない。
正午を回った。
あたりに誰もいないことを確認して、エールはため息を吐いて、その場を立ち去ろうと──して、
「どこに行く気だ。私はここにいる」
振り返った先にスカベンジャーが立っていた。
傷跡は服の下に隠されていたが、隠し切れてはいなかった。
いつも通り、無愛想な瞳が向けられていた。
「……ようこそ。待っていたよ」
本当に嬉しそうに、エールは片腕しかない手を広げた。
「この場所に来たってことは、やっと覚悟が決まったんだね。ここに来るということは、もう君は裏切り者だ。ケルシー先生は今頃怒っているんじゃないかな」
「……喧しいヤツだな、お前は」
「嬉しいのさ。発案から半年──ようやく、僕の望んでいた部隊が形になるんだ。はしゃぎもするさ。特殊工作部隊
エールが担ってきたのはレオーネの裏事情や汚れ仕事だった。ヴィクトリア時代の経験を生かしてレオーネを発展させてきたが……人手が足りなかった。直属の戦闘暗殺なんでもござれの部隊を欲していた。
そして隊をまとめるのにふさわしい人材も探していた。
「今度は前のような潜入じゃない。本気で僕にその命を預けてもらう。僕の命令に従い、僕のために戦い、僕のために血と泥に汚れて死ね。今から僕がお前の新しいご主人様だ」
「……は。三回回ってワンと言え、か?」
「やってくれるの?」
「命令ならそうする。だが、あの言葉──嘘だったのなら、私はお前と、大切な連中をどんな手を使ってでも皆殺しにしてやる」
「これは契約だ。約束は守るさ。──従えよスカベンジャー、それができるのなら──」
主従とは思えないほど緊迫した雰囲気だった。エールは堂々と言い放った。
「──お前のこれまでの苦しみ全てに意味があったことを証明してやる」
獰猛に笑って。
「……見せてもらうぞ、エール。お前が言う結末の景色とやらを」
今度は偽りではなく、本気で──そう、命すらも預けてやる。
何よりも、これまでの意味のために、他の全てを捨てる。ずっと探していたものを探しに行くのだ。どうせ似たもの同士だ。
何よりも、自分自身のために。
エール直下、第一特殊部隊B.l.o.o.d、隊長をスカベンジャーとし、本日から活動を開始する。
*
ブリーズが目覚めて退院するまでの二週間の間、エールは一度も見舞いに訪れたことはなかった。
別にそれを気にしているわけではないが──そう、別に一日一回来いとは言わないが、一回くらいは来ても良かったんじゃないかと思っている訳ではない、決して思っているわけではないが──まあ、悪戯をしてみようとブリーズは思った。
歩ける程度には回復したので、エールを探しにとことことそこら中を歩き回ること半日。さまざまな人たちと談笑したりしながらエールを探していた。
と、そんなことをしているうちに、たまたまエールを発見して──とりあえず、尾行してみることにした。
あまり目立ちたくないのか、あるいは日差し対策かは分からないが、白いキャップを被って、カーキ色のワイドパンツと真っ白な飾り気のないシャツで道を歩いていた。
片腕しかないし、キャップの下からは白くて手触りの良さそうな髪が垂れてきていたのですぐに分かった。
どうやら街の外側に向かっているらしい。一応気づかれないようにあとを付けていくが、後ろを振り返ったりする気配はさっぱりない。気づかれてない。確認、ヨシ!
道端の建物などが少なくなって、道の砂に緑が混ざり始め──段々と、エールは森林の方に進んでいるようだった。小川などを抜けた先には──いつだか早朝、エールと出会った場所にも似ていた。
周りを見ていると、足元に感触があった。
柔らかい感触がして、足元を見ると……どこから来たのか、黒猫がブリーズの足元に擦り寄っていた。
にゃおん。
「あら。あなたはどこから来たの? 随分人に慣れているようだけど、飼い猫かしら」
すりすりと足元に額を擦り付けてブリーズの気を引いていた。そんな愛らしい姿に、ブリーズはついしゃがみ込んで頭を撫でた。
にゃおん──。
……はっ。我を忘れていた。
ふと気がついて、ブリーズは立ち上がった。
「ごめんなさい、私はあなたに会いに来たんじゃなかったわ。じゃあね、黒猫さん」
そんな言葉を言い残してブリーズは辺りを見渡すが──しまった。見失った。
黒猫の誘惑に完全に敗北してしまった形だ。これもエールの策略だろうか?
