猫と風   作:にゃんこぱん

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両親を殺して、行き先の分からないトラックに忍び込んで、そしてロンディニウムに着き、上から下へ流れるようにして貧民街に座り込んだ。

知らない言葉、知らない文化、知らない景色、知らない場所。

──味方がいないことだけは、ウルサスと何一つとして変わらなかった。だから一人は慣れていた。

行き場のない日々の中で、彼女に出会った。

初めて生きていて良かったと心から思った。救われた日々がいつまでも続いてくれればいいと思った。

アリスを守るように立ち塞がった貴族の男と、化け物を見るような目で怯えたアリスの顔から逃げて、コソ泥や食い逃げを重ねて一年間を過ごした。

ある時ついに捕まって、空腹が重なっていたこともあり袋叩きにあった。

ボロボロにされ、無いも同然だった身ぐるみは全て剥がされ──。

『……おいガキ、こんな汚ねえ場所で何してる?』

憎たらしいほどの夕焼けに写った黒いシルエットが焼きついていた。

『一人か? 逆に珍しいな、スラムにガキなんぞ。巡回なんぞ下らねえ仕事だと思ってたが、面白いもんに出会えるもんだ』

幼いほど、人の本質を理解していたと思う。

信じるとか、裏切るとか、優しさや喜び以前の生活だった。

人生の中を生き延びていくために手段を選ばずにいると、その内に顔を覚えられて、通りを歩けないようになる。けれど捕まらなければいいだけの話だった。

──世界の無常さがどれだけ冷たいのか理解していた。

何も言葉などなかった。誰かと話したいと願うことも無くなった。擦り切れた生活の中で、ついには言葉の話し方さえ忘れてしまっていた。

『行くあてもなさそうだな──もしかしてだが、スラムのエールってのはお前か? 食い逃げ強盗窃盗……ヤク盗み出してばら撒いたことあるってマジか? マジならとんでもないガキだが』

よれた襟についた、色褪せた警察のバッチ。

伸ばしたままの無精髭のせいで、とても正義の警官という風には見えなかった。どうでもいいことだったが。

『言葉は話せるか? 何か言えや』

掠れた声で答えたような気がする。

『──、』

──その時、何を呟いたのだったか。

それはもう忘れてしまった。

『……そうか。実はな、ついさっき俺も一人になった』

男の発音は乱暴で、まだ共通語に慣れきっていなかったエールには聞き取れない部分も多かった。

けど、それだけははっきりとわかった。

『俺の名前は”────”』

知っている。けど名前は呼ばない。名前も知らない他人程度の関係で十分だった。それ以上なんて必要ないさ。

『お前とおんなじさ』

──それでも手を伸ばしたのは、まだ希望が残っていたからだろうか。

理由のないことばかりだったから、多分なんでも良かったのだと思う。

どうでもいいことだったのだと思う。少なくとも、この世界にとっては。

確かに、どうでもいいことだった。

どうでもよくあって欲しかった。

どうせなら、嘘の方が良かったのに。

それならなぜ、手を伸ばしたのだろうか。

どうしてだったのだろうか。





IFルート:ブリーズ 下

それが本物かどうか──判別はついた。

 

アリゾナからユーロジーのスケッチを預かっている。穂先の特徴的な装飾や、見るからにそれらしい空気感は本物だった。スケッチがなくとも確信は持てていただろう。

 

ずっしりとした重厚感と、溢れ出る伝統的なオーラ。古典的な栄光を表した、アリゾナ家の家宝。

 

貴族の杖と呼ぶほかなかったが、不思議と悪印象は湧いてこなかった。アリゾナがその杖を手にしている姿を想像するとしっくりきた。

 

「……こんなもん闇市に流そうとするのか。馬鹿じゃないのか」

「盗品を金に変えんのは想像してるより簡単じゃねえさ。特に本物を売る場合、買い手への伝手と後ろ盾がねぇと割りに合わねえ上にリスクを被るだけだからな」

 

特に高い価値を持つ盗品は、安く売り払うのならそう難しいことではない。偽物で溢れかえった裏市場に一つそれを流すだけだ。

 

だが正しい価値で売ることを目指すと、そうそう簡単ではない。粗雑で安価な闇市の中で十万以上の値をつければ、逆に偽物を疑われる。本物などごく僅かであるからだ。

 

まして高級品ならば、警察組織にバレた時の罪がより重くなる。考えなしに手を出すと逆に痛い目を見る。だがその基本的なことを誰もが知っているとは限らない。

 

「嬢ちゃんは連れてこなかったのか?」

「……それに関してだが、面倒な事態になっている」

「面倒な事態だ?」

ユーロジー(それ)、貴族に狙われてる」

「……どうしてそれをもっと先に言わねえんだお前は……」

 

さらっと最悪の事実を述べたエールを前にして警官は頭を抱えた。

 

「ここにあること、バレてんのか」

「多分ね。だが少なくとも僕は、その杖を連中に渡してやるつもりなんてない」

「……まあ、元はあのお嬢ちゃんのものなんだしな。どうするつもりだ」

「別に大したことはしない。元々アリスのものだと証明してやれば、連中が手出しできる理由は無くなるんだ。本人に渡してやればいい」

「……? じゃあどうして連れてこなかった」

「三日ほど前から鬱陶しい見張りがついてきている。アリスを危険に晒したくない」

「おいおい、じゃあこの場所もやべえんじゃねえか」

 

比較的安全なバーではある。だが警官は飲むような気分ではなくなっていた。

 

「ああ。アリスの手に渡る前に奪おうとしてきても不思議じゃない。どうせ使ってくるのは僕のようなドブネズミだ、白昼堂々襲いかかってくるだろうね」

「嬢ちゃんはどこにいる」

「時計台前。ステインボーグ家の管理するあの場所なら、ベクタでもそう簡単に手出しはできない」

「は!? お前、ベクタってあのベクタ・ウェル・ヨークのことか!?」

「そうだけど」

「何つーヤツに目ぇ付けられてんだよ……」

 

