あと一週間くらいでこの作品が一周年を迎えます。これはその前祝いです。ぜひ楽しんでもらえたら幸いです。
「おはよ」
──気だるい朝の憂鬱は、朝の挨拶で目を覚ますのがいい。
エールが微笑んでいる。優しくほっぺのあたりをとんとんと叩いて、目を開けようともしない堕天使を優しく見守るように、目を覚ますのを待っている。
まだ霞む視界の中、アンブリエルはその視界がぼんやりと脳に染み込んで馴染んでくるのを待っている。あるいは、それを言い訳にしてもう少し眠ろうとする。
「ほら、起きなきゃ。朝ごはん、昨日話してたジャムあるよ。美味しく出来たんだ、食べてみて欲しい」
「……ん、ん……今、何時……?」
「7時21分──今22分になったところだね」
壁掛け時計を見ながら答えられた言葉──ああ、今日も太陽は登っているのか。毎日ご苦労様だ、一日くらい休んだっていいだろうに。
「……起こしてちょ」
「仕方ないなぁ、もう」
やれやれって感じで、エールは片腕だけでアンブリエルの上半身を起こした。二人分のベッド、それはもう少しで今日の朝の仕事を終えそうだった。ベッドの主人が身を起こせば、夜になるまでベッドに仕事はない。
「ん、ありがと」
そうやってちょっと嬉しそうにエールを見上げると、エールも嬉しそうに視線を落として、そっと互いに笑い合った。
静かで満たされた、優しい朝を手触りで確かめるような、今日という一日が確かにそこにあることを確信するような──それはきっと、幸福と名づけるに相応しい。
「おはよ、エール」
「おはよう、アンブリエル」
その存在を確かめるように。
アンブリエルIFルート:楽園_No pain life.
「お弁当を作っておいたから、出るときには忘れないようにね」
「ほーい。ん、そういえば今日はロスエルズの途中で市場に寄る用事があんだけど、なんか要るモノある?」
「……いや。えっと、特にないかな。大丈夫だよ」
「はいよ。ん……ジャムうま。やっぱ砂糖の質だったっぽい?」
「そうみたい。今度からはちょっと黒っぽい砂糖はやめた方がいいね。えっと、ヨルカさんだっけ。またそこのお店から買ってきてくれたら、もっと美味しいものが作れるよ」
「ま、期待してるわよー。しっかし、あんたもサンクタ仕込みの腕が身に付いてきたんじゃねー? まさか甘いものにはうるさいあたしの舌を満足させるなんてねー……」
「うん。迷惑かけてるんだから、ちゃんと恩返ししなきゃね」
朝の食卓には、豪勢までとは言わないもののそこそこのものが並んでいた。トーストにジャム、それにコーヒーさえあれば朝の食事としては十分に満たされたものだろう。
ちょっと顔を曇らせながら言うエールを咎めるように、アンブリエルはちょっと厳しく、そして優しく諭した。
「迷惑なんて言わないの。あたしが好きでやってるんだから、罪悪感なんていらないっての。往診の日でしょ? 今日」
「うん。今日の3時」
「だったらちゃんと治されときなさい。大人しく治療されとけ。それがあんたの仕事なんだから」
そう聞いたエールは、曇り顔を引っ込めて、ちょっと間を置いて頷いた。
「うん。仕事、今日も頑張って」
「任しとき、きっちり稼いで来るかんね。──ん……そろそろ出るわ」
時計を見たアンブリエルがトーストを口に詰め込んで、食器を重ねて台所まで持っていく。慣れた動作だ。
それから小さなポーチと肩に掛けた大きなガンケースを背負って玄関まで歩いていく。それをエールは、カップを傾けながら見送る。
「いってらっしゃい。あ、帰ってきたら一緒に買い出しに行こう」
「ん。さっさと済ませてくるわ」
いつも通りの、いつもの日常。
恐ろしいほどに満たされた、静かで平和な日々の暮らし。
アンブリエルは幸せだった。
ーーー
