「おはよーございまー……って、おやおやぁ?」
喜多見は事務所に入ってくるなり口許に手を当ててにやにや笑いをしだした。ああ、はいはい、仲直りしましたとも。喜多見の目論見通りで大変よろしゅうございますね。俺がケンカってことになるのか、とりあえずギクシャクしてた相手の奥沢美咲は、喜多見よりも早くに来て、俺の隣で事務作業に口を出している最中だった。
「すっかり仲良しかぁ」
「美幸さん、おはよーございます。おかげさまで」
「よかったよかった」
あれ以来、美咲はふっきれたように俺の傍にやってくるようになった。今だって喜多見がいるっつうのに、俺の肩に美咲が頭を置いてるんだからな。喜多見はものすごい輝く笑顔で俺の方を見てきた。
「喜多見が期待してるようなことはないんだけどな」
「えー」
「ごめんなさい、期待外れで」
美咲も口添えをすると、そんなことないよー、と美咲に抱き着いた。そのせいで自然と距離が近くなった喜多見から、ほっとするような甘さのある香りが鼻腔をくすぐった。美咲のなんつうか素朴な、甘いと言うよりは大分シャンプーそのままの匂いとは違う、部屋のアロマか、それともコロンかって感じの匂いだった。
「幹人さん?」
「なんだよ」
「手が止まってる」
しまったと俺は喜多見の匂い考察から一旦抜け出していく。
──そうそう、美咲はあの時以来から幹人さんって俺のことを呼ぶようになった。何やら心境の変化があったのはわからねーけど、悪くはない。そして、今まで名前を呼ぶときにもごもご言ってた正体も判明してすっきりしたしな。
「じゃなくて、はい夕礼始める」
「はーい」
「りょーかいです」
少しだけ変わりながら、俺と美咲の日常は再び動き始めた。九歳差という壁は未だ健在な俺たちは恋人未満で、せいぜい夫婦ごっこな関係だけどな。それはそれで、俺と美咲らしくていい感じだと思うけどな。
喜多見のやつは、なーんか、思ったのと違いますね、と苦笑いをしていた。なんだよ、女子高生に手を出せってのか。犯罪者にはなりたくないんでね。
「ま、その辺の事情は今日、たっぷりと聞かせてもらいますね?」
──そうだった。すっかり忘れてたけど、今日はこの五歳年下のバイト、喜多見美幸が俺の部屋へとやってくる日だった。
家のキレイ汚いは問題ない。なにせ暇さえありゃ美咲が掃除してるからな。問題はそこで話さなきゃならない内容ってのがまぁ……俺や美咲にとっては少しだけ辛い内容ってだけで。喜多見のやつはそんなことだと微塵にも考えてねーのが悪い。
「とりあえずレジ行ってこい」
「はーい」
へらへらとしてるようで、あの時の反応はやっぱり俺が信用して仕事を任せてるヤツの一人なんだなって印象なんだけどな。接客をしながら俺はなんの気なしに、プライベートに近づいてきた喜多見を観察していた。
すると、後ろから背骨と筋肉の間を小突かれ、俺はそのあまりの痛みに目を見開いた。
「いっ……なにすんだよ、みさ、奥沢!」
「別に、ぼーっとしてるんで、仕事はいーんですか~って聞こうと思っただけですよ、宮坂さん?」
きちんと仕事では宮坂さんと呼び分けてくるクソ生意気な女子高生バイトを睨みつけるが、美咲はふっと鼻で笑ったまま納品へと向かっていってしまった。
あの野郎、なんだかんだで俺が雇い主会社の責任者だってこと忘れてんじゃねーだろうな、やめさすぞこの。いやまぁ貴重な戦力だし真面目に働くしお客の反応も上々だからやめさせれそうな要素がねーけど。
そんな裏表のある態度に俺がまた睨みつけると、今度は何故かめちゃくちゃご機嫌ですれ違いざまに俺にいつもの罵倒を投げかけてきた。
「ばーか」
出た出た。久々に聞くとその言葉でも最高に幸せになれるから人間の脳ってマジで案外単純にできてんだな、と思った。
なによりも美咲が俺にむかってご機嫌そうな顔をしてくるってのがホントに最高すぎて、奥さんにデレデレしてないで早く仕事してくださいとレジをやってた喜多見に怒られた。奥さんじゃなくて奥沢な。
美咲と喜多見が参加してから、あっという間に四時間が経過した。事務作業をしてくれていた美咲が待つ事務所の扉を開き、俺はあー、と気を抜きつつの声を上げた。そろそろ五月だから客入りが増えてきてるからな、閉店間際にも結構ヒトが来る。みんなゴールデンウイークには出かけるか一歩も出かけねーかの極端な二択なんだなと思い知らされた。接客業に連休はありません。
「さて、じゃあ道案内よろしくね美咲ちゃん」
「りょーかいです」
「いや家主俺なんだけど」
なんだかんだでこの三人で上がることが多かったが、こうして喜多見まで同じ方面を歩いて電車に乗るというのは初めてだから新鮮な気分だった。全部知ってて、事情を説明してほしいだけって喜多見が相手とはいえ、当然俺は美咲に対してぎこちない態度になってしまう。