一介の平巡査としては雲の上の存在だ。絶対に逆らってはいけない人物でもある。

 

「じゃあなんだ、スラム外輪部にあるここのバーから時計台に杖を届けろってのか。なんでこんな面倒なことになってんだよ……」

「不自然な動きを悟られたくなかった。向こうの動きにあんま変化がないところを見ると、あんたが杖を持ってるってことはまだ知られてないと思う。出来ればそのまま終わらせたいが──」

 

薄暗い店内に騒がしく鳴るロックミュージックに紛れて、バーのドアが開く。

 

「来たみたいだ」

「おい、だから何の話を──」

 

二人組のループスがはっきりとエール達を捉えて、ニヤリと笑っていた。

 

そのままズカズカと歩いてきて、腰から獲物を抜いた。

 

「おいあんたら、喧嘩なら外でやってくれ!」

 

マスターが迷惑そうに叫んだが、構わず──刃が振り下ろされた。

 

「口上の一つでも上げたらどうなんだ、チンピラ共が!」

 

大した技量のないチンピラに遅れをとるほどではない。カウンターに差し込んだ蹴り飛ばしが片方を吹き飛ばして壁を揺らす。警官の方も格闘術を駆使してもう片方を床に叩きつけた。

 

「一応聞くけど、どっから依頼された?」

 

チンピラの目が血走っていた。

 

不自然に荒い息──蹴り飛ばしたチンピラはもう一度向かってきた。しばらく動けない程度にはダメージを与えたつもりだったにも関わらず。

 

側頭部をピンポイントで狙った蹴りが突き刺さる。スラムの喧嘩技術にしてはエールのそれは洗練されすぎていた。

 

それでも気を失わないチンピラには流石に違和感が残る。チンピラの両手首を探れば──思った通り、注射痕。それと微かな甘い匂い。それでもヴァルポの鼻には臭い過ぎる。

 

「やっぱりか、ラリってやがる」

「この甘ったるい臭いはそのせいか。これ何?」

「シャブと石混ぜるとこういう匂いがすんだよ。石混ざったヤクは無駄に効果が長ぇし、大抵はドーピング代わりに使われんのさ」

 

石──というのは警察内部での用語で、粉末、或いは液状の源石(オリジニウム)を指す。処理した、或いは未処理の源石から抽出した成分は、使い方によっては覚醒剤になる。

 

一般的には他の材料と混ぜて使()()。スラムではよく流行ったりしていた。

 

「死ぬまで殴ればいいのか?」

「まあな。多分痛み感じてねぇだろうし、脳みそ揺らしてやんねえとゾンビみてぇに蘇ってくるぞ」

「……面倒臭ぇなッ!」

 

顎を蹴り飛ばしてやると、涎を垂らしながら気絶した。

 

まさか雑魚二人程度で終わるはずがない。ドアからぞろぞろと入ってきたのは無数のチンピラ。どいつもこいつもキマっている。

 

「数だけはやたら居るな。いちいち相手していたらキリがねぇ──おいマスター、裏口借りるぜ!」

 

完全に頭を抱えたマスターを無視して警官は杖を掴んで逃げた。エールも続く──バーカウンターの横を通り抜けて裏側、積み上がった酒瓶の横を通り抜けて出口を蹴り飛ばす──。

 

「時計台までは遠いぞ、どうするつもりだ!?」

「とりあえず走るぞ……!」

 

ゾンビ映画さながら、今しがた飛び出してきた裏口から溢れ出てくる薬物中毒者達を尻目に、貧民街にも聳え立つレンガ建ての建物を見上げた。ボロボロで汚れだらけのアパート──洗濯物などが張り出している。役に立ちそうなものはない。

 

車の通りもない。人通りなど推して察するべきだろう。

 

貧民街は無法地帯だ。爆発物でさえ平気で使ってくる連中だっている。すぐに脱出しなければならない。

 

「何で最初っから表の方で集合しなかったんだよ!」

「ベクタの情報網を甘く見るなよ、表の方でユーロジー(そんなもん)持ち歩いてたら一発だろうが。まだ貧民街(スラム)の方が好都合だった」

「どっちみち、ってことかよ……ッ」

「年寄りには堪えるか? タバコはやめといた方が良かったね」

「うるせえ!」

 

息を切らしながらも必死に走る警官を横目に、エールも余裕ではなかった。体力的な問題ではない、ここからどうやって時計台まで辿り着くか。それが問題だった。

 

「僕の方が足は速い。状況によってはあんたを置いていく」

「そうしやがれ! ガキが俺の心配なんぞするんじゃねえぞ!」

「言ってろジジィ」

 

客観的な視点から見ればエールはもうガキと呼べる年齢ではなかったし、警官もジジィと呼ばれるほど老けてはいなかった。だがお互いにとってはそうだったのかもしれない。

 

エールは小生意気なガキのままだし、警官の方は口うるさくてうざったいオッサンだ。

 

「適当な車でも押収できないか? 警察手帳あるだろ」

「んなこと出来るか馬鹿か!」

「ならパクるか──いや」

 

貧民街の範囲はそれほど広くはない。脱出すること自体は問題ない──問題なのは、あまりに広い表の街並みの中で何をしてくるのか読めない点。

 

「……あれに乗るか」

 

細い横道を通じてスラムを脱出すると、華やかで伝統的なロンディニウムの街が眼前に現れる。何車線もある交通網には今日も大量の車が行き交っていた。

 

広い道路を横断するために、横断歩道橋が掛かっている。後ろから追いかけてきた数だけは多いチンピラ共を視界に捉えて、エールは躊躇しなかった。

 

