ジェシカの家から15分ほど車を走らせると、閑散とした商店街の中、廃業した雑貨店らしき店や食料品店の並びにそのパブはあった。
くすんだ赤のペンキが塗られたドアには、乱暴な文字で「白人、ポリ公お断りだ。クソ野郎」と書かれた張り紙がしてあって、二人はそれを見てため息を吐いた。仕方ないことだ。ここデトロイトは黒人の居住者が多い。スラム街にはその比率はさらに多くなる。逆に市警には昔ほどではないが、白人の警官の方が多い。今は黒人やヒスパニック系の警官も増えてはきたが、他の市警と比べればあまり多い方ではない。
そしてこの店は、ストリートギャングである、『クリムゾン』が集まる店だ。二人は緊張した面持ちになった。
「念の為、無線を入れておこう」
「そうだな」
ウィルに言われ、ハンクは車載無線を取り、本部へ現在地と用件、車両を離れる旨を連絡した。
二人はドアの前に立ち、ウィルが先になってドアを開けた。
途端にむっとしたタバコとアルコール、そしてマリファナが混ざった臭いが鼻を突いた。大音量のヒップホップで鼓膜がおかしくなりそうだった。中には7~8人の若い男が警戒心剥き出しの眼差しで、二人を睨みつけていた。
「外の張り紙が見えなかったのか? ポリ公共」
店主らしきレゲエ風の男が笑った。それにつられて、数人の下卑た笑いが店内に響いた。
「フレッドを探してる」
ハンクが少し大きめの声で、端的に言った。ウィルは油断なく男たちを見つめる。彼等の反応をつぶさに観察しているのだ。彼等はそうやって、嘘の中に隠された真実を見抜いてきた。
「そんな奴知らねえな」
赤いTシャツの男が言った。これ見よがしにテーブルの上のバタフライナイフを弄んでいる。ハンクは肩を竦めた。
「そうか。アルバートについて、何か知ってるやつは?」
男達はニヤニヤと笑うだけで何も答えようとはしなかった。ハンクは無駄足だったなとうんざりした。
「あいつは腰抜けだよ。銃も怖くて持てないくらいだったからな」
「なんだって?」
まだ10代であろう少年が小馬鹿にしたように笑った。
「じゃあ、なんだってそんな『腰抜け』が強盗して人を殺せるってんだ?」
ウィルの言葉に男達の表情が変わった。驚き、戸惑い。そんな感情が混ざっているようだ。
「さあな。ヤクでもキメすぎたんだろ」
「お前ら売人はヤクはやらないんだろう?」
「知るかよ。俺らは売人じゃねぇからわからねぇ」
そう言って男たちはゲラゲラと嗤い始めた。ハンクがウィルを見る。本部に応援を求めてこいつらを全員引っ張ってしまえばいいと思った。理由は何でもいい。マリファナ使用、十代少年への酒の提供、銃刀法違反、警官への公務執行妨害。だが、ウィルは小さく首を振った。
「そうか。悪かったな。邪魔をした。だが誤解をしないでほしい。俺達はアルバートに何があったのかを知りたいだけだ。彼の家族の為にもな」
ウィルはハンクの肩を叩くと、出口に向かった。ハンクは少し戸惑いつつも、戸惑いと不信感の混ざった視線を振り切ってウィルの後を追った。
「なぁ、これでいいのかよ。あいつらを引っ張ることだって……」
「いいんだ。これで少しはアルバートがどういう人間かわかった。アルバートは銃を持てないくらいに小心者で、ヤクをやったことがない。元は真面目な工員だったんだ。本当にな」
パトカーに乗り込みながら、ウィルはそう言った。フレッドとやらの情報は得られなかったが、アルバートの人柄に関する裏取りは得られた。彼は麻薬の売人という犯罪に手を染めていたが、根は善人だった。
「じゃあなんでそんな奴がフラッカをやったのかが分からねぇな」
ハンクが運転席のウィルを見た。すると、助手席の窓を何かがコン、と叩く音がする。小さな石が当たったような音だ。見れば遠くに男がパトカーと周りを見渡していた。ハンクはドアを開けると、男に近づいた。見覚えがある。先程パブにいた若い男の一人だ。
「どうしたんだ?」
ハンクが訝し気に声をかける。すると青年はきょろきょろと周りを注意深く見回して、誰かに聞かないように声を潜めた。
「『フレッド』だけどよ。奴はよく大通りのダイナーに行くんだ。それに奴は自分の事はあんまり喋らない」
「どうして教えてくれるんだ?」
ハンクは訝しんだ。疑いたくはないが、警官を陥れようと考えてる人間はいくらでもいる。
「アルは、ガキの頃から近所で一緒に遊んだ兄弟みたいな奴だ。彼のお袋さんも知ってる。優しい奴なんだ。本当は、こんな事やるべき奴じゃない」
