自慢じゃないが、いや本当に自慢にもなんにもならないが、俺と美咲の関係は簡単にヒトに話せるようなものじゃないと考えてる。
端的に言うとやましい。そりゃあやましい。いくら俺が興味がないと言っても男女、それも
「あ、おはよ、み、宮坂さん」
「おはよう美咲」
「う、うん……」
でもまぁエプロン姿の美人に朝起きておはようと言われる朝は素敵だ。これでメシが美味いってんだからもっと素敵だ。あと四つ年が近かったらなんと言われようと手を出していた気がする。というか結婚してくれって言いたい。結婚して。
「……ばーか」
「ん?」
「口に出てる……恥ずかしいなぁもう」
なんと心の声が漏れ出てたらしい。でも残念ながら女子高生に手を出すほど俺は落ちぶれちゃいないので冗談だよと注釈をしておく。
俺の朝は本来パン派なんだけど、美咲はいつも白米を炊いて、みそ汁。なんでと問いかけたらあたしもいつもパンだから、とか言い出した。じゃあパンでよくない?
「あたしが作りたくて作ってるんだから文句言わないでよ」
「いや文句はねーけど、大変だろ」
「別に」
とのことなのでもう何も言わない。美味しいし、美咲が手間じゃないって言うなら俺は美咲がこうして泊まるようになって充実する朝に文句があろうはずはなかった。
コトン、と机の上にみそ汁のお椀と白米の乗せられた茶碗が置かれた。あとは今日は気分で卵焼き、と言われた。
「大根おろしある?」
「……大根おろしで食べるの? それはだし巻き卵じゃない?」
「いいんだよ俺が好きだから」
「オッサンくさ……」
うわ傷つく一言。もうオッサンだなんて思いたくもないんだよコッチはさ。とにかく俺は大根おろしと大根おろしで食べる秋刀魚好きなの、時期じゃないけど。というかパン派とか言いつつ俺は和食派だって美咲も知ってるだろうが。
「知ってる……だから……」
「ん?」
「……なんでもない、ばか」
またバカって言いやがる。お前は一日に何回俺を貶せば気が済むんだばーかばーか。
と、言いたいところだがごはん作らないと拗ねられては困るので心の中にしまっておく。美味しい。
「今日もありがとう、ごちそうさま」
「ん……おそまつさま」
ダウナー雰囲気バリバリのクセに、こうやって律儀で頑張り屋な美咲は、俺がありがとう、と言う度に嬉しそうに口許が緩む。化粧っ気の薄い、というかすっぴんなのに肌はツヤがあって白くて、なによりそんなあどけない笑顔を浮かべる奥沢美咲という存在が、ギリギリアウトな職場環境でもなんとか生きていける支えだった。
「さて、元気出たし、早めに出勤してくるわ」
「回らなかったらあたしも行くからね」
「本番前の最終調整があるヤツが言うセリフじゃねーな」
「でも、夕方には終わるから……だから」
そんな心配しなくても、別に死んだりはしねーっての。今日は土曜で大変なのは大変だが、その分ヒトもいるしな。昨日の納品も、美咲が大分片付けてくれたおかげでなんとかなりそうだし、俺はマジで美咲に頼り切ってるな。
「そんじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
──行ってらっしゃい。そう言ってもらえるだけでこんなに心軽く家を出られるなんて思わなかった。充実した朝ごはんがこんなにも俺の活力になるだなんて思わなかった。嫁がいるヤツらはこんなに充実した生活を送ってんのか、なんて冒涜的なことまで考えてしまう。
満員電車も今日は平気だな!
「──うげ」
やっぱ無理、日本の満員電車最悪、いや海外の電車乗ったことねーけど! オッサンの匂いとかコロンのキツい匂いとかマジで無理! うわお前絶対カレーチェーン店でカレー食ったろ! 出勤前にカレーとか何考えてんだばーか!
──結局、美咲に貰った活力は満員電車でほぼ使い果たしましたとさ。
食器を洗って、掃除を軽く済ませて、ほっと一息をつく間もなく、あたしは支度を始めた。今日は本番直前の確認。いくらウチがアドリブが多いと言ってもその辺はしっかりしなきゃっていうあたしの提案をちゃんと聞き入れてくれるのはほんとーに助かる。三バカの二人、薫さんもはぐみも、本番前の心構え、みたいなのはちゃんとしてるからね。
「戸締りよし……っと」
あのヒトから貰った合鍵できちんと施錠して、あたしはリュックサックの肩の位置を直す。思わず一人でも行ってきます、と言ってしまいそうなこの部屋は、あたしのものじゃない。
でもあたしの部屋みたいな優しさがある。それはきっと
──宮坂幹人さん。あたしより十くらい……って言うといつも九、って訂正してくるくらいの歳の差がある、お兄さん。あたしがバイトを掛け持ちすることになった直接の原因のヒト。自分から望んで、だけど。
「はぁ……今日も呼べなかった」
最近じゃ幹人さんって呼ぼうと頑張ってるんだけど、恥ずかしくなって、前の呼び方の宮坂さんって呼んじゃう。バイト中はそっちのが都合がいいからいいけど、一緒の部屋にいて、まるで夫婦……うん、夫婦みたいな感じなのに苗字で呼ぶのはなんだか嫌で。
「ごめんね~、ちょっと遅くなって」
「ミッシェル!」
「ううん時間ピッタリだよ、ミッシェル!」
いつも見上げるくらいの豪邸……こころの、弦巻こころの家に着いてまずは着替え、黒服さんに手伝ってもらいながら早着替えを果たしたあたしは、ピンク色のクマ、ミッシェルとなって四人の前に躍り出た。なんとこの四人のうち、あたしとミッシェルが同一人物で、ミッシェルがクマのキグルミだってわかってるのが水色のふわっとしたサイドテールを揺らしてほんわか笑ってる松原花音さんだけなんだよねぇ……ホント、気付いてほしいような、そうでもないような。
「今日は最後の確認、ですよね、花音さん」
「う、うん……一回通して、プログラムを見直すくらい、だよ」
よかったよかった。これなら幹人さんの様子を見に行けそうだ。そんな安堵をしているとこころが抱き着いてきた。
いつもいつも、こころは楽しそうに笑う。笑顔をみんなに、世界中に届けようだなんて無茶苦茶な目標に向かって。こころはそんなヤツだ。まるで太陽と一緒に生まれてきたみたいな金色の髪と金色の瞳を輝かせて、あたしと全然変わらない小柄な身体を大きく動かして、バンドのリーダーとしてマイクを握る。
「今日も練習、楽しみましょうね、ミッシェル!」
「……うん、やろう、こころ」
「ええ!」
──うん、まぁ歌ってる最中に楽しくなって身体が勝手に動き出すのはどうにかしてほしいかな! 下にマット敷いてるわけでもないのにバク転とかしないでもらえるかな、ヒヤヒヤするんだけど!
