始めて幻想郷にやって来た事を思い出していた。あの日見た、幻想郷の夕焼け。夜も更けて、人工的な光がない。だから真っ暗化と思えば、月の灯に照らされて里の遠くまでが見えた。
朝には朝の、昼には昼の、夕方には夕方の、夜には夜の…それぞれの美しさがある。忙しい日々を送っているとこんな光景を目に焼き付ける事さえできなくなる。
私はブルッと体を震わせた。冷えるな…。まだもうちょっと見ていたいけれど、そろそろ戻らないと。
「綺麗でしょう?」
声がした。私は驚いて身構える。八雲紫さんだった。
「取って食おうって訳じゃないわ。身構えないで。ちょっとお話しに来ただけよ」
敵意も殺意も感じない。私は構えを解いた。彼女もここから遠くを眺めている。私も同じように視線の先をを一緒に見た。
「へぇ…ここからの眺めもいいものね。良い所を見つけたわあなた」
「初めて幻想郷にやって来て、元来た世界とはもう異なる場所にいるんだって実感させられたのがここなんです。自宅から遠いけれど、今でも忘れられなくて…」
「あなた、ここへやって来てすぐ色んなのに追い掛け回されてたわね。妖怪に、妖精に。もやしっ子だな、なんて思ってたらすばしっこいのなんのって」
「見てたんですか…」
「美しいばかりじゃない。郷に入っては郷のルールがある。ある種の洗礼みたいなものよ」
友好的な妖怪もいれば敵対している妖怪もいる。助け合ったり、いがみ合ったり。色んなものを見てきた。規模は小さかったけど異変も起こした。自分勝手に生きる事が正しいんだって思って、チルノにその間違いを気付かされて。
本当に色んな事があった。あれからの毎日が一瞬で過ぎ去ったようだ。
紫さんが私の肩に触れた。一瞬、光景がフェードアウトしたかと思うと地上に光が湧いた。
「これは…」
「そう、元来た世界。こんな時間帯になっても、地上は明るい」
私は空を見上げる。星が見えない。
「まるで星が地上に降りてきたよう…」
私がポツリとつぶやくと、紫さんは隣で笑った。思わず恥ずかしくなってしまい、顔を覆うと紫さんは背中のあたりをポンポンと叩く。
「綺麗な星空が見えないのは残念だけれど、私もこの光景が嫌いな訳じゃないわ。これはこれで綺麗よ」
「本当ですか?」
「ええ」
また光景が暗転する。地上の光が空に浮かんだ。
彼女はパンパン、と手を叩くと空間に穴があいてテーブルとイスとティーセットが出てきた。凄いなぁ…。彼女は優雅に腰を掛けるとお茶を2つ注いだ。私の分の椅子もあるので、私は頭を下げてから椅子に腰を掛けてお茶を飲んだ。暖かい。
「人間の里の都市計画について…ですか」
「半分はね」
「あの…、私もう異変とか起こす気ないんです。もし私にすべき事があるなら…」
紫さんは白い指先を私の下唇に押し当てる。
「もう半分はね、あなたのそう言う所を話しに来たの」
彼女はため息をつきながら指をティーカップの取っ手にかけて飲む。私は鼻がむずむずして顔を余所にやってくしゃみをした。
「そろそろ外も冷えて来たか…。もうちょっとゆっくりしていたかったけれど」
紫さんは指先で空中をどこかなぞると、私たちの足元に空間の裂け目ができて飲み込まれた。一瞬落ちていくような感覚がしたけれど、落下衝撃の1つも感じないままどこか知らない室内に移動した。まるで教室の中で見る落ちた夢を見た時の様。私はあたりをきょろきょろする。
ここは…博麗神社の中??でもおかしい。どう見ても外は昼だ。
「あの、ここは…」
「秘密基地」
まともに答える気はないようだ。私が作る夢の空間に似た何かなんだろうか。真偽の事は分からない。
「あなたはにとり雑貨店の商売繁盛のために働いている。どうして?」
「どうして…。にとりさんの役に立ちたいから、生活するための金が欲しいからでしょうか…」
「あなたは人間の役に立つ機械を作って、人間の文化レベルの向上に1役を買っている。どうして?」
