「何も思い出せないんだ」
そいつは確かに言った。
困り顔だった。普通、自分の過去も思い出せないのでは多少の恐怖などがあって然るべきだ。だがなかった。ただ──それはまるで、こちらに申し訳なさそうな顔をしていた。
それは、自分のことを顧みるのではなく──面倒なことに付き合わせてしまって、申し訳ない。そう言っているような、困ったような苦笑いだった。
「どうしてこんな場所で寝ていたんだ?」
「分からない。ところで、君は?」
──。
名乗っていいのか、少し怖かった。
引け目にも似た躊躇、だが……踏みとどまることをしたことは、これまでに一度もないのだ。
「あたしはエフイーター」
だから、ロドスの一員としての名前を、そう名乗った。
「人を探しに来たんだ」
9/4 羅刹と大木
「おい、ふらふらしてると逸れちゃうぞ〜!」
「……あ、ごめん。つい」
「お腹減ったでしょ、その辺で何か食べるぞ〜」
「うん」
言われるがまま後ろを歩いていく白髪の青年。薄ぼんやりとした、独特の気配が特徴的だった。何かを考えているのか、あるいはただぼーっと周囲を物珍しげに眺めては立ち尽くしている。
「何があんだろここ。うーん、食べたいものあるか?」
「え。……分からない。なんでもいいと思う」
どんな会話も暖簾に腕押しというか、青年は目覚めてこっちずっとこんな調子である。まるで人形と話しているようだった。肩を落として溜息をつく。
「あ、エフイーター」
──穏やかというよりは、ぽわぽわした呑気な声で、自分の名前を呼ぶ声は。
「あれ見てよ、何かやってるみたい」
「……何か、って……ただの食べ物屋台だろ?」
「何かな、あれ」
まるで子供だ。好奇心の向くまま──というよりは、磁石か何かで引き寄せられているような、そういう感触。青年はふらふらとそちらへ歩いていった。
「来てみてよ。いい匂いがする」
優しい声がする。それは意識的に他人を気遣ったり、許容したりする種類のものではなく、それはただ楽しんでいるような声だ。屈託のない笑った口元は、確かに同一人物ではない。そんな笑い方は、きっと出来ないはず。
だから、その声を聞くたびに──。
「……しょーがねーなー!」
……。
いや、ちょっと甘くない?
8/5 羅刹と大木
婚姻とは、当然──人生の一大事である。
それをすっぽかそうというバカがこの国に存在することなど、ハンナムは夢にも思っていなかったのである。
ハンナムはロゥ家に仕える使用人たちのうちの一人で、先祖代々それを家業としている。ここのところ続いていた動乱のために、父が死んでしまい、それまで父が担ってきた仕事は必然的にハンナムに移動する。
使用人見習いであったハンナムは、本当に苦労しながら仕事をしていた。
──二週間ほど前から、ハンナムは一つの仕事を任されていた。
婚姻祭の準備である。
エールとロゥ家の令嬢メリィの婚約が発表されたのは同時期で、世間は大いに湧いていた。
婚姻祭というのは貴族同士が結婚するとき、それを祝うために行うものだ。貴族支配を歓迎するはずもない人々は嫌々ながら参加していたが、今回ばかりは話が別である。何せ救国の英雄エールが結婚するというのだから。
国全体がそんなムードで、ハンナムはその重大な仕事に対して責任感と充実感を持って行動していた。それほど難しいわけではなかったのだ。各所への連絡や行事の進行準備、やることは基本的に予定のすり合わせだけである。簡単ではなかったが、難しいわけではない。同僚たちも手伝ってくれているし、予定通りの進行が見込まれる──はずだった。
ところが。
「──連絡がつかない!?」
「そうなんだよ、レオーネの事務に問い合わせてみたんだが、さっぱりで……」
「そんな……それじゃあ、衣装合わせとかリハーサルとか、どうすれば……」
「話を聞いてきたんだが、あの人に連絡をつけるのは簡単じゃないって……」
──主役であるエールが見つからないのである。
婚姻祭の約一ヶ月前のことであった。
「スケジュールはこれ以上切り下げられないぞ!? 一体これからどうすればいいっていうんだ!?」
「それともう一つ悪いニュースだ。メリィ様の機嫌がここんところ最悪で、全く話を聞いてくれない」