「……あっちの方かしら」
どうせ一本道だ。こっちに違いない──と、最初は思っていたのだが。
森に続く道は、二つに分かれていた。別れ道の入り口には小さな休憩小屋のような場所があって、そこにはボロボロになった木製の椅子があった。
人が座っていることにはすぐに気がつく。エールではなかったので、少し落胆しながら──そうだ。
「ねえ、そこの人。ちょっといいかしら?」
太陽から身を守るために休憩していたであろうその青年は、話しかけてきたブリーズの方を向いて素朴な顔を浮かべた。
「さっき、この道を誰か通らなかったか教えて欲しいの」
「なんだ、人探しっすか?」
「似たようなものね。というか、あなたはここで何をしているの?」
「オレ? オレは──まあ、何もしてないっす。強いて言うなら、見守ってるくらいっすかね」
「……変な人ね? で、ここを通りかかった人は見たの? 見てないの?」
「何人か通ったっす。その人、どんな人っすか?」
青年の問いかけにブリーズは少し迷いながら答えた。
「えーっと……なんか、真っ白な人よ。あと辛気臭い表情だったと思うわ。多分だけど」
「辛気臭い……って。もう少しなんか無いんすか、姿とか、服とか」
「特徴的なのが一つあるわ。右腕がないのよ、その人」
「右腕を? ……軍人とか……っすか?」
「まあ大雑把に言えば、そうね」
青年は少し驚いた顔をして、感嘆したように言う。
「あんた、その人と知り合いなんすね」
「知り合い……って感じでもないわね。改めて考えてみると、私と彼ってどんな関係なのかしら」
「ああ、なんかその感覚、ちょっと分かるっすよ。人との関係ってのは難しいっすよね。友達とか仲間とか……それが明確にどんな輪郭をしているのかを言葉で表すのは難しいっす」
青年の纏う雰囲気は少し変わっていた。どこか浮き上がるような空気感があったと感じられた。何か──どこかしら現実離れしていた。
「──その人は、あんたにとってどんな人なんすか?」
まあ段々と話は脱線していたが、ブリーズは別にそれほど急いでいるわけではなかったし、人と話したりするのは好きだった。
「難しいわね……。私にとってはかなり重要なんだけど、けどかなりのお馬鹿さんだし……友人ってわけでもないけど、決して他人というわけではないのよ。仲間っていうのも違うわ。きっとあっちの方は私のことなんて、どうとも思っていないのかもしれない。まあ──」
言葉を区切って、ブリーズは微笑みながら空を見上げた。
「私の片想いみたいなものね」
「……あんたもしかして、ロマンチストっすか?」
「え? いえ……ロマンチストかしら? むしろ
「えーっと……つまり、その人とあんたは似たもの同士ってことっすか?」
「似たようで違うわ。昔は──ずっと昔は、きっと似たもの同士だったのよ。でも今は違うの。もう変わってしまった。私も、あのお馬鹿さんも。あなたにも経験があるでしょう? 現実を前に、変わらざるを得なかったことが」
「そうっすね。恥ずかしくて思い出したくないこともあるっす」
青年も昔を思い出して同意した。過去の自分に苦笑いを浮かべている。
「オレもね、その人みたいな人を知ってるんすよ。普段はクールぶってんすけど、実はとんでもない空想家で、ロマンチストな……そんな馬鹿な人を」
「あら、聞けば聞くほど似てるわね。いつも澄ました顔してるけど、実は暗いことばかり考えてるのよ。やりたいこととか、楽しいこととかさっぱりしないもの。全然笑わないのよ。貼り付けたような微笑みはするけど、心の底から笑ったところ……見た事ないわ」
「ああ、そこは違うんすね。オレの知ってる人はよく笑ってたっす。苦笑い4割くらいで、仕事中もよく笑ってたっす。きっと現実を……この世界を信じてたんすよ。だからあんな風に笑っていたんだと思ってるっす」
青年は懐かしむように語った。聞く限りエールとは程遠いし、そもそも他人の話だ。なのでブリーズには何も関係のない話だ。だが──。
どうしてか、全くの他人の話だとは思えなかったのだ。
「……でも、あの人は裏切られたんすよ。オレたちがあの人を裏切ってしまった。オレたちの言葉は、結果的には嘘になっちまって……あの人はずっと縛られたままになっちまった」