歩道橋の階段を駆け上がる。人々が無関心そうに歩いているのを横目に──。

 

「どうするつもりだ!?」

「あの緑のバスが見えるだろ?」

「ああ!?」

「あれに乗る」

「は!? おま、どういう──」

 

歩道橋の上から飛び出したエールは、走っているバスの天井めがけて歩道橋を飛び越えた。

 

軽く天井が凹む音と共に着地。バスの運転手は驚いて辺りを見回すが、何もない。まさか天井の上に誰かが飛び乗ってきたとは思わなかったし、異常があろうと交通網の中でバスを停めるわけにもいかなかった。

 

「〜〜! んの、クソッ!」

 

ヤケクソ気味に警官も続くほかない。運よく二台目が通ってくれた。もう若くない体が悲鳴をあげるが、そこはグッと我慢。

 

だが凶行に走った甲斐はあったと信じたい。スラムのガンギマリ野郎共が見るみるうちに遠ざかっていく。

 

風を受けながら、なんとか体勢を立て直していく。この方向は確かにロンディニウムの中心、時計台へと向かっていく。とんでもないヒッチハイクだ──。

 

はためく視界の中にエールを捉える。平然とした面がどうにも憎々しい。

 

そうこうしているうちにバスは循環道路へと進路を切った。この一帯を走るバスはこの先の込み入った路地を避けるため、全て循環道路へと回るシステムになっているのだ。

 

移動都市上に建設された循環道路であるからか、信号はさっぱりない上に交通のスピードが速い。

 

──この状況、バスに乗ったはいいがどうやって降りる気だ。

 

高速の中でどうやって降りるのか。バスの目的地、ちらっと見えた限りでは最終的に全然違う目的地につきそうだ。

 

右手に掴んだユーロジーはそのまま、成り行きに身を任せるしかない──。

 

ロンディニウムは広い。時計台というのはランドマークの一つではあるが、なかなかその姿は見えてはこない。だが高速道路の移動は一瞬だ。十分もしないうちに景色は変わり始め、建物の高さは増していく。中心へと向かっていく。

 

地上25メートルに建設された都市循環道路の一角でバスは停留所の一つで留まる。エールがひょいっと降りたのを確認して、警官も続いた。運転手がぎょっとした表情でこちらを見ているが無視。すまん。

 

「メチャクチャやるな、おい」

 

移動都市はその性質上、一区画の密度が濃い。地下や上に至るまで、さまざまな交通網が発達している。そのため循環道路から地上へ降りる階段も設置されていた。

 

柵の向こうには黄金の都市が広がっている。

 

太陽の日差しを受けて煌めく。その影に無数の綻びを隠して輝いているフリをしている。

 

──風が強い。すぐに下に降りよう、幸い時計台はもう目視出来ている。

 

コツコツと降りていった。

 

マイナーな降車地だったらしく、地上に降りても寂れた路地が待つのみだった。

 

「っと、この辺りなら俺が一度管轄だった時期がある。こっちだ、ついてこい」

 

不便さと分かりにくさが特徴的な一帯で、度重なる増築や、根本的な立地の悪さからやたらと迷うことが多い。そのためこんな場所を通るのは余程の物好きか、あるいは──。

 

「……止まれ。囲まれてる」

「は? んなわけ──」

 

──暗い場所が好きな連中だけだろう。

 

張り巡らされた地下通路への入り口に差し掛かったところで、エールが周囲を睨む。

 

「……素人連中は遊びだったって訳か。てめぇか、ルー」

「よぉエール、鬼ごっこなんだってなぁ」

 

知り合いの顔だった。別に珍しいことではない、利害関係は容易に逆転しうる。

 

「お前が僕に勝てると思ってんのか、チキン野郎」

「おいおいおい、俺ぁ知ってんだよぉ──腕、上がんねぇんだろぉ?」

 

エールは冷や汗をかいていた。ルーは狂っているが──強い。

 

バカみたい目立つ顔の刺青。嫌いな人種だ。というかあの手の類を好む人間などいるのだろうか。

 

「そんでさぁ──金いっぱいもらっちゃったしさぁ……遊ぼうぜ、ほらほらほら……。俺の友達、いっぱい連れてきてやったんだぁ──さあ!」

 

凶暴性に満ちた笑い。

 

「あっそびーましょぉッ!」

「来るぞエール!」

「一人でシコってろ、変態野郎が」

 

最初の一閃──体の上側を使った激しい動きが封じられているエールは、足技を主体にするようになった。元々天性の戦闘スキルに加えて、これまで重ねてきた戦闘経験は、そうそうエールを負けに追いやることはない。

 

真正面から馬鹿正直に突っ込んできたルーは片手に釘打ち用のハンマーを掴んでいる。工具だが、十分な凶器だ。

 

体を捻って運動エネルギーを生み出し、交錯する一瞬に併せて──飛び上がって側頭部を蹴り飛ばした。突撃のエネルギーと併せて、背後の地下通路への階段に吹っ飛んでいく。嫌な音が聞こえた。

 

ルーが連れてきたゴロツキたちは呆然としている。集団の頭が一撃で沈んだのだ。はっきり表現して、エールという男を侮りすぎていた。怪我で以前よりずっと弱くなっていると説明されていたし、こっちの数は二十人を超えていた。勝てないはずがなかった。

 

エールといえど所詮人間で、数ばかりある逸話など全て誇張されたものだと思っていた。オッサンとエール二人だけをブチ殺して大金、楽なバイトだと思って──。

 

だが──これのどこが、弱くなったのだ。

 

警官でさえ、一瞬で集団の頭を沈めたエールに驚いた顔を向けたまま固まっているほどだ。

 

息を吐いて顔を上げたエールの姿は──。

 

「……かかってこいよ、クズ共が」

 

怪物に見えた。

 

