杠葉、喜多見先輩は俺の高校、大学の先輩ってのは前に言ったと思う。高校の時から先輩は容姿端麗で清楚な雰囲気でありながらまるで冷たくて鉄鎧を纏っているような感覚すらあるヒトだった。男子人気はあったけど誰もお近づきになろうとするようなのはいない。そんな雰囲気の女性、それが喜多見先輩だった。
「先輩」
「宮坂くん、こんにちは」
「こんにちは……じゃなくてなんスかその段ボール」
「部室にあった無駄な資料よ」
そんな学校のアイドルと言うべき先輩とお近づき……って言うと聞こえは悪いけど、モブとしてじゃなくて名前を呼んでもらえるようになったのは部活、いきものの飼育や観察を主に行っているという、おおよそ青春を謳歌したい高校生には人気のなさそうな部活において彼女は部長で俺が部員の一人だったということだった。
「持ちますよ」
「その言葉がなければあなたのことを血も涙もない冷血漢と罵ったところね」
「……言い過ぎでは?」
「女性が重いものを持っているのを知りながら横でニコニコとそれを眺めていたら、罵倒のひとつでも言いたくなるでしょう」
溜息をつきながらまったく表情は動かさずに、俺を見上げる先輩はでもやっぱりキレイで、クラスメイトに先輩目的で入部したと疑われても仕方ねーなと納得しちまうほどだった。言ってることはちょっと変な気もするけど。
「通りがかってくれて助かったわ」
「通りがかったというかフツーに部活動しにきただけっスけど」
「それにしたってタイミングがいいわね。もう少し、持ち上げて運び始めるより早かったほうがもっと嬉しいけれど」
部員の何人かは部活の掛け持ち、一人は生徒会との掛け持ち、一人は委員会との掛け持ちのため毎度顔を出す暇人は部長を除けば俺一人だったこともあり、自然と二人きりの時間と会話が増えていくものだった。
「暇ですね、この時間」
「暇なら勉強しなさい。理科以外の科目、それほど成績よくないでしょう?」
「……先輩も似たようなもんじゃないっスか」
「いいのよ、平均点より上だもの」
よくねーと思う。このヒト万能人間みたいな顔して得意と不得意の差が激しいのは、知り合ってから知ったことだった。そんな完璧じゃないところは、近寄りがたく感じていた先輩の隙である気がして、俺と喜多見先輩は時間とお互いを知るという行為を重ねていくうちに、惹かれあっていった。
「──それは嘘よ。美化している」
そう、語りを進めていた俺に対し、杠葉はピシャリと思い出を打ち切ってくる。嘘、とか美化してるなんてそんなつもりはねーから、と反論するがそれでも杠葉は首を横に振る。現実はもっと残酷だったと。そんな甘いロマンスなんてなかったと否定する。
「じゃあ」
「幹人くんを好きになったのは私。惹かれあったのではなく私の片想いだった」
「……おかしいだろ、その理屈は」
「少しもおかしくないわ」
いやおかしい。なぜなら付き合ってほしいと告白したのは……誰でもなくて俺だからだ。確かにそれは嘘でもなんでもなく事実だろ。今だってその時の緊張や甘酸っぱい胸の痛みなんかを思い出せるくれーなんだから。
「……はぁ」
だが、杠葉は俺の訴えを溜息であしらってくる。じっと俺を見つめて、本当にと呆れた口調で、表情で、俺が抱いているすべての
「確かに、そういう気持ちも少しはあったのかもね。でも幹人くんが私に告白しようと決めたきっかけは覚えているわ」
「その……きっかけって?」
黙ってやり取りを見ていた美咲が思わずといった様子で口を挟んできた。本当に、言葉通り美咲には一切怒りを出さず、そうねと苦い顔をした。悲しい顔、それでいてただ一人、俺を詰るような表情で杠葉はその残酷なきっかけを告げた。
「その前に幹人くんのことを相談していたのよ。お節介で口が軽い、おしゃべりな部員にね」
「……ん、つまり幹人さんは」
「その相談を
タイミングの問題だろ……という反論は、喉で詰まって出てこなかった。杠葉の声には予想ではなく確信に満ちたもの。俺はその声と視線で反論を奪われたように固まってしまった。
──自然と、語りの主導権は彼女に流れていく。視線も、続きの言葉も。
「そうね、そんな打算だったなんてことも知らず、恋する乙女だった私はあなたのとても短い告白に舞い上がったものよ……とても、嬉しかったし、世界で一番幸せだとすら思っていたわ」