「……なんでだ?」
「聞いた話だが、メリィ様は勝手に婚約を決められたってんで怒り心頭らしい。絶対に結婚なんてしないと言い張って動こうとしないって。当然俺らも門前払いだ」
紙束に塗れた部屋の中、熱気が充満していた。おそらく状況の悪化に伴って頭がスーッと冷えていったのは幸いだった。涼しくなってよかった。
「……じゃあ今まで進めてきた準備はどうなるんだ?」
沈黙。同僚は乾いた顔をしていた。
「……これが失敗したら、どうなると思う?」
同僚の方は、そっと親指で首を横一線に切った。
首切り、である。もしかしたら比喩じゃないかもしれない。多分そうだ。
「上に報告して、なんとかメリィ様を説得してもらわないと……」
言いづらそうに同僚が口を開いた。
「……それなんだが、ロゥ様直々の命令が来てる。俺たちマネージャーに、孫娘を説得しろ──だってさ……」
「はあああ!? な、なんで俺たちが!? そんなことできる訳ないだろ!?」
「俺もそう言ったよ。けど……なんとかしろ、の一点張りで……」
「じゃ、じゃあ……残り一ヶ月で、このギリギリのスケジュールの中……各方面への指示出しと、どこに消えたかも分からないエールさんへの連絡と、あの気難しいメリィ様を説得しろ、って……?」
「……そういうことになるな」
ハンナムは崖っぷちに立たされているような錯覚を覚えた。底なしの谷の底へ片足を踏み出しているようだった。
「そんな……そもそも結婚の話くらい、メリィ様に通ってるから婚姻祭を開くって話じゃなかったのかよ……。そんな状況で、もしかしたら開けないかもしれないような状況で……婚姻祭を開け、って命令してきていたのか……?」
到底正気とは思えなかった。貴族の考えは理解できない。この結果次第ではハンナムは首を切られる。交通事故のようなものだった。
「どうしたらいいんだ……」
ハンナムは頭を抱えた。どうしたらいいのか全く検討も付かなかった。
「俺にいいアイデアがある」
ハンナムはハッとして顔を上げた。
「まずなんとかしてエールさんを探し出すんだ。そして、エールさんにメリィ様への説得を頼めばいい。俺たちから言うよりも、あの人から言ってもらったほうが絶対に効果的なはずだ」
天啓だと思った。
「……それだ、いや……それ以外にない。なら、一刻も早くエールさんに連絡をつけるのが最優先だ、今すぐやろう」
ハンナムは席を立った。やるべきことが定まれば、ハンナムは一直線に行動を起こすことができる。そういう性格だった。
ただ、出口に差し掛かった時、一つの疑問を口にした。
「……でもどうして、こんなに婚姻祭を急いでいるんだろうな、ロゥ様は?」
「俺も同感だ。実はさっきロゥ様に報告をしていたとき、そのことを聞いたんだ」
「そしたらなんて返ってきたんだ?」
「よく意味は分からなかったが……一言だけさ」
同僚が口にした言葉は、非常にシンプル。
「”時間がない”──って。深刻な顔で」
9/4 羅刹と大木
「ふぃー……。結構悪くなかったな。どうだった?」
「うん。おいしかった」
にこりとした笑顔を見せる青年と、それにつられて少し微笑むエフイーター。道の上にまで出されているテーブル席は他もいくつか設置されている。
その誰もが、二人の座る席に時折目をやったり、あるいはジロジロと遠慮なく視線を注いでいる。
「それでさ、どうする?」
「? どうするって?」
真正面から、本当に何も分かっていない顔で青年は聞く。
青年は片腕がない。エフイーターは青年が食事を食べにくいんじゃないかと心配したりしていたが、どうやらそれは杞憂だったらしい。もぐもぐ食べていたし、青年もそのことに対しての後ろめたさのようなものを一切持っていなかった。
何もかもを知らなかったのだ。
「お前の名前。思い出せないんだろ?」
「……そういえば、確かに。君はエフイーターって名前があるもんね。僕にもあるのかな?」
他人事のような調子だ。結構深刻な問題だと思うのだが、青年は終始この調子で、何も思い出せないことへの不安や焦りなどまるでない。
「どうするんだ〜? あたしもずっと”お前”じゃやりにくいよ、何か思い出したりしないのか〜?」
