猫と風   作:にゃんこぱん

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IFルートです。過去編の途中から分岐します。

ところでイベントの二アールさんクッソ強キャラなんやが……くっころ系強キャラとか最強すぎる。ガチャは死にました。





IFルート:ブリーズ 上

 

それはあり得たかもしれない一つの可能性。

 

二人になれなかった一人と一人の孤独な狐が、二人になるまでの話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エールとアリゾナが出会ってから、一ヶ月程度が経ったのだろうか。段々とアリゾナはユーロジーを取り返すことへの意識が薄れてきて、今はスラムの生活で学べることを学んでいこう、と本末転倒気味な考えになっていた。

 

仕方のないことだろう。何せエールに全て任せざるを得ないのだ。そのエールも毎日忙しいようだし、ユーロジーの行方はあまり掴めていないようだ。

 

諦めてさっさとスラムを去ることも、選択肢の中にはあった。だがそうしなかったのは、スラムの生活というものを知るべきだと思ったし──まあ、エールという青年が少し気になったのもある。

 

昼下がり、アリゾナは誰もいない家に戻ってきた。扉に慣れた手つきで鍵を差し込んで開き、部屋の電気を付ける。

 

診療所の手伝いが一区切りついたので、今日の午後からはオフ。借りてきた医学の資料を学ぶ時間にしようと思っていた。二階へと続く階段へ向かい、アリゾナのベッドなどが置いてある部屋へ。他の資料を抱えて一階へ戻る──と、ふと。

 

カーペットに隠れている地下室への床ハッチの一部が見えていることに気がついた。

 

いつもは隠してある場所で、アリゾナも初日以来入ったことはない。別に用などないし、エールは意外とあまり地下室には入らないのだ。

 

出来心からカーペットをめくって、ハッチを持ち上げた。意外と重かった。

 

「よいしょ……っ、と!」

 

そのまま持ち上げて反対側にハッチを開け切って、地下へと降りていった。暗闇の中に源石灯のスイッチを見つけてオンにする。

 

ひんやりとした地下室だった。ここに入るのはこれで二度目だが、全面のコンクリートは密閉感があって嫌な感じがした。

 

場違いなほど大きいデスクは前の住人が運び込んだらしい。あまり詳しく聞いたことはない。

 

机の中に何があるのか。簡単に表すと、アリゾナはそれが気になった。

 

エールには自分の部屋というものがない。寝泊まりは一階のソファーをベッドがわりに使っている。この家にはほとんど、寝るためだけに帰ってきているようなもので、帰ってこない日も少なくはないのだ。

 

アリゾナの中で、エールの人物像はひどく鮮明なようで、曖昧なようだった。

 

出会った夜、結局エールは助けに来た。非情ではないのだ。だが優しいとも言い切れない。他人にはあまり興味はないのだろうか。

 

怖いものは多くなさそうだ。喧嘩は明らかに強いだろう。敵は明らかに多そうだし、味方は全くいないわけではなさそう。

 

人とのお喋りは嫌っていそうだ。逆に好きなものとかなさそうだし。

 

──実際、あの変な同族は何のために生きているのだろうか。刹那的な快楽を追い求めているタイプでもないのだろう。無気力な訳でもない。だが、何を考えているのかよく分からない。

 

知りたくなったのだ。エールとは、一体どんな人物なのだろうかって。

 

デスクの引き出しには鍵の差し込む穴があったので、アリゾナは鍵がかかっているかもしれないと思った。だが──。

 

「……あら? 空いているじゃない」

 

掛け忘れだろうか、それとも別に何も入っていないのか。引き出しは開いた。

 

事実だけを述べるのなら、単純に掛け忘れていた。エールの珍しいミスだ。アリゾナは知り得ないことではあるが。

 

中に入っていたのは、赤くて幅広い絵本と、銀色のバッチだった。

 

バッチの方はずっしりとしていて、紋章が彫ってある。明らかに安物じゃない。

 

──それは、あり得ないはずのもの。

 

「──────────ぇ」

 

ここにあるはずのないもの。それは──だって、それは。

 

アリゾナは、その本……不思議の国のアリスを手に取って、震える手つきでページを開いた。

 

間違いなかった。それにこのバッチは、明らかに──自分の。

 

家を出るときに、アリゾナは自分の持ち物の中から家紋の入ったものは全て捨てた。家から逃れたかったのだ。だからエールは気がつかなかった。覚えるほど眺めたバッチのマークは、今はアリゾナの記憶の中にだけ。