俺からはとてもそんな風には見えなかったけどな。けど、ああそうか。その時の俺が無機質にいいわよ、というとても短い返事で付き合えたという喜びがあったのは、安堵があったのは、既に杠葉の気持ちを知っていたからだったのか。
「そう、奥沢さん」
「……はい」
「これが彼、幹人くんなのよ。彼は、自分を好きでいてくれるヒトが好きなの。ただ、それだけ。それ以上の感情は持ち合わせてなんかいない」
「でも……幹人さんは、あたしに」
「愛を囁いてくれた? 欲を見せてくれた? 甘えてくれた? それはあなたが許可したからに過ぎない。現に、許すまで一切、そういう触れ合いはなかったんじゃない?」
美咲が何かを言おうとして閉口した。思い当たるフシがある、って感じの反応だった。思い返してみればそうだ。全部美咲が先だった。甘えたのも、好きだと囁いたのも、恋人としての情事を欲しがったのも、全て。
「九歳差なんて言い訳よ。幹人くんは与えられた熱をそっくりそのまま返すだけ。模倣するだけの、ごっこ遊びなのよ」
そう切り捨てて、杠葉は、きっと誰にも話したことがないであろう胸の内を、思い出とともに明らかにしていく。冷たくて、いつだって錬成された鉄の塊のような無機質さを感じさせた喜多見杠葉が本当に持っていた、気持ちを。
私が花咲川への就職を決めた頃、既に幹人くんとは数年のお付き合いをしていた。当時の彼といえば、人懐っこくて、独りで生きると教えられてきた私にとっては知らなかったもの、なにより欲しかったものをくれる大切なヒト、大好きなヒトだった。
「杠葉」
「なに?」
「呼んだだけだ」
「なにそれ……ふふ」
居心地がよかった。幸せだった。彼の家にある一人用の狭いベッドで一緒に寝る瞬間も、普段は使われない台所で料理をするのも、名前を呼ばれるだけの小さなことでも全てが色づいていた。そんな中で彼と過ごす時間をもっと増やしたい、愛されていたい、と願っていた私が結婚を前提にした同棲という彼の提案を受け入れるのは自然な流れだった。
「でも幹人くん。薬剤師試験落ちたのよね?」
「……そうなんだよな」
「どうするの?」
「しばらくはバイトしてるドラッグストアで店長見習い、的なヤツかな」
美幸から訊いた限りではどうやら彼はうまく息抜きもできて、けれど信頼されているようだし、所謂ブラック気味の接客サービスという業種に対して柔軟にやっていける人物だろうという信頼の元、幹人くんがそれでいいならと頷いた。今思えば無理にでも私が頑張るか一年遅らせて薬剤師試験を受けさせるべきだった、と後悔しているけれど。
──彼が期待に応える人物、というより
「幹人さん、ずっと働き詰めだよ」
「……そう」
「お姉ちゃんからも言ってあげてよ。てかしばらく会話してないんじゃ……」
「美幸には関係ないでしょう?」
ここで私も親の教育という鎖を壊せなかったのも、崩壊の一因であるのはそうよね。肝心なところで、独りでなんとかしようとしてしまった。独りでいようとしてしまった。
結果として、その私の心を映し出したかのように幹人くんと私は同じ家にいるのに別々に暮らしているようになってしまっていた。
「そこからは、二人も知っている通りよ。クリスマスの時に、私はその空間に耐え切れなかった。久しぶりに一緒にゆっくりできると喜んでしまったことで逆に、我慢できなくなってしまった」
「……杠葉」
私はずっと、ずっと……高校生の頃から幹人くんは私のことを愛してくれていると思っていた。でもそれは私の勘違いで、彼は十年前からずっと私の幼い恋を映し出す鏡でしかなかった。誰かを映すことでしか自分の価値を見出せない、愚かな男だった。
「でも、俺は……変わった。お前に出ていかれて、美咲に会って……美幸に、たくさんのヒトに教えられて」
幹人くんはそんな風に首を横に振るけれど。いいえ変わってない。だって……だってあなたは今も奥沢さんの幼い恋を映す鏡でしかない。
──そしてなにより、まだ
「もうやめにしましょう、幹人くん。幼稚なごっこ遊びはおしまい」
「お姉ちゃん、それは……!」
「私と結婚して。まだ私は、幹人くんを愛しているわ」
ごっこ遊びはこれでおしまい。
夫婦ごっこでもなく、家族ごっこでもなく、ホンモノを私が一緒に探してあげるから。だからあの時付けられなかった指輪を……銀色の約束を私に頂戴。
──そうしたら今度こそ、二人で一緒に、幸せになれると信じているのだから。