「わからない。けど……そうだ! だったら君が考えてくれない?」
「あたしが?」
「なんでもいいんだ。君の呼びたいように呼んでほしい」
「って言われてもなー……。それでいいの?」
「うん。それがいい気がする」
流石にエフイーターは唸った。
熱気のせいか、汗が一筋流れる。一日普通に歩いているだけでも日焼けして真っ赤になりそうな国だ。だが青年の肌は不思議なくらい白かった。あいつもこのぐらいの肌色をしていた。
──ずっと、ある名前が脳裏によぎっている。何度もその名前で呼ぼうとしてやめた。
「……どーすっかなー。なあ、何か好きなものとかあるか?」
「好きなもの? どうして?」
「参考までに、さ」
「……? うん、えーっと、好きなもの……」
うーんうーんと喉を鳴らす青年は、薄ぼんやりとした気配で唸っていた。
「なんかない? 例えばほら、果物──りんごとか、そういうの」
「りんご」
「果物なら、みかんとか」
「みかん」
「……。食べ物以外で、雪とか、休日とか」
「雪とか休日とか」
インコか何かだろうか。
「映画とか、そういうのを見たこともないのか?」
「映画?」
「そうだよ、例えば──カンフー映画とか!」
「カンフー映画」
「ない? 燃えよドラゴンとか、カンフーパンダとか。……、Reriseとか。覚えてない?」
「覚えてない?」
ハッとしてエフイーターは首を振った。口が滑った。
「や、なんでもない。あたし、そういうの好きだから。お前がそういう映画とか見てるんだったら話が合うかなって思っただけさ」
「あ、そうなんだ。ごめん、何にもわからない」
「いいって、仕方ないよな」
一口に記憶喪失とは言っても、その知識まで失われた訳ではない。赤いものは赤いとわかるし、言葉も話せる。まあその辺りはエピソード記憶と密接に結びついているため、不透明な部分は大きい。
「って……今はお前の名前を決めるんだ。りんご、りんごとかで──……。アップルなんて安直だしなー。りんご──炎国語で
うーんうーんと悩むエフイーター。
「……もうあれでいいかなー。似てるし……でも違った時やだなー……。なあ、ブラストってのはどう?」
思い切った提案をした。口では軽い調子だが、エフイーターは注意深く青年の反応を観察する。何かの弾みで思い出すかもしれない。
「ブラスト? それは」
観察中、顔色に変化は──
「嫌だな」
少しだけ、暗くなった。
「なんでだろ。……胸のあたりが、ざわめく気がする」
──その言葉だけで、エフイーターはかなりの情報を読み取った。
一つ。青年はおそらくブラストである。確信とはいかないが、別人ではない。その可能性は低い。
二つ。もしもブラストだとするなら、鉱石病が相当進行している。最後に会った時には、まだ顔に結晶は現れていなかった。
三つ。この青年の風貌には心当たりがある。写真は見たことがないが……白髪でヴァルポ、そして優しげな表情に──片腕の青年。ここまで特徴的な人物は、少なくともこの国ではただ一人と言っていい。”救国の英雄”エールだ。そしてそれがブラストと同一人物となると……なんとなく、見えてくるような事実がある。
四つ。なんらかの要因で記憶を無くしている。青年はアルゴン郊外、国境からアルゴンへと続く道端に倒れていた。何かがあったはずだ。
「……一人で先走ったのは失敗だったなー。大人しく準備が整うの、待ったほうが良かったかも」
思わずそう呟いた。サングラスの向こうから空を見上げる姿に力はない。憎たらしいほどの快晴、それにしては蒸し暑くて汗ばかり滲む。嫌になる。
青年は何の話か分からずにエフイーターを見ている。
「や、こっちの話。はぁ──どーすっかなー。どうしよー……。てかどうなってんのー……?」
椅子に深くもたれて脱力。流石のエフイーターも途方に暮れた。こんなことになっているなど想像もしていなかった。そりゃ、簡単ではないだろうなとは思ったけども。思ったけども……ちょっと、ハード過ぎないか。
「あ、そうだ」
呑気な声で掌を打つ青年。エフイーターはすぐに身を起こして体を乗り出す。何かを思い出したのか?
