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……青年は、背中に槍を背負っていた。
武器の携帯は認められているにしても、街中で堂々とそれを背負って歩けるのは軍服という免罪符があるからで、そうでなければ
青年は一人だった。
これは自分のごく個人的な事情であることを理解していたからだ。
青年は若く、また怒りに支配されていた。それは吹き荒れる嵐のような激情ではなく、地面から煮えたぎるような静かで根強い怒りであった。
「一人で行く気か?」
道すがら、昨日の売人が声をかけて来た。
──住む場所によって豊かさは異なる。貧乏人と金持ちは同じ地域には住まないからだ。ドラッグが犯罪の象徴ならば、同時に貧困を示す。
不思議なもので、貧困──このような、瓦礫の片づけられていないような場所に住む人々はオレンジなどには手を出さない。取引場所として都合がいいので売人の数は多いが、道端に座り込んでラリっているバカなどいない。
それが逆に、どうにも不気味だった。
安っぽいブリキの看板が立ち並ぶ屋台飲食店や、割れた窓をそのままにしている雑貨店など──荒れ果て切っていない、人の気配が充満している。
「せめて一目だけでも、妹に会いたい」
「……聞け。クルビア系のデカいギャング組織が妙なパーティーを行うらしい。大々的な喧伝を行ってる──」
「パーティー?」
「ああ。しがない売人の俺のところにまで触れ回ってきたんだから、相当な気合の入れようだ」
「なんだよ、それ?」
「大抵はこういうのは、ギャング同士の同盟や、協力を示すために行われるものだが──今回は、どうも違いそうだ。謳い文句がまた妙で──エールが現れるらしい」
「は?」
そう言う売人自身も、あまり釈然としない様子だ。裏社会のチンケなギャング程度にエールが現れるのか? だとしたらどうして?
「急な話でな──。話自体は、前から進んでいたようだ。おそらくアルゴン裏社会の有力者のほとんどが招待されるという話だから、相当な規模になる」
「どうして俺に、その話を?」
「……あんたの妹も、そこに現れるかもしれないからだ」
「本当か!?」
「ああ。通例では、そういう場所にはお抱えの女もアクセサリー代わりに連れてくる連中が多い。趣味の悪いスーツ着た連中と胸元の開いた喋る
「どこで行われるんだ!?」
「焦るな。そういうのは基本的に招待制だ、
レオーネでの標準的な、最も実用的な軍服を着ているということは、戦闘を想定していること。防刃で軽量、動きやすい。長袖なので暑くてしょうがない。
つまり、オフの日にそれを選んだ理由ははっきりし過ぎている。戦闘になることを想定したのだ。
「……場所は、ここからそう遠くない。正午からだそうで、一帯を貸し切って行うらしい。誰でも入れる一般エリアと、招待された連中しか行けない場所がある」
「そもそもどうして、そんなことを? 大洪水直前なのに──」
「知るか。だが──俺の感じる限り、ギャング連中は相当に頭に来てるらしい。リン家崩壊からこっち、あのエールに叩き潰されたり、かなり押さえつけられてきていたみたいだからな」
「エールさんが?」
青年は軽く眉を顰める──噂程度なら耳にしたことはある。あの人が普段どんなことをしているのかは、案外謎だったりするのだ。
まあ、言われてみれば──そう驚くことの程でもない気もする。
──あの人くらい強ければ、あらゆる困難は意味を成さないのだろう。
「俺自身の予想だが、これは反撃かもしれない」
「それは──……ギャングがのさぼっているのが手放しになっているのは、今はそんなことをしている余裕がないからだって聞いたことがある」
「そうなのか? まあそうかもしれないが──連中にとっては、別に戦争なんてどうでもいいことさ。移民連中にとっちゃ、エクソリアは祖国でもなんでもないんだ。絞れるだけ絞って、最悪の事態になればこの街からはおさらばだろうさ」
売人の口調からも、そんなギャングたちへの苛立ちは見てとれた。生活のためにギャングとの繋がりを得ているが、決して本意ではない。そもそも余所者が出張ってきて、従来の微妙なバランスで成り立っていた麻薬ビジネスを無理やり拡大させたせいで胸糞悪いことが起きている。ちょうど、青年の妹のことのような。