 

地下室の中は風も音もない。ただ記憶だけが反響している。

 

アリーヤと過ごした記憶だけが、ただ反響してずっと聴こえていた。

 

バッチの表面は光っていた。定期的に手入れをされていたのだろうか。

 

他の引き出しを探してみても、ここ以外には何もなかった。

 

それがどういう意味なのか考えて、アリゾナは────。

 

震える体が、あまりに突然の現実に打ちのめされて、アリゾナは後ずさった。椅子に引っかかって、そのまま柔らかい椅子に腰を落として、呆然とするしかなかった。

 

「……うそ、でしょう?」

 

どうすればいいのか分からなかった。

 

どうしたいのか分からなかった。

 

でも、もう一度だけ会いたかった。だがもう出会っていたのだ。

 

変わってしまっていた。そうだ、変わってしまっていたんだ。

 

それは誰のせいなのだろう。誰かがその原因を作ってしまっていたかもしれないのだ。

 

「……会わないと。会って……話を、しないと」

 

独り言は、むしろ自分に言い聞かせているようだった。

 

「……でもどこにいるのかしら──アリーヤ」

 

今も、何だか後ろ暗いことに手を染めているのだろうか。きっとそうだろう。そのおかげで自分は助かっているんだ。

 

そっと引き出しを閉じて、アリゾナは地下室の階段を上がっていった。

 

それから──

 

「……あら? ドア、開きっぱなしじゃない。閉じ忘れたかしら──」

 

アリゾナの意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷たい感触がした。

 

暗い場所だった。

 

身じろぎをしようとしてできなかったので、アリゾナはその違和感で目を覚ました。

 

「目が覚めたか?」

 

──僅かな反響、嫌に静かで……どこか、背筋が凍りそうな声がした。

 

「だ、……誰、なの……?」

「誰でも構わないのさ。そうだろう? グレース・アリゾナ」

「……ここは、どこなの? どうして私の名前を知っているの? どうして──私は、椅子に縛り付けられているの?」

 

それは──女の声だった。

 

多少低いハスキーボイスだったが、間違いない。逆光の中では顔はよく分からないし、なんだか意識がぼんやりしている気がする。

 

「あまり騒ぐな。お互いに面倒なことになる」

「……面倒なことって、何?」

「分からないのか?」

 

天窓から差し込んできた光の加減から、大体の時間がわかる。オレンジ色だった。夕方の光が暗闇に一筋だけ差し込んできていた。

 

女はアリゾナにコツコツと歩み寄ってきて、アリゾナの首筋をなぞった。

 

その時に、首元につけられた何かがあることに気がついた。

 

「君、映画は見るか?」

 

揶揄うような声色が、本当に不気味だった。

 

硬い椅子から体が動かせない。体を伸ばしたかったが、できなかった不自由さが──この異常さを物語っていた。

 

「ファッションアイテムの定番だ。私からのプレゼントさ、喜んでくれるか?」

 

首元に黒いチョーカーのようなものが装着してあった。

 

頭を動かすと、顎のあたりに固い感触がする。明らかに何か、固形のものが付属していた。

 

「よくあるだろう。爆弾付きの首輪をつけて、スイッチを押せば──ボンッ!」

「──っ!?」

 

脅かすように大声を出されて、アリゾナは反射的に身を縮こめる──言っていることが本当なら、何の意味もない行為だったが。

 

「ッはははは! よく似合っているよ」

「どうして、こんなことをするの……?」

「言っただろう? 誰でもいいのさ──そろそろ時間だな。確認なんだが、君はヤツと関係が深いよな?」

「……何を言っているのか、分からないわ」

 

まるっきり狂っていた。

 

言葉が通じているかどうかも怪しい。気が狂っているとしか思えない。

 

「そうツンケンするな。綺麗な顔立ちなのだから、もっと笑ったらどうだ? 君は、ヤツにはそんな顔はしないだろう」

「……ヤツ……って、誰のことを言っているの」

 

本当は薄々わかっていた。

 

何となく──というか、それ以外にはいないであろう、その名前は、きっと。

 

「何、お楽しみだ。見ものだぞ? ヤツが君のことを憎からず思っているなら、きっともうすぐ来るだろう。約束の時間までもう少しだからな」

 

女は長い髪のシルエットをゆらゆらと揺らして、一筋の光が差し込む入り口を見下ろした。

 

──どうやら、どこかの廃棄された工場のようだった。

 

