あたしは、今がすごく幸せだ。ご飯を作ってると、帰ってきておかえりってそれを迎えるのも、一緒に帰ってきて一緒にご飯を食べるのも、その後に行ってきますって手を振るのも、行ってらっしゃいって見送るのも、全部幸せ。あたしは幸せだ。十分に満たされてる。
──でも、幹人さんにとっては、どうなんだろう。あたしはあくまで恋人なんかじゃなくて、夫婦ごっこで、本当に幸せなんだろうか。
「なぁ、美咲」
「うん?」
「……実は俺さ、この間恋人ができたんだ」
聞きたくない。聞きたくない聞きたくない。そんな幸せそうに笑わないで、嫌だ、やめて。
あたしを置いていかないで、あたしを独りにしないで。あたしを、惨めな女にしないでよ。なんでダメなの? なんであたしじゃダメなの? あたしだって子どもじゃない、あたしは子どもじゃない! 九歳差だから? あたしに魅力がないから?
「だからもう……こんなごっこ遊びはおしまいにしよう、美咲」
ごっこ遊びでも、あたしは本気だったのに。遊んでたのは幹人さんだけだ。寄り道をしていたのは幹人さんだけだ。やめて、やめてやめてやめてやめてよ! あたしの気持ちはどうなるの? あたしの本気はどうなるの?
「本気? だって美咲は──」
その先は言わないで。幹人さんに言われたくないよ、あたしを助けてくれた、あたしを求めてくれたのに、それなのに! 恋人ができた途端あたしは用済みみたいに捨てられるの? 幹人さんにとってあたしが助けたってことはそんなにも軽いことなの? 嫌だよ、捨てないで、あたしは幹人さんが、幹人さんが……!
「──ただ感傷を俺に押し付けてるだけでしょ? 子どもみたいに泣き縋って、それが恋だなんて勘違いしてるだけだよ」
足元が崩れる感覚がした。彼は嘲笑う。あたしの恋を嗤う。あたしは突き落とされたように暗い奈落に堕とされていく。
必死に手を伸ばしても、幹人さんには届かない。暗い暗い底まで落ちて堕ちて、オチていく。
「美咲? 美咲?」
そこであたしの意識は現実に引き戻された。現実、とは言うけど今までのが夢だということに、あたしはしばらく気付けなかった。目を閉じては開いて、幹人さんを見る。
ソファでうたたねをしていたことも、幹人さんがお風呂に入ってたことも、思い出せないくらいに夢に没頭していたらしい。
「最悪……なにあれ」
汗びっしょり……ってほどじゃなかったけど、まだ心臓がドキドキと早鐘を打っていて、痛いくらいだった。夢か現か、あの夢にあったことが実は現実じゃないかとあたしは怖くなった。
幹人さんにカノジョができて、あたしが捨てられていくのは、現実? それとも夢?
──幹人さんがあたしとの関係をごっこ遊びだと嘲笑っているのは、現実? それとも夢なんだろうか。
「みきとさん……あたしは」
「落ち着いたか? うなされてたけど」
動悸が収まらない、息の荒いあたしに幹人さんはホットココアを持ってきた。ありがとう、と言おうとして、こびりついた悪夢があたしを臆病にさせる。幹人さんは心の中であたしを嗤ってるんじゃないか。そんな不信感があたしの胸に広がっていた。
「ごめん……」
「美咲?」
「……もう寝る」
「おい、ちょっと?」
ホントは眠りたくなかった。寝れそうになかった。
またあの悪夢を見る気がして、あたしは幹人さんにとって、ただ家事をしたり仕事を手伝ってくれる女子高生? そこにあたしが好きだなんて言ったら、あんな反応をするの?