「俺はエールも、ギャング連中も嫌いだ。あいつらが潰しあってくれるのなら、俺は歓迎する」
肌の色や、エールの話す共通語の微かな訛り──それらは全て、エールがこの地に根付く血筋を持っていないことを証明している。
誰も彼もがこぞってエールを讃え、希望を託している。
だが所詮エールは余所者だ。過去を語らないエールを手放しで信用できるほど、売人はおめでたくはない。
「あの人のルーツがなんであれ、エールさんが居なければとっくにアルゴンは陥落していたんだぞ……! 守ってもらっている身で──」
そんな売人の言葉に怒りを覚えて、青年は反論するが──
「誰が守ってくれと頼んだ? 誰かがエールに、お願いだから俺たちを率いて北部と戦ってくれと頼んだのか? 情けない話じゃないか。あのグエンですら、全てはエールの存在ありきだ」
淡々と指摘する内容が、鋭くこの国の内情を示す。
「俺はどうにも不気味でならない。これは俺たちエクソリア人の問題で、どうして誰かも知らないヴァルポ一人が先頭に立っているんだ。おかしいとは思わないのか……?」
「……そりゃ、確かにその通りだ。それは認める。だけど──じゃあどうするべきだ? あんたは誰かがエールさんの代わりを務められると思うのか?」
「可能性があるとすれば、グエンの爺さんくらいだろうな。だが俺が言いたいのはそうじゃない。俺が言いたいのは、これは俺たちの戦争で──俺たち自身が責任を持って戦うべきだってことだ。俺の目には、南部はエールに頼り過ぎているように映る」
典型的な
ただ、青年はその発言の真意をうまく理解できなかった。
「何が言いたいんだ、あの人が邪魔だって言いたいのか!?」
「違う、そうじゃない……。レオーネの現状はエール一人に寄りかかってる。それは危険だって言いたいんだ。戦いかなんかであいつが死んだ時、あんたはどうそれに対処する?」
「それは──、けど……」
「誰も彼も、あいつの
──誰も彼もが狂っていると、売人の目からは見えていた。
狂人から見れば、普通の世界は狂っている。
だがその逆、狂った世界から見れば、正気の人間は狂ったように見えるはずだ。それらの物差しが相対的でしかないとするならば、果たして正しいとはどういう状態を指すのだろうか?
「……あんたにこんなこと言ったって仕方ないよな」
薄い笑いを溢した売人に対し、青年は何かを言おうとして言えない。売人の言葉には何かしらの諦めが混ざっていたからだ。
「いいさ、案内してやる。ついてこい」
「おい、ちょっと待てって──」
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ギャング集団のパーティーというのは、強烈な華やかさや豪華さが特徴的だ。暴力一つで生きる必要上、見栄が重要である。
そのため、それはもう──色とりどりの料理やら、大量の酒や、派手な装飾の施された会場が用意されるわけである。
アルゴンのとある通りは、祭りでもあるのかと疑うほどの賑わいを見せていた。
──とあるクルビア系ギャングの男が、構成員を丸ごとアルゴンに引っ張ってきてドラッグビジネスに参入し、瞬く間に拡大。今や実質的な自治区域を獲得するに至っている。その範囲では、ギャングへの
現地の人々にとっては、黒スーツのチンピラ共が土足で乗り込んできて、金をせびって来ただけである。確かにここら一体の犯罪率は低下したが、みかじめ料の高さに辟易していた。
しかし、ある日を境にギャングの横暴が多少おとなしくなり、一体何があったのだろうかと身構えていると──突然パーティーなどをやるから料理やらを大量に作れなどと命令されたり、まあ踏んだり蹴ったりである。
伝統的なエクソリアの高級屋敷──木造建築を活用した、門付きのデカい本拠地を中心としてパーティーは始まっていた。
首からジャラジャラとしたチェーンを下げた人相の悪いループスなどの、普段見かけない
種族やら、クソ暑い中でも黒スーツを脱ごうとしないチンピラが下品な笑いを響かせて煩かった。
会場のスピーカーから全体に流れているどっかの国のロックは知らない言語で何かを歌っていた。その激しい曲調が見せかけの奇妙な高揚感を生み出していた。
