:1976年某日 アメリカ、ニューヨーク、マンハッタンの某所にて
今、あの“顔のない男”はどうしているだろうか。かつてゼロと呼ばれた老人はその日、そんなことを思った。
その贈り物が、英国陸軍特殊空挺部隊『Special Air Service』ゆかりの品が入ったケースだと知った時から、ゼロは贈り主の正体に気づいていた。
かつてゼロの腹心だった“顔のない男”は、独断でCIPHERを動かして『カリブの虐殺』を引き起こし、その咎で配下ともどもアフリカへと左遷された。その彼が、ゼロにこのような贈り物を用意していたとは。
愛用のティーセットでアフタヌーンティーを準備し、茶葉を蒸らすまでの間で通信機を手に取る。
ゼロが生まれた1900年代のイギリスにはまだ英国紳士という人種が存在しており、その誇り高い精神を受け継いできたゼロにとって、紅茶は単なる趣味に留まらない。
これまで多くのものを諦め、捨ててきたゼロだが、午後の紅茶だけはどうしても辞められずにいた。
しばらくのコール音、そして通信は繋がった。
〈 ゼロ少佐、まさか本当にご連絡をいただけるとは…… 〉
落ち着き払った男の声が応答した。ゼロをかつての階級“少佐”と呼び続ける習慣は相変わらずか。
ならば、とゼロは、この“顔のない男”を昔の呼び名で呼ぶことにする。
「
ゼロがかつてSASを率いていたことを知る人間のうち、この中身の意味がわかる者はほんの一握りだ。
その中でも、今のゼロの身辺へ到達し得るほどの人物といえば、かつてゼロのeXecutive Officerすなわち副官:X.Oを務めたこの“顔のない男”しか有り得ない。
〈 どうですか 〉
“贈り物”について副官から感想を求められ、ゼロはケースを開封する。
添えられていたメモのとおり、ケースの中にはバッジがひとつ、丁寧に納められていた。
これをやっと見つけたのか。ゼロも手を尽くして捜し求めていたが、この小さなバッジを見つけるまでによもや10年もかかるとは思わなんだ。
「エジプトで亡くした仲間のバッジ……かつてのレイフォースで『ザ・ボス』の部下だった」
私が彼女――“ザ・ボス”に届けたんだ。ゼロは懐かしむように言った。
ゼロとザ・ボスは第二次大戦が始まる前からの戦友で、1900年代生まれのゼロと1920年代のザ・ボスでは、年齢こそ親子ほど離れていたが、共に同じ夢を見て、同じ理想を語らい、そして同じ目的を目指してきた同志だった。
ゼロも、ザ・ボスも、あの時はお互い若かった。
〈 『スネークイーター作戦』で命を奪われるまで、ザ・ボスはこれをずっと肌身離さず持ち続けていました……裏はどうです 〉
副官に促されて裏を返した途端、金属の鋭い擦過音とともに、ゼロの指先へ痛みが走った。
「うっ……!」
〈 どうしました 〉
「いや、ピンで指を刺しただけだ」
血の滲む指先を舐めながらバッジの検分を続けるゼロ。
バッジに刻まれたキズは、ゼロの記憶と相違ない。白い裏地の糸も、SAS発足当時のベレー帽のものだった。
副官にもかつて話したが、このバッジには大切な物語が篭められている。
「……む、あった。1941年12月30日、この刻印は私が刻んだ忌日だよ」
〈 ほう…… 〉
第二次大戦中の北アフリカ戦線で、同じ部隊にいたゼロとザ・ボスは、激戦の末に一人の戦友を失った。
激しい戦闘で、遺体を回収することはかなわなかった。彼の体は、今もなおエジプト砂漠のどこかに埋もれている。
だからこれが墓のようなものだ、とゼロは呟いた。墓というものを故人の記憶を思い出すための装置だと定義したならば、このバッジこそが彼の墓だ。
「バッジを渡した時、ザ・ボスはこの刻印をずっと指でなぞっていた。『戒めろ』と自分に言い聞かせるように。強く、指にまで刻み込むように」
ザ・ボスは最後まで、戦友を亡くしたその痛みを忘れなかったのだろう。だからこの刻印の部分だけ、まるで磨かれたように光沢を保っている。
「……私たちの戦友だった」
ゼロにとってはもちろん、ザ・ボスにとっても、このバッジは大事な戦友の墓標だった。磨耗したバッジはその証。
副官とはお互い遺恨があるとはいえ、見つけてくれたことには感謝しなければならない。
〈 では…… 〉
「ありがとう。間違いない、本物だ」
ゼロの返答に、副官は安堵したようだった。
〈 よかった。これで、最後の心残りが果たせました 〉
副官の反応に、ゼロは微かに違和感を覚える。心残り、と副官は言ったが、バッジの思い出はゼロとザ・ボスのものであって、副官は無関係のはずだ。
