「確かに犯人確保の功績は認めよう。だがな。この半年でお前らが壊したパトカーは何台目か覚えてるか?」
剃り上げた禿頭に立派な髭を蓄えた白人の初老の男が、眉間に深い皺を寄せ、じろりと睨み上げる。
胸元を飾る階級章が、彼をこの署のボスだということを知らしめていた。
署長室のデスクの前に立たされた2人は、ほぼ同時に肩を竦めた。
「さぁ……2台目ですかね。多分」
「いやいや、この前割り込んで来やがったDEA(麻薬取締局)の車に思い切りぶつけた記憶もないようなあるような」
「おいハンキー 。あれはお前の運転だぜ?」
「違うだろウィル。俺のは売人のカウンタックの横っ腹に突っ込んだ時だ」
「もういい」
埒があかないと、署長は深く溜息をついた。
「今は予算も人員も足りん。もう絶対に壊すなよ」
「イエス・サー。ボス」
2人はビシリと敬礼すると、話は終わりだと椅子ごと後ろを向いた署長にこっそりと中指を立ててから退出した。
「また2人仲良くお小言か? 懲りないな」
丁度通りかかったハンクの後輩であるベン・コリンズが、署長室から出てきた2人に向かって冗談めかすように言った。
「署長は俺たちが不細工な娘みたいで可愛くて仕方ないってさ」
「署長が聞いたらぶっ殺されるぜ? それ」
ベンがチラリとガラス越しに署長を見た。
気難しく厳しい彼らのボスは、今年20歳になる彼そっくりな娘をそれはそれは溺愛している事をこのフロアの誰もが知っていた。
「……それでだ。お二人さん。今日パクって来た例のジャンキーだが」
ベンは声のトーンを落として、二人を見た。
「ヘロインよりヤバい奴をキメてたらしい。留置場で血だらけで叫びながら便器とファックしてやがった」
ハンクは「マジかよ」と顔を顰めたが、隣のウィルが思案するように腕を組んだ。
「……『フラッカ』か」
「恐らくはな。今検査結果待ちだ」
フラッカ。又の名をバスソルト。安価で精製できるその合成麻薬は、近年急速な勢いで貧困層を中心に合衆国で蔓延し始めていた。数ドルで買えるが、常用し続けると恐ろしい程に凶暴化し、人を襲い肉を喰い千切るなどの異常行動に出るという事から、巷では『ゾンビ・ドラッグ』の名で知られていた。
そんなドラッグがこの街に蔓延したら。想像するだけでゾッとする。
「奴の家に行ってみよう。何か出るかもしれん」
ウィルの長年パトロール警官として積んで来た経験と勘ほど、信頼できるものはなかった。
ハンクは頷くと、表情を引き締めた。
――――――
二人がいつものようにパトカーの鍵を開ける。念の為にショットガンをトランクに入れ、防弾ベストを着込む。いつ何が起きても不思議じゃない。それがこの街だ。
いつもの車両は職務執行によるやむを得ない事態で現在修理中である。渋る装備課に無理を言って借りた予備のパトカーは、配備されたばかりのようで新品同様だった。
ドアを開けると、真新しい革のシートの匂いがする。タバコとコーヒー臭い自分たちの車両とは雲泥の差だ。
「新車はいいなやっぱり」
ウィルがシートベルトを締めながら言った。
「いいや。車はヴィンテージに限るぜ」
「お前若い癖にチョイスが渋すぎるんだよ」
ハンクは父親から譲り受けた車を今でも乗り続けている。古い車ゆえに乗り心地はお世辞にもいいとは言えなかったし、助手席に乗る女性達の評判は今一つだった。
「ヨーロッパ製のが女にもてるぜ?」
からかい交じりのウィルの言葉にハンクは無言で中指を立てた。すぐにウィルの笑い声と共に喧しいエンジン音が鳴り響いた。
既に太陽は毒々しいオレンジの光を放ちながら立ち並ぶビルの海に沈もうとしていた。
「Bluetoothスピーカがあるな。流石新車は違うね」
オーディオに気づいたウィルは自分のスマートフォンのプレイリストを再生した。
スピーカから軽快なギターと野生的でメロウな歌声が響く。
「音楽の趣味は人の事言えねぇじゃねえか」
ハンクが窓の外を見ながら呟いた。
「ボウイの良さがわからんからいつまで経ってもお前は坊やなんだぜ」
ウィルは笑うと、車内に流れるお気に入りの曲「ジギー・スターダスト」のフレーズを口ずさみ始めた。
ハンクは薄闇が迫る空を見上げた。もうすぐ夜が来る。犯罪者共がうろつき始める時間だ。
「この近くだな」
ハンクは油断のない鋭い目で周りを見回した。日が暮れた団地の中をパトカーがゆっくりと走行する。赤茶けたレンガ造りの古い団地は、窓ガラスが所々割れていて、壁は落書きだらけ。廃棄された粗大ごみがそこかしこに積まれていて、およそ人が住んでいるとは思えない状態である。だが、この街にはこんな場所がいくつもあるのだ。そしてそういう場所を好む奴らがいる事も。