「──おい、あれ」
若い女性を何人も側に侍らせた幹部の男が、ニヤニヤしながら指を指す。
「ああ? ……おいおいマジか」
グラスを持ったチンピラたちも、次々にそちらを見ていく──。
──シャツにネクタイを垂らし、儀礼用の服装を身に纏った、白髪のエール。
長い髪もそれなりに纏められており、人混みの中で目を引いていた。特徴的な柔和な笑みを口元に貼り付けて、平然と歩いている。
その場違いとも言える優しげな顔が、この狂騒的な空間にうまくマッチせず、それが逆に妙な威圧感を放っているように感じる。
「……あっちの女と、後ろのヤツは誰だ?」
隣には、灰色の髪をしたザラックの女が歩いていた。女の方も、伝統的なエクソリアのドレスで着飾っている──とても嫌そうに。
目つきが致命的に悪かったし、体型の凹凸に乏しい女ではあったが──顔自体は悪くない。男たちはそんな品定めを終えると、その後ろできょろきょろと辺りを睨みつける、槍を背負った軍服の青年に目を向ける。
「知らねえな。護衛か?」
──その一方で、じろじろと遠慮のない視線に晒されていた青年は心の中で呟いた。どうしてこうなった。
「もっと堂々とするといい。君も、今は招かれた客の一人──妹を探しに来たんだろう。この会場のどこかにいるかも知れない」
平然とエールは言うが、青年の緊張がほぐれることはなかった。会場にはざっと見回すだけでも40人以上の娼婦がいた。そもそも娼婦とはいうが、どっからどう見ても付属品以上の存在ではない。
綺麗に飾り立てられ、大抵は口一つ開かず──人形のように微笑んでいるだけだ。薄っぺらく、またそれゆえに美しい。
その隣には、顔に傷やらタトゥーやら入れてサングラス掛けたりしている典型的なギャングがいるので、青年は女たちを観察するのにも気を使わなければならなかった。
エールは場慣れてしているため──この場合は、こういう視線に慣れている、とでも表現するべきか──平然としているが、青年の方はそうもいかない。
この状況はもしかして、想像していたよりもかなり危ない状況なのではないだろうか──?
妹に会うためには手段を選ばないと意気込んではいたものの、それを押し通せるほど戦闘に秀でているわけではない。
実はさっき、軍服で乗り込んでいく決意を固めている時に、背中から声を掛けられたのである。そこで”せっかくだし一緒に連中を潰しに行こうか”とか言うヴァルポが居たとしたら、明らかに何かがおかしいので関わりは少なくしておくことをお勧めする。
「なぜ私までこんな目に……」
ぼやくスカベンジャー。完全にとばっちりである。
そもそもこんなきっちりしたような服装は苦手──どころか、おそらく人生で初めてドレスなど着た。居心地が悪い──男たちの品定めするような、品のない視線が最悪に不快だ。
おまけに──武器がない。これが最悪だった。
危ないことに関わりたくない売人を入り口の辺りに残して、青年はエールの背中についていく。右腕の袖がひらひらと揺れていた。汗が浮き出てくる暑さなのだが、ジャケットまで着込んでエールは暑くないのだろうか。その素振りは見せない。
近寄り難い何かしらの雰囲気が、エールの進む道を空けていく。
青年は周囲に目を走らせながら着いていくが、少なくとも妹らしき女性は見当たらない。綺麗に着飾った女たちの中に妹が紛れているかもしれない事実が、違和感を残して気持ち悪かった。
「止まれ。武器は持ち込んでねぇだろうな」
数人ほどのギャングが立ち塞がって、じろりとエールを睨むが──
「パーティーの礼儀は知ってるさ。仲良くしようよ」
「どの口で……」
軽く手を挙げて、武器を持って来ていないことを示唆した。そもそもエールのアーツ能力を考えれば、ボディチェックなど特に意味もない。
「そっちの槍は置いてけや」
青年が背負った槍を指してギャングは睨んだ。それには大人しく従うことにする。
「……そっちの女、見覚えがあるぞ。この前来てやがった女だな? なんのつもりだ!」
「どこかに暗殺者が潜んでるかもしれないと、君たちも安心できないだろう? それに暇そうだったし」
「てめぇ──」