誰かが叫び声を挙げて走り出した。恐怖に浮かされて走った先にはエール達。底辺で生きていたなりのプライド、唯一の取り柄が喧嘩ばかりの男たちにはそんな事実が認められなかった。

 

「馬鹿どもが……!」

 

以前ならこの程度、別になんでもなかった。十人だろうが百人だろうが、雑魚がどれだけ集まったところでなんの問題にもならなかった。

 

──もう今となっては、ゴロツキたちから見えているほどエールは強いわけではなかった。ズタボロにされた筋繊維はもう戻りはしない。今生きているだけで十分すぎるほどの奇跡なのだ。形を保っているだけでも幸運。

 

威力は高いが、隙も大きい蹴り技でしか戦えないというのはリスクが大きかった。だがやるしかなかった。

 

側から観れば、エールは多勢に無勢の中でも全く遅れを取ってはいなかった。一撃一撃で確実に意識ごと吹き飛ばしていく。

 

だが必ず隙は生まれる。

 

四方向からの同時攻撃がエールに襲いかかった。

 

「──エールッ!」

「ッ、人の心配してないで──」

 

蹴り飛ばした反動でまた別の攻撃に移る──高度で現実離れした動きで、飛び上がってから着地するまでに四回の攻撃を終えていた。少なくとも、マトモな人間に出来る技術ではなかった。

 

ただ、どれだけ強かろうと所詮は個人に過ぎない。

 

「くたばれェぁぁああああ──ッ!」

「ッ!?」

 

着地した直後を狙って突っ込んできた男の両手にはバット。

 

──渾身のスイングが鼻頭に突き刺さる。

 

「──っ、はあ、はぁぁ……!」

 

緊張と興奮から荒い息を繰り返すバット男を前に、激しく揺らいだ視界と──フラつく意識、それと痛み。

 

エールは喧嘩においては絶対的に強かった。スタミナ、技術、筋力、速さ……それと容赦のなさ。だが弱点は存在する。それは打たれ弱さ。

 

筋力はあるが、身長や肩幅は平均以下だ。戦闘のスタイルは攻撃される前に潰すか、或いは攻撃は全て躱し、こちらだけが攻撃する。

 

そうなったのは、エールが打たれ弱いからだ。当たらなければどうということはないが、当たってしまったら問題だ。だから速度と力で潰してきた。

 

だが今の体のコンディションや、頭部という急所への一撃──十分に致命的だ。攻撃をくらった経験はほとんどないエールはタフネスに欠けている。

 

最も、それが知られていないのが幸いだったが、一撃入った事実は相手側を勢いづけた。

 

体制を崩して睨み上げたエールの体勢に──興奮が恐怖に勝る。声を張り上げさせる。

 

「ブッ殺せェ!」

 

誰もが狂気的に笑う。血管の浮き出たクズどもがエール目掛けて──。

 

警官の方も助けようとはするが、自分のことだけで手一杯だ。エールではないのだ、一対一なら問題なく鎮圧は出来ても、対多数なら防戦一方。

 

──このままでは、まずい。

 

「ぐっ、この──退きやがれクズ共! どっから湧いて出てんだ、クソが!」

 

精々四体一に持ち込まれたら勝ち目は薄い。不利な状況に置かれた時、まず初めにしなければならないことは逃走だ。逃げるが勝ち、それが原則。

 

エールが沈めば──最悪の場合、消される。

 

目的ははっきりしている。この杖──ユーロジーというもの。どういうわけか、とんでもない価値を秘めているらしい。今は状況が状況だけに鈍器代わりに振り回されている。

 

ベクタ・ウェル・ヨーク──黒い噂の絶えない貴族の一人。警察内部では絶対に逆らってはならないし、関わることすら危険。

 

だからといって、思い通りになるつもりなど毛頭ない。ないが──これでは。

 

「エール!」

 

──痛みよりも、この湧き上がる感情は──苛立ちだろうか。

 

「……黙ってろよ。この程度の数で……どうにか出来るとでも、本気で思ってんのなら……笑いもんだな」

 

恐怖も興奮もない。

 

自然に従って流れる風のような穏やかさで、静かな殺意が湧き上がった。

 

怒りは常に殺意と同義だ。いつだってやり過ぎてしまう。

 

「僕は、手加減のやり方を知らないんだよ……死んでくれるなよ、後味悪いから……さァ!」

 

──傷口が開く。別にどうでもいいことだが。

 

一匹狼に過ぎないが、侮るなよ。こちとら人じゃない──勝てるのなら、四足歩行の獣で結構。

 

手負いの獣が最も危険なのだ。

 

次々と向かってくる大群、最初に辿り着いた勇敢なフェリーンの喉から顎裏にかけての部位に一撃、二撃──体を一周回して、回転エネルギーを正面に余すことなく蹴り込む。吹っ飛ぶ。

 

次、正面からの拳。それをそっと──右手でいなし、膝を鳩尾に突き刺した。威力の原因は相手が思いっきり走ってきていたことだ。自分自身の力を見事に返された形になる。

 

次々と来る。

 

そのどれもが、エールに届くことはなかった。

 

胸の筋肉が使えないことは戦闘においては致命的ではあるはずだ。事実エールは腕を使って受け流す時には全く力を使っていない。

 

拳法の達人が辿り着く脱力の境地に辿り着いていたのは──皮肉にも、以前ほどの力を失ったからだった。それにしたって怪物なのは間違いないが。

 

──聞こえてきた呻き声や、倒れる音、砕ける音の一切にエールのそれは混ざってはいなかった。

 

転がる人影は次々と増していき──ついに最後には、警官とエールを除いて立っている者はいなくなった。

 

「……はあっ、はあぁっ……! っ、く──」

 

呼吸を整えるエールと、事が終わった後でも目を疑っている警官。だが夢ではないし、傷は痛む。

 

「ははっ、信じられねぇ……。強くなったんだな、エール」

 