「回転灯を消そう」
ウィルの言葉にハンクが回転灯のスイッチを消す。赤と青のライトが消え、ヘッドライトだけが前方を照らす。バンディの住処はすぐそこだった。
「気をつけろよハンク。ここいらはクリムゾンの縄張りだ」
緊張した面持ちでウィルがハンクを見た。デトロイトは今や黒人やヒスパニック系ギャング、ロシア系マフィアやメキシコの麻薬カルテルがひしめく悪党の見本市のようなものだ。どこの地区でもギャングやカルテルの息がかかった売人が街角をうろついている。クリムゾンは黒人が主体となったギャングで、メンバーはその名の通り常に赤色の衣服やアクセサリーを身につけている。
ハンクとウィルは団地を見上げた。5階の角部屋。バンディの部屋を外から確認する。
「行こう」
割れてただの空洞になった自動ドアをくぐり抜け、二人は廃墟同然のマンションに入っていった。
――――――
じゃり、とガラスの破片を踏む音がマンションの廊下に鳴り響く。二人は銃を抜き、人気のない通路を注意深く進んでいた。
既に電気も通ってないのか、蛍光灯は意味をなしていない。月明かりと、二筋のマグライトの光だけが頼りだった。
ハンクのマグライトが目的のドアを照らす。声を立てないよう、後ろのウィルにハンドサインを出した。
素早く二人はドアの両側へ張り付いた。ウィルがゆっくりとドアノブを回す。
がちゃり。
ドアノブが回った。
緊張が二人を包み込む。
ゆっくりと、音を立てないようにドアを開け、銃を構える。荒れ果てたリビング、キッチン。生ゴミと埃の饐えた不快な臭いが鼻腔にこびり付く。
そしてウィルがバスルームらしきドアに手をかけた。
その時だった。
「ウィル!」
思い切りウィルの肩を引くと、銃声と共に木製のバスルームのドアが弾け飛んだ。
「クソ!」
ドアの破片を浴びながらハンクがバスルームめがけて銃を撃つ。ウィルも羽毛が舞うソファを背にしながら応戦した。
「おい! おい! ハンク! 待て!」
ウィルが大声で叫んだ。引き金に掛けた指を解く。既に銃声は止まっていた。
たっぷり十秒ほど待つ。二人の荒い呼吸のほかに、かすかにうめき声が聞こえた。
月明かりの中、目配せをする。言葉を交わさなくても次の行動は決まっていた。
穴だらけのドアをハンクが蹴り破り、ウィルが先行する。
「いたぞ! おい! 動くな! デトロイト市警だ!」
マグライトの光に照らされたのは、バスタブにもたれかかるように倒れた黒人の男。傍には赤いベースボールキャップが落ちている。慎重に近づくと、既に男は胴体に数発命中していて、ひゅうひゅうと肺から息が漏れ出ていた。
ウィルが背後で本部に連絡し救急車を要請するのを聞きながら、ハンクは男に近づいた。
「お前、この部屋で何してたんだ」
横に転がるのは古びたスタームルガー9mm。ギャングに人気の銃だ。拾い上げて入り口に向けて放った。探るように男を覗き込む。男は、苦痛に顔を歪めながらも、敵意剥き出しの眼でハンクを見つめた。
「何を探してた……?」
男の眼を覗く。僅かに、男の視線が泳ぐ。その眼がある一点を見つめた一瞬をハンクは見逃さなかった。
「おいおい。何してんだ。ハンク」
「ちょっと気になるんだよ。手伝ってくれ。ほら。そっちを持って」
おもむろにベッドに近づいた相棒に、ウィルが訝し気に声をかけるが、ハンクは神妙な面持ちで汚れたマットレスを触っていた。
二人でマットレスを下ろす。その下をライトで照らすが何もない。だが、彼等の警察官としての勘と経験が確信していた。
「このサイズにしちゃ重すぎる」
「ああ」
ハンクは携帯していたナイフでマットレスを切り裂いた。たちまち、ライトの中に白い煙が舞い上がり、二人はそれを吸い込まないように、一度離れた。
ビニールに包まれた白い粉末状のパッケージが、ぎっしりとマットレスの中に敷き詰められている。
「『フラッカ』かヘロインか」
「ああ……いや。もっと悪いモンだ。見ろよ」
ウィルが嫌なものを見てしまったかのように言った。ライトに照らされたのはパッケージに刻印された『CDS』の文字。
ハンクは自分の首筋が粟立つのを感じた。
「これはシナロア・カルテルのブツだ」
不気味な沈黙が、二人の間を流れた。救急車と応援のパトカーのサイレンがやけに遠く聞こえた。