睨み合いの横で、相変わらず本当に嫌そうな顔をするスカベンジャー。意外と似合っていた。
「通るよ。招待したのは君たちなんだ」
そこいらのチンピラとエールでは、どうにも釣り合いが取れていないように青年は感じた。
結局、エールが飄々として横切っていくのを黙って見送る他ない。力の限り睨みつけていたのは、おそらく負け惜しみだろう。
そして奥には仰々しい階段と、その上に王座などがあって──そこに得意げに座る、このギャングのボスが座って、エールを見下ろしていた。
門の内側は、外の喧騒からは隔離されている錯覚を覚えるほど奇妙な静寂さがある。
幹部たちが並んでいると、大柄な体や顔つきから威圧感が放たれている。たかがギャングと馬鹿にはできない。不用意な言葉一つで首を飛ばされるのではないかと、少し怖くなる。
エールはそんな彼らを見上げて、まるで緊張感などないように言い放った。
「こんにちは。まさか招かれるとは思わなかったよ、何かいいことでもあったかな?」
「ふっ……調子はどうだ?」
「多分、悪くないかな。ところで、うちのアホが君たちに保護されたとか聞いたけど」
「──……連れてこい」
背後の手下たちに指示を出すと、奥の扉から人影が現れる。
綺麗な長い金髪と、悪戯げな瞳。片手には黒いアーツロッド、もう片方に──なんかチキン持ってる。
ぱちりと瞬きを一つすると、周囲の状況や、下から見上げているエールを交互に見たりして、呆れたように言った。
「……ごめんなさい、捕まっちゃったわ」
一周回って、ブリーズは何かに呆れたように謝った。
往診に向かう途中であっさりと拉致されたのである。ユーロジーを手放していなかったのは、せめてもの意地と呼べるのかもしれない。
ブリーズとて、修羅場はある程度は慣れていた。ロンディニウムを離れてからは紛争地帯を巡る旅医者だったので、危険な目に遭ったことも一度や二度ではない。焦ったり慌てたりすることにも慣れてしまったので、それなら開き直って堂々としていた方が物事はうまく行く──とは、ブリーズの経験則である。
──片手に食べかけの骨付きのチキンを持っているのだけが、最悪にシュールだった。それはそのままブリーズの待遇を示していた。エールの女だと見られていたブリーズに下手に手を出せば、エールは何をするのか分からない。
だが、ギャングたちにとってはブリーズはただの口実に過ぎない。
「……はぁ。どいつもこいつも、直接僕のところに来た方がお互いに手間も省けるだろうに。どうしてギャングって連中はこうも懲りないのかな」
「一つ取引をしよう。お互いの益になることだ──公式に我々の存在を認めろ。そうすれば我々はより多くのオレンジを生産出来る。我々は協力し合い、多くの富を得ることが出来る。そうだろう?」
「えーっと……つまり何、薬物規制を取っ払えって言ってるの」
「金が必要なのはお互い様だろう? 締め付けは結構だが、本当にお互いのためになることをしようじゃないかという話だ。くだらない正義感などとうに捨てた身だろう。違うか?」
「ふーん……アガリは何割?」
「4割。これが我々の最大限の譲歩と受け取って欲しい」
突然始まった交渉もさる事ながら、青年にとってはエールがまともに受け答えしているのが衝撃的だった。綺麗事だけで組織は回らないが、こうも直接的な場面を見せられると──。
ボスの方はエールを見下ろし、エールは薄い笑みで見上げる。身じろぎさえも憚られるような緊張が走っていて、唐突にエールが口を開く。
「一つ条件を出そう。それを呑むのなら、その条件を認めても構わないかな」
「条件次第だな」
「難しい事じゃない。……君、さっきの妹の写真はあるかな」
急に水を向けられた青年は戸惑いながら答えた。
「え? あ、ありますけど……」
「少し貸してくれるか?」
「あ、はい──けど、何に」
笑顔の妹が映る小さな写真を手渡すと、エールの掌からふわりと写真が風に靡いて宙を舞った。それはそのまま不規則な軌道を描き、階段の上まで吹かれていく。
そして、元ある場所に収まるような自然さでボスの手元にゆっくりと落ちていった。
「その写真の子を探して欲しい」
──突拍子もないエールの言葉に思わず目を見開く。今、なんと言った?