倒れた連中を避けて、エールの方に歩いていく警官はそうやって嬉しそうに声を掛けた。

 

今やこの路地には戦場跡だった。

 

「……さっさと行くぞ」

 

警官が掴んだままのユーロジーに目をやって、エールは地下通路への入り口に歩き出した。

 

苦笑いを残して警官も後を追う。ユーロジーをあのお嬢さんに届けてやらないと。

 

地下通路の光源はとっくに壊れていた。差し込んでくる光を頼りに降りていく。

 

地下通路といっても、複雑な道路を迂回するためのもので、長さにしては十メートルもない小さなトンネルだ。反対側からも光源が見えているので、源石灯が壊れていようと歩くのに支障はない。

 

といっても、実はこの地下通路に限って面白いギミックがあって──。

 

「──全く、さっきはどうなることかと思ったけど……大したヤツだな、お前」

 

返答はない。疲れ切っていたエールは前へ歩くのみだ。

 

さっきがた階段に吹き飛んでいったルーが気絶している横を通り──。

 

「まあ、さっさと行こうぜ。もう十分も歩きゃぁ──」

 

──どすり。

 

衝突音に似た、突き刺さる低い音がはっきりと、しかし──あまりに突然聞こえた。

 

足を止めた。

 

からん。

 

物が落ちて、反響した。

 

落としたのは警官だ。落ちたのは真っ黒い杖──ユーロジー。

 

内臓を貫通して、反対側から鏃が飛び出していた。

 

「…………ぁ?」

 

不思議そうに、警官は己の胸から飛び出していたボウガンの矢を見下ろした。

 

血が垂れている。

 

地下から見上げた逆光の中に、十字架のようなボウガンのシルエットが見えていた。

 

時間が止まったような静寂の中で──。

 

二発目が装填されていた。

 

それを見過ごすエールではない。だが駆け出そうとしたエールの邪魔をする存在がまだ残っていた。

 

足を掴んだのは──気絶したと思っていたルーだ。

 

「──待ってくれよぉ、おいおい……寂しいじゃぁねえかよぉ」

 

ニタニタした気色悪い顔で足首を掴んでいた。

 

躊躇なく顔面を蹴り飛ばすが、まだ離さない。

 

そんな秒間の間に弦が弾かれて鳴り響いた。

 

「──ご、ぷ……」

 

今度は真正面から、体の芯を捉えて。

 

逆光の中でのシルエットが数を増していく。増援だ。

 

元からベスタとて、エールを仕留めるためにこの程度の数しか用意していないはずがない。最初のチンピラたちは撒き餌であり囮。気力と体力を削らせ、注意力を削ぎ落とすために布石。

 

戦闘が終わった直後が最も隙ができるのだ。獲物を狩り終わった後ほど最も注意しなければならない。狩人はそこを狙っているのだから。

 

「終わりだよぉ……ッはは、はぶッ!?」

 

こんなクズに構っている暇はない。今度こそ意識を刈り取ると、階段上の黒服たちを視線に捉える。

 

──さっきのチンピラと違って、全員きっちりと武装している。統率もある。

 

……こっちが本命らしい。

 

「──おい、何……戦おうとして、んだ」

 

ぎこちない動きで拾い上げた杖を、エールに突き出した。

 

「これ持って、逃げろ」

 

反対側からも足音。

 

逃げ道のないトンネルの両側を塞がれた。上側を抑えてある。どうあってもここから逃さないつもりだ。

 

「……あんた、ここで死ぬぞ」

「やれやれ、だな。呆気ねぇもんだが──おい、ちょっと……そっち行け。そこで転がってる、野郎より向こうまで、移動しろ」

「……は?」

「いいから、さっさとしろ」

 

反対側の出口の方を指して繰り返す警官に怪訝な顔のまま、一応エールは動いた。

 

階段上で待ち構えている連中は動きがない。不気味ではあったが、好都合だ。

 

ふらふらと壁に寄っていた警官は、壁の一部に手を当てて、コントロール盤を開けた。光源の制御に使われる配線盤だが、この場所にはある奇妙なギミックがあり──シェルターを下す事ができるのだ。

 

都市防衛の想定から、中央へ通じる通路の一つであるこの道には遮断装置が備えられていた。入り組んだ地形が防衛用に設計されていた──というのは、誰も知り得ないことではある。その思惑はさておき、実際の設計のせいで見事にこの一帯の経済的利便性は消滅した上に、こんな装置など市の職員にすら忘れられているのが実態だった。

 

レバーを下ろせばトンネルを丸ごと塞ぐシェルターが降りる。

 

その前に──杖をエールの足元に放り投げた。

 

「おい、何のつもりだ!」

「……逃げ切れよ。出来るだろ、お前なら」

 

レバーを下ろした。

 

稼働音とともに急速にシェルターが降りていく。

 

「……なんだこれ。どういうつもりだ、おい……!」

「挟み撃ちよりは、背水の陣の方がマシ……だろ? お前のいるそっち側が、時計台に通じる唯一の道だ」

 

そしてこの道を除いては、大幅な遠回りを強いられる。

 

ちょうど警官とエールを分断する形に──。

 

「俺はもう、足手纏いだ。後……頼んだ」

 

体を貫かれた体はどのみちもう長くはないし、逃げられそうにもない。

 

このレバーは最後まで下ろさなければならない。

 

「──嬢ちゃんには、よろしく言っといてくれよ」

──最期には、ああ。

 

やっと、やらなければならないことを──そのために殉じることができる。

 

「ちッ……! 早くこっち側に来い!」

「悪りぃな、荷物は……少ない方がいい。俺ぁもう動けんさ、歳を取った……」

 

逆光のシルエットが動き出す。

 

あからさまな動きに対して牽制のボウガンが打ち出された。エールには当たらないが、警官は避けようともしない。

 

