あたしはどうしてあたしなの? どうしてあたしじゃダメなの? そんな風に泣きじゃくる。膝を抱えてうずくまる。あたしが正しくないから、正しいのはあたしじゃないから、そんな黒いモヤがあたしを覆っていく。寒い、冷たい、あたしの体温を奪っていく。
──それを変えてくれた。あたしに温かい逃げ道と、温かい優しさをくれた幹人さんが、あたしに正しくない生きる意味をくれた。
幹人さんがただいま、と笑う。あたしは、それにおかえりと返事をする。
まるで子どもみたいな夫婦ごっこをあたしと幹人さんがし始めてもう、四ヶ月が過ぎた。冬は終わって、新しい春が来て、それでもあたしと幹人さんの距離は変わらない。
──いつか、幹人さんは恋人を作って、あたしは夢から覚めなきゃいけない時が来る。どうしても埋まらない九歳差は、いつかあたしを突き落としていくんだ。
「奥沢さん、奥沢さん?」
「──あ」
未来、なんていう名前だけは一人前な真っ暗闇を落ちて、堕ちて、オチテ、あたしはそこでようやく意識を現実に戻すことができた。目覚めた先には同級生の市ヶ谷さんの顔。心配そうな顔をしてあたしを覗き込んできた。
──既に放課後で、あたしは寝てたということがようやくわかった。そっか、今日はこころと約束してなかったから、起こされることもなかったってわけか。
「大丈夫か? なんかうなされてたみてーだけど」
ちょっとだけ乱暴な言葉遣い、なのにお淑やかな……若宮さん風に言うなら大和撫子、みたいな雰囲気がある市ヶ谷さんは、少し誰かに似ていてあたしはほっとしたようになんでもないと首を横に振った。
「ちょっと悪夢を見た……みたい」
「みたいって」
「あんまり覚えてない……あ、もう忘れちゃってる」
ほっとしたせいか、急激に夢の内容が思い出せなくなっていく。なんだよ、心配させんなよって言う市ヶ谷さんにあたしはありがとって返事をした。
──無性にあのヒトに、幹人さんに会いたい。今日はバイトもなかったけど、部活終わったら行こうかな。
「んしょっと、それじゃああたし、部活行ってくるね」
「おーう」
「……ありがとね、市ヶ谷さん」
別に、と市ヶ谷さんはあたしから視線を逸らしたまま、手を振ってくれた。本当にありがと。そうお礼を言いながら教室を出て、あたしはスマホを取り出してメッセージを送った。今日は何が食べたい? ってそれだけ。
それと同時に家族に泊まることを伝えた。お母さんからおっけー、ってスタンプが返ってきて、でもお礼がしたいから一回家に帰ってきてね、って続けてスタンプが送られてきた。
あたしがお礼されたいくらいなんですけど、いつも働かされてるの、あたしだし。そんな溜息をついたところで、幹人さんから、カレー食べてーと気の抜けるキャラクターのスタンプと一緒に送られてきた。
「カレーかぁ」
なんか前にカレー食ったやつは口臭でわかるから最悪なんだよって愚痴ってなかった? と返事をしそうになってそれをバックスペースキーをタップしてから、了解って返事を改めて送信した。ちゃんと歯磨きしてくれるからいっか。
「……あれ、でも今冷蔵庫の中あんまり入ってないな」
あたしは幹人さんの家にある冷蔵庫の中身を思い出す。あれは実質、あたしの冷蔵庫みたいなもんで、中身なんて幹人さんは知らないと思う。じゃなきゃあの壊滅的な状況でカレーなんて言ってこないし。
でも、他ならぬ幹人さんの要望だからしょーがない。あるだけ自分ちの冷蔵庫から野菜でも奪ってから、足らない分とカレー粉は買っていきますか。
「ふふ……あはは、はぁ……溜息もでちゃうよねぇ」
溜息を吐くと幸せが逃げるとは言うけど、こんなに胸いっぱいの幸福感なんだもん、パンクする前に吐き出しとかないとさ。あたしはそれはそれでどうしたらいいのかわかんなくなるじゃんか。
部活をしながらも、あたしは何回も何回も溜息を吐き続けた。夜のことを考えて、あのヒトの顔や声を思い浮かべては、溜息をついたのだった。
