「──、で、──、る」
「──ない、────う、では──」
遠い話し声が聞こえてきたのは、果てのない意識の海を彷徨っていた時のことだった。
気がついた──と表現していいのかもしれない。少なくともエールの自意識はその時初めて記憶を開始していた。
「どちらにせよ手は尽くした。彼の生命力を信じるほかない、と……これを君に伝えるのは、これで五回目だがな」
「分かっているわ。でも……目覚めるかどうかの保証なんて、どこにもないじゃない……」
「息を吹き返しただけでも十分に奇跡だ。脳髄への影響はあるだろうが、それ以上を求めるのは高望みだ」
そういう会話は聞こえていた。だが聞こえているだけで、内容の理解などは出来なかった。全く知らない言語でも聞いているかのように、曖昧な──。
「長丁場になる。君は一度帰って睡眠を取れ。何時間寝てない?」
「け、ケルシーさんこそ! 休むというのならあなたの方こそだわ! これは私の責任だもの、私がここにいなきゃ……」
明らかに疲れていた。
ケルシーはさておき、アリゾナの顔色などは酷いもので──。
カーテンを開いてアリゾナがエールを覗きに来ると──目が合う。
「……、…………、」
時間が止まったようにアリゾナは固まった。
エールといえば、まだ覚醒しきっていない頭で──なんとなく、それを眺めていたのだが。
ケルシーがアリゾナに並んで、目覚めたエールに驚いている。
「驚異的な生命力だな。気分はどうだ、どこか体に異常はあるか」
「……力が入らないし、なんだかぼーっとする……気がする」
「血液不足だろう。傷は痛むか?」
「別に、大した痛みじゃない──」
ケルシーからしてみれば、明らかに強がりだったのだが──実際、エールにとってはそれほど問題ではなかったのかもしれない。少なくとも痛がるようなことはなかった。ただの意地とも言う。
「……まだ生きてる、か……。あんたか、ケルシー」
「私ではない。少なくとも、君の命を救ったのは私ではない」
いまだに固まったままのアリゾナに視線を向けた。
────もう一度会いたいと思っていた。
でも、もう出会っていたのだ。
「……久しぶり、アリス」
その言葉が皮切りになって、アリゾナは震える足で一歩を踏み出した。
少しずつ近づいて──膝をついて、そのままベッドに倒れ込んだ。
長時間の治療による疲労や、精神的な緊張が一気に解かれたことにより気を失うように眠りについたのである。
──シーツに染み出した涙に気がついて、エールは起こそうとするのをやめた。
「そんな顔が出来たのだな、君は」
平然としてケルシーが言う。
「虫のいい話だってのは、僕だって承知の上さ。恨み辛みなんて数え切れないほど買ってきてる。だから、僕の弱点になるような人間関係は絶対に作ってこなかった。少なくとも僕はそのつもりだった」
散々他人を傷つけておいて、自分は救われることは出来ない。それは道徳的な理由ではなく、単純にそれを他人が許さないのだ。
「……僕にとっちゃ、アリスのために死ねるってだけで……十分すぎるくらいに贅沢な死に方だったんだけどな」
エールはずっと思い出と後悔を抱えて生きていた。
結局、暴力から抜け出すことは叶わなかった。そういう生き方しか知らなかった。
──何でも屋をしているうちに名前が広がれば、いつかアリスに見つけてもらえるかもしれない。
そんな思いがあった。でもエールはアリーヤを名乗らなかった。そうした方が絶対に出会える確率は上がるのに、そうしなかった。怖かったのはエールも同じだった。
だが、結局は出会った。
「なあ先生。とりあえず……このお嬢様、どうにかしてくれないか?」
穏やかな寝息を立てるアリゾナを指した。珍しく苦笑いなんかを浮かべている。
「何か問題があるか?」
「こんな体勢で寝ていたら体を痛める。ここ、もう一台ベッドか何かないの?」
「ない。小さな診療所だ」
「……そもそも、ここどこ? 今更だけど、なんであんたがここにいんの?」
「ここは私の古い知り合いの診療所でな。たまたま訪れていた時に、血塗れの君を背負った彼女が来た。彼女はここの手伝いをしていたそうだ」
アリゾナはスラムにある小さな診療所で手伝いをしながら臨床経験を積んでいた。その伝手でエールを運び込んだわけだ。
