「あのね、栞ちゃん……私ね」
桔梗ちゃんの部屋へと入った私は今、壁と桔梗ちゃんの間に挟まれて動けない状況にいました。
そんな私に桔梗ちゃんがゆっくりと顔を近付けてきます……
(このままじゃいけない)
とっさに私は足を後ろに引きました。
『……カタッ』
私のかかとはドアにぶつかり鈍い音を立てます、これ以上は前にも後ろにも動けない……
「……き、桔梗ちゃん」
身動きが取れないと悟った私は小さな声で桔梗ちゃんの名前を呼んでいました。
もうお互いの胸が触れあっている状態。あと少しでも動けば重なってしまうくらいの距離……
「あのね、栞ちゃん」
桔梗ちゃんはその距離で動きを止めて、もう一度私の名前を呼びました。
「う、うんっ、何……かな?」
私はその呼び掛けになんとか答えて桔梗ちゃんの言葉が出てくるのを静かに待ちます。
「栞ちゃんは私と堀北さんどっちが大事なの?」
桔梗ちゃんは真剣な面持ちで聞いてきます。その言葉を聞いてようやく私は桔梗ちゃんの考えていることを理解しました。
それは、原作での櫛田桔梗という女の子の在り方について。そして、次の期末試験で桔梗ちゃんがBクラスを裏切る事になる未来について……
ようこそ実力至上主義の教室への世界でヒロインの一角である櫛田桔梗、社交性に優れ、運動も勉強もそつなくこなせる彼女ですが、そんな櫛田桔梗にも入学当初のクラスがDクラスであったことには理由があります。
そもそも入学時にDクラスに配属された人たちは、何かしらの不安要素がある人たちです。それは勉強や運動、または人間関係や、私のように特別な事情の存在まで多岐に渡ります。
そして彼女の事情……それは中学3年の時に起きたある事件、櫛田桔梗というたった一人の少女がクラスを崩壊させた、その事件が原因なのです───
あれは中学3年の時、2月も終わりかけの頃だった。今まで楽しくて、平和で、なんの問題も抱えていなかった私のクラスはその日、全員が欠席した。
うぅん、なんの問題も抱えていなかったのではない。私と言う問題をずっと抱えて続けてきた。ただそれに誰も気づけなかっただけのこと……
そして私のクラスはその日を境に卒業まで、誰も出席することはなかった。
目立ちたい、褒められたい、可愛いと言われたい、自分に注目してほしい。そんな欲求……
それが叶った瞬間に自分の価値の高さを実感する。生きているって初めて実感する。
だけど私は知っている。どれだけ勉強を頑張っても、どれだけスポーツを頑張っても、私は一番にはなれない。
自分の限界を私は知っている。
だから考えた。誰にも負けないもの、私が一番になれるもの、そして見つかった。
誰よりも優しく、誰よりも親身になれば、その分野では一番になれる。
そう……私が誰よりも信頼される存在になる事で。
ただ、それは苦痛、とても苦しい……
やりたくもない。すごいストレス。好きでもない人と仲良くして、誰にでも『優しい私』を作る。
だけど私は耐えて、耐えて、耐え続けた。
いつも笑顔で、いつも愛想よく、みんなに慕われるように仮面を被り続けた。
そして……ついに私の心は限界を迎えた。溜め込み続けることは不可能だった。
私は溜まり続けたストレスをプログに書いた。もちろん匿名でやったし、登場人物の名前も伏せた。プログのお陰でストレスはスッと溜飲を下げて、私は私を維持する事ができた。
だけど、その日常は急に終わりを迎えた。
幾ら登場人物を伏せていても、書いている内容が事実だから気付かれても無理はなかった。
クラスメイトに無数の悪口を見つけられた私は、嫌われても仕方なかった。
翌日、学校に行くとクラスメイト全員が私を責め立てた。
今まで散々私に助けられてきたのに、本当は嫌なのに相談に乗ってきたのに、手のひらを返されるのは一瞬の事だった。
今まで私のことを好きだと言っていた男子が私の肩を突き飛ばしてくる、今まで私のことを一番信頼してると言ってくれていた女子が私に罵声を浴びせてくる。
もう戻れない、元には戻らない。
私の信頼は崩れた、これからはクラスメイト30人が私の敵になる。
『だからもうやめた』
私は「嘘」も「暴力」も使わずに全てを終わらせた。「真実」という刃を使って全員を切り裂いた。
今まで全員が私に相談してきた秘密を、人間関係や過去を、誰にも言われたくない命とも取れる大切な情報を、その全てをその場でさらした。
それは、たった一度きり、私の信頼を完全に失う事と引き換えに、たった一度だけ使うことが許される強力な諸刃の剣……
そしてその日を境に、私のクラスは誰も登校することはなかった……
この事実は学校により隠蔽され誰にも知られることはない。
「次は上手くやる」
私は地元から離れた学校に入学してもう一度、最初から信頼を積み上げようと決意した。
全ては自分の欲求を満たす為に、生きていると感じる瞬間を迎えるために。
「なのに、なのに、どうして……」
私にとって、その第一歩となるはずだった入学式は最悪の日になった。学校に向かうバスの中で、堀北鈴音に再会したからだ。
この学校であの事件を知るたった一人の存在。
『同じ中学の人間』
あいつがいる限り、私に本当の平穏は、ない─
「栞ちゃんは私と堀北さんどっちが大事なの?」
私はすぐに答えられずにいました。
どちらも答えられない、両方大事。
叶うならば二人と仲良くしていきたい。けれどそれは、難しいことなのかもしれない……
何も言えないまま立ち尽くしていると、桔梗ちゃんは私の両手を持ち上げてドアに押し付けてきました。
「……桔梗ちゃん?」
「私はもう失いたくない、信頼も恋愛も欲求も、私の全てを賭けて守り抜く、私が生きている瞬間を感じる為に……」
そして桔梗ちゃんは私に顔を近づけてきました。
きっと、掴まれたその手をはねのける事だって出来た……
だけど私は桔梗ちゃんを受け入れてしまった。
最初は抵抗しようと力を入れていた両手も次第に弱くなり、桔梗ちゃんが欲求を満たし終わる頃には、私の手は既に力なく桔梗ちゃんに委ねられていた。
「ねぇ、栞ちゃん、私と堀北さんどっちが大事?」
こうして私たちの関係は少しずつ変わり始めて行くのです。