「なぁ美咲、今日は何作るんだ?」
「……ふふ、ばーか」
「ばかってなんだばかって。お前はばかでも作るのかよ」
「いやいや。なんか幹人さんがいつもと違うから言いたかっただけだから」
「いやそれでばーかをチョイスする意味なくないか?」
「なんでもいいでしょ、ばーか」
「お前また」
けど美咲の煽り文句がきっかけで圧倒言う間に演技をはがされ、喜多見はその様子が心底おかしかったのか声を押し殺して笑っていた。いやそこで笑われるのは納得できない。おかしな要素どこにもなかったはずなんだけど。
「ホントに二人は夫婦ごっこしてきたんだなぁって思ったら、笑えてきちゃいますね」
「愚かしくてか?」
「そんな怖い言い方しないでくださいよ。楽しいんですよ、見てて」
楽しいも意味がわからないから。美咲はこんなんしょっちゅうですよ、なんて喜多見に言いつけていた。やめろ、俺が九歳差と同レベルでケンカしてるバカだと思われるだろ、と思ったら既に思われてる気がした。手遅れだな、こりゃ。
「今日は美幸さんのリクエストでハンバーグです。時間かかるんで手伝ってもらってもいいですか?」
「ホントに? 手伝う手伝う!」
こねる~、と仕事中よりも更に軽い態度で喜多見は美咲と楽しげに雑談している。美咲も、ちょっと年上の姉貴ができたかのように俺といる時とは違う顔をしている。そして、俺もこうやって三人でいるのは、思いのほかテンションが上がることに気付かされた。
「電車代、いいんですか?」
「もちもち! ってか美咲ちゃん、定期とか使えないんだ?」
「あー、はい。だからいつも家からこのマンションまでは自転車かローカル線だし、バイトの交通費も微々たるもんですから」
「えー、なんとかなんないんですか?」
なってたらとっくに申請してるっつーの、と俺は即座に返す。美咲を採用するにあたって一番店長に言われたことでもあるんだ。それをちゃんと伝えた時に、初めて美咲が俺の仕事先のバイトを希望したかを知ったんだけどな。
「どーやって返事したの?」
「あたしは幹人さん……当時は宮坂さんでしたけど、とにかく、その仕事が辛いなら、あの部屋と一緒で、わけさせてほしいってだけ」
「なにそれ、めっちゃイケメンな発言じゃん」
「あはは……あの時は必死でしたから」
必死だったな確かに。俺も美咲も必死だった。自分自身がこの世界にとって正しくないものなんかじゃないって証明するのに必死で、だからお互いの抱えてるものを全て分割した。そんなことをしてもお互いの重荷なんて軽減できねーのに、ただがむしゃらに。
──と、その辺の話はハンバーグができてからしゃべってやった。マジで余すことなく全部、冬にお互いに出逢ってから今日までやってきた愚策とそれで得られた今の安息っつー結果を、つぶさに、誤魔化すことなく。結果喜多見はマジで反省したように頭を下げた。そうなるだろうと思ってた俺と美咲はほぼ同時に言ってやるんだけどな。
「謝ってほしくて話したわけじゃないですよ」
「俺は喜多見を信用してこの話をしたんだ。美咲と俺を助けてくれたお前をな」
息の合った俺と美咲の言葉に、喜多見は笑顔を浮かべた。そして俺が先に風呂をもらい、例のごとく美咲が美幸さんの入ったお湯に幹人さん入れたくないです、なんてことを言い出したから俺が先で、美咲と喜多見が後で一緒に入った。途中で美咲の艶やかなピンク色の声が聞こえたが聞こえないフリを貫き通した。何故か美咲には顔を真っ赤にしてばかと言われたけどな。
「それで? 私はどこに寝ればいいんですか? ソファ?」
「いや美幸さんはあたしと一緒に寝ましょう」
「え?」
「え?」
美咲が喜多見の反応になんですか? と問い返した。
就寝の場所はなんなら美咲と喜多見に俺のベッドを貸そうかとも提案したが美咲に拒否されたため、狭いものの美咲のベッドで二人で寝るということに決まっていた。
「美咲ちゃんって宮坂さんと一緒に寝てるんじゃないんだ」
「ね、ねね寝てませんよ!? なに言ってるんですか!」
「そうだ、美咲はこの間が久しぶり──ぐふっ」
余計なことは言わないでと鳩尾に肘を入れられた。俺としては別になんの気なしの言葉だったがどうやら喜多見としては面白い話だったようでニマニマと笑って、あれーこの間は一緒に寝たんだぁ、聞いてないなぁ、と美咲を煽っていた。
──二人から三人になって騒がしくなった。そして、ここに更ににぎやかしがやってくることになる。
キーワードは金色、太陽、そして……世界を笑顔に。そうすると一冊の本が出てくるわけだ。弦巻こころ、と名前の入った本が。