タイムリミットの切迫した状況の中で、エールはユーロジーを拾い上げ……その中で、迷ってしまった。

 

下らない男、ただの利害関係、──あの日の、暖かいスープの味を、まだエールは覚えて──。

 

『──────、──』

 

駆け出してしまった。駆け寄ってしまった。身長ほどまで降りてきていたシェルターの下を──

 

「──お前の来るところは、こっちじゃねえよ」

 

どん、と突き飛ばされ、

 

「……けど、嬉しいもんなんだな」

 

────────────────────。

 

その時、警官がどんな顔をしていたのか、もう見えなくなっていた。

 

口元だけが、穏やかに動いた。

 

「……ありがとな、エール。悪くなかったぜ」

 

──ずっと認めたくなかった。

 

下らない反抗期だ。

 

それが永遠に存在するなどとは考えていなかった。だが、それが終わる瞬間は──。

 

「ばッ──バリスッ! てめえぇええええええ!」

「はっ……初めて名前で呼びやがったな、エール。嬢ちゃんと仲良くな──この、バカ息子が」

 

──警官、バリス・ロジスタは嬉しそうに笑って絶命した。

 

その事実を噛み締める暇もなく、次々と飛来したボウガンの中に爆発物が混ざっている。

 

──爆風の中から飛び出した。

 

片手にユーロジーを掴んで、どうしようもない感情の波に歯を食いしばって。

 

大切などと言うつもりはない。どのみちクズ同士、終わる時は突然やってきて、どうせ死ぬ時は一人きりだ。

 

「クソが……クッソがぁぁぁぁぁぁぁあああああああッ!」

 

一人きりだ。

 

『バカ、交渉ってのは舐められたら終わりだ。いいか? 人を脅す時はな、そいつの大切なものが何なのかをきっちり調べてやれ』

 

思い通りにならないことばかりだ。

 

『お前は嘘が下手だなぁ。ハッタリ効かせんのも喧嘩じゃ重要だ。嘘付く時は視線を逸らすな。堂々としろ』

 

教わったことのほとんどが、役に立たないことばかりだ。

 

『女ってのは怖ぇ。女が出来た時は気をつけろよ。んで──何よりも大切にしてやりな。女は恐ろしい怪物だが、一回ハマっちまうと世界が変わっちまう。幸せって言葉の意味を知るハメになる』

 

知るかそんなこと。夜逃げされただけだろ、あんたは。

 

『お前もいずれは、出会う時が来るさ』

 

根拠のない発言を、どうしていつまでも覚えていたのだろうか。

 

『いずれ分かる日が来る』

 

いつだか一度、まだ身長がずっと小さかった頃……たった一度だけ、頭を撫でられたことを……思い出した。

 

今は、記憶の中にだけ存在する、ただの脳みその電気反応だ。

 

教わったほとんどのことは、役に立たないことばかりだ。

 

喪失への対処の仕方など、一言も教わってなどいなかった。

 

生きている時には他人と一緒でも、死ぬときは一人だ。

 

ならばどうして、人は互いに求め合うのだろうか。

 

『心ってのは欠落した仕組みで出来てんだよ。誰しもが孤独の中で生きなきゃいけない。分かり合えねぇからな、人と人ってのは。だから騙し合って、殺し合う。お前もそうだ。他人を理解出来ねえ。お前の強さってのは、他人に対する恐怖の裏返しでもある』

 

……そうなのかも知れなかった。

 

矢の雨の中を突っ切って行った。

 

どのような障壁も無意味だ。どのような妨害も無価値だ。

 

この脚は止められない。だがそれは何のためだったのだろうか。

 

『──だが、いつかは受け入れることが出来るさ。過去の罪も後悔も、いずれは……歳を取れば、全部思い出に変わってくれる』

 

──誰かのための力だと、もっと早くに気がついていたなら。

 

ああ、下らない感傷だ。だが今では、何のために駆けているのかわからなかった。

 

壁に電柱に、突っ立った黒服たちに至るまで、全て足場に過ぎない。

 

ああ、何か変わったのだろうか。

 

『──さぁ、飯でも食いにいくか。酒の飲み方、そろそろ教えてやる』

 

教わったことは、役に立たないことばかりだった。

 

僕は走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無我夢中で死地を駆け抜けていた間の記憶は吹き飛んでいた。

 

死線を踏み越えていた。目的地は目前で、エールはいつの間にかどこかの路地に座り込んでいた。

 

真横を見ると、人混みががやがやという耳障りな音とともに過ぎ去っている。

 

雑踏の喧騒は真横にあるのに、乾いた血に汚れたエールに視線一つも寄越さない。別に珍しいことではないのだ。ロンディニウムは人々を血に慣れさせた。それでも輝かしい街は、虚栄と経済で出来ていたのだという。

 

「──アリーヤ!」

 

顔を上げた。

 

目の前には彼女がいた。その隣にはもう一人──。

 

「喋る力は残っているか。約束の時間を30分過ぎているぞ」

 

白衣をぶら下げたケルシーが冷たい瞳で見下ろしていた。

 

「……アリス、これを」

 

だらりと下がった手には、まだユーロジーが握られていた。

 

持ち上げようとして──肘の高さまでしか上がらなかった。これ以上重たいものを持ち上げようとすると、腕自身の筋肉では足りない。後遺症だった。

 

アリゾナは素早くそれを察して、受け取ろうとして──。

 

「手を止めたまえ」

 

反射的に振り向いた、路地の暗い闇の中に──。

 

「ご機嫌よう、お嬢様方──そして、我がドブネズミ……」

「……ベクタ。あんたは……そうやって何もかも、自分の思い通りにしているっていうツラをするのが……本当に好きだな」

「警告はしたはずだがな」

 

血で汚れたエールと、シワ一つない貴族の衣装に身を包んだベクタ。対照的だった。

 