確かにバッジの捜索を副官に依頼したことはあったものの、それは10年以上も前の話だ。
それとも、このバッジにゼロの与り知らない意味があったのだろうか。そもそも10年前のミッションを今になって果たして、その見返りに副官は一体、何を求めるつもりなのか。
「だが、これで君はどんな……」
〈いえ、ただひとつだけ、あなたにお話が 〉
怪訝に思ったゼロを、副官は遮る。世界の最果てへと追いやられた男が、いったいどんな話があるのだろう。
〈 少佐、実は例の男に動きが 〉
「ああ、ミラーか。ローデシアだろう」
〈 はい、また同じことを……〉
充分に蒸らした紅茶をカップへ注ぐ。副官も何を言い出すのかと思えば、大した事ではない。
カズヒラ=ミラー。秩序から外れた組織に、叶うはずのない夢を見た若者。
CIPHERの隠密部隊『XOF』による奇襲で、自らの組織『国境なき軍隊』を失いながらも生き延びた彼が、新たな拠点を築くために南アフリカへコネを作ろうとしているという情報はゼロも耳にしていた。
自らの夢を砕いたCIPHERへ報復する準備を、ミラーは進めているらしい。
まあ、無理だろうな。『カリブの虐殺』の後、ゼロは一度だけミラーと接触を取ったが、その時の剣幕ときたらそれはもう目も当てられなかった。
何を企んでいるにせよ、青二才独りで出来ることなどたかが知れている。ゼロどころか、CIPHERへダメージを与えることさえ出来ないだろう。
副官もそのことは承知しているはずだった。何しろミラーの『国境なき軍隊』を壊滅させ、彼にCIPHERへの報復心を植えつけたのは、他ならぬ副官自身の独断行動だったのだから。
ただ、今アフリカはわたしの管轄ですから、と副官は言った。ここに来てわたしは確信したのです、まだあなたのお役に立てると。
〈 この地は生物資源の宝庫です。細菌、線虫、ウィルス……中には“あの計画”を甦らせ得る種もあるはずだ 〉
ああ、その話か。副官が以前から『あの計画』に並々ならぬ興味を示しているという話はゼロも知ってはいたが、ゼロにとってあの蟲はもう興味の範囲外だ。
CIPHERの研究は既に次の段階へ進んでいる。
「いや、いいんだ。“浄化虫計画”は先人の妄想だよ」
『賢者達』はかつて、太古の寄生虫“声帯虫”を利用した民族浄化を目論んでいたという。それが『浄化虫計画』だ。
人間の呼吸器に取り憑き特定の音声に反応して宿主を死に至らしめる声帯虫を、敵性言語にだけ反応する『民族浄化虫』へ品種改良し、敵性民族を浄化する。
今回CIPHERがアフリカで行なっている実験は、そんな賢者達の狂った野望を転用したものだが、ゼロの目指すところはかつての賢者達とはまったく異なるところにある。
声帯虫を使ったのは、あの寄生虫が遺伝子操作による逆行進化実験のテストケースとして適していたからであり、今のゼロにとってそれ以上の意味はなかった。
「今重要なのは、声帯虫を甦らせた遺伝子技術だ。遺伝子技術を使えば、民族どころか個人を特定できる。蟲のように継代を繰り返す必要もない」
遺伝子を読み解くことは、すなわちヒトが歩んできた生命体としての歴史を読み解くことに他ならない。
今回の実験で声帯虫が辿った逆行進化の道筋は現在、ゼロの腹心でもあるATGC社のクラーク博士の下で解析が進められている。
その解析結果はヒトという いきものの記録を辿る道しるべとなるだろう。
〈 しかし…… 〉
かつてのSASではゼロの副官として活躍し、その後はゼロの“X作戦部隊:FOX”の後ろ盾となる“XOの部隊:XOF”を指揮していたこの聡明な男が、どうして浄化虫計画などに執着しているのか。
結局この“顔のない男”もほかの連中と同じく未来が視えていないのだ。
最古参の教え子である副官に、ゼロは教示する。
「君は旧いな、エックスオゥ。冷戦が終われば明確な敵はいなくなる。もう人間では追いつかん」
紅茶を啜り、鼻腔を満たすその芳醇な香りを楽しみながらゼロは空想する。
明確な時期はまだ先だろうが冷戦が終われば、情報の飛び交う電子ネットワークが世界を覆ってゆくだろう。
各国の諜報の網は絡み合いながら統合され、東西に別れていた世界は再びひとつへ融け合うこととなる。
次の時代の敵は、人種も民族も国境もない、電子の海の中から生まれてくるに違いない。
今までの枠組みから外れた敵が現れてくるであろう未来に、既存の枠組みに囚われた発想の産物である民族浄化など、まったく時代錯誤も甚だしい。
