あれから一晩経過して、少しだけ余裕を持って教室へ向かっていると後ろから奥沢さん、と声を掛けられる。透き通った声、アロマのような優しい香り、振り返るまでもなく誰かはわかっていたけど、杠葉先生だった。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
「……えと、何か?」
「あなたにいいものをあげようと思って……いらないお節介かもしれないけれど」
いいもの? と首を傾げたあたしに、杠葉先生は何冊かの料理本をくれた。使い込まれているようで、ところどころ汚れており、付箋がたくさん貼ってあった。
──いや何かわかったけどこれ重いんですけど。いや本の重さじゃなくて、本もまぁそこそこ重いけど。
「幹人くん、ああ見えて相当好き嫌い多いから」
「はぁ……まぁ知ってますけど?」
「……かわいくないわね。美幸の好みも入っているのよ?」
「それはありがたいです。あの二人が合わさると毎日考えるのもめんどくさいんで」
幹人さんは幹人さんで……まぁ杠葉先生が言った通りだし、美幸さんは味覚崩壊してるのかなんなのかわからないけどすーぐ辛味を足そうとしてくる。餃子のタレが真っ赤になるまで豆板醤入れたうえにラー油ドバドバかけるようなヒトだし。だから辛味が介在しなくなると絶対こそこそとお夜食だもん。
「作る側としてはああも味をいじられるとへこむんですよね」
「そうね、特に美幸のは……何度寝ている間にハバネロを鼻に捻じ込もうと思ったことか」
あはは、そりゃ面白い冗談ですね、あはははは……あは、は……え、冗談だよね? うわ目が笑ってない。怖すぎるんですけどこのヒト! 杠葉先生、時折言動がバイオレンスなのなんなの?
「……ごめん、しばらくはまだ引きずっているから」
「大丈夫……ではないですけど、理解してるんで」
和やかな雰囲気ではあるけど、こうして杠葉先生が関わろうとしているってことはつまり、それだけ落ち込んでるってこと。
あたしが選ばれた、幹人さんはあたしを選んでくれた。だから、自然と選ばれなかったという悲しみを背負うヒトがいる。
「それじゃあ」
「はい」
「……幹人くんが幸せになれることを、願っているわ」
──杠葉先生は、あたしや美幸さん、幹人さんにとって重要な存在に位置付けられていた喜多見杠葉さんはそうしてゆっくりと、最後まで
「さて、今日は──」
いやまぁ、すぐに授業で会うんだけどさ。あとあたしに目を付けるのはやめてもらっていいですか? 教師としてそれどうなんですか? 文句を言いに行ったら社会人と同棲している、なんて子は注意深く見守る必要があるわよ、教育者的にはねとか反論された。あなた担任じゃないですし教育者的にじゃなくて元カノ的にでしょ。
「ま、お姉ちゃんらしいと言えばそうかな~」
「それで済ませていいの? もはやアレ、嫁いびりの亜種だって」
「あはは、じゃあお姉ちゃんが姑さんか~」
暢気に笑ってるけど美幸さんはまだ話終わってないから一度帰ってきなさいとか言われてたよ。あれ絶対怒ってたよ。
あたしがそう伝えると美幸さんは、心底嫌そうな顔をしてからあたしに抱き着いてくる。
「助けて美咲ちゃん! 私のかわいいかわいい
「妹的にそれはどうなのかな~とか思うんだけど」
一人で頑張るところだと思うんだあたしは。そりゃまぁ……あたしの大事なお姉ちゃんだし? 帰ったら慰めたりフォローしてあげたりだとかは、するけどさ。美幸さんだってもうちょっとちゃんと、落ち着いた状態でお姉さんと言葉を交わすべきだよ。
「うう……うん、頑張る」
「うん、頑張れ、よしよし」
ところでこのお姉ちゃん、最近特に年上としての自覚が無くなってる気がする。甘え気質なのはわかってたけど、わかってたけどさ。最初の頼れる年上のお姉さんオーラどこに置いてきちゃったの? お店? ちゃんと忘れ物は取りに戻ってほしいところなんだけどなぁ。
「……なにやってんだ、休憩室で」
「ん~と……百合営業!」
「誰に向けての営業だよ」
「おにーさま?」
「疑問符つけちゃうんだ……あはは」
このミステリアスもどきの美幸さん、ノリと勢いで生きてるかのようにきょうだい愛もいいよねとか言って幹人さんにまで抱き着こうするからさすがにそれは止めた。ダメ、それあたしの役目。いやあたしはノリと勢いで抱き着いたりとかは……しないけど?