「──名前は?」
「リィ、と言うそうだ」
「一時間待て。すぐに探し出す。ふむ、では──この喜ばしい出来事に祝杯を」
乾杯。
「……何を企んでいるの?」
「うん?」
騒がしいギャングパーティーの中でのエールとブリーズの会話だ。
人質というよりは、完全に出汁に使われたブリーズだが──あまりの手際の良さに何かを勘繰ってしまっても仕方ないだろう。
ちびちびとシャンパンに口を付けているエールは、ブリーズの目から見て怪しさ満点である。
「もしかして、知ってたのかしら」
「何を?」
「……何でもないわ。どうせ話すつもりもないんでしょう」
「もしかして拗ねてる?」
「そんな訳ないでしょう。別に、同僚になんて言い訳しようか悩んでいるだけよ」
「おや──それは重要な問題だな」
「他人事だと思って気楽なものね……」
気障ったらしい儀礼服でも着こなすエールをじとりと睨み付けてみるがどこ吹く風だ。腹いせにシャンパンを飲み干した。
立食形式の騒々しいパーティーであり、ギャングが主催しているとはいえ、なかなか侮れるものではなかったのは確かだ。
ヴィクトリア貴族の出身であるブリーズからしてみれば、これはあまりにも騒がしく品のない騒ぎではあった。そもそもギャングのようなならず者たちが一丁前に気取ってパーティーなんてしている事実が気に食わない。礼儀のれの字も知らない癖に。
そしてその怒りの矛先はエールにも向けられていた。
「そう眉を寄せない方がいい。君にはあまり似合わない」
「……からかってるなら本気で怒るわよ」
「まさか。君は悪戯っぽく笑っていた方が可愛い」
「か、かわ……っ!? ちょっと、いい加減にしなさい! あなたこそ、その薄笑いがよくお似合いね!」
「あれ──”これ”じゃなかった?」
「それはよそ行き用じゃない。私にはしなくていいわ」
「……なるほど?」
──その一つ一つ確かめていくような、奇妙な言葉が何を意味しているのか。手探りで何かを試しているエールが、何を探しているのか──。
ブリーズはもう知っている。
「ところでだが、君はまだ帰らないのか?」
「……ひっぱたくわよ」
ギャングとの交渉の出汁にいいように使われたブリーズにとって、今の言葉は”もう帰ってもいいよ”としか聞こえなかった。
豪勢な食事も酒もあるのだ、どうして帰らなければならない。
「いいじゃない。このくらいは許して欲しいわね」
ぐい、と。細長いグラスに注がれたシャンパンを、一口でブリーズは飲み干した。いつもは品のあるブリーズには似合わない一気飲みだが、不思議と様になっていた。おそらくは、やけくそだからだろう。
一応人質として誘拐されていて、その上でその誘拐犯が主宰するパーティーを堂々と楽しんでいた。
そういうところで、ブリーズは図太かった。
「あの、エールさん!」
──しばらく呆然としていた青年だが、いつまでも壁の草になっているわけにはいかなかった。
「──どうかした?」
ともすればそれは平常すぎるが故に異常だった。エールの声色はあまりにも普通すぎて、穏やか過ぎる。いっそ不気味なほどだ。
「……俺を、助けてくれたんですか」
「君の妹のことかな」
「そうです、あんなの──おかしくないですか、重要そうな話だったのに」
「大した問題じゃないさ」
「俺の口から言えることじゃないかもしれないですが、さっきみたいな場面ならもっとふさわしい、重要なことがあったんじゃないですか。俺は──」
と、その先の言葉をエールは遮った。
「君にとって──」
相変わらずの薄い笑みと、冷たく透き通った瞳を向けて。
「重要なのはどっちだ? 妹か、それともレオーネか?」
まるでその価値を見定めるような発言に、思わず息を呑んだ。
「教えてくれないか?」
──青年にとって、真正面から答えるには難しい言葉だった。二つの動機は複雑に絡まっていて、どちらを優先するべきかと問われても答えに困る。
「……俺にとっては、家族が一番大切です。けど一人で家族全員を守ることは、俺には出来ません。だからレオーネに入りました。家族に金を送ることが出来るし、南部全体のために戦うことが、家族を守ることに繋がります」
「なるほど。じゃあもう一つ──仮に、その家族に裏切られたとしたらどうする?」
青年は知らないことだが、妹がドラッグに使い込んだ金は、青年がレオーネに入ったことで家族に給付された支援金だ。そういう意味で言うなら、裏切りはあったと言える。