〈 そうかもしれません。しかし人間は、敵の姿が見えないことに耐えられますか。人間は誰かを悪と見据えて攻撃することでしか、自らの正当性を確信できない……敵を見失った時、人間は自分の中に敵を作ります。自らへの攻撃を始めるのは自明です 〉
「君が言いたいことはわかったぞ。人間が寄生虫を排除することでアレルギーや自己免疫疾患が増えたように、敵の排除は人間自らを冒すということだろう」
そんなことはわかりきっている。今、ゼロへの報復心に燃えるミラーなどはまさにその典型例だ。
ミラーがどのような手を打とうが、CIPHERが創るルールの上で勝負する限り彼に勝ち目はない。
そのことをミラーが悟った時、持て余した力と敵対心に溺れ、やがてミラー自身をも破滅させるだろう。
行き先を見失った力の暴発、暴走、そして自滅。それが世界レベルで起こる事態を副官は危惧しているようだった。
「だからこその情報統制なのだ。人々には、適度な“物語”が必要だ」
イデオロギー対立という巨大な物語に支配された東西冷戦を通じて、ゼロは物語の力に気づいていた。
人は世界を物語として叙述し、叙述された物語はまた人を動かす。世界を織り成す無数の物語を整えることで、秩序ある世界を。
そんな世界の調整者を、ゼロのCIPHERは目指していた。
〈 人々に物語へのアレルギーを起こさず、無批判に受け入れさせると 〉
咎める副官に、ゼロは答える。
「『世界をひとつにする』為だ。その為には情報への免疫力を下げることが必要だ。君の好きな言い方をすればだが」
それは、免疫系が寄生虫や病原体を攻撃している間は宿主にアレルギーが起きないことと同じようなものだ。自滅を防ぐには、外へ敵を作ればいい。
飽きない程度に刺激的で、それでいて致命的な破滅はもたらさない。そんな心地よい物語をCIPHERが世界へ提供すればいい。
副官が指摘するとおり、『人の意志を誘導する』といえば倫理的な問題は否めないが、どのような手段にもデメリットはつきものだ。最善はあっても完璧はない。
「世界はひとつになる。ザ・ボスが描いた世界がついに手に入るのだ」
かつてザ・ボスは「世界はひとつになるべきだ」と言った。
生命が連ねる“遺伝子:Gene”と、言語が伝える“模倣子:Meme”。この両者を制御し、“場面:Scene”を物語ることで人々の“意志:Sense”を、ひいては世界をひとつにする。
それが、ザ・ボスの死後十年もの歳月を経てCIPHERが編み出した、世界をひとつにする方法だった。
「人種も、民族も、国境も、顔も変える必要はなくなる。人は新たなコミュニケーションで繋がる」
それはザ・ボスの夢であると同時に、ゼロ少佐――デイヴィッド=オゥという男の夢でもあった。かつてザ・ボスと共にFOXを創ったのもその夢の為であり、CIPHERを進める今もそれは変わらない。
長年の努力がようやく実を結ぼうとしているこの時期に、このバッジが見つかったのも何かの報せだったのかもしれない。叶うものならザ・ボス、貴女にも、私たちの夢が叶う瞬間に立ち会ってもらいたかった。
〈 それはない。わたしは顔を喪った。もう取り戻すことは出来ない 〉
副官は一体、何をこだわっているのだろう。
CIPHERが創る統一世界では、肉体をはじめとするあらゆる制約から解き放たれた、魂の会話が成立する。
ヒトとしての容姿を戦争で奪われたという副官にとっても、CIPHERの統一世界は歓迎こそすれ、拒む類のものではないと思うのだが。
〈 ……わたしは、この骸骨の躯を隠したりはしない。喪ったものを忘れさせない為に 〉
ふと、ゼロは思い至る。
あの『カリブの虐殺』を起こした理由について副官は、『連中がCIPHERの意志にそむき、核兵器を所持したことの報いだ』と語った。
それに、“彼”をCIPHERが目指す理想社会の偶像に据えるなら、そろそろ表舞台から降りてもらう方が少佐にとっても都合がよろしいでしょう、とも。
だがそんなことをゼロが許すはずがないことは副官もわかっていたはずだ。
それでは、FOXの栄光の暗部に位置づけられた、自身の境遇を妬んでのことだったのだろうか。
いや、そうではあるまい。たしかに副官は、昔からよくわからないところもあったが、ゼロの知る限り嫉妬で自らを滅ぼすような愚かな人間ではなかった。
副官をあの凶行に駆り立てたものはいったい何だったのだろうか。この“顔のない男”は何を企んでいる。
そして、この贈り物……。
〈 世界は『報復』で一つになる 〉
その瞬間、ゼロの世界は崩れ落ちた。