()()を、こちらに渡したまえ」

 

ベクタのことだ。どうせ周囲に誰かしらの手駒が潜んでいるのだろう。

 

アリゾナはいきなり現れたベクタに迷うが、しかし毅然として言い放った。

 

「……あなたが誰なのか、私は知らないわ。けど、言わせて頂くわね──お断りよ」

「では、その命を発言の代償と知るのがいいだろう」

 

手を振り上げ、潜ませた刺客に合図を送る──。

 

「待て」

 

冷たい声色のケルシーが口を挟んだ。

 

「……誰とも知らないが、口を挟まれる理由はない。黙っていてもらおう」

「貴族と言えど、何もかも好き勝手は出来ん。私はその杖の由来を知っている」

 

立ち塞がるようにして、ケルシーは真正面から怖気などかけらもなく言い放つ。

 

「盟約の象徴は、むしろ隠蔽されるべきだったのだろうが──今では権力の象徴と勘違いされる有り様か。王の許し無しにしてそれを手にすることは反逆の証だ。最も、今の王はそんなものには興味はないだろうがな」

「……貴様は何者だ」

「そしてこの先にも盟約があり続けるとは限らん。むしろ変貌している可能性の方の方が高い。それに目先の話をするならば、他の貴族の目先でそれを手にすることは許されん」

 

エールとアリゾナにとっては全く意味のわからない会話だったが──少なくとも、ケルシーがベクタに対峙していることだけは分かった。

 

「今、杖は正式な所有者の手の内にある。もう一つ加えておくならば、ドールンの灯台は今後三十年は消えることはない。余計な物に手を出すのはやめた方がいい」

「それが一体何の問題になる。腐らせておくのなら、私が使う」

「無意味な行為だな」

 

──しばらくの間、睨み合いが続いていた。

 

視線を切ったのはどちらだったか。

 

最後には、ベスタは背を向けて去っていった。

 

「……終わった、の?」

「少なくとも、今のところはな。どの道、根本の解決など不可能だ。──さて、エール。君との約束は果たした。代価を払ってもらおう」

「え、ちょっと……代価って、そんなことを頼んでいたの!?」

 

自分のために、またエールは何も言わないまま動いていた。ケルシーは護衛だったのだ。時計台前というのは少なくとも、ベクタが表立って行動できないエリアであったために。

 

「……約束は果たす。だが、一つ頼みがある」

 

ぽつりぽつりと呟くように、掠れた声で。

 

「……アリスのことを、頼みたい」

 

その言葉は、アリゾナに嫌な予感を感じさせた。

 

「頼む、先生。僕はもう、どうだっていいんだ……」

「……ふむ。断る」

「……そうかい」

 

惨めさに小さな笑いがこぼれ出る。

 

「……さあ、先生。どうぞお好きなように使えよ」

 

──アリスと再会した以上、もうロンディニウムに留まる理由は無かった。

 

だが他に行く宛も無かった中、ケルシーと取引をした。

 

ユーロジーを渡すまでの間、アリスが危険に晒される可能性を防ぐために、ケルシーに護衛を頼んだ。ケルシーならなんとなくできると思った。

 

代償は──。

 

「今から、あんたが僕のご主人様なんだからな」

 

ロドスへの加入、及びケルシーの指揮下に入ること。

 

「……アリーヤ、それじゃあ──私は、どうすればいいの……?」

「杖は取り戻したんだ。旅に出るんだって──前から言ってただろ、アリス」

「わ、私は──、……怖くて、言えなかったことがあるわ。でも──アリーヤ、私は……あなたにも一緒に来て欲しかったのよ」

 

たかだか半日にも満たない護衛のために、今後ケルシーに従うのは釣り合っていないとアリゾナは思った。

 

だが実際は、アリゾナが考えていたよりもずっとアリゾナは危険に晒される可能性が高かったのだ。

 

最後だって、ケルシーがいなければ──エールは当然のこと、最悪アリゾナまで消されていた可能性だってある。貴族に相対するリスクは、取引に十分に釣り合っていた。そしてケルシーは約束を果たした。

 

「……ごめんな、アリス」

 

──怖かったのだ。

 

だから──。

 

「さよなら。ありがとう──元気で」

 

別れを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















サルゴン行きはこちらです、と大声を張り上げるフェリーンを横目にして、アリゾナは湧き上がる高揚感や、未知の場所への期待に心を躍らせていた。

パスポートの準備、水筒、あとお昼ご飯はもう買ったし……まあとにかく良し。ヨシ!

日は高い。背負ったリュックの重さもちょうどいい。右手に掴んだユーロジーは、もうどこかに置いて行ったりはしない。絶対肌身離さず持ち歩く。学んだ教訓は多い。

空は青い。

いい天気だ。

「サルゴン行き、間も無く発車します! 搭乗する方は速やかに搭乗手続きを済ませてください!」

サルゴン、リターニアなどさまざまな国名が当たりを飛び交っている。ここは越境バスターミナル。

各国へ通じる長距離バスのターミナルだ。

この場所から発車したバスは都市を出て、荒野を何日もかけて横断する。

「……遅いわね! 何してるのかしら、もうバス出ちゃうじゃない……」

と、流石に焦りだしたアリゾナに近づいてくるヴァルポの青年が一人。

「悪い、待たせた」
「待ったわよ! 何してたの、もう!」
「すまない。パスポートを受け取ったのがついさっきなんだ」
「……もう!」

──当然パスポートは偽造である。ヴィクトリアに戸籍も持ってないエールがパスポートなんぞ作れるはずもない。金とコネ、スラムは意外と何でもできる。アリゾナには言わないが。