思いっきりの良さがこころの良さ。でもまぁ、盛り上がるからよしとしちゃう自分は、もうだいぶハロハピに染まってるんだなぁとしみじみ感じてしまった。明日が楽しみになってるしね。
「──って、あ! 時間!」
「ふえぇ……?」
「どうしたんだいミッシェル?」
夢中になりすぎて気付けばとっくに夜になってた。ああもうやばい、お店、夜のピーク始まってるよ!
スマホも着替えと一緒に置いてきてしまったため向こうがどういう状況かもわからないままだ。ヤバいって、これでもしあたしにヘルプかかってたらどうしよう。
「時間? ミッシェルもしかして、もう帰らなくちゃいけないの?」
「え、あー、うん! 実はさ~、帰らなくちゃいけなくて」
「それは大変ね! それじゃあまた明日ね、ミッシェル!」
「う、うん……!」
黒服さんに手伝ってもらって、またもや早着替え、スマホを確認すると連絡は来てない。けど、
「奥沢様。お困りでしたら我々が送りましょうか」
「ほ、ホントですか? お願いしますっ! い、家じゃなくて、ここから二駅先の──」
そう言って住所を示す。黒服さんたちはかしこまりました。と黒塗りのツヤのある高級車を走らせてくれた。静かな駆動音がして、あたしは腕時計を見た。午後七時過ぎ、焦りが溢れてくる。メッセージを送ったけど、反応はない。接客してるのかな。ほんの十数分のことなのに、とても長く感じた。
「ありがとうございます!」
「お気をつけて」
「はい!」
頭を下げた黒服さんを見送りながら、賑やかな店内へと入っていく。そうすると偶々納品をしていたバイトの先輩が奥沢さんと驚いた顔をした。
きっと、あたしがあんまりにも切羽詰まった顔をしてたから。
「宮坂さんは……?」
「え、あ……たぶん接客中」
「ありがとうございます……忙しいですか?」
「うーん、ちょっとね」
さっきまでレジ開けてたんだよ~とのんびり笑う小柄な大学生の先輩にそうですか、と告げて幹人さんを探して、ちょうど接客が終わったところを見つけてあたしは、小走りになって彼の袖を引っ張った。
「みさ……あ、お、奥沢?」
「どーも……状況は?」
「お前な……」
露骨にそんなこと心配するなって顔であたしを見下ろしてくる。お生憎様、そんな強がりじゃなくてあたしが知りたいのはあんたの本音だっての。ちょっといいですか、とあたしは強引に幹人さんを事務所へと連れ込んだ。
「人手」
「は?」
「足りてないんでしょ、どーせ」
「……まだ大丈夫だっての」
「他のヒトはね、あんたは?」
いつも家にいる時のような口調で、幹人さんに詰め寄る。やや斜め左に視線が動き、大丈夫に決まってんだろと言い出した。はいアウト。忙しくてなんかできてない時の顔だからそれ。ほんっと、ばかなんだから。ばーか。
「そんな人事動かせねーって」
「じゃあご飯奢ってよ、それでいいから」
「足りてねーだろ」
七時半から十時まで、二時間半、確かに時給換算したらブラックもいいとこの違法労働になるだろうけど、別にあたしのことは気にしないでって言ってんじゃん。
──あたしが好きでやってるんだから。
「納品と? 他は大丈夫?」
「……人の話聞けよ」
「はぁ……とりあえず他のヒトに訊く」
一応タイムカードは切っておく。まったく、こんなの初めてじゃないんだから、バイトのヒトもフリーターのヒトも、またかくらいな気分で見てるんだよね。宮坂さんとあたしの噂なんて流れないはずない。けどあたしは全然、これっぽっちも気にしてないし、なんならそう思われるのが……ちょっと、嬉しいし。
「集中集中……おはよーございまーす」
「奥沢さん? ああ、今日もありがとね」
「いえいえ、ヘルプが必要なとこあります?」
「あ、えっとね僕が八時からレジなんだけど、ちょっと納品が滞ってて」
「わかりました、引き継ぎますね」
「ありがとう」
二時間、九時半までで一旦タイムカードを切って、あたしはそこから宮坂さんの事務作業の手伝いをした。
ぶつぶつと明日本番なのに、だとか言ってたけど無視しておく。これはあたしが笑顔になるために必要だから、いーの。あたしがやりたくてやってることにケチをつけられる謂れはどこにもないから。あたしは、幹人さんを助けたいだけだから。