天窓だと思っていたものは、経年劣化によるものか、はたまた別の要因かは分からないが──崩れ落ちた一部の天井だった。

 

高い天井と今の視界から推察するに、二階部分に相当する足場にいるようだった。錆びついた手すりの向こうは吹き抜けになっている。そこから下は見えない。

 

「……あなたは、誰なの」

「何度言わせる気だ? 誰でもいいのさ──この世界では、そう……誰でも構わない。そこに違いなどない。君もそう……君である必要は特にない。だが、そこにいたのは君だった」

 

そんな言葉を繰り返すので、アリゾナはやがてその女を理解しようとすることを諦めたのだ。

 

言葉が確かなら、アリゾナの首には爆弾が巻き付けられているということになる。こんなことは異常だ、明らかにおかしいこと。

 

だが、殺害が目的ならばこんな回りくどいことをする必要はないだろう。これは──。

 

──ぎぃぃ……。

 

錆びついた入り口が開く耳障りな音が静寂を打ち砕いた。

 

「……待ち侘びたよ、エール」

 

どろりと濁った女の声。

 

アリゾナからは見えないが──。

 

誰かが入ってきたのだ。

 

「──デートの誘いにしてはロマンに欠けるな。さては男の経験ねぇだろ」

 

不機嫌そうな声と共に足音が響いた。

 

女は手すりに片手を置いて、エールを見下ろして狂気的に笑う。

 

「……本当に来るとはな。君に女が出来たという噂は本当だったのか」

「バカが、スラムの噂を信じるなよ。騙されるぞ? で、あいつはどこだ」

「せっかちな男は女に好かれない。気をつけろ」

 

会話は酷く表面的だった。軽口の裏側には隠そうともしない敵意が詰まっていた──。アリゾナは会話に割り込むように叫ぶ。

 

「エールなの!?」

「……そう叫ぶな、すぐに会わせてやるさ」

 

女はまるで惜しむ様子もなくアリゾナの拘束を解いた。

 

なんのつもりかは分からないが、これで動き回れる──すぐに手すりに駆け寄って下を見下ろした。

 

崩れた天井から差し込む光の先に、エールが不機嫌そうにこっちを見上げているのが見えた。

 

「エール!」

「はぁ……何してんだお前。鍵はちゃんと掛けとけっつったの、忘れたの?」

「ご、ごめんなさい……?」

 

とても面倒くさそうにため息なんかを吐くエールだが、すぐにアリゾナの首に気がついた。

 

「で、要件はなんだ? 人質まで取って」

 

焦りを見せないエールに対して、女の方も不気味な様子だ。

 

「何、大方予想はついているだろう。私はね、君に個人的な恨みがある。私の要求に従わないなら、君の可憐な花は散ってしまうぞ?」

「さっさと言えよ、面倒臭えな──そもそもお前、誰だよ」

「私など──誰でもいいんだよ。重要なのは誰かではなく、何をするか──何をしたのか。そうだ、それだけが重要なんだ」

「僕は機嫌が悪い──お前のようなキチガイと話してると、自分でも何をするのか分からない。いいからさっさと言えよ、見下ろしてんじゃねえぞ」

 

苛立ちが伝わってくるようだった。

 

アリゾナは周囲を見渡して、逃げられそうなルートを探るが──あるのは、背後にある錆びついた扉一つだけだ。この場所が工場の中で部分的に二階になっていて、ここは監視塔のようだった。

 

飛び降りるには高さがある。躊躇したし、それを許してくれそうにもなかった。

 

不機嫌そうに女を睨み上げているエールの姿に、アリゾナはハッとして思い出す。

 

そうだ、エールは──エールの正体は、だが──今、伝えなければならないことなのか。

 

女は飄々としながら、懐から何かを取り出す。

 

「そういえば、これはそう……全くこの件には関係のない話なのだが、これはなんだろうか?」

 

──それは、かすかな明かりの中でも見えた。

 

アリゾナに向けてそれの表紙を見せながら。

 

「君が持っていたものだ。これは君のものか? これには何か、特別な意味が込められているのか?」

 

あくまで白々しく女は尋ねた。

 

アリゾナが答えるよりも先に、エールがそれまでとは全く異なる声で呟く。

 

「それに触るなよ、ゴキブリ野郎。なんでてめぇのようなゴミクズがそれを持ってんだよ……!」

「おっと、君の方だったか。少女のような趣味を持っているのか? かなり意外だな」

「……それ以上何か言ってみろ。殺す程度じゃ済まさねぇ」

「ははっ、悪い悪い。思い出のものだったのか。これは悪いことをしたな、返すよ。ほら」

 