だがそれを知るよしもない青年は、またも返答に困ってしまった。
「そのあたりにしておきなさい、アリーヤ。困ってるじゃない」
「む……結構僕は真剣なんだだが」
「そういうのは、冗談程度に茶化して聞いた方がいいわ。……まったく、あんまりこのお馬鹿さんの話を聞かない方がいいのよ。大怪我しちゃうから」
そんな風にエールを叱るブリーズを眺めながら、青年は助かったと感じていた。
そんなことを考えたくなかったのもそうであるが、自分の本質が見抜かれる気がしたからである。
最も、青年の本質は決して悪などではないし、青年もそれは知っている。だが──その上で、エールの中の何かが恐ろしかった。
「お、俺──そうだ、入り口に待たせてる人が居たんで、そっちに戻ります!」
「ん? ああ……居心地は悪いだろうが、じき君の妹も見つかるだろう」
「はい、本当にありがとうございます。それじゃ──」
逃げるようにその場を後にした青年を見送った。
「っていうか、一応ここってギャングの根城よね? どうしてそんな気を抜いているの?」
「お互い様だけどね」
「私はいいのよ。いざとなったらあなたがいるし。でもアリーヤ、あなたは結構恨みとか持たれているんじゃないのかしら」
「利害関係に比べれば大したものじゃないな」
「さっきの彼を助けたのはどうして?」
質問を繋げた。
「彼には悪いが、ついでだよ。別に条件なんてなんでも良かったんだから」
「……さっきまであなたの横にいた、あの女の人──あなたがスカベンジャーって呼んでいた、あの人はどこへ行ったの?」
また質問を続けた。エールはつらつらと答えた。
「さあ? 彼女、こういうの嫌いだし……帰ったんじゃないかな?」
──ここはギャングの根城であり、大量の構成員がいる。
このパーティー会場にエールを野放しにしておくのは、こんな状況の中でエールが何かするはずがないという考えに基づくものである。そうでなければとっくに殺し合っている。
「さっきの、あのヒゲが長いボスの人との取引。あれってどういう意味なのかしら」
「国家の暗闇っていうのはどう対策しようと必ず生まれるものなんだ。強盗、暴力、強姦、詐欺、薬物──こんな国じゃ特にね。だからそれらを防止するのではなく、ある程度は許容したほうが色々と都合がいい。国内の安定にリソースを注いでいては手遅れになるから。それは理解できる?」
「ええ。納得はしないけれど」
「うん。それで戦争なんてものはとにかく金がかかるみたいでね、巻き上げられるところから巻き上げていたんだ。元々この国に存在していた伝統的な麻薬カルテルとか、そういうところを片っ端から締め上げたりしてね。だが移民が流入してくるにつれ、こういうギャングまで外から入ってきたんだ。例えばシラクーザ系ギャングは、流石に本場から来ただけはあって、一筋縄じゃいかなかったから、なかなか苦労したよ」
──その全てが過去形で語られているところを見るに、もうとっくに終わった話ではあったのだろう。手段はともかくとして。
「で、こういうアウトサイダーな連中は、力を付けるとむしろある程度治安を安定させる。だが大きくなり過ぎるとそれはそれで面倒なことになる。だから適度に絞るのが一番いい」
「……収賄ってこと?」
「どうしてそうなる。いわば、彼らへの納税だよ」
まあつまり、政府による薬物規制が甘くなれば彼らの得られる金も増えて、その分レオーネに入ってくる金も増えるというわけである。ギャングのボスが提案したのはそういうことで、政府への直接的な影響力を持つエールへの”交渉”であった、という訳だ。
「……やっぱり企んでいたじゃない」
そしてレオーネに入ってくる”税金”の元を辿れば、南部に住む人々に行き着く。
それは見る人から見れば、十分な悪と呼べるのかもしれないが。
「たくさん質問されたんだ、僕からも一つ聞くよ。さっきの、彼にした質問──家族……いや、仲間と言い換えようか。そういう大切な人たちから裏切られたら、どうする?」
「えーっと、そうね……まずは理由が知りたいわね。どうして裏切ったのか……もしかしたら、原因は自分にあるかもしれないし、何か事情があってそうしたのかもしれない」
──まあ、エールがこの質問をする理由を聞かないあたりにブリーズの気遣いがあった。
「けど、どんな複雑な事情があったとしても──私はその人を許せないと思うわ」
ブリーズも、故郷であるドルンから、ここエクソリアの首都アルゴンに辿り着くまでに多くの経験をしてきた。その中で、騙されたり裏切られたりしたこともあった。