クルビアは金があれば何でも買える。あるいは、金に換えられるものがあれば生きていける。アンブリエルには元レンジャー4としての突出した狙撃技術からなる銃の腕が備わっていた。
それは金に換えるのには十分であり、少々のルールを知っていればすぐに仕事は回されるようになった。いくらかの苦労はあったものの、そんなものは些細なことだった。
最も手軽に始められる商売。早い話は殺し屋だ。
ラテラーノにいた頃から潜入捜査だかをやったことがある。現地に溶け込んで、裏社会で仕事を得る。黒ずんだ天使の輪っかと、突出した狙撃スキル。誰がどう見たってその筋の者であり、長距離狙撃は暗殺に向いている。
「……標的の沈黙を確認。ちゃんと見てたー?」
『確認した。……目撃者二名を確認。そちらも処理しろ』
「はぁ? だるっ。話違う。追加料金ね。つかちゃんと見張っとけ」
『いいからさっさとしろ。逃がせば面倒なことになる』
「ちっ……」
スコープ越し──目の前の状況を把握しきれていない男女。カップルだろうか? 不幸なことにデート中に目の前で人が死ぬところを目撃してしまったらしい。
標的は開けた場所にはいない。目撃者を減らすために入り組んだ道の上で殺した。目撃者二名への射線は──。
「……渋っ。ま、多分当たるっしょ。てか当たれし」
乱雑に重なったエアコンの機材や、無意味に張り出した屋根、ガラクタを飛び越して──風速は2m。方向は北、今日は乾いた空気だ。多分ヘッドショット──片方に当たるのを確認する前に二発目を放つ。標的がそれを見て逃げないように。
「……やべ、しくった! 片っぽ、女の方のヘッショミスった。ごめんちょー」
『まともな言葉で話せないのか?』
「遮蔽物が多くてもう狙えねー。この位置からは無理だわ」
『……了解。こちらで対処する』
「あーい。じゃ、おっつー」
クルビアの裏社会は放射状に連なった蜘蛛の巣。誰彼構わず引っ掛けて餌にする。今日も世界は平和だ。
腕利きのスナイパーはその手を汚して、かろうじて残っていた少々の倫理観をトブに捨てる代わりに札束を手にするのだ。
別に、殺した人間の名前なんて知りもしないが。
ーーー
アンブリエルが全てを捨てて、エールを連れて逃げ出してから二ヶ月。
冷え込む時期になっていた。外出するときにはコートが欠かせない。もうじき雪が降るかもしれない。クリスマスは──まあ、まだ遠くもないし、近くもない。
「ん、何見てんの?」
「ほらこれ、見てよ。ボリバル産のドライフルーツ、結構お得みたい」
「……今月結構キツいんだけど」
「え、どうしてもダメ? これで蒸しパン作ったらかなり美味しいのが出来ると思うんだけど」
「………………。しょーがねーなー、次はないかんね!」
葛藤に敗北したアンブリエルを見て、エールは嬉しそうに笑った。
活気に溢れたクルビアの市場、夕暮れに沈んでいく人混み。クルビアは人種のるつぼ、善人も悪人も、感染者も非感染者も共存する──ここはクルビア。
全てから逃げたアンブリエルの存在は、雑踏に埋もれるようにしてこの国に許されている。誰しも抱えている過去と罪があり、皆それを知っている。だからこそ、その悪徳の中に自らを誤魔化すように──。
真っ白な髪に隻腕という少々異様な風貌のエールも、黒く染まった天使の輪を頭上に浮かべるアンブリエルも、このクルビアでは許されている──なんとなく、そんな感じがする。
「てかなに、ガチで料理ハマってんじゃん。よく片手で出来るよね、包丁とか使えんの?」
「うん、案外出来るよ。ちょっと大変な時はあるけど」
エールは混じり気のない微笑みを浮かべて並んだカゴの売り物を物色している。
だがそんな平和な景色を見ても、心のどこかでは警戒が抜けない。誰かが裾にナイフを隠して機会を伺っている可能性が付き纏っているのだ。だからどこまで行っても他人には薄い疑いの目を向け続けている。クルビアの辺境、移動都市ですらない小さな町の中で、まるで過去から隠れ潜むように。