放り投げたそれをエールは片手でキャッチした。

 

だが、冷たく激昂した表情は直らないままだ。

 

今すぐにでも喉元に食らい付いてやりたいが──。

 

「この位置では手が出せないだろう? この場所に通じる道は全て封鎖してある。アリゾナ、君も逃げようとしても無駄だ。何もしない限りは、私からは君に手を出すつもりはない」

 

どの口で、と言いたかった。

 

だが、それ以上にエールが怒ったのが意外だった。まだ──覚えていてくれているのだ。

 

自分の正体には気がついていないのだろう。事実、アリゾナは少し安堵していたのだ。もしもエールも思い出して、気がついてしまったら──どんな顔で、何を話せばいいのだろうか。逃げ出して、拒絶して──。

 

どの面下げて。

 

「何、要求は一つだ──そこで死ね、エール」

「脳みそが足りていないらしいな。お前、人に死ねと言われたら死ぬのか?」

「状況によるさ。例えば今のような──そう、君が死なないのなら、代わりにこの子が死ぬ。どうだ? ロマンチックじゃないか、愛を証明できるぞ?」

「残念だが、僕は別にそこのアホを愛してなんてない。そいつのために命を投げ出してやる理由はねえよ、お前の勘違いだ」

 

冷たく現実的な言葉だった。

 

全てはアリゾナに原因がある。気を抜いたのが悪いのだ。こうやって誘拐されてきたのはアリゾナだ、責任は常に自分にある。

 

だから何も言わない。言えない。自分には、何かを言う資格など──最初から、どこにも。

 

「だが君はこの場所に来た。見捨てるつもりなら、最初から脅迫文には従わない。違うか?」

「違うね。チンケな手段を取るような連中程度にいいようにされるのがムカつくだけだ」

「やれやれ──。全く、仁愛に欠ける男だな。では──可憐な花の正体が、かつての大切な人ならばどうだろう?」

「……あ?」

 

反射的に女の方を見る。

 

エールは全く見当違いの言葉に声を漏らすが、アリゾナにはそれが意味することがなんなのか、心当たりがあるのだ。

 

まさか──どうして。

 

「そうだろう、グレース・アリゾナ? 君には分かるはずだ──違うかな?」

「……し、知らないわ。何の話をしているの?」

 

声が震えないようにするので精一杯だった。

 

その震え具合に気がつかないほどエールはバカじゃない。

 

「……おいアリゾナ。お前……見たのか? 地下室の……」

「いえ、その……悪意はないのよ。でも──」

 

知られてはいけない。

 

万が一にも、エールが……アリーヤが、自分のために自殺などしてはならない。

 

ありえないことだと思う。でもさっきの様子を見る限り──エールが、アリーヤが……気がついたら、何をするだろうか。

 

「さてエール。君はさっき、この可愛らしい女性のことなどどうとも思っていない、と言いたげだったが……その正体を知ってなお、同じことが言えるのかな?」

「……どういう意味だ」

「私は知ってるんだよ──ほら、このバッチも返すよ。ちゃんと受け取れよ?」

 

金属音とともに弾き出された一枚のバッチが放物線を描く。

 

紋章の刻まれた、小さなコインにも似たバッチはエールの掌に収まる。

 

「その紋章は、とある貴族の家紋なのさ。ロンディニウムから遠く離れたドールンという小さな町を治める貴族の紋章──」

 

──ダメだ。その先を聞かせてはいけない。

 

「ダメ、エール! 聞いてはいけないわ!」

 

叫び虚しく、女は真実を告げた。

 

「────アリゾナ家の、紋章だ」

 

紋章のモチーフは力強く実る大麦。この世界に生きる生命を喩えている。

 

「──……あ?」

 

アリゾナは項垂れて、意味もなく両手に力を込めた。

 

「そう。ここにいる、グレース・アリゾナの実家さ」

「……いや。やめて……」

 

小さく──呟いた。祈るように。

 

呆けたまま、エールはしばらく呆然とアリゾナを見上げていた。

 

怯えるように、祈るように手すりに頭を伏せたままのアリゾナを見上げていた。

 

「……アリス、なのか……?」

 

ほら、やっぱり覚えていた。

 

嬉しい感情は嘘じゃない。本当は手を取りたい。

 