「美咲ちゃんはヤキモチ妬きさんだな~」
「まぁ……カレシがあんなのだからね」
「あんなの……ってなぁ」
ちゃんと見張っとかないとどっかふわふわ飛んでいきそうなヒトだよ? ちゃんと掴んでおかないと、届かないところにまで上っていったらもう……あたしには見上げるしかないんだから。
「はいはい、そこまでにして夕礼始めるからな」
「は~い」
「んじゃ、今日はチラシクーポンとアプリの電子クーポン両方あるから、対応間違えないように」
「結構います? アプリのやつ」
「そこそこ普及してきたーって感じだな。ただそれだけに使い慣れてないお客さん多いから」
「はーい、宮坂さん! なんか違うんですか?」
「なんかって言うか……ちゃんと対応しねーと何回も使えちゃうからってことだな」
また、日常が始まっていく。プライベートは解決したけど、相変わらず店長代理としての宮坂さんの仕事量は半端じゃない。スマホアプリの配信を開始したことでそのイベント関連やら会員登録の進捗だとか……また色々新しいことが導入されていって、忙しいとてんやわんやになっちゃう。
「ねぇ美幸さんとあたし、ここでレジ代わってもいい? ……ですか?」
「ん、なんでだ?」
「ほら、まだ
「あー、でもみさ……奥沢には、手伝ってほしいことがあって」
「……また事務作業ですか?」
「おう」
おう、じゃないよ。でも、そうやって素直に手伝いを申し出てくれるところはなんだか嬉しくなってしまう。うん、それでいいんだ。もう誰かの期待に独りで応えようと鏡を置かなくなって……大丈夫なんだよ。
「私がやるよ、事務作業」
「……あたしがやります。あたしと宮坂さんの二人で」
「うわ~、わかりやす……」
「はい? 何か言いました?」
「なんでもないで~す」
「美幸さんはフリーになってますけどあのヒトに発注教えてあげてくださいね? ついでにデートの約束でもしてきてください」
「それどこまで仕事の範疇なのかな!?」
あたしはきっと、ここで長い間働くことになるだろう。就職まで……はどうかまだ決めてないけど、少なくとも幹人さんがちゃんと一人で仕事しても休めるようになるまで。
お兄ちゃんだの、お姉ちゃんだの、妹だの、呼び合ってみてはいるけどあたしたち三人の関係はまだまだごっこ遊びを抜け出そうとしてるところ。だからあたしと幹人さんの関係も、まだ恋人って言うには手前を歩いてる。
でもこのごっこ遊びは、遊びじゃなくなって……いつかホンモノになる。九歳差を越えた本当の恋人に、生まれがバラバラでも本当のきょうだいに、そして本当の家族に。
「……幹人さん」
「ん?」
「すき」
「……俺も、美咲が好きだ」
「うん」
だからその時まで、あたしと幹人さんは恋人未満のまま。いつか家族に、夫婦になる、恋人未満な九歳差。
ホンモノへの道を一歩一歩進んで、時々は振り返って、ケンカして仲直りをして。あたしはたくさんの時間を、このヒトと過ごしていく。ただいまもおかえりも、いってきますもいってらっしゃいも、おはようもおやすみも、愛してるも全部、このヒトに言えるあの家で。
──恋人未満な九歳差 THE END
Thank you for reading.
※このあとがきは本編を以前(再投稿前)から追いかけてたよ~、もしくは作者さんを知ってるよ~という読者様向けへ発信しております。あしからず
――というわけで、間は空きました(原因としては過去話の展開をすっかり忘れてた)けど、なんとか完結することができました。
番外編でその後なんかも想像できてるけど、まぁ蛇足でしょうということでここでエンドマークをば。
いつもなんですけど、花のJKヒロインにしといて青春の甘酸っぱさとか爽やかさのないのって、書いてて時折どこの層向けなんだかとか考えますが、その需要にあった話を書こうとすると三話で筆を折ってしまう不思議。もう学園ドラマ系のは無理ですね。諦めました。
HPとか作るのもめんどいし知識とか新しく入れると時間もかかるってんで結局ハーメルンで続きを書かせていただいてるんですが、んー、この作品もそのうちバックアップは取りつつも消去しようかなーと思ってます。なのでまぁ公開中のPDF化はご自由に。あと売らなきゃなにしても自由ということで。
またテキトーに匿名で続きを書いたりしていこうかなと思ってます。なので運よく見つけることができた方はまた会える幸運を祈っています。常連さんはまた個別にURL送らせてもらうんで感想もソッチ、もしくはいつもの場所でくだされば嬉しいなーと思っています。
――それでは、長くなりましたがこの辺で、また会えるのなら会いましょう。
チンパンつららばり連打=ガラルヒヒダルマの皮を被った本醸醤油味の黒豆