世界の中心で愛を叫んだ獣   作:ミツバチ

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第一話 明晰夢

 とある男の話をしよう。

 

 彼の名前は■■■■。大日本帝国特高警察憲兵中尉、麹町憲兵分隊副官。甘粕正彦の直属の部下であり、彼が邯鄲攻略に際し行方を眩ましてからは隊長代理を務めた男だ。

 

 端的に言って、彼は機械だった。

 

 彼が語るのは常に理論と理屈。

 そうであるが故に正しく、過たず。鋼のような理性と、氷の如く凍てついた感情で駆動する機械(システム)。情がない、血も涙もない、きっと夢すら持たない――人らしからぬもの。故にその男は他者から怖れられた。人ではないのだと噂された。

 

 曰く、超人。

 曰く、鉄人。

 曰く、銀灰の獣。

 

 そして、それは全て正しい。

 

 傍から見て、彼が生まれ育った家庭は至極平凡だった。

 心から夫と子を慈しみ愛する母。一家の大黒柱として奔走しつつも、惜し気もなく妻と子に愛情を注いだ父。とても幸福な家庭。しかしその裏側に潜んでいるのは、拭い難い狂気と呪詛だった。

 

 母にはロシア人魔術師の血が流れていたという。

 

 日露戦争における敗戦国。大日本帝国、死すべし――と怨念を滾らせる血統。血の疼き、使命。神命。それが母を狂わせた。

 

 ―――お前は日本を破滅させるために生まれてきたのだ。

 

 それが母の口癖だった。戦争が始まる前から、彼女は我が子を洗脳していた。

 無論、父のいる所でそんなことを口走ったことは一度もない。彼女は最期までよき妻として、夫の記憶に残っている。だからこそ、男は後に人でなしの汚名を負うこととなる。誰も彼もが彼のことを心の裏で糾弾し罵倒し嘲弄したのだ。

 

 日露戦争の終結後。

 日本が公権によって共産主義や社会主義を廃絶し、思想を排斥する気運が高まっていた時世。

 

 母は己の子を特高警察憲兵隊に入隊させることを思いついた。

 そしてその誤った一手こそが、彼女の破滅を決定づけたのだ。

 

 特高警察――特別高等警察とは、ある種の思想警察である。

 

 左翼、右翼。無政府主義。いずれにしろ国家を脅かすほどに行き過ぎてしまった活動家を監視し、取り締まることが彼らの役割。つまり、ロシア側の工作員であった母の宿敵である。

 ともすれば法の番人そのものと思えるが、しかし大日本帝国の全ての民がその存在を許容していた訳ではなかった。

 

 特高警察は凄まじいまでの強権を持つ。

 

 仮にもし、逮捕した輩が後の裁判にて無罪になりそうだと判断された場合。彼らは逮捕した容疑者をその場で()()し、結果として故意に死なせるという事例が数多くあった。それは紛れもなく鬼畜の所業。ならば彼らは罰せられるのかといえば――当然、そんなことはない。

 

 権力で護られた、権力を行使する存在であるが故に。

 御国を護るという合言葉の下、全ての理不尽が正当化されていたのだ。

 

 しかし彼らは神ではない。

 無論のこと、蛮行を咎める組織はあった。それが憲兵隊。特高警察と同様の業務をこなしながら、特高警察を見張り、場合によっては逮捕する権限を持つ者達である。

 

 それは、男の母にとって工作員としてうってつけのポストだった。

 

 途中――戦真館という新設の軍学校に編入する話も出たが、それは彼の母が握り潰した。学園では思想の再教育が行われる。しかも全寮制ともなれば、母が介入することは難しい。折角の洗脳が解けてしまいかねない。それでは自分の計画が御破産になると判断したのだ。

 

 母にとって幸いなことに、子は神童と謳われるほど優秀で、何より従順だった。

 

 順調に成長し、男は若くして軍人となる。

 母が希望した通りの、道具になったのだ。

 

 やがて男は特高警察憲兵へ配属された。

 

 彼は母の言いつけ通り、特高警察の立場から、母を同胞とする共産主義運動組織を援護した。

 情報の隠蔽のため、時には同僚を撃つこともあった。あるいは守るべき同士を切り捨てて、平然と処刑台へ送り込むことさえした。何十、何百もの人間を殺した。銀灰の獣という呼び名に相応しく、まるで雑草を刈る機械のように。無慈悲に、冷徹に怜悧に。誰も彼もを刑務所と処刑台に送り込んだのだ。