「えっと、調味料は切れてなかったはずだし、はちみつも買ったし、あとは……あと何か買うものあったっけ?」
主婦、子供、仕事帰りの労働者──時たまスーツの男が混じると、警戒は怠れない。
「ねえ、ちょっと?」
「……ん、ごめん。ぼーっとしてた」
「何か他に要るものあったっけって」
「んー、トイレの電球の予備とか?」
「もうカゴに入れてるよ」
「じゃあそんぐらいじゃね?」
エールは頷いて会計の方へ歩いて行った。アンブリエルもその後をついていく。片腕のエールをサポートするために、基本的には横についていくことにしている。
日暮れが近い。夜になる前に帰ろう。
市場を後にして、道端に停めておいた車の鍵を開けた。オンボロの軽バンで、所々錆びついた中古だ。慣れた手つきでエンジンをかけてアクセルを踏む。ここから家まで大体20分といったところか。
家はこの辺境の町のさらに辺境にある。インフラも怪しいような場所であり、周りには森林が広がるばかりの寂れた場所だ。夜になると灯りはその家だけになり、かなり雰囲気がある。年代物の物件だが、状態のいい掘り出し物だった。幸運なことに二束三文で借りている。
街灯もなにもない静かな場所では、太陽が落ちれば完全な闇だけがあるだけだ。さっさとしないと最悪家の姿も見失う。買い込んだものを詰めた段ボールを抱えてドアを開いて電気をつけた。
「あ、お風呂は沸かしてあるから入っちゃって」
「ん。ご飯は?」
「今から。仕込みは済んでるからすぐ出来るよ」
移動都市のような利便性のない辺境では源石に頼り切ることはできない。風呂も半分ほどは前時代的な釜焚きとガスを組み合わせたようなものになっていたりする。ボタン一つで湯が沸く環境ではなく、薪割りのような重労働をするたびに世間と隔絶されているような感覚を味わう。
ここへ来た当初、完全に生活インフラが死んでいた家を復活させるために走り回ったことを思い出しながら湯に浸かっていた。茹だった頭でぼんやりと余計なことばかりを考えている。
(つか今月どうすっかなー、もうちょい仕事受けりゃあ済む話なんだけど、目立ちすぎんのはダメなんよねー。でもなー……)
ほとんど余計な考えであることは確かだった。なにせもう何十回同じことを考えて、検討して、もう結論自体は出ている。それでもぐるぐると同じことを考え続けている。
意味のない話だ。
その日も同じように、エールが作った夕食をもぐもぐと食べて、ベッドでしばらくダラダラした後寝た。
ちなみに夕食はザラニアだった。日々進歩していくエールのレパートリーと腕前に驚きながらも、また明日が来るのを楽しみにして。
ーーー
「……苗木?」
「そう。買ってきたんだ、見てよこれ」
古い木造の家には庭が付いている。いや、庭というよりはもはや自然そのもの──仕切りもないので、広大な森林は全て庭と呼べるかもしれない。
ともかく、荒地だったこの場所はエールとアンブリエルによって少しずつ整理され、一定のスペースを経ている。玄関からは裏手にある農地と呼べるかもしれない。
そこには二つの苗木があった。ポットに入ったままの、腰ほどまでの高さがある小さな木。
育った木と比べてその幹はあまりに細く、指のようだった。簡単に折れてしまいそうだ。エールはその二つを前にして自慢げに微笑んでいる。
「林檎の苗木だよ。育てば実をつける」
「え、実をつけるっつったって……どんだけかかんの? こんなチビッコ──」
そう引き気味に話すアンブリエルの言う通りだった。頼りないほど小さいこの苗木が育って身をつけるようになるまでに、一体どれだけの時間が必要なのか。
「大体5年かかるんだって。意外と短いよね」
「え、5年で実がなるの? マジ?」