ケルシーも居たのは幸運以外の何者でもなかった。おそらくそれがなければエールは死んでいたかもしれない。
驚くべき生命力だった。ウルサスの屈強な遺伝子が入っていたことも、エールが一命を取り留めた一因だろう。皮肉だった。
「私は彼女が暮らしている場所を知らない。家に帰すことは出来ん。だから君がそのベッドを彼女に譲るか、あるいは一緒に寝るか、だ」
「……おいおい」
「付き合っているのだろう」
「はっ……僕にそんな資格はないさ」
そんなことを話していると、アリゾナがうっすらと目を覚まし……まだ空いているベッドのスペースに滑り込んだ。
「っ、アリス──」
「……少しだけ、眠らせて──アリー、ヤ……」
「だ、そうだ。しばらくは安静にしていろ。それと医療費に関してだが、ここの主人にツケてある。回復したら支払っておけ」
「あんたにも払う。……もう一度、生きてアリスに会えるとは思ってなかった。感謝するよ、先生」
「礼は必要ない。後日また訪れる」
そう言い残してケルシーは去っていった。
穏やかな顔で眠るアリゾナに、エールはどうしていいか分からず──結局しばらく、その顔を眺めていた。
なんだか、とても暖かいような気がした。
*
程なくして、エールが動けるようになった。
まあ医者の視点からしてみれば明らかにおかしい回復力ではあった──ウルサスの頑丈さと、しなやかな肉体を持ち合わせていたエールは回復が早い。
激しい運動をすると傷口が開いて、胸元にケチャップでもぶちまけたようになってしまうため、戦闘は許可されてはいなかったのだが。
エールは一つの交渉に出向いていた。包帯を服装で隠して、いつも通りの平然とした雰囲気をまとって入った先は、ロンディニウムでも屈指の名門。国防を担う貴族であるウォード総督府。
その中の一人、ベクタ・ウェル・ヨークが保有する豪邸の一つ。
「で、わざわざ呼び出してまで何の用?」
「一つしかあるまい。我がドブネズミよ、ユーロジーと呼ばれる杖を探しているらしいな?」
「……どっから聞きつけたんだか」
「実は私もそれが欲しい。見つけ次第私に渡せ」
「おいおい、交渉の基本がなってないな。対価を提示してみろよ」
「ふん、三つほどくれてやる」
「おい……まさか僕の探し物を3万程度で買い叩こうってのか? 僕も安くなったもんだね」
表面上は強気だが、かなりのハッタリだった。何せ今エールは戦闘が出来ない──無理すれば出来ないわけではないが、身体能力はかなり制限されている。筋肉に強い傷が残っていて、腕の可動範囲が制限されている。
「そんな安値をつけるつもりはない。百万の束を三つだ」
「……300万? 余計きな臭いな──どういう訳がある」
「説明する理由はない。それに、貴様には選択肢など最初から存在していない。負傷しているのだろう? 逆らうのなら、貴様を生かしておく理由などどこにもあるまい」
言い返す言葉は残っていない。
後ろ盾のないエールは都合のいい駒だった。ベクタのような貴族にとっては、都合よく使い捨てることのできる掃除屋に過ぎなかった。
「だが、僕はあんたのために首輪ついたわんころやるのは御免だ。わざわざ探してなんかやらないぜ」
「結構。ではこの件に対して手を出すなよ?」
釘を刺されたエールは、はいともいいえとも言わずに不機嫌なまま立ち去った。
リードの先には、言葉で形作られた首輪が繋がっていた。野良犬を気取っていても、結局は飼い主がいる現状が何よりも反吐が出そうだ。
──それでも、アリスのために出来ることがあるはずだ。
覚悟はとっくに決まっていた。やることをやるだけだ。
──ついに、右手は肩から上に上がることはなかった。
傷口は表面上塞がっているように見えても、筋繊維までそのままそっくり治すことは叶わなかった。大胸筋がズタボロになった後、結局腕はその機能のほとんどを喪失した。腕立て伏せ一回も出来ないほどだった。
傷は胸に集中していた。心臓が動いているだけでも、十分に奇跡だった。
幸い手先に支障はない。掴んだりすることはできるが、重たいものを持ち上げるのは苦しいだろう。生活にも強い支障が出た。