でも──ダメだ。

 

そんな資格は、どこにもないんだ。

 

「……この人の話を、聞いちゃダメよ。絶対に……私なんかのために、自殺なんて……しないで。お願い……」

 

二人の距離はメートル換算して、それほど大した距離ではなかった。

 

だが、触れ合うにはあまりに長く、そして近づくことも許されてはいない。

 

「──さて、エール。今から私は下に降りて、君に近づく。その場所から一歩でも動いてみろ、さもなくばコスモスの茎がへし折れるぞ?」

 

吹き抜けから離れて、女は反対側の錆び切ったドアの鍵を開いて入る。すぐに鍵は閉められた。

 

それから女が一階に降りていくまで、エールは一歩も動くことはない。

 

アリゾナはずっと、手すりにかけた手に頭を押し付けて俯いていた。

 

エールがどんな顔をしているのか、怖くて見れなかった。

 

何も言わなかった。何も言えなかった。何も言われなかった。

 

耳を塞ぎたかった。目を閉じたかった。口を噤みたかった。

 

──どうして、こんなことになったのだろうか。

 

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 

私は無力で、何もできないまま、こうやってただ、嵐が過ぎ去るのを待つようにして身を縮こませることしか──出来ないの、だろうか。

 

ああ、どうして──。

 

「どうして、そこから立ち去ってくれないの……アリーヤ……」

 

答える声はなかった。

 

首輪に手を当てて引きちぎろうとする。だがそれは無意味な行為に過ぎない。憎らしいほど丈夫で、力の込め具合によっては首の方がちぎれそうだった。

 

ぎりぎりと音を立てて首輪が軋んだ。

 

遠隔装置の小さなボックスを引きちぎろうとする様は、まるで自らの首を絞めているようにも見えた。

 

古い扉が開く音を、こんなにも恐れたことはなかった。

 

「──さて。君に希望を残さないよう、一つ一つ説明しておくとするよ。彼女の信管装置は私のアーツによって制御されている。私がアーツ制御を止めれば首輪のヒューズが落ちる。これがどういう意味かというと、私を殺すことは……すなわち、彼女の首を飛ばすことと同じ、ということだ」

 

こつこつと、冷え切った床を歩く反響音は、紛れもなく死神の足音だった。

 

「解除もお勧めしない。複雑な機構の上に、安全性は特に考慮していないんだ。無理に外そうとすれば、何が起きるか分からないぞ?」

 

女は喉を鳴らして上機嫌に笑った。

 

この場所において、女は明らかに支配者だったのだ。

 

「何、私を殺すなど造作もないことだ。そうだろう? ヴィクトリア全体ですら、君ほどの暴力を所有している個人などそうはいないだろう」

 

特に、荒事には事欠かなかった。

 

エールを消すために様々な組織が様々な手段を用いた。有名な話の一つだが、ストリートギャングの一つに所属する少年がエールに難癖を付けて、依頼料をケチったことがある。エールはその夜、ギャングに所属していた構成員24名全員を再起不能に叩き落としたという。

 

真正面から堂々と彼らの行きつけのバーに入って、まだ蓋も開けてないウィスキーの瓶で構成員の一人の顎を砕いてから──傷一つ負わずに、全員を叩き潰した。件の少年の目の前で、少年には全く手を出さずに、見せつけるように。

 

この話の後、エールに依頼料を渋る人間はさっぱりいなくなったという。

 

「さあ、どうする?」

 

今は、ただ項垂れて声を押し殺しているアリゾナを見上げて、ずっと口を閉じているが──。

 

「彼女を助けたいのなら──そうだな。失血死にしよう。できる限り血を流して死ね。かつてそうやって殺した誰かのようにな」

 

呆然としていたエールだが、段々と表情が真剣になっていった。

 

鋭い音とともに、女は折り畳みのナイフを取り出した。

 

動こうともしないエールに、女は段々と感情の色を変えて──。

 

「……何十人も殺してきたのに、たった一人の女のためには死ねるのか」

 

憎しみのままに、切先を肩に突き立てた──エールは避けようともせずに、肉筋を切り裂いて突き立つ。

 

その激痛に、眉ひとつだって動かさずに、エールはただ立っていた。

 

「私の兄を殺しておいて、自分は女のためには簡単に死ねるのか」

 

全力で撃ち抜いた拳だって、さっぱり避けようとはしない。アリゾナはただその打撲音を聞いていた。耳を塞ぎたかった。

 