どうしてかその表現がピタリと当てはまるような気がした。青年は透き通るような気配で、後悔の言葉を吐き出していた。
「あの人に話したいことがたくさんあるんすよ。でもオレはもう伝えられない。実は前までは会えたんすよ。けどオレたちの声は届かなくなった。今じゃもう姿も見えてないんすよ。元々許されないことだったっすから、それは当たり前のことが当たり前になっただけで──」
「? どういうことかしら」
変な語り口に、ブリーズはついそう聞くが──。
青年はその顔のままブリーズを見上げる。
「……そこの別れ道、右っす」
「え?」
草花を揺らすそよ風の音が聞こえていた。
「……あの人のこと、どうか……どうか。……よろしく、お願いします」
それがどういう意味か問いかける前に、風に溶けて青年は消えていった。
瞬き一つの間に、そよ風一つ残して──彼の座っていた、少しボロボロになった椅子だけがその場所に残されていて。
「……え? あれ、私──」
あまりの現実味のなさに、ブリーズはしばし茫然とした。白昼夢だろうか。確かにそこに、誰かがいたはずなのだが──。
「そこに……いた、わよね? いえ、……あれ、どんな……人だったかしら」
顔も形も──さっきまでそこにいた誰かのことが、もう思い出せない。
それはまるで、幽霊に出会ったかのようだった。
遠く見えるバオリアの街並みには、この日差しが産んだ陽炎がゆらゆらと揺れていた。いつまでも揺れていた。
道は舗装されているというほどでもなかったが、踏み慣らされていて、歩きやすかった。森の雑草が生い茂る中、そこだけは草が低くなっていて道になっている。
涼しさが通り越して、薄着では少しだけ肌寒い。
道なりに10分ほど歩いただろうか、段々とこの道であっているのか不安になりながらブリーズはとことこ歩いていた。
深い緑が全てを覆い隠す場所。この一帯は森の中に蛇やら虫やらが結構いたりするのだが、小川の辺りはいくらか綺麗になっているようだった。
地面から湧き出した水が無数の小さな水流を形作っている。それが本流に合流していて、せせらぎの音が心地いい。ブリーズは実は森を迂回する形に移動していて、見えてきた景色にはアルゴンの街が小さく混ざっている。森の外輪部で、草原と森林を分断する川が流れていた。
そこにはエールがいた。
腰を下ろしていたのは、苔の張り付いた大きめの岩で、近くの大木の元には蔦の絡み付いた何かが何本も立っている。
それは剣だったり、杖だったりしていた。盾まである。全てボロボロになっていた。それらは全て大木に寄りかかって、蔦の緑や、苔、或いは小さく土で汚れていたりした。全て時間の流れによるものに見える。
「アリーヤ」
ちょろちょろと聞こえた川の流れの音に、優しい声が混ざった。
エールはさしたる驚きもなく振り返る。
「……気がつかなかったな。僕を追いかけてきていたのか?」
「久しぶり、の一言でも言いなさいよ。一回くらいお見舞いに来ても良かったんじゃないの?」
「悪いね、忙しかった」
忙しいのなら、どうしてこんな森の中に一人で来ているのか、とか言いたかった。だが──なんだかそんな雰囲気でもない。
「何か用?」
「あら、わざわざ追いかけてきたのよ? 殿方なのだから、礼儀正しく……光栄でございますブリーズお嬢様、とか言ったらどうなの」
「……アリゾナお嬢様、だろ。どうして名前を変えた?」
「お互い様ね」
名前というのは自分の証だ。
それが変わったのは、自分が変わったということの直接的な証だった。
「話をしに来たの。悪戯の一つでもしようと思ったけど、なんだかそんな感じじゃなくなっちゃったし」
「話?」
「あなたはまだ覚えているかしら。私たちが
それは、ロンディニウムの地下室で出会った時のことではない。
「私は覚えているわ。ずっと覚えているの。たとえ貴方が忘れていても、私はずっと覚えているの」
それよりももっと昔、あの小さな庭園で出会った時のことを。
「私もあなたも、変わってしまった。でも、ずっと覚えているわ」