下半身を使った戦闘は可能だ。蹴り技が主体になるだろう。戦えなくはない。
だが、エールを強力な個人たらしめていた暴力という力は、もう無かった。
退院してから、エールはその元に来た全ての依頼を断るようになった。生命線だった戦闘能力の大部分を失って、以前のような依頼遂行が難しくなったと判断した。それに荒事になった時、対処し切れるかどうか……わからなかった。
それに、以前のようにアリゾナに危機が迫る可能性もある。その目的は主にエールに対する脅迫が主だ。結局、護衛のような形に落ち着くことになったのは自然と言えば自然だったのかもしれない。
「──よぉ、店仕舞いしたんだって?」
「……何の用? 別に暇じゃないんだけど、僕」
太々しい笑みと共に、件の警官がエールの元を訪れていた。
「! あら、あの時の警官さんじゃない。お久しぶりね」
「おお、あん時の嬢ちゃん。無事で何よりだ、このバカに変なことされなかったか?」
誰がバカだ、ジジィこそボケが心配だな、とか言おうとして──アリスの手前、口は慎むことにした。
「心配は無用よ、なーんにもないわ。お世話になってばかりで、何も返せていないくらいよ」
「いらねえいらねえ、このガキにとっちゃ側にいてやるだけで十分返せてるさ」
なんでお前が言うんだそれ、とか──とても割り込みたかったが、どうにも機嫌の良い二人の空気感が非常に居心地が悪かったので、エールは寝っ転がっていたソファーから体を起こしてドアへと向かった。
「おい、どこに行く?」
「メシでも買ってくる」
「あ、私も一緒に行くわ! っていうか、ご飯なら私が作るわよ」
「……アリス。悪いが昨日の晩飯は最悪だった。もう料理に薬草を入れるのはやめてくれ」
「あ、あれは……味はともかくとして、栄養面は完璧なのよ!?」
少しでもエールの体を治療させようとしたアリゾナと、その思いの直撃を受けたエールの味覚は見事にすれ違っていた。
──とても珍しく、バツの悪そうな顔をしたエールを、警官は初めて目にした。すかさず駆け寄って、首に腕を回してひそひそと囁く。
「何だお前、嬢ちゃんとどこまで行ったんだ?」
「……うっせえな、何もねぇよ」
「ない訳ねえだろ、人嫌いのお前がそんな甘い態度とってんだ」
「ないっつってんだろ……」
肩に組んだ腕を払った。ドアを開けて出ていったエールを、警官は肩を竦めてその後を追った。アリゾナもそのままついて行く。
カチャリと可愛げのある音を残して、時間は午後六時。
「せっかくだ、表の方まで行こうや。あんまり目立たねえ美味い店を知ってる、俺の奢りでどうだ?」
「酒には付き合わないよ」
「お前は本当に弱えからなぁ。嬢ちゃんもそれでいいか?」
「ええ、でも悪いわよ。自分の分くらい、自分で──……払えないのだったわね。私は今、アリーヤに頼り切りだったわ……」
財布まで喪失した貴族の一人娘は情けなく苦笑いした。
「じゃあ決まりだな。こっちだ、着いてこい」
夜の貧民街を歩いていく三人は、性格や思想もまるでバラバラだったが……彼女を連れてきた息子と、その父親の様──と、表現するのはさて、少し大袈裟過ぎるのだろう。
どうしたって、それは大袈裟で、嘘が混ざり過ぎていた。
その言葉を本当にしてしまうのが怖かったのは、果たして誰だったのだろうか。誰でもなかったのかもしれないし、全員だったのかもしれない。
「──ぷはッ! あー、食った食った……。おいエール、一杯くらい付き合ったらどうなんだ? 女の前だぜ、格好つけろや」
「あんたの様な酔っ払いになりたくないんだよ」
「はッ、お前は全く……俺の様になりたくない、なりたくないだなんだとそればっかりじゃねえか。俺の様なロクデナシになりたくないと言ってる割にゃあ、お前もずいぶん俺に似てきてんの気づいてっか?」
「似てない。飯には付き合ってやった。僕は帰るぞ」
席を立とうとしたエールの手を引く狐が一人。
だらりとした表情で、重りの様にエールにもたれかかっているアリゾナがいた。
「……アリス。飲んでたのか?」
「いーじゃない、せっかく連れてきてもらったんだから……コミュニケーションは楽しむべき、よ……」
そう言い残してアリゾナはあっさりと眠った。冗談だろ?