青年は表情を曇らせた。彼も望んでこのような生き方をしているわけではないようだ。すべては貧しさが引き起こしてるのでは無いだろうか。
ハンクの胸の裡に、重苦しい雲が広がる。
「フレッドはアルバートに仕事を紹介したと聞いたが」
「ああ。これが終わったら売人を辞めると言ってた。俺もそうするべきだって言ったんだ」
「お前、名前は?」
「ロニー」
「ロニー。教えてくれ。フレッドの事を」
ロニーは少し逡巡して、ようやく顔を上げた。
「奴がクリムゾンに入ったのは2年位前で、今はいろんな奴に仕事を紹介してる。『仲介者』って呼ばれてたな」
仲介者。ギャングの下位メンバーに仕事を紹介する者。仲介手数料はまるごと仲介者の懐に入る。
「話しづらいことを話してくれてありがとうな」
ハンクはポケットから20ドル札を出して彼のジャケットのポケットに入れた。彼は笑みを浮かべてハンクを見上げた。
「なぁ、アルは……」
「……死んだよ。首をつって」
え? とロニーが言うのと同時に、ハンクは背を向けた。
「重度のフラッカ中毒だった。留置場で首を吊ったんだ。止められなかった」
ハンクは沈痛な表情を浮かべた。酷い罪悪感が胸をかき乱す。
「そうか……そうか」
ロニーは俯いたまま言った。
「すまなかった。俺達は彼を救えなかった」
ロニーが驚いたようにハンクを見つめた。
「そんなことを言った白人は、あんたが初めてだよ」
「白人とか黒人とか関係ない。俺達は警察官だからな」
ハンクはウィルの言葉を思い出していた。警察官たる者、人種など関係ない。市民の財産、生命を守るのが任務である。たとえどんなに嫌われようとも。それは変わることのない、彼等の拠り所でもあったし、昔週末に連れてこられたミサの牧師の言葉より数倍も重く胸に響くものだった。
「フレッドは大体月曜日と木曜の夜にダイナーに行く。其処で仕事の話をするから……」
ハンクはロニーの眼を見つめた。黒人特有の深い焦げ茶色の瞳は、真っ直ぐに自分を見つめていた。
「わかった。お前を信じるよ」
その言葉にロニーは僅かに微笑むと、踵を返した。
ハンクはウィルの待つパトカーに戻った。車内はいつもの雑談を響かせず、無言だった。
「お前だって随分な大言壮語だったぜ?」
ウィルがからかうように言ったので、思わずむっとしてそちらを見た。
「分かってるさ」
ウィルはその言葉に笑った。
「さぁて。面倒なことにならなきゃいいな」
制服の胸ポケットから写真を取り出して、ウィルが呟く。そこには、利発そうな少年が笑顔を浮かべていた。ウィルによく似ている。
「レイの誕生日、もうすぐじゃないか?」
ハンクが父親の顔になって写真を見つめていたウィルに言った。彼には10歳になる息子がいる。毎年彼の誕生パーティーに招かれるくらいで、もはや彼らは家族同然の間柄だった。
「ああ。去年はクリスマスすら一緒に居られなかったからな。今年も祝えないとなると息子と家内に大目玉喰らっちまう」
「サラは元気かい?」
「今やっと安定期に入った所でな。悪阻も落ち着いたみたいだし」
「なら安心したよ」
サラはウィルの妻で、現在妊娠6か月の身重である。
その時、すぐ近くで、乾いた破裂音が響いた。二人はすぐさま銃把に手を掛け、車内は一瞬にして緊張に包まれた。
だが、空き地から上げられた眩い火花に、ハンクは安堵の溜息を漏らした。
「……何だ。花火か」
「もうすぐ独立記念日だからな。忙しくなるぞ」
独立記念日の夜は皆羽目を外しやすい。それに伴い、強盗、強姦、誘拐。そんな凶悪犯罪が発生する可能性がある。
「憂鬱だな……ん? 待ってくれ。俺の電話だ」
軽快な電子音が鳴り、ハンクは尻のポケットからスマートフォンを取り出した。
「アンダーソンだ。ああジェフリーか。どうしたんだ?」
今年、殺人課に転属したばかりのファウラーからだった。ハンクと同時期に市警に配属された彼は、真面目過ぎるきらいはあるが、熱意に溢れる良い警官だった。
《忙しいところ悪いな。この前お前らと撃ち合ったギャングだが……》
「死んだのか?」
《ああ。だが普通の死に方じゃない。『病院の中で』頭を撃たれて死んだんだ》
「何だって?」
《手慣れてるよ。枕に銃口を押し当ててる》
「ああ、何てこった」
《捜査チームの見立てでは、カルテルの殺し屋がよく使う手らしい》
「わかった。知らせてくれてありがとう」
《ハンク。この件にはあまり深入りしない方がいい。ウィルにも伝えてくれ。カルテルが絡むと碌なことがない》
「ああ。わかったよ」
ハンクは通話を切ると、シートに深く身を沈めた。
「ジェフリーは何だって?」