例えばそれは、ブリーズの持ち物の中に高価なものがあると勘違いされて、騙し取られそうになったことや、ユーロジーを狙った強盗未遂、あるいはブリーズ自身を狙ったものもあった。
だがそれら全てに対し、ブリーズはいちいち憎しみを募らせたり、あるいは人間不信に陥るようなことはなかった。許すこともした。
──だからこそ、それは奇妙な矛盾である。
「それは何故?」
「大切な人だからかしらね。絵の具に黒色を一つ垂らすと、もう元には戻らないでしょう? 人との繋がりって、とても繊細なものよ。大切な人なら尚更。それが尊いものであればあるほど、黒く濁ると──暗くて醜くなってしまう」
絆は脆い。ゆえに尊い。
裏切りで関係が途切れてしまうならまだマシな方だ。だがそれで終わらないのなら、裏切られた悲しみや苦しみは、黒い感情へと変わることもある。
「一種の呪いのようなものね。失った関係に縛られるの。あなたはまさにそうよね──複雑に絡み合ったロープでぐるぐる巻きにされてるみたい」
意地悪な顔をするブリーズ。その口元には、どこか諦めも混ざっている。
「裏切りは、裏切られた人の心に傷痕を残すわ。どんな背景があっても、誰かの心を裏切ったことに変わりはないの。信用への裏切りは損得で換算できるけれど、信頼はそうはいかないでしょう? 拭い切れない黒色を心に落とすことを、裏切りと呼ぶの。だから──」
苦しむことに疲れた顔で、ブリーズは祈るように呟いた。
「あなたもどうか、私を許さなくていいのよ」
そう言われて、エールは困ったように苦笑いした。ブリーズもふっ、と息を吐いて首を振る。
「……仕方ないわよね。あなたの方は、もう忘れているのに。嫌な思い出を忘れた人に、思い出せなんて心ない言葉よね。分かってるわよ、けど……」
諦めを確かめるようにして、ブリーズは続けた。
「……私の名前、まだ覚えてる?」
──消えてしまいそうな、儚いブリーズの笑顔は、どうしようもない現実に対する気持ちの裏返しだった。
何より残酷なこと。
それは最初からなかったことになること。
エールは返す言葉を持たなかった。実はきちんと
「どうしてかしらね。苦しいだけだった幼い頃のことも、大人になったと勘違いしていた頃のことも……どれもこれも、忘れたいほど苦しかったのに」
──ロンディニウムで生きていたチンピラ紛いの青年に恋をしたことなど、きっと誰も知らないのだろう。もう忘れてしまったのだろう。
「いざ忘れられると──……寂しくて、悲しくなることなんて、知らなかったわ」
結局、その儚い恋は一つの事実によってぐちゃぐちゃに砕け散った。幼い頃に傷つけた少年に、都合よくまた恋をして、何も知らないまま助けられるだけ助けられて、何一つとして恩返しもできないまま──少しずつ、忘れられていく。
その絶望たるや──
「……ブリーズ、私の名前よ。思い出したかしら?」
残酷な現実に抗うように、忘れっぽい青年に過去を教える。何度忘れても、何度でも思い出させる。その行動が何より残酷なことだと理解しながらも。
「ブリーズ……あんまりしっくりこないな」
──首を傾げるエール、言葉が口に馴染んでいないようだ。
「当たり前よ。だって、あなたが私のことをブリーズと呼んだことなんて、一度もないものね。グレース・アリゾナ、こっちが私の本名。好きな方で呼んでちょうだい」
「……なら、アリゾナ。そう呼ぶことにする」
そんなエールの言葉に一々救われる。そっちの方を選んでくれたことにほっとする。
──ずきり。
頭蓋に響く、鈍い痛みがエールを襲う。思わず額を抑える。
知らない誰かが話しているような気がする。思い出せない過去を思い出すような気がする。
「大丈夫? 無理して思い出さなくていいわ。あなたの場合、失った記憶を無理に思い出そうとすると神経に影響が出るみたいなの。無理して思い出さない方がいいわ」
──ああ。
そう言いながらも、エールが自分の名前に反応して過去を思い出そうとしている、その事実が──
どうしようもなく、嬉しいのだ。
「大丈夫よ。あなたが忘れても、私が覚えているから」
ああ、歪んでいる。きっと嬉しそうな顔をしている自分に、ほとほと呆れ返りながら。
エールは頭痛に顔を顰める。前髪に隠れたエールの瞳が、ぼんやりとブリーズを捉える。
なんて甘美な、私だけの居場所なのだろう。
救えないほど歪な愛の形で、ブリーズは今をただ謳歌した。