彼女はずっと覚えている。ずっと想っている。
「絶対に忘れてはならないことが、この世界にはあるの。ねえ、アリーヤ」
だから、ブリーズは漸く語り始めることができたのだ。
もう、十年ほど前の話だ。
「──アリスという女の子のことを、覚えているかしら」
それは、ある少女が、ある少年に出会った時の話。
「……アリス?」
「ええ。小さくて……何も知らなかった、愚かな女の子の名前。その子の初めての友達……それが、アリーヤ。あなただった」
あれから、アリゾナはずっと探していた。どこかにいるはずのアリーヤを探しに行こうとして──けど、小さなアリゾナにそんなことは出来ない。両親の説得もできなかった。無力で無知だった。
ブリーズは、覚えている限りの全てをエールに話した。確かめるように一つ一つ──エールはそれらを黙って聞いていた。
実を言うと、ブリーズはたまらなく怖かった。こうして話して、その時の女の子が自分だとエールが知って……怒りや、悲しみや……拒絶を突きつけられたら、どうしようとずっと怯えていた。
けど、そうしなければならないと自分が思ったから。
初めて出会って、仲良くなって、言葉を教えて、代わりにアリスが知らないことをたくさん教えてもらって、
遊んで、話して、一緒に笑って、
仲良くなって、好きになって、
そして、アリスを守るためにアリーヤが戦って、
殺して、
血まみれになったスラムの路上と、返り血に酔ったアリーヤの顔に怯えて、
怖くて、
拒絶して、逃げたことを──
全て告白した。
全てを語り終わった時、エールはなんだか他人事のようだった。驚いていたようにも思えるが、結局一言も口を挟まなかったので、ブリーズだけがずっと話し続けていた。
その八年後に実家を飛び出し、ロンディニウムのスラムでエールに出会ったこと。全てが終わった後、地下室のデスクをこじ開けてあの絵本を発見したこと。それでエールがアリーヤだと分かったこと。
本当のことを言えば、あの後エールがどうなったかをずっと知りたかった。どんな経緯があってエクソリアで英雄なんてやっているのかは、本当に知りたかったのだ。けど聞かなかった。自分にそんな資格はないと思った。
「……これが、私の覚えていることの全てよ。思い出したかしら」
エールはちらりと視線を流して、大木に保たれていたいくつもの武器の方を見たりしていた。
話を本当に聞いていたのか不安になるほど、何もリアクションがなくて──つい不安になって、ブリーズは問いかける。
「──私の勘違いじゃなければ、あなたに共通語を教えたのは、アリスのはずよ。……覚えてないの……? どうしてあなたは、共通語を話せるようになったの……?」
その言葉に、エールは明確な反応を示す。
具体的に表現するなら、固まった。
「……そうだ、確かに……僕は……話せなかったはずだ。どうして、僕は……今、こうやって……そうだ、誰かに……教えてもらった、はずなのに……どうして──ぅ、ぐッ!? あ、ぁあッ!」
突然頭に鋭くて鈍い、突き刺す痛みが生まれて、エールは苦しみ出した。
ブリーズは突然の事態にしばし気を取られるも、すぐに駆け寄って叫ぶ。
「アリーヤ、アリーヤ!? どうしたの、何が──っ!」
「ぁ、ぁあああッ! そうだ、いたはずなんだ、僕は約束したはずだ、あの時は覚えていたッ! ぐ、ぁ、──いたはずだ、約束したはずだッ! それは何だ、僕は誰と、どんな約束をしたッ!?」
「だ、だからそれは私と、アリスと──」
「そうだ、きっとそれなんだ、だけど──」
痛みと恐怖に両目を限界まで開きながら、たまらず叫んだ言葉は──。
「──思い出せないんだよッ! そうだ、何かがおかしいと思っていた……いくらなんでも、僕があの男の名前を忘れるはずがないんだって……でも、あいつの顔ももう思い出せない、そうだ──ずっとおかしいんだ、いつも僕には亡霊が見えていた──仲間達の亡霊が、僕にはずっと見えていたんだ、声だって聞こえていたッ!」
「ちょっと、落ち着いて! 何を話しているの!? 一体何の話!?」