「経営方針の1つとして設定したんです。本心は作りたいものを作る事と、儲かりたい事のための二義的な目的です」
「そう。あなたは守矢メンバーと手を組んで彼女らの計画に与している。どうして?」
「新製品の開発に都合がいいからです。経営方針の1つと一致してますし」
「その一方で、あなたは自身のこれまでの行いに疑問を抱いている。それに対してあなたはどう考えてるの?」
「それは…」
無線アーム事件は小さな事件だった。でも、これから私達の開発品がどんな風に扱われる事があるのかその一端が垣間見えた。にとりさんの言う事も射命丸さんの言い分も分かる。それでも、あれはどうにか対策を立てていかなきゃいけない事だと思った。
それに、早苗さんの事も。現状、現実世界では科学技術の発展で信仰心や妖怪への恐れは壊滅的になってきている。それが失われる事…、それによってこれから起こり得る事…それを考えるのはとても恐ろしい事だ。
その可能性に対して私が抱く事…すべて後回しにしていた。いずれ分かる事だと。
「あなたは自身を雇ってくれたにとりに感謝し、恩義を感じている。だから役に立ちたい」
彼女は空中をなぞると、そこに煌めく蝶々が集まって札束になる。
「はい、これが1億」
彼女が空間を指でつつ…となぞる様に上げていくと更に蝶は集まる。
1億なんて札束、想像もつかなかったけどこうして積まれるとそれほど場所も取らないし意外にコンパクトなものだ。
「2憶、3億、4憶…」
どさ、どさどさ…蝶が集まった所が全て札束になっていく。10までは数えたが…今どのぐらい積まれてるだろう。こちらを向いて妖しげな笑みを浮かべている。
「この金…使い方さえ誤らなければあれば幻想郷でちまちまとお金を稼ぐ必要はなくなるわね。欲しけりゃあげるわ。それで、この金があればあなたは生活に困らないわね。それで、これで私が早苗と手を切れと言ったらあなたはどうする?」
「それは…」
「さっきあなたが言っていた通り、人間の文化レベルの向上は儲かるための二義的な目的に過ぎない。今まで通りの規模の開発を続けるなら、あの小さな発電機1つで事足りる。あなたが守矢メンバーと組んで多大な電力を供給してもらう理由はなくなった。それとも…」
空中で指をくるくるとすると、穴があいてごちゃごちゃと色んな機器のパーツが雨の様に降って来た。今足りない物、知りたい事についてまとめられた本もある。何のデータが入っているのか分からない外付けハードディスクや最新も出るのパソコンやスマホなどの通信端末まで。それらの小さな山ができた頃、穴をふさいだ。
「にとりが喉から手が出るほど欲しい、俗人で言えば金品にも勝る技術の結晶がざっくざく。差し出せば大変感謝するでしょうね。そう、もうあなたがあそこで働く恩義を充分に返せるほど」
「あう…」
彼女はクスクスと笑うと、指を組んで肘を立て、顎を乗せてこちらをからかうような視線を送る。
「それでも、あなたはこの全てを失ってでもあなたはあそこで働きたい。そうね?」
「…はい。そうです」
彼女は手をパンパンと叩くと、憶の金も万の知恵の結晶も蝶となって飛び去った。
「あなたは誰かに必要とされたい。居場所が欲しい。『理想郷』を作ることを諦めチルノと共に生活したあなたにとって次に欲したのは、現実でなかったソレなの。あなたの心の根幹、要」
「全てお見通しですか…。私さえ気づかなかった自分、見えた気がします。私は矮小な半妖なんです。1人じゃ何もできなくて、寂しくて…駄目ですね、私」
「卑屈になる事はないわ。それも個性だもの。私が問題視してるのはね、あなたの意志薄弱さ、そして主体性の欠如。なまじ才能があって、誰かと組む事で真価が発揮されるあなたの能力、そこに責任感がないと言う事なの」