部活が終わって、ひとまずは言われた通りに家に帰る。泊まるねって連絡を入れるたびに思うんだけど、そんなんでいいのかウチの親は。まぁ、最近じゃ
弟や妹には、ちょっとかわいそうなことをしてるけど。ごめんね、あんたより手のかかるヤツの相手しなきゃなんだ。
「はい、これ」
「おかし?」
「そうなの、宮坂さんにと思って買ってきたのよ」
ふふ、とお母さんはいたずらっぽく笑ってきた。我が母親ながらあざとかわいいし。割と幹人さんもお母さんにデレデレしてることもあるくらいだしさ。くそう、あたしの母なのになんであたしにはできそうにない魅力があるんですか、それでも三児の母かこの、と言いたい。言ったら怒られるから言わない。
「行ってらっしゃい」
「……ったく、行ってきます!」
更にカレー粉までくれたお母さんにそれだけを告げてあたしはまた外へと飛び出した。制服のままでいいかと思った理由は明日も学校だから。着替え何着も持っていくのはめんどいしね。下着とかパジャマならあっちにも置いてあるし。
リュックを背負って、あたしはローカル線に揺られる。幹人さんは便利だからって大きな駅近くのマンションに住んでる。一人暮らし用のマンションじゃないってところで、あたしは維持費とかを心配してるんだけど、あんまり趣味もないからって。流石にあたしが負担とは考えなかった。いくらなんでも女子高生にそれをさせるヒトじゃないから。
「よい、しょっと」
鍵を開けて家主のいないドアを開ける。おじゃまします、じゃなくてただいま、と自然と口にしてからあたしは電気を点けた。暗くて寂しげだった部屋がぱっと明るくなって、あたしの帰りを喜んでくれてるみたい。おかえりと言われてる気分。
「流石にちょっと早すぎちゃったな」
幹人さんが返ってくるのは午後十時四十分ごろ。まだまだ時間は有り余ってて、お店に行った方がよかったかなぁと思いながら制服を脱いで、
転がりながらスマホで仕事は大丈夫? と連絡をする。連絡をしながら、あたしは幹人さんがいつも使ってる枕に顔を埋めた。
「……みきと、さん」
彼の匂いがする。まるで彼に抱きしめられ、慰められた時のような感覚に陥る。あのヒトはいつもいつもあたしのことを恋愛対象じゃないとか女子高生に欲情できないとか言うくせに、ううん、言うからこそ、あたしの心が迷子になると絶対、まるで子どもをあやすように抱きしめたり、頭を撫でたりしてくる。だからばーかって思う。
──ばーかばーかって悶々と考えているとスマホが反応した。幹人さんからの返事が来た。今日は本当に大丈夫っぽそうだ。内容には、おなか減ったというスタンプが送られてきて、思わず笑っちゃう。
「……ばーか。帰ってきたらすぐ食べれるっての」
あたしは、幹人さんに甘えてるだけなのかな。独りになるといつも、あたしは弱くなる。自分が弱いことを忘れていられるのは幹人さんの隣にいる時、幹人さんが笑顔でいてくれる時。だから、幹人さんがいない時にここにいると、いつもあたしは彼の匂いがするものを探す。枕、ベッド、ソファのクッション、それから……時々は、服、とか。そうして幸せと自己嫌悪を溜息で処理してから、あたしは幹人さんに見せるあたしになる。
「おかえり……宮坂さん」
「ただいま、美咲」
結局今日も幹人さん、って呼べなかったけど、一緒にカレーを食べて笑い合えたから、満足できた。いつもありがと、なんて言われてコンビニスイーツも、あたしには過ぎたご褒美だった。
「今食わねーの?」
「うん、ホントは夜食べ過ぎると太るんだから」
「美咲は十分細いだろ」
「今はね」
ソファでくつろぎながらあんだけ動き回っててカロリー過多になることあんのかよ、なんて言ってきた幹人さん。あたしはそれが悔しくてお風呂上りの頭を幹人さんの肩に乗せた。ちょっとは意識しろって意味をこめたのに、幹人さんはどうした、なんてかわいくない反応をしてきた。ちょっとは慌てたり、ドキっとしたりしろばーか!