「見えないんだよッ! そうだ、声が聞こえなくなったのは僕の心理的な部分に問題があると思っていた──けど違った、そうだ、テスカの後からだ。あの後から──だんだんと分からなくなっていった!」
「自分の言っている言葉をよく聞いて! めちゃくちゃなことを言っているのよ!? 落ち着いて、しっかり私の目をよく見てっ!」
エールの頬を両手で包んで、ブリーズは無理矢理目を合わせた。
初めて見る表情がそこにあった。エールは……明確に怯えていたのだ。ブリーズにではない。
「……君の話。君の依頼に関しては、僕も覚えてるさ。だけど……その、アリスという女の子の話を、僕は一切思い出せない」
不安定な表情で呟いた一言で、ブリーズは凍った。
「そうだ、きっと人違いじゃないんだろう。確かに僕は君と出会っていた……。君の依頼を最後までやり遂げたのは、きっと……その記憶があったからかもしれない。けどもう分からない。思い出せない。昔の記憶で覚えているのは生まれてから10歳くらいまで過ごしたウルサスでの生活だ。そうだ、父親を殺した時の記憶は、まだはっきりしている……けど、それからの記憶がほとんど思い出せない……」
父親を殺したことに関しては気になったが、今はそれよりももっと大事なことがある。
「……私の知っている症状の中に、あなたと似たものが一つあるわ」
ロンディニウムを離れ、流浪の旅医者としての生きていた時の話だ。
「あなたと同じ感染者で、感染状況が深刻な人よ。突発的な頭痛や、五感能力の低下の症例が見られたけど、最も深刻だったのは、記憶野──脳への影響よ。簡単に言うと、記憶を失くし始めていたのよ。逆行性健忘と呼ばれていて、だんだんと記憶が思い出せなくなっていくの。進行性のある症例で、その患者は最終的に一年ほどで全ての記憶を失くしたわ。かなり珍しい症例だけど、──あなたがその症例に当てはまるとしたら、きっと頭痛の原因もそこにあると思う」
「失った記憶を思い出そうとすると、他の五感への影響が出るのかしらね。痛みや幻聴、或いは見えるはずのない何かが見える──可能性の話で、断言はできないわ。あなたもそうなるという確実性はどこにもない。けど可能性は高いわ。心当たり、あるわよね」
目の下に浮き出た
NHIとの戦闘で
一時的な暴力を得るのと引き換えに、自分という存在を死神に差し出す。それはそういうことだ。それについ先日それをしたばかり──リン家の全てを瓦礫に帰した代償に、エールはそれを噛み砕いたのだ。
「記憶の侵攻は
ロドス。
「はっ……またロドスか……。どいつもこいつも、どうしてこう過去ってやつは……僕を逃してくれないらしい──」
結局グエンの忠告は正しかったわけだ。人の縁というものは、それこそ死んだって途切れることはないらしい。ブラストは死んだというのに、まだ──。
「……だが、君はどうして僕にそこまでしてくれるんだ?」
少し頭痛の治ったエールが、ブリーズを見上げて──本当に、本心からの言葉を言う。
──ブリーズは最初、呆れて言葉も出なかった。
「本当にお馬鹿さんよね、あなた。だって、あの時私を助けてくれたじゃない」
「依頼の話か?」
「それよりも前の話よ。思い返せば皮肉よね──ユーロジーを取り返したかったのは、あれはアリーヤが守ってくれたものだったからよ。変な人たちに絡まれて、ユーロジーを取られそうになった時……あなたが手を払ってくれた。その後の過程がどうであれ、よ」
意外な回答にエールが黙っていると、ブリーズは表情を少し明るくして続けた。
「それでもまた結局盗まれて……でも、その時も結局あなたが取り返してくれたじゃない。何度も助けられたのよ? きっとあなたにあの時出会ってなかったら、私はロンディニウムで行き倒れて、もしかしたらそのまま死んでいたかもしれないもの」
それから、一転して表情を暗くした。
「……それと、私はあなたに謝らなければならないわ。私があの時──あの男の人たちを皆殺しにした時のこと。私は怖かった。ナイフを掴んで笑っていたあなたが、たまらなく怖かったの」
その全てはもはや、ブリーズが覚えているのみだ。
エールはその罪を忘れてしまった。