「弱いな……」
椅子からエールの膝にかけて横たわって目を閉じている。満腹感とアルコールによってダウン、店の穏やかな雰囲気もよかった。
それほど格式のあるレストランではないので、ふにゃりとしたアリゾナもそれほど目立つわけではなかった。だがこれで逃げられなくなった。
「なあエールよ、どうして嬢ちゃんはお前のことをアリーヤと呼ぶんだ?」
「さあね。別に……あんたに会う前、下らない話があったんだよ。何も知らないガキ同士の……どうしようもない話だ」
「……するとなんだ、もしかして偶然の再会ってヤツか?」
「そうかもな」
アリゾナは遠慮なくエールの膝で寝ているが、エールは触れることもできなかった。
触れただけで崩れ落ちる花束の様に、どうしていいのか分からないのだ。
「どうして依頼を断るようになったんだ?」
「両腕の力が使えなくなった。戦えないんじゃ何でも屋は出来ない」
「んだそりゃ、何があったってんだ」
「……さあ。別に過程なんてどうでもいいだろ」
「はー……。これからどうするつもりだ?」
「……さあね。解らない」
「嬢ちゃんと一緒にいるつもりか?」
「は? どういうこと?」
「なーに言ってんだ。お前は気づいてねえのか? 大切なんだろ、嬢ちゃんのこと」
触れようとして触れられないのは、それが大切だから。
知らない感情にどうしていいか分からないのは、それが初めてだから。
コップの氷が溶けて、音を立てた。オレンジ色の照明の外にはとっくに街灯が石畳を照らしている。
「お前にそんな人間が現れるとは思っちゃいなかったよ。大切にしろよ、女ってのは難しい生き物だ」
「……あんたに言われる筋合いじゃない」
相変わらずのエールにはそう言われるが、大切ではないとは言わなかった。エールがその気持ちを認めることなど当分ありえないと思っていたために、かなり意外だった。
「これからの予定がねぇのなら、いっそのことスラムを出てみたらどうだ?」
「表に住むってのか? 僕が?」
「いやいやそうじゃねえ。俺が言ってんのは、国外に出てみるのもアリじゃねえかっつーことだ。お前、もうスラムじゃ暮らしていけねえだろ。敵も多いことだしな、嬢ちゃん守るにはキツイだろ」
「ロンディニウムを──ヴィクトリアを、去る……?」
そう、それはアリゾナがたびたび口にしていたこと。
アリゾナは元々それ目的でロンディニウムに寄ったのだ。本来の目的は、諸国を巡って学びを深めることだ。今は寄り道をしているが──。
「考えもしてなかったっつー顔だな。だが金ならそれなりにあんだろ? この世界は広い、お前の想像もしていなかった人やら場所やら組織やらが山ほどある。ロンディニウムのスラムなんぞ、世界からしてみりゃシミ粒みたいなモンだ」
そう諭す通り、ずっとスラムの小さな世界で生きていた。
その気になれば、エールは国外に飛び出すこともできた。ロンディニウムの表で鉱石病を隠して生きることさえできる力があった。でもそうしなかった。
アリスを待っていたのだ。出会うはずのない約束を待ち続けていたのだ。
一生そうして生きて、やがて死のうと思っていた。なぜなら、もう一度出会えるはずがなかったから。
でも出会ってしまった。再会してしまった。出会うはずがなかったのに。