よろめいたエールに対し、それでも女の憎しみは収まらない。収まるはずがない。

 

「簡単に殺してやるものか……──」

 

冷たいコンクリートの床に押し倒したエールの肩からナイフを引き抜いて振り上げて──。

 

睨むでもなく、ただ見上げるだけのエールの胸に刃を突き落とす。生々しい血肉の感触がナイフ越しに伝わった。皮脂の黄色が混ざったナイフは、また引き抜かれて──もう一度、振り落とされた。

 

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……ッ!」

 

何度も何度も、突き刺しては振り上げて、刺して、振り上げて──。

 

抵抗はなかった。

 

何度も──アリゾナは、それを眺めていることしかできないのだ。

 

「……もう、やめて」

 

この首輪さえなかったなら、

 

「やめて、もう──やめて、お願い……」

 

あの約束さえなかったなら、

 

「アリーヤを、傷付けないで……」

 

この弱さなどなかったなら、

 

「やめて……っ」

 

──あの約束を守れるだけの強さが、どうして私にはないのだろうか。

 

あの時も、今も──ずっと、アリーヤは約束を守り続けていてくれたのに、

 

「お願い……っ! アリーヤを奪わないで、これ以上──もう、やめてぇっ!」

 

そんな哀れな叫びだけが残響するだけだ。

 

振り下ろされる回数が、一回でも減ることはない。

 

段々と──エールの腕から力が抜けていった。床に広がっていく血溜まりは大きくなるばかりだ。

 

こぼれ落ちる涙は無力を証明するばかりで、何の役に立つのだろうか。

 

女が返り血で汚れた顔で泣き叫ぶアリゾナを見上げて笑う。

 

「──君はかつての私にそっくりだな! そうだ、なす術なく目の前で大切な人を失ったんだよ、私も……このクソ野郎に殺されたんだッ!」

 

はっとして顔を上げた。

 

そうだ。きっとエールが……アリーヤは道を間違えた。だが──。

 

私が伝えるべきだった。教えるべきだった。拒絶するべきではなかった。あの時に、間違いは致命的になってしまった。

 

出会うべきではなかったのかもしれない。でも出会ってしまったのだ。

 

「…………もう、やめて……。アリーヤを、奪わないで……」

 

力なく倒れたエールの上半身は、まるで落書き帳のような傷で埋まっていた。ぐちゃぐちゃだった。無事な箇所を探すのが難しいほどだった。

 

女は血の滴ったナイフを放り投げて立ち上がる。

 

懐から鍵束を取り出してアリゾナへ放り投げた。高台の床を滑って金属音を産む。

 

「扉と、君の首輪の鍵だ。ほら、急ぐといい。もしかしたら助けられるかもしれないぞ?」

 

銀色の鍵束は足元に転がっていた。

 

「まあ、無理だと思うが。……ふ、ふふ──あはは、アハハハハハハハハハ!」

 

笑いながら女は立ち去っていった。

 

──見下ろしたエールの姿は、どこからどう見たって──死んでいて、

 

鍵を拾った。

 

精一杯の力で、錆び付いて動きにくい扉をこじ開けて、階段を駆け降りて──。

 

それでも、血溜まりの中に沈むエールのそばに駆け寄って──真っ白になったエールの顔を、見て、

 

穏やかな顔で目を閉じていて、

 

「嫌、よ……」

 

死んでいた。

 

「嫌……」

 

やっと会えたのに、

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」

 

──こんなことになるとわかっていたなら、真実など知りたくなかった。

 

どうしてなのだろう。

 

どうしてなのだろうか。

 

エールは悪いことをたくさんしてきたはずなのに、どうしてアリゾナのためには死んだのだろうか。

 

どうして──あんな別れ方の後で、恨んでくれないのだろう。

 

崩れ落ちたアリゾナが冷たい手を握って、血に汚れることも気にせずに亡骸を抱き上げ──まだ、微かな痙攣を感じた。

 

「──ぇ?」

 

涙に歪む視界の中で、アリゾナはまだ生きようとするアリーヤを感じた。

 

「……」

 

ぎゅっと拳を握って──。

 

「助けて見せる……。絶対、死なせてなんて、あげないんだから……ッ!」

 

涙と血に濡れながら、アリゾナは決意に満ちた顔を上げた。

 

──まだ、伝えられていない言葉があるのだ。

 

死なせない。

 

死なせないから。

 

 





マンガンおいしい(理性0)
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