──頭が重かった。胸も痛い。そんな精神的に満身創痍になって、それでもなんとか仕事を終えて、俺は電車に乗っていた。
二駅先、降りた先には、わざわざ三人の女性が俺を待っていてくれた。
「幹人さん……」
一人はもちろん、俺の家でご飯を作ってくれてるはずの美咲、奥沢美咲。疲れと精神的な傷で回らない思考回路をなんと最低限回しながら、俺はなんでここにいるんだろうと考えた。迎えにわざわざ来てるなんて、雨でも降らねーとないってのに。
「あ、あの……大丈夫、ですか……?」
そんなことを問いかけてくる二人目の女性は数時間前に別れたばかりの松原さんで、そこでようやく俺が、心配をされているのだとわかった。後ろには喜多見の姿もあって、無言で腕を組んでる。はぁ、と溜息も聞こえてきそうな不機嫌な顔色も、全部が物語っていた。
──美咲に教えたな? と文句を言うつもりもなかった。なにせこんな顔してたらどのみちバレることだからな。
「やれやれ、
「その呼び方やめろって美幸……俺はもうお前の
前のテンションで話しかけてくる喜多見、美幸に対して、俺も前のテンションで会話をする。ホントにいつも思うけどかわいくねー
お姉ちゃん、そうだよな、俺は
「……話してくれるよね、幹人さんの口から、詳しい話」
「そうだな……そろそろ逃げるのは限界だな」
別に美咲に話したくなかったわけでも、秘密にしたかったわけでもない。ただ胸の棘が消えねーから、俺は話せねーってだけだ。話すとボロボロになるくらいに、俺はまだ、去年の冬の傷が消えてねーから。
でも、美幸がしゃべって、松原さんがその存在を口にしたのなら、もう俺は語らなくちゃいけない。俺の口から、くだらない感傷を。
「大丈夫、私も補足するから」
「頼む、主観だけじゃアイツが悪者になる」
「もう、しょーがないおにーさまだこと」
ちょっとだけおどけてくれる美幸が、今日ほどありがたいことはなかった。美咲にもそんな余裕はないだろうし、松原さんは完全に巻き込まれた形だ。だから、俺は今日だけは元義妹に頼ることにした。
家に戻り、沈黙を一瞬支配したが、すぐに美咲が口を開いた。
「……喜多見、杠葉先生。花音さんと幹人さんが会った生物の先生は、美幸さんのお姉さんだったんですね」
「うん」
「気づきませんでした。いや、割と杠葉先生で覚えてたんで、気づかなかったんですけど」
「まぁ、似てるとは言われるけど」
それでもまさかそんな偶然があるとは思わないよな。確かに世間は狭い。俺だって最初は美幸が杠葉の妹だったなんて気づかなかったよ。実家が近くにあることは知ってたけどさ、だからって妹がいるだなんて知らなかったし。
「それで杠葉は……喜多見杠葉は俺の、元カノだった。というかもう、結婚するかってところまで来てたくらいだった」
「この家がすっごく広いのは、そのせいだったんですね」
松原さんがそんなことを呟いた。そうなんだよ、杠葉と暮らしてた家だからここは美咲の部屋があって、俺のベッドが無駄に広いのも、全部アイツがいたから。
ここは元々、杠葉の家でもあったんだ。半年前まではアイツがこの家でのただいまもおかえりも行ってきますも全部がアイツと俺の中にあった。
「でも、フラれたんだ。去年の冬、クリスマスの日にな」
「……うん」
それは美咲も知ってることだったな。美幸もそれには意外で、びっくりするほど大声で叫ばれたっけ。
すると美幸が、まるで今思い出したかのように俺の肩を掴んだ。
「それでさ、幹人さんは私が幹人さんって呼ぶと怒るようになったんだよねぇ、無駄にそーゆーとこしっかりしてなくていいのに」
「でもな、もう美幸とはなんの関係もなくなったわけだし……」
「それがムカつくんだよー」
確かに俺が杠葉のカレシだったと知ると美幸は妙に懐いてきた気がするけど、それが解消されても、ってのはおかしいだろうって配慮だったんだけど、どうにも美幸はそれで数ヶ月不満だったと。
そんな話をしてると美咲がやや不機嫌な顔でコホンとわざとらしい咳払いをした。話を続けろという態度に、俺も美幸も若干縮こまって、話を進めていく。美咲が妙に怖い。
「……私、なんで別れたのか聞いてない」
「関係ねーと思って言ってない」
「はぁ……」
溜息つかれたし。美咲もそれが知りたかったようで、俺は覚悟を決めてから当時のことを語りはじめた。
言葉にするたびに棘が刺さる。まだ全然癒えてない、けどやっと癒すアテを見つけた傷を、俺は自分から開いていった。