「うん。林檎は他家受粉だから、一つだけ植えても受粉できない。だから苗木は二つ植える。片方が枯れてしまうリスクもあるけど、まあ3つ以上植えるスペースはないから二つだけ。ちゃんと枯れないように世話をしないとね」
「ふーん……。5年ね、長ぇなー」
楽しそうに、期待するような面持ちでエールはスコップを手に取って作業を始めた。苗木を植えるのだ。
「ここは日当たりがいい。きっと大きく育って、いい林檎の実をつけてくれる」
そう子供のように無邪気な期待を寄せて、本当にエールは楽しそうだった。夢中になっているようだ。
それ以外にもエールは農業に夢中になっているようだ。農地を拡大したいとずっと言い続けて、日々作業している。
元は荒地だったため、野菜を育ててみてもまだ上手くはいかない。経験も土地の質もないこの最果ての地での農耕は簡単ではない。
だがエールはその失敗すらも楽しんでいた。何もかもが楽しく、いつか収穫できる日が来ることをワクワクしながら待っている。
「ああ、楽しみだな──」
ただ純粋に、まるでこの世界の全てを楽しむように。
ーーー
『仕事の依頼がしたい』
ボイスチェンジャーを通した、電話越しの言葉だった。
「……いや、まあ話くらいは聞くけどさー。なんで声変えてんの? つかあんた誰? 誰から番号を聞いた?」
家で寛いでいた時にかかってきた電話だった。エールは農作業で外にいる。
声を変えているのなら、その理由はいくつか思い浮かぶ。要は匿名で依頼がしたいのだろう。虫のいい話だ。
『こちらにも事情がある。いちいち語って聞かせることは出来ない。すぐに依頼の話をする、断るつもりはあるか?』
「そりゃ、あんた次第って感じねー。誰を殺したいの?」
『……クルビア北部に休養しているジィ・ラ・ファンという男がいる。暗殺してくれ』
──背筋が凍って、一気に気分が冷え切った。
「……その名前、エクソリア人っしょ。面倒ごとはごめんなんよね、わりーけど断るわ」
アンブリエルは逃げてきたのだ。その国から逃げ出して、隠れ潜んで見つからないように細心の注意を払ってきた。そのためにこんな片田舎のようなところに引っ込んでいる。
偶然かもしれない。だが、もう関わりたくなかった。
『アンブリエル中級工科士官』
頭が真っ白になった。気がつけば叫んでいた。
「────ッ!? あ、あんた誰!? なんであたしを知ってんの!? まさかB.l.o.o.dの、追ってきたっての!? こんな、クルビアのしょぼい片田舎にまで──!?」
『私は依頼をするだけだ。一応言っておくが、断っても構わないぞ?』
安っぽいボイスチェンジャー越しの穏やかな声が、まるで挑発でもしているようだった。恐れ、焦燥──。
「脅し、てんのね。そう……──どうしてこんな、もう放っておいてよッ! あたしは機密を漏らしたりしてない、寝返ったわけでもない! これ以上あんたらに迷惑は絶対にかけないッ! 黙ってクルビアなんかに亡命したのは本当に申し訳ないって思ってる。本当なら殺されたって文句なんて言えない、あたしはそれだけのことをした。あんたは南部の、レオーネの工作員なんでしょ。違う!?」
ほとんど反射的に"追ってきたのだ"と思った。
冷静に考えて、今の南部にそんな余裕はないと分かるはずなのに──だが、それしかないとも思った。スッと手先が冷えていく感覚。
『お察しの通りだ。ジィはレオーネを裏切り亡命した──お前と同じ、裏切り者だ。クルビア北西に駐留している都市にいる』
「……それをやらないと、どうするって言うの」
『別に何も』
嘘だ。嘘に決まっている──そうでないのならどうして、こうやって接触を図ったのか説明がつかない。揶揄っている、あるいは意趣返しをしているのか。
震える声で、アンブリエルは小さく呟いた。
「……やる。やれば、いいんでしょ」
『そうか。詳細情報は後ほど送る。では、くれぐれも気をつけてな?』