──
「……ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい」
その日を最後にあたしは幹人さんの家に行くことをやめた。幹人さんに過剰に手伝いをするのをやめた。連絡を取るのをやめた。
あたしにとってここは、帰る場所なんかじゃない。ただいまもおかえりも行ってきますも行ってらっしゃいもおはようもおやすみも、全部茶番なんだから。
あたしも、いい加減大人にならなくちゃ。大人になって、幹人さんを解放してあげなくちゃね。
──美咲が帰って来なくなった。いや、本来は美咲の家じゃないんだけどさ。でもそれでもパッタリと来なくなった。
最初は連絡しようとした。どうした、とか何かあったのか、とか既読が付かなくてもそうやって俺の気持ち、みたいなのを伝えようとした。けど、これがもしもカレシとか気になる男ができたって言うなら、話は別じゃないかと考えた。気になる男がいて、それで冬から今までにかけて通い妻してました、なんて、言いたくねーんじゃねーのかなって。
いくら俺と美咲に
「……やっぱり、ごっこはごっこ、ってことか」
自嘲する。夫婦ごっこをしていて、俺はどうやら少しでも、この関係に何かホンモノのようなものを探していたらしい。バカげてる。相手は女子高生だ、有り得ないだろ。そう自分に言い聞かせていたけど、いざいなくなったらこんなにも、こんなにも空虚だとは思わなかった。もしかしたら、その空虚さを持っていたのは俺だけなのかもしれないけど。
六連勤もあとちょっとだけど、俺はまるで感情が胸からぽっかりといなくなってしまったように疲れたとか、悲しいだとか、そんな気持ちを感じることもなく業務に励み、そして最終日、美咲がバイトに来る日だった。
「おはよーございます」
「おはよ」
美咲はちっとも変わる様子もなく、ダウナーな雰囲気そのままに挨拶をして、タイムカードを切ってから更衣室へと向かっていった。
風呂上りにひどくうなされてる美咲を見つけてから久しぶりに顔を合わせたというのに、美咲は至って何事もなかったのように接してきた。だから余計に俺のことが迷惑になったんだと察しがついた。
「それじゃあ喜多見は納品、結構あるからよろしく」
「りょーかいですっ」
「奥沢はレジな」
「わかりました」
それならそれでいいと指示を聞き、事務所を出ていく美咲を見送り、作業に戻ろうとすると、喜多見は少し怒ったような表情で、宮坂さん? と椅子に座った俺の真横に立ってきた。
「美咲ちゃんとなんかあったんですか?」
「なんかってなんだよ」
「ケンカとか」
「ばーか、なんで俺がバイトとケンカしなきゃならん」
寝言は寝てから言え、と鋭いところを突いてきた喜多見をあしらおうとすると、そーゆーのは今はいいです。と逆に返された。
喜多見は前から美咲のことを気に入っていたもんな。そもそも平日とはいえ夜の時間帯を選択する女性の学生アルバイトなんてそれこそ喜多見と美咲くらいだ。それだけ会話も多かった気がする。
「あんなぼんやりした美咲ちゃん、初めて見た」
「そうか、いつもと変わらんように見えたけど」
「……それ、本気で言ってます?」
初めて見るような表情だった。いつもにこにこ、もといへらへらしてる印象のある喜多見が怒気を声に含ませている。
別に誰かに二人の関係を言いふらしたりしませんよと前置きをして、もう一度だけ喜多見は何かあったんですか、と聞き返した。
「……なんもねーよ」
「だったらどうして」
「俺が知りてーくらいだよんなこと。風呂上がったらうなされてて、心配したのに自分の部屋に引きこもって、朝はフツーに学校行ったと思ったらそのまま帰ってきてねーんだよ、そんな俺にわかるわけねーだろ」
つい、つい言っちまった。でもここで誤魔化せる気がしなくて、俺は喜多見にぶつけた。その事実に喜多見は驚いた顔をしてから、やがてそっか、と呟いた。あーあ、一応仲が良いこと以上には誰にもバレてなかったんだけど、美咲と同じ場所で働いてる以上、こうなるんだよなぁ。
「今の同棲してるっぽい発言は、今度お食事でもしながらゆっくり訊きます」
「……おう、もう喜多見に隠すのはムリそうだからな」
「だから聞きますね、美咲ちゃんとは恋人同士ですか?」
「違う」
違う、それは確実に言えることだ。俺は美咲に恋をしたら部屋を自分ちみてーにしてていいって言ったわけじゃねぇ。
──俺のただの感傷だ。それを美咲に押し付けてるだけのちっちゃな男だよ。
「……美咲ちゃんも、宮坂さんも、不器用なんですよ」
「不器用?」
「自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手すぎて、いつの間にか相手は察してくれるだろうって逃げてるんです。そんなの、伝わるわけないのに」
喜多見の悔しそうな、悲しそうな言葉にああ、と納得の声を上げた。俺は美咲から気持ちを聞いたことはない。逆に、俺も美咲にちゃんと言葉にしたことはないんじゃないだろうか。
でもそうだとしても、俺はどう伝えたらいい? 美咲はもう俺から離れていったのに。
「……カレシでもできたって、それこそ勝手に決めつけたことじゃないですか!」
「そうだな……」
「宮坂さんも美咲ちゃんもめんどくさいですね」
めんどくさいってな。俺と美咲にも色々あるんだよ。お互いバカみたいに臆病者だからな。だから夫婦ごっこで満足してたのかもしれない。
──その先、俺や美咲が別のヒトを見つけた時に、いつでも壊れてもいいように。最初はそんなつもりだったんだけどな。いつの間にか、美咲がかけがえなくなっていくんだから、俺ってのは単純な男だと思う。
「美咲ちゃんとお話してきます。多分二人ともめんどくさい勘違いしてると思うんでっ」
喜多見はそう言って事務所から出ていった。いやありがたいけど今は納品してくれた方がもっとありがたいんだけどな。
残念ながらその思いは口に出していないため、喜多見には届くことがなく、俺は諦めて事務作業に戻っていった。