ウィルがギアを入れながら言った。
「俺たちと撃ち合った男が死んだ。病院で、頭をぶち抜かれて。カルテルの仕業かもしれない」
「……そうか。残る手がかりは【フレッド】だけって事だな」
「ジェフリーが深入りするなってさ」
ウィルはニヤリと笑う。
「そう言われて引き下がる俺達じゃねぇだろ?」
「言えてるな」
ハンクは笑いながらシートベルトを締めた。
――――――
月曜日。彼らは大通りの寂れたダイナーの駐車場に居た。
「ホントに来るのかね」
ウィルがハンドルを握る手に顎を乗せながらボヤいた。
「さぁな」
フレッドの背格好はロニーから聞いていたが、22時を回ってもそれらしき人物は現れなかった。
「奴は用心深そうだ。仕事の話をする場所を何箇所かで変えてる」
「長期戦になりそうだな」
煌々としたダイナーの灯りが、車内を照らしている。すると、一台の黒いセダンが駐車場に入ってきた。中には男が一人だけ。ニット帽を被っているようだ。
「おい、おい。見ろ。ウィル」
「ああ。奴が外に出て、車から十分に離れるまで様子を見るんだ」
「顔を確認しよう」
ハンクは小さい双眼鏡を取り出した。背格好は聞いているものと合致する。黒のパーカー、ジーンズ、赤いバンダナを首に巻いていた。
男の顔がダイナーの灯りに照らされた。間違いない。フレッドだ。ハンクはダイナーのドアに向かおうとした時点で、車を飛び出した。
「パトカーを奴の車の前に止めておいてくれ。俺は奴を」
ウィルにそう言い置くと、早足でフレッドの元へ向かう。
走ると装備が音を立ててしまう。警官だと気付けば奴は直ぐに逃げ出してしまうだろう。
フレッドの手が、ドアにかかる。そしてその手が止まった。
男の眼は、ドアのガラスをじっと見つめていた。ハンクはすぐに自分がしくじったことに気づいた。
フレッドはガラスに映ったハンクの姿を見て、脱兎のごとく駆け出した。クソ! と吐き捨てると、ハンクはその背中を追った。
「ハンク! 深追いするな! 応援を待て!」
ウィルの声が聞こえたが、止まる事はなかった。自分の失態だ。何としても奴を捕らえたかった。
「止まれ! フレッド!」
深夜の大通りに、ハンクの声が響き渡る。フレッドの足はかなり速い。ハンクの体力テストの結果は署内でも上から五指に入る程のレベルだが、彼はそれ以上に思えた。
フレッドは路地裏を駆け抜け、フェンスを乗り越える。ハンクも負けじと追いすがっていた。フレッドにごみの入ったバケツを倒され、慌てて飛び越える。いい加減に息が上がってきた。こちらは手錠や銃、警棒やらで大体5、6キロのウェイトをつけているのと一緒なのだ。
黒いパーカーの背はは通りを突っ切り、ショッピングモール跡地の隣にある古い立体駐車場に入った。ハンクはウィルに無線で現在地を伝えると、銃を抜いて駐車場に入っていった。
「どこへ行きやがった……」
荒い息を整えながら、慎重に進む。驚いたことに電気が通っているようで、黄ばんだ蛍光灯がチカチカと点滅している。廃車されたのか、錆びが浮き、窓ガラスを割られた車が駐車場内に無数に並んでいて、まるで自動車のモルグのようだ。
ハンクは油断なく辺りを見回しながら、廃車の中を歩く。
僅かに、砂利を踏む音を聞いた。4時の方向。赤色のセダンの影。
一か八か、音の方へ走る。そのままセダンのボンネットを滑るように乗り越え、向こう側へ着地する。
黒い影が驚いたように振り向いた。完全に振り返る前に、その背中に銃を押し付ける。
「動くな! デトロイト市警だ! 一歩でも動いてみろ、そのケツに鉛玉をぶち込んでやる」
「待て、待ってくれ!」
フレッドが焦ったような声を上げた。
「動くなと言っただろう! 黙れ!」
「話を聞いてくれ!」
余りにも鬼気迫るその声に、ハンクは一瞬訝しんだが、両手を上げるように促した。
右手で銃を突き付けたまま、左手で念入りに身体検査を始める。こういった輩は、どこに武器を隠し持っているかわからない。
「右側の、ポケットを」
「なんだと?」
「右側のポケットを調べてくれ。それで俺が誰かわかるはずだ」
いやに冷静なフレッドの言葉に、ハンクは警戒しながら言うとおりにポケットを探る。すると覚えのある感触が手に触れた。
「マジかよ……」
手にしたそれは、嫌でも見覚えがあるものだった。黒い革の手帳に、金色の徽章。ハクトウワシを模したその意匠には、金色の文字でこう書かれていた。
『Drug Enforcement Administartion』
通称、DEA。アメリカ麻薬取締局。
「これで、信じてくれたか?」