「音楽は好きだな。今、お店から流れてる音楽──リンキン・パークだ。この曲は、ええっと……なんだったっけ。曲名は思い出せないけど」
……期待して損した。
そういえばエフイーターも聞き覚えがある気がする。たまにブラストが流していたロックバンドの曲だ。確信は強まるが、別にこんな情報は重要ではない。余計力が抜けた。
「もう何でもいいやー……。はぁ、じゃああたしの好きな映画の登場人物で……ラスト。そういうヤツがいるんだ。炎国の裏社会に生きてる一匹狼で、若いヴァルポ族の男。さっきの、Reriseって映画の登場人物。──ラスト、それでいいか? お前の名前」
ごく簡単に頷いた。仮とはいえ名前なのだが、慎重という言葉の意味を知らないらしい。
「うん。ありがと、エフイーター」
「感謝しろよー、全く……。じゃあここ出るか。とりあえずお前の記憶の手がかりを探しに行くぞ、ラスト」
「え?」
「え? じゃないよ、当たり前だろ。……あのなー、見てて心配になるから言うけどな。お前は今、記憶喪失ってヤツなんだよ、帰る場所もわかんないんじゃ、お前は一体どこで寝るつもりだよ?」
「……考えてなかった。でも、手伝ってくれるの?」
一瞬答えに詰まる。それは何を答えるべきなのかではなく、これを伝えていいのかどうかが主な理由だった。エフイーターはそっと誤魔化すことを選ぶ。
「いいっていいって、人助けはあたしの仕事だからね! 記憶が戻るまで、最後まで手伝ってやるよ!」
そしてもしもラストが思い出す時が来たら、その時は──。
……まあ、その時はその時だな。その時が来たら考えるか。最悪の場合はぶん殴って解決しよ。
8/25 人間の唄
怒り心頭通り越すと、逆に頭は冷えていくと言うが、それは間違いである。
──腑が煮え繰り返る。
頭で怒っていたのが、その怒りが腹の方へ移動して──沸返すほどの、ぐつぐつとした恐ろしい怒りに変わるという訳である。
確かに冷静になる。主に、その手段を考えるためである。それ以外のことは最初から視界に入らないようだ。
その姿は古来より人々の恐怖の対象となり、極東ではその様子を、ある怪物の名前を使って形容するそうだ。
曰く、羅刹と。
「……あの、ブリーズ。落ち着いて聞いて欲しいんだけど──」
般若でもいいかもしれない。本質はそう異なるものではない。
「落ち着いているわ。これ以上ないくらい……私は冷静よ」
「その……今朝からずっと、みんなが怖がってるの。率直に言うけど、めっちゃ怖いよ。やっぱり昨日の話が原因……ごめん、聞くだけ無駄だった」
ブリーズが終始笑顔であるため、余計に怖くなった。
「いえ? いいのよ、迷惑掛けているわよね。けどごめんなさい……こればっかりは、自分でどうしようもできないし、そうしようと思えないの」
微笑も極まるともう何か別の種類のものだ。
病院の一角から凄まじいオーラが噴き出ている。このままでは患者にも悪影響を与えかねない。いつもはそう静かと言えない病院も、今日はなぜだか静かだ。なんでだろう。
「……その、患者の前では──」
「心配いらないわ」
よかった。ブリーズも素人じゃない、そのくらいの心構えは備えている。
「今日は、外に用事があるから……患者の前には、出なくても大丈夫なの」
違ったわ。なんにも大丈夫じゃなかった。
「あのお馬鹿さんを……診察しなきゃいけないから」
影の滲んだ笑顔が固定されていて怖かった。
「え? でも……あなたが頼んでた医療品、届いてるよ? 確認しなくていいの?」
「え? そうなの? 早いわね」
「それとグエン院長が呼んでいたけど。なんか引き継ぎ? みたいなことするって。あの人今、統領にいるからそっちまで行かなきゃいけないよ」
「え? あっ、え──統領って……結構遠いわよね……?」
般若の顔が困り顔に変わっていく。ブリーズは本質的には真面目なので、そう自分勝手な意識を保ち続けることができない。紛れもない長所である。
と、般若を遠巻きに眺めていた同僚たちがここぞとばかりに声を出した。
「ブリーズ! 例の患者の処置、どうすればいいんだったか!?」
「ブリーズさん、ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど……」
「ブリーズちゃん、新しい機材の調整を手伝って欲しいんだけど!」
「えっ、あっ、えっと──い、一個ずつやっていくわ、ちょっと待ってて!」
──抜け出せない。
自分勝手な意識で、私情を優先させることなどブリーズにできるはずがなかったのである。自分のことよりも優先して、誰かのために一生懸命働ける。その性質が、ブリーズが好かれている理由なのである。
優秀な医師には暇がない。困っている人を見捨てられないのと、エールを野放しにしておけない状況に板挟みになって、今日もブリーズは忙しかった。
「もうっ! 何もかも、アリーヤのせいよっ! 今度会った時、絶対許さないんだからっ!」
──うーん、まあ僕のせいではないとは思うんだが……まあ、頑張りなよ。
想像の中のアリーヤが、そんな呑気なことを言っていた。ふざけんな!
・ラスト
記憶を失った青年。
一体何者なんだ?
・エフイーター
先走ってエクソリアに来訪したパンダ。かわいい
・ブリーズ
根本的に善人。もしかしたらヤンデレかもしれないが、仕事には勝てなかった。
かわいい
・婚姻祭
設定は適当です。深く考えてはいけない