乱暴に通話を閉じて端末を投げ飛ばした。壁にぶつかって床に落ちる。
「どの口で……!」
クルビアの北西は遠い。今までのように一日で終わって帰ってくることはできない。エールに事情など話せるわけがない。だが今の状態のエールを一人にすることなど、怖くて出来ない。だがやらなければ、きっと報復がされる。レオーネからの制裁が、きっと何もかもを奪っていく。
アンブリエルは、この大地の何もかもからエールを守り切ると決めたのだ。
例えエールが戦いを求めていようとも、レオーネがエールを求めていようとも──それでも、守り切ってみせると。
誓ったんだ。
「……あたしが、守る、から……ッ!」
あいつを傷つける全てから、あいつを守ると────。
アンブリエルに残った、もはやたった一つだけになった信仰だ。
ーーー
長旅に固まった体を解す。運転席の硬いシートには苦労した。やはり安物の中古車など買うものではない、安いなりに相応の理由があるのだ。
入都許可証のバーコードをゲートリーダーにかざす都、道路を塞ぐバーが持ち上がった。都市外壁と荒野の境界線、移動都市に車で入るためには都市の下層部から繋がる連絡通路を通っていく必要がある。
車の窓を閉めて、またエンジンを踏み込んだ。クルビアの移動都市には興味があったが、まさかこんな形で初めて訪れることになるとは思っていなかった。
移動都市ラジエストン。無数の罪を乗せて走る鉄の棺桶。
「……さっさと済まさねーと。現地の協力者は──っと」
待ち合わせの約束をしている。ボイスチェンジャーの人物が用意していた情報提供者だそうだ。そんなわけで車を走らせている。
──巨大な移動都市の上を車で走るというのも奇妙な感じがする。なぜなら移動都市は一種の車なのだ。その上を同じ車で走っているのは、今更ながら変な感じだ。
寂れた一角にあるのはヴェイプという手工店。そこを訪ねろとのことだった。年季の入った店舗故か所々錆びていて、扉を開くと耳障りな音を出して軋んだ。
「ちわー。だっか居ますかー」
……返答はない。
遠慮のないアンブリエルは、ズカズカと作業場に上がり込んだ。古びた町工房といった趣の、埃の積もった暗い場所だ。古びた年代落ちの工作機械たちが、錆びだらけの姿で主人を待っているようだった。
表面が破れて綿の飛び出した粗大ゴミ同然の椅子に腰掛けて一息。まるっきり廃墟だ。
「……あ、あの」
幼い声が突然聞こえてきた。反射的に振り向くと──。
「だ、だれ……ですか……!?」
警戒と不安の入り混じった少女の瞳が揺れていた。
この廃墟の住人だろうか。それにしてはずいぶんと可愛らしい。
震える声で、それでも弱気なところを見せないように振る舞っているのが一目瞭然で、ここまでくると本当に可愛らしい。アンブリエルはそのような態度を取られている自身に呆れ、ふっと微笑んだ。
「だいじょーぶ。あたしは怪しい堕天使じゃないわよ」
全く警戒が緩まないばかりか、少女の視線はより厳しく、そして不安の色を強くしただけだった。
「はろー。お父さんとか居る?」
「……。で、出て行って……ください。ここはわたしの家です、出て行って……っ!」
正論だった。
どうしようか少し迷ったのち、口を開く。
「ごめんねー。あたし、この家に用があんだわ。それが済んだらすぐ出てくから、それで勘弁してくんねー?」
「よ、用って……なん、ですか」
「んー……」
伝えられていることは、ターゲットの名前とこの手工店に情報提供者がいるという二点だけだ。こんなちびっ子がいるなんて知らなかった。
「そーね、お父さんとかお母さんだと思うんだけど、その人に会いにきたの。居る?」
「……いません。わたし一人だけです。きっと、場所を間違えてると思います」
「でも、ヴェイプってここでしょ? 古びた町工房だって聞いてるわ」