 

 男も女も子供も老人も関係なく。

 最終的には――己の母親さえも。

 

 彼女が望んでいた通りに――(そしき)を護るため、いつしかその存亡を脅かすものへと化生していた(はは)を抹殺したのだ。

 人体は細胞という個で構成された群体。個にして群、群にして個。故に、その調和を乱す癌細胞を早期に滅する自浄作用を持つ。男は、自らの行いをそのようなものと認識していた。

 

 つまりは、出る杭を打った。それだけである。

 

 その時父は嘆き悲しんだが、しかし男の心は凪いでいた。

 

 何の感慨もない。

 

 彼は機械だった。体は鋼で、心は氷で出来ている。

 どこまでも平等に――彼は人を殺し続けた。一切の愛も、情もなく。

 

 故に彼は、盧生ではなかった。

 

 * * *

 

 ―――夢を見ていた。

 

 遠い異国の地に私は立っている。見慣れぬ土地、知らない空と風。気温は低いが、しかし私が生まれ育った国ほどではない。街並みはそこそこ近代的に発展してはいるものの、視線を上げれば山や木々、川のせせらぎなどといった自然が身近にある。

 

 手を伸ばせば届きそう。

 

 暗く狭い場所は嫌だ。あの赤や黄に色付いた山に触れてみたい。獣が踏みしめた土を蹴り、雨に濡れた草の上を転がって。木々の隙間を縫って駆けまわれたら、どれだけ爽快だろう。

 

 獣になりたい。

 一匹の獣として、自由に生きてみたい。

 

 強くそう望む。それこそ、夢にまで見るほどに。

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「ああ――今日もいたのか、おまえ」

 

 ぶつぶつと呟く声に反応して、視線を向ける。

 

 そこに在ったのは影だ。

 黒い靄が人型で浮き上がり、三次元空間上に影法師を映し出している。それが誰なのかは知らなかった。ただ、私と同じ人間なのだろうと察してはいる。

 

 私の夢に入り込んだ異物。他人。ともすればそれは排除すべきものだ。普段の私ならば、実際にそうしているだろう。けれども今はそうしない。それどころかその存在を許容しつつある。正確には、いい加減に諦めた、という方が正しいか。

 

 夢の中では何でもできる。

 

 身体能力は言うに及ばず。超常の力の放出や、想像したものを物質として具現化させることすら可能だ。ともすればこの影を滅することなど現実よりも容易い事のように思える。が、実際はそうもいかない。

 この影は――害意ある攻撃の全てを見切り、すり抜けるからだ。

 正面切っての殴打はもちろん、不意打ちすら躱す。一切の攻撃が通用しない。ともなれば、こちらはもう白旗を上げるしかない。

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……相変わらずなにを言っているのかまったく分からん。私と話したいならロシア語を話せ」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「…………だから、分からんと言っているのに。……まあ、いい」

 

 自然と唇が尖ってしまう。

 そんなこちらの様子に、影は一切の反応を示さない。絶えず何かを呟きながら、独りで街を彷徨っている。

 

 物心ついた時から、私はずっと明晰夢を見続けている。

 

 つまり産まれてこの方、私は浅い眠りしか経験していないのだ。その度にこうして、誰もいない見知らぬ街に放り出されている。不気味なこと甚だしいが、実のところ、今はそう悪いものでもないと思っていた。

 

 いつ頃だったか――気が付いた時、この影は(そこ)にいた。

 

 先程の通り、最初、私はこの影の存在を認めなかった。だが攻撃が効かない上に向こうからは何もしてこないとくれば、手に余ると思うのは必然だろう。あるいは飽きたと言ってもいい。

 

 以後私は、影の存在を徹底して無視することにした。

 

 夢の中でまで他人に煩わされるのは御免だった。だから無視して、いつものように夢の世界を駆けまわっていた。その筈だ。しかし放置した存在は、喉に刺さった小骨のように気にかかる。

 

 結局、私は影の下に戻っていた。

 

 思い返せば、そいつはずっと同じ場所をうろついていた。あたかも待てと命令された犬のように。だからこそ去っていった飼い主の再来を待ち望んで、落ち着きなくも茫然と佇んでいた。

 

 