「すぐに手続きして。そっちよ!」
「すぐやるよ」

アリゾナと同じように、旅人のリュックを背負った青年はバスの扉の横にいた係員に声をかけた。

「やあ、手続きをしてくれる?」
「パスポートを拝見します。えーっと……エール・ロジスタ様ですね。確認しました、荷物は各自保管になります。盗難等の責任は全て負いませんのでお気をつけください」

バインダーに書き込んだ青年は、最後とばかりに声を張り上げた。

「サルゴン行き、受付を終了します! 間も無く出発します────」

アリゾナはエールの手を取って、すぐに歩きだした。

「さあ行くわよ──アリーヤ!」
「ああ。っていうか力強い、引っ張らなくても歩くよ……」

二人で。









『何を勘違いしている。君の後遺症では、私の期待していた役割を果たすには不安が残る』

──と、完全に別れる覚悟を決めていたエールは足元を掬われた。

『ロドスは各国を渡る調査オペレーターも数が多い。君はグレース・アリゾナと共に各国を渡り、情勢をロドスに報告しろ。ロドスへの加入手続きはこちらで全て済ませておく』

……涼しい顔で言われた。

それが単純な理性的な判断だったのか、それともケルシーの優しさだったのか。

まあ少なくとも、エールにははっきりしていたように思える。最後の逃げる手段が断たれたとも言う。

そんなわけだった。

──激しい風が肌を撫でる。

荒野の日差しが肌を焼く。

「……すごいな。どこまで行っても、ずっとこんな景色が続いているのか」
「到着までは四日かかるものね」

その長い時間をバスの中で過ごす性質上、バスはかなり巨大化していて、屋上に出ることができたりする。柵に腕を置いて、エールはほとんど初めて見る荒野の景色を眺めていた。

「……ねぇ、アリーヤ」
「うん?」
「……私ね、子供の頃……あなたのことが好きだったの」
「……うん。僕も、アリスのことが好きだったよ」

流れる風の中で、やけにあっさりとした会話があった。

「──約束、まだ覚えているかしら」

悔やむように、懐かしむように。

「ああ。ずっと覚えていたよ」
「あの約束、やっぱり無しにしましょう」

不相応なものだったので、間違いは正さなければ。

「……ああ。いいよ」

さまざまなことを間違って、失って、失った分を取り返そうとするように殺してきた。

「──代わりに、新しい約束をしましょう!」
「え……どんな、約束?」
「私はもう逃げないと決めたの。私も戦いたい。あなたと一緒に──だから」

騙して利用して、生き延びてきたことに──別に、特別大切な意味など最初からないのだと分かっていた。

けど。

「私と一緒に、この世界を生きて欲しいの」

少年も少女も、やがて成長し──大人になる時が来る。

「残酷で、辛いこととかがたくさんある。けど──私は、あなたと一緒に生きていきたい。……本当は、あなたの方から言って欲しかったんだけど……けどアリーヤ、絶対自分からなんて言ってくれないもの。仕方ないわよね」

事ここに至ってなお、エールは他人を恐れているのだ。

けれど、教えてもらったことを覚えているから。

「さあ、答えを聞かせて」
「……僕は、……僕も」

手を取り合おう。

血で汚れた手でも、それでも手を握ろう。

「……今を、受け入れて……君と生きていきたい。アリス──いや……アリゾナ」
「ちょっと、それって私の家の名前であって、別に私の名前はグレースなのよ? どうしてアリゾナなのよ」
「お嬢様にはアリゾナで十分だ」
「もう! レディーには優しい言葉遣いをしなさいよ、アリーヤ……いえ、エール!」
「優しくすると付け上がるタイプだろう。それに僕もむずむずして気分が悪い。これくらいが丁度いいね」
「このすったかたん、そんなこと言ってると、あなたの分のお昼ご飯に激辛ソース混ぜるわよ!」
「ご自由に。僕は平気だ」
「もう──!」

この荒野には何もない。植物もないし、オアシスもなさそうだ。

命の気配がない。

それはつまり、喜びや悲しみ──憎しみや痛みすら存在しない。

ひとしきり騒いだあと、アリゾナは気になっていたことを聞いた。

「そういえばあなたの本当の名前って何ていうの?」
「ああ、話したことないか。親から名付けられた名前は、アルカーチス……という」
「……変な名前ね?」
「そうだな。だが……エールでいい。どうせ名前なんて記号さ。エールの方が慣れてる」
「そうなのね。じゃあエール・ロジスタの下の姓は? あなたが考えたの?」
「……いいや。ヤツの姓だよ」
「ヤツ?」
「どうでもいい話だよ。ただの……親父だ」

──パスポートに刻まれた名前。どうせ偽造だが、このまま使い倒すのも悪くない。

「……そう。──ところでエール、サルゴンってどんな場所なのかしら!」
「お前な……調べてないの?」
「こういうのって、調べないで行った方がワクワクするじゃない」
「お前が杖を盗まれた理由がよく分かったよ……。いいか、向こうに着いたら絶対に逸れるなよ。面倒ごとは勘弁だ」

面倒くさそうな顔で文句を垂れるエールに、それでもアリゾナは──。

エールの手を取って、笑った。

「手。繋いでおけば、逸れないわよ?」
「……お前って、実は馬鹿だな」
「あなたに言われたらおしまいよ。──あれ、エール……笑ってるとこ、初めて見たわ。ちょっとよく見せて?」
「あ? 笑ってねえよ。顔近い、離れろ──」

生きていこう。

一人で抱えきれない過去なら、二人で分け合って。

──空は高く、暖かな日差し。

風が誰しもに吹いて、髪を揺らした。





《ブリーズIF:光の中に_Promise goes on》

《了》








作者後書き+IFルート後日談をnoteにて販売中。気になる方は是非とも。

https://note.com/nyancopan/n/nd983bcf59f20

次からようやく第三章です。気長にお待ちください。

「こういう結末でいいでしょう?」

  • そうかもしれない。
  • 本当にこれで良かったのか?
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