「……」
否定は返ってこなかった。やはりここで合っているらしい。
「おっかしーなー……。ねえ、あんた名前は?」
依然として怯えが混ざったままの視線にいい加減居心地が悪くなってきたので、場を和ませる意図も込めてそう言った。
「そんな怯えないでよ。取って食おうってんじゃないんだし……あたしはアンブリエルよ」
──クルビアに来てから、仕事の時は最低限偽名を使うようにしていた。
なので、本名を使ったのはアンブリエルなりの、最低限度の礼儀のつもりだ。
「……フォトン……って、呼ばれて、ます」
「そ。フォトンね、可愛い名前じゃねーの。わりーけど、あたしもやることがあんのよねー。だから出ていけない。ここにはあんた一人だけしかいないの?」
フォトンはゆっくりと頷いた。
「ふーん……。あー、どうしよ」
情報提供者からの手がかりがなければターゲットであるジィ・ラ・ファンは見つけられない。移動都市は広いので、その中から一人を探し出すのは困難だ。砂漠の中から一粒の石ころでも見つけるようなもので、よほどの幸運がなければまず不可能だ。
出だしからつまづいたアンブリエルは、これからの行動方針に迷った。
──と、その時。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ──と、静かな空間に響き渡った空腹のサイン。出どころはアンブリエルではないので、消去法で一つ。
ちょっと恥ずかしそうにしているちびっ子、フォトンであった。
「……え? なに、腹減ってんの?」
肯定も否定の言葉もなかった。
「メシは? もしかして、食べてないの?」
……肯定も、否定の言葉もなかった。
まるでこれまでの空腹を取り戻すように、フォトンは全く食事の手を緩めなかった。
適当に入ったチェーン店らしいファストフード。頬杖を着きながら、アンブリエルは少女をぼんやりと見守っていた。
ちょうど食べ終えて、水で口の中を流し終わったフォトンが満足げに息を吐いた。
「……その、ありがとう……ございます」
「ん。ちょっとは落ち着いたみたいねー……。てかなに、メシとか食ってなかったわけ?」
「その……外に出るの、怖くて」
「ふーん……?」
フォトンは浅黒い肌を持ったフェリーンだ。薄々勘づいていたが、クルビア人の特徴ではない。些細な発音のニュアンスには聞き覚えがある。
「あんた、エクソリア人よね?」
びくっとフォトンが体を揺らした。それから俯いて視線を合わせようとしない。
「事情があんのは見りゃわかるわよ。で、パピーもマミーもいねーってなると……子供だけでも、安全なとこに逃がそうとしたって訳かねぇー……。後から追いつくからっつって、一人だけクルビアに来たんでしょ。で、あの店に何らかの縁があって、最低限の寝床だけは確保されてる。けどパパたちはいつになっても来なくて、ここの通貨も持ってないからメシも買えない……とか?」
適当な推測を並べてみた。
今のエクソリアから脱出を図ろうとするのは、そう不自然な考えではない。共通語を話しているところから察するに、フォトンも南部に住んでいた。もはやエール無き南部に希望などない。
そういう部分をなんとなく察して、アンブリエルがフォトンを連れてきたのは細やかな罪滅ぼしのつもりだった。まあ罪滅ぼしにしては、あまりにも身勝手で無責任だが。
「……お金は、持たされました。けど……外、出るの……怖くて……」
フォトンは言外にそれ以外の部分を肯定しながら、不安を絞り出すようにぼそぼそと呟いた。
「それに、お父さんとの約束は、明日……です」
「約束? 迎えに来てくれんの?」
「……。明日、必ず……来てくれるって、言って……」
あるいはこれは、よくある話なのかもしれない。親はなんらかの事情でエクソリアを離れられず、子供だけを先に脱出させて後から合流する。こうしておけば、少なくともエクソリアで一緒に死ぬことはない。最悪子供だけでも生かせる、が。