「……殺人は殺人よ。罪は罪よ。助けるためとはいえ、それが他の人を殺めていい理由にはならないわ。幼いあなたがしたことはきっと裁かれるべきだし、そうしなければならない」
そうしなければ、この世界はめちゃくちゃになってしまう。そのための法なのだ。ブリーズはそれを信じていた。或いは、人の良心と理性を信じていた。
だが──。
「けど……私は。私だけは、あなたを否定してはいけなかった。あなたを拒絶してはいけなかったの。他の誰があなたを否定したって──たとえ、この世界全てがあなたを否定したって、私は──私だけは、あなたを肯定しなければならなかったの。だって、あなたは私を助けようとしてくれたんだから。だから本当は、あの時私は”助けてくれてありがとう”って──そう伝えなければならなかったの」
だから、ブリーズは決めたのだ。
「私はまだ、あの約束を覚えているの。あなたが私を助けてくれたように、今度は私があなたを助けると──決めたのよ、アリーヤ」
「……あの下手くそな恋人ごっこは、そのための仕掛けって訳か?」
「私が囮になれば、あなたが傷つく事はないと思ったの。けど、結局……上手くいかないわよね。痛い目を見ちゃったし、結局最後はあなたの手を汚させた。どうしてかしら、なかなか上手くいかないものね」
儚げに自嘲する姿が、今にも消え去りそうだった。
「あなたを
それでも、ブリーズは揺らぎなく、信じていることを声に出した。
「それでも……あなたのために、まだ私に出来ることが残されていると……信じているわ」
はにかんだ笑顔が、思い出せないはずなのに──なぜだか、たまらなく懐かしくなって。
「それに、別に恋人ごっこだなんて……本当にしてしまってもいいのよ、私は別にごっこでやっていたわけではないもの」
人を見る目が致命的に欠けていると思った。
その姿に呆れ果てたからだろうか。
「……アルゴンの大地にはね、今も僕の仲間たちが眠っている。君の依頼が終わった後の話さ。……僕の仲間たちの話を、聞いてくれるか?」
「! ええ、教えてちょうだい!」
────嵐の後には、青空が広がっていた。
破壊の後には、やがて再生が待つのみだ。
やがて未来には大いなる破壊が訪れるだろう。だが恐れる必要はない。出来ることをやるだけだ。信じた未来のために戦うだけだ。
川のせせらぎと、そよ風が優しく耳をくすぐる。暖かい日差しが体を照らす。
────にゃおん。
黒猫がどこかでそう鳴いていた。
ゆらゆらと揺れる陽炎の輪郭が、いつまでもアルゴンの街に揺れていた。
第二章、完。
・エール
前々から伏線は貼っておいたつもりでした。記憶の喪失が始まっています。特に酷くなり始めたのはアンブリエル編の後からですね。源石食べて無事でいられるはずがないだろお前
この章のタイトル、陽炎の輪郭というのは行動体B2の亡霊の暗喩です。幻覚なのか亡霊なのか、或いは本当にただの白昼夢だったのかもしれない。エールに限らず、スカベンジャーさんとかもミーファンの亡霊をそこらへんで見かけるかもしれないし、しないかもしれない(村上春樹構文)
・スカベンジャー
ケルシーの命令を無視してエールの下へ。何をどう考えてもスカベンジャーさんがデレるシーンは書けませんでした。
・ブリーズ
名前変わってんだからロドスにいるに決まってんだろ!
ブラストのことは知らなかった模様。ロドスに所属はしているけど、籍だけ置いてるみたいな……割と独立して動いていたと考えています。案外ブレイズとかとも知り合っていたのかもしれませんが……
どこからどう見たってメインヒロイン。かわいい。
・グエン
あんまり登場しませんが、物語的にはかなりの重要キャラだったり。南部大統領に就任した人徳クソデカおじさんです。この作品中でトップクラスの人格者。
・警官のおっさん
いつの間にか死亡していた。なんやかんやあって最終的には病気かなんかで死亡したと思います。遺品のライターはエールに受け継がれました。
・黒猫
かわいい。何かの暗喩か?(すっとぼけ)
次から第三章です。どれだけ長くなってもせいぜい第四章では終わると思います。
あと良ければ評価とか感想とかやってってください、よろしくお願いします。