彼女は机をトントンと指で叩く。飲み終えたカップが穴の中に消えて、テーブルの上から米糠の入った桝が落ちてくる。彼女は桝に向かって塩でも撒くように手を払うと米糠がまるで意思を持ったように空中に浮かんだ。それを指で空中を掻くと幻想郷の地図が浮かび上がる。
彼女は袂から紺色の粉の入った小瓶を取り出す。コルクを抜いて幻想郷の地図に向かって投げると、紺色の粉が地図上に広がり瓶はテーブルに落ちた。黄土色の幻想郷の地図に様々な色が広がってとても美しくなった。
「この幻想郷の地図の色の識別、何を基準にされてるかわかる?」
「いえ…分かりません」
色の境界は常に蠢いている。たまに他の土地に他の色が移ったりする事もある。
「これはね、幻想郷のパワーバランス。縄張り。それが集団、あるいは単体の実力…何はさておき力がこの均衡を保っている」
彼女は桝の中に残った僅かな米糠を取り出すと、それを親指でこする。すると上に煙が上がり、それは蛇、蛙、ナメクジの三竦みの図が浮かび上がった。
「私が危惧しているのは人間の里の人間の文化レベルの向上そのものではないわ。このパワーバランスが変わってしまう事なの。それは力による均衡を奪い…争いを生む」
紫さんは幻想郷の地図を触れると、色が交わりだした。それはまるでシャボン玉の液のよう。色んな色が、滲みあって、交わって、うねって…。
「幻想郷に対して善意を抱く者ばかりではないけれど、大妖の皆はそれぞれ異なる形で幻想郷を想っている。主義主張は違えどもね。早苗があなたに言っている事も間違ってない。止まった時の中を生きてはいけない。変化を受けれいなきゃいけない。このままと言う訳にもいかない。それを模索していく必要がある」
彼女は椅子に背もたれて疲れたようにため息をついた。おそらく凄まじい年月を生きてきた大妖怪たちにとっては、特に近代の目まぐるしい時代の変遷はついてくのが大変だと思う。今の幻想郷が彼女の望む幻想郷なら、それが移ろいゆく姿は彼女にとってどう映っているのか…。
まだこの世に生を受けて短い時間しか生きていない私には想像もできない。
「正義も悪も極めて主観的。私達は幻想郷を愛する心あってこそ、様々な形で様々な主張をぶつけ合ってよりよい選択をしていかなければならない。誰が正しいなんて事はない。当然私も。…球磨、あなたは善悪の区別もなくただ知的好奇心と依存心から惰性的に全ての選択を行っている。手段のために目的を選ぶ。それは首から上を着けては取り外す事を繰り返すような愚行。最も危険な、意思のない力」
言葉は次第に語気を強め、視線も鋭くなる。私は竦み上がった。息をするのも許可を得ねばならないのではないかと疑いたくなるような、そんな目線。でも、彼女はまたすぐに先ほどの様な緩やかな雰囲気に戻る。私はホッと息をついた。
言われてみれば無責任だったかもしれない。彼女の言う様に絶対の正義なんてないけれど、私は何の善悪も区別をして来なかった。選択しようともして来なかった。クラゲの様に、流されて生きていた。何の覚悟もなく。
両親が死んで1人で生きていた頃、とても孤独だった。疑心暗鬼になっていた私は幻想郷で温かみに触れても心を許さなかった。理想郷の夢が潰えて、新たな出会いを重ねて皆と仲良くなりたくなった。そして、今…眩い光に、ただ導かれていた。
何の覚悟も責任感も考えもなく、取り返しがつかないかもしれない事に肩入れする意思のない力。私は身勝手だった。
「私…」
「球磨、自らの行いが結果的に何を及ぼす事になっても選択する勇気をなくさないで。自ら意思決定を行うの。あなたにとって正しいと思った事をを選択して行きなさい」
「紫さん、私…!」
「さ、もう良い子はおねんねの時間よ。後の言葉は飲み込んで。私に答えを示すなら、行動で…態度で示して見せなさい」
彼女はパンパンと手を叩いた。私の足元に穴が開いた。私は落ちていく。手を伸ばしても紫さんには届かない。彼女は穴を覗き込み微笑む。
「じゃあね。良い夢を」