「……ま、引き取り先もないってわけね。で、明日になったらパピーは来る……」
とすると、大体の行動方針は定まったように思える。フォトンの父親がおそらく情報提供者なのだろう。ずいぶんとまた回りくどいことをさせる任務だが、事情があるのだろう。どうせやることは変わらないのだ。
「決めたわ。明日まであたしが面倒見たげる」
「え……?」
「メシぐらいちゃんと食えっての。部屋の隅で座ってたって、何にもいいことないわよ」
──或いは。
アンブリエルはこの哀れな少女に、部屋の隅にうずくまってスナック菓子で空腹を誤魔化していた自らの過去を重ねたのかも知れなかった。
「だいじょーぶよ。あたしはあんたのお父さんに用があるだけなんだし、何にもしないわ。それとも、今日の晩御飯は要らない?」
フォトンは二日間飲まず食わずだったことを否が応でも思い出さねばならず、結局拒みきれなかった。
決まりだった。
水道も出ない廃墟に呆れ果て、アンブリエルはフォトンを連れて街に出た。せめてシャワーくらいは浴びたかったので適当なホテルに拠点を移し、ボロボロの服を着ていたフォトンに適当な服を買い与えて、シャワーを浴びさせ、あれこれと世話を焼きながら明日が来るまでの暇潰しをしていた。
「……あの、どうして……こんな、良くしてくれるん、ですか……」
ドライヤーでフォトンの髪を乾かしていると、ぽつりとそう聞こえてきた。
「ただの暇つぶしよ。あたしも暇だし、別にいいわよ。ほっとくのも気分悪いしさ」
櫛でフォトンの髪を梳かしながら、アンブリエルは言った。
「はい、終わり。ちょっとは可愛くなったっしょ」
鏡を見せると、フォトンは驚いていた。アンブリエルがきっちりと髪やら肌のケアをした結果、フォトンはいくらか見違えた姿になっていた。
「……あ、ありがとう……ござい、ます」
緩めないようにずっと張り詰めていた何かが、そこで初めて千切れたのだろう。フォトンは堰を切ったように話し出した。
「わ、わたし……怖くて、一人ぼっちで……っ、お父さんが、本当に来てくれるのか、こなかったらどうしようって、誰も知らないし、見たことない場所で、ずっと一人だったらどうしようって、怖くて、不安で、寂しくて……っ!」
ちょっと驚いた後、アンブリエルはそれもそうかと納得して優しく微笑んだ。当然だろう。移動都市など南部にはない。その上、あんな廃墟で、頼れる人がいないまま数日間を過ごしたのだ。空腹も相まって相当に心細かったのだろう。
「明日も、お父さんが来なかったらどうしようって、今も……怖いよ……っ! お父さん、お父さん……──っ!」
「だいじょーぶよ、お父さんは来てくれるわ。約束したんでしょ?」
「は、はい……っ! 約束したんです、絶対来てくれるって……迎えに来てくれるって、約束したんですっ!」
声には涙が混ざっていた。これは安堵か、それとも恐怖の現れだろうか。どっちとも判別できない曖昧な涙を流すフォトンを、アンブリエルは優しく抱きしめた。
たとえ不安でも、それを内側に溜め込んでおくよりは出してしまった方がいい。
「大丈夫、大丈夫。上手くいくわよ。お父さんは来てくれるし、なんかあってもあたしが何とかしてあげる。大丈夫よ──」
そんな堕天使を見上げて、フォトンはくしゃっと顔を歪めて、顔を押し付けて大声で泣きじゃくった。
そして泣き疲れて眠るまで、アンブリエルは優しく頭を撫でていた。
──例え、フォトンがクルビアまで逃れて来なければならなかった理由が、アンブリエルによって引き起こされたものであったとしても、アンブリエルはフォトンを抱きしめ続けた。
大丈夫、大丈夫。
きっと上手くいく、と。
こんな安っぽく、優しい嘘で、救われる子がいるのなら──。