「自由ってのはいいぞ? お前は自分のことを自由だと思ってるかもしれねぇが、俺に言わせりゃんなもん本当の自由じゃねえ。お前はロンディニウム以外を知らねえだろう? リターニアの静けさも、ラテラーノの祭りも、シエスタの海も……お前は実は、まだ何にも知らねえのさ」
「別に……それの何が悪いんだ?」
「バカ、楽しさに良いも悪いもねぇだろうが。嬢ちゃんだって各国を巡りたいんだろ? 一緒に行ってやりゃあいい。一石二鳥だ」
顔の赤らんだ酔っ払いは、まるで自分のことの様に話した。とても楽しそうに……エールの未来を語った。
「ああ、そういや思い出した。あのよ、確か嬢ちゃんは杖探してたろ。その杖なんだが、闇市に流れてたところをしょっぴいて押収しといた」
警官はそれこそ少し自慢げだったが、エールは固まった。
「──……あ?」
「特徴は嬢ちゃんから聞いてたんでな、多分あってると思うぜ? 大層な高値つけてやがってなぁこれが──」
闇市の一斉摘発に当たっていた警官は、その際多少職権を濫用して杖を個人的に回収した。明らかに国家権力の範疇を超えていた。流石はエールを育てた男と言ったところだろうか。
「おい……待て、待て。上への報告はしたのか」
「ん? まあ一応な。被盗難者に心当たりがあるつって持って帰ってきた訳だし」
「…………ッ!」
多少は緩んでいた気が一瞬で締まった。
ベクタは警察に顔が効く。末端からの報告などいちいち読んでいないだろうが……もしも情報網を張っていれば──気がつくはずだ。最悪の可能性だが、そういうものほどよく当たる。
あのベクタがどうしても手に入れようとしている杖。もしもそれが本当にユーロジーなのであれば──それは、どうしても面倒なことになる。
警官がユーロジーを本当に入手しているかもしれない。それはあまりに予想外過ぎた。
──ベクタが狙っている。それほど強引な行為に出ることはない──と、言い切れない。そして、エールはアリスのためにできる限りのことをすると決めていた。
問題になるのは、リスクが及ぶこと。これ以上アリスを危険に巻き込みたくはなかった。
「まあ明日辺りに持ってきてやるさ」
「……ああ。僕が出向くよ」
「ま、それが筋だな。いつものバーにでも来い。だが仕事中に来るんじゃねえぞ?」
「何言ってやがる、真面目に仕事したことなんてないだろうが」
「はっ、お前んとこに嬢ちゃん連れてきてやったのは俺だろ? 感動の再会作ってやったんだから感謝くらいしたらどうだ」
「はいはい、どうももうも」
エールはそうやって流した。
そんな適当な態度にも慣れたものだった。素直じゃないのは昔からだった。能力が高い割に捻くれているので非常に面倒くさいのだ。
だからこそ、膝に頭を預けて寝ているアリゾナの頬を、触れるか触れないか程度の距離で優しく撫でる仕草には目を疑ったりしていたが──。
だからこそ警官は、エールがやっと大切な誰かと出会うことが出来たことが嬉しかった。
それは生きる意味に繋がる。人嫌いで自分嫌いなエールが、世の中を許せるようになっていくかもしれなかったから。
あまりにも無為で厳しい現実の中で、今の時間だけが優しく過ぎていった。
もう二度と過ごせない時間だと分かっていたのなら、もっと大切に出来ていたのだろうか。
もっと色々なことを話せていたのだろうか。