──クリスマスの数日前、俺は年末の仕事に追われていた。というかその年は何回か言ってるかもしれねーけど、店長代理をして一年目で、ばたばたしてどうにもならなかった時期で、また杠葉も学期末で忙しかった。それでちょっとすれ違って、お互いにフラストレーションが溜まってたのが原因だった。
「クリスマス、やっぱり仕事に行く? なんで?」
「……ああ、深沢だけに任せるのは、なんかいけない気がして」
「そんなの……前からずっとあったでしょう?」
珍しく、普段は温和で、いつもフラットな態度をとる杠葉が、明確な苛立ちの感情を俺にぶつけてきた。ぶつけられてもどうしようもねーだろと思ってた俺は、そこに苛立ちで返した。どっちかが、つかこの場合は俺だよな、俺が折れなかったのが間違いだった。
「でも、年末調整あるし、それで仕事で問題起きたら」
「……そう、わかった」
そう、わかった。その突き放すような冷たい一言に、じゃあなんでわかってるくせにイライラしてんだよと言葉をかけて、喧嘩をした。前から少し喧嘩が多かったような俺と杠葉だけど、それはいつもとは違う冷たさを含んでいた。
「杠葉……」
「幹人くんはさ、わかってくれないよね……私のこと」
わかってくれない、なんて言われたって、俺はわかりたいと思ってたさ。でもあんまり表情が読めなくてわかんねーし、なんなら俺が杠葉に告白をして、なんでオッケーをもらえたかなんてわからないし、俺に何一切伝えてくれねー杠葉のことを、わかろうとしてるつもりだった。いや、これは今でもわかろうとしてたと思ってる。
だけどもう石は坂を転がり始めていた。それが逆向きに動くことなんて一切、どうあったって無理なのに。
「──結局、行っちゃうのね」
「そりゃ、杠葉はわかったって言ったろ?」
「そういう意味のわかったじゃなかったのよ」
「……そうかよ。まぁでも別にいいだろ、クリスマスみたいな人混みがひでー時期に俺なんかと一緒歩きたかねーんじゃ──」
「──っ!」
そしてクリスマス当日、なるべく平静を保とうとした言葉を放った瞬間、頬を張られた。初めてだった。初めて、杠葉の涙を見た。初めて、杠葉がこれほどの感情をぶつけているのを見た。いつだって、それこそ男女の営みの最中にすら、これほど波のある感情はなかったというのに。
「なんで? なんでそういうことを言うの? 幹人くんはどうして……もっと私のことをわかろうとしてくれないの?」
「……は?」
「私はっ、幹人くんが好きで……大好きだからこうやって一緒に暮らしてるし、両親にも妹にも紹介した、なのに、幹人くんは違ったの……?」
「俺は……俺だって」
「信じられない……もう、幹人くんの好きなんて、ただのごっこ遊びみたいなものじゃない!」
そう言って、俺が逃げるようにして仕事に行った帰り、もう杠葉はいなくなっていた。翌日、美幸から杠葉が目を真っ赤にして帰ってきたことを連絡された。別れた、と言われたけど、という言葉に俺はそこで初めて、自分が杠葉に愛想を尽かされたことを知った。
──なにもかもがどうでもよくなって、俺もこの家から出ていこうか、そう思った矢先のことだった。ここから先は、松原以外の全員が知ってる話だ。美幸は聞いて泣いてたっけ。
「……なぁ、お前……もう夜中だけど、大丈夫か」
「……っ、ほっといて、ください……」
ぐじぐじと泣きながら、人差し指についていた指輪を握りしめて、路上に座り込む少女に出逢った。
寒空で、予報じゃもしかしたら雪が降るかもってくらいに寒いそこで、一夜を明かしたら当然人間として命の危険を感じるわけで、俺は通報しようとした。だが、袖を引っ張られ、少女は首を横に振った。
「……かえりたくない」
「家出か?」
「違う、けど……いまは、そっとしておいてください」
「いやそんなこと言われても、このままじゃ凍死コースなんだけどな?」
「それなら……それでいい」
そんな自棄になったとしか言いようのない少女を半ば無理矢理引きずって、俺は強制的に風呂に入れて、下手くそな、いつもは杠葉が作ってくれてたから全然何がどこにあるかもわからないまま作った不格好な料理を食わせて、事情を聞いた。んじゃあ泊まってってもいい、俺も、一緒だからななんて同情と感情移入で一緒のベッド、昨日まで杠葉が寝ていたベッドで抱き合って寝た。
「今更かもしれねーけど俺は宮坂幹人、キミの名前は?」
「……みさき、奥沢、美咲」
ここから数日落ち着くまで泊まり込みになる少女、奥沢美咲との出逢いと、そして今に至る夫婦ごっこにつながっていく。
これが俺の傷。未だに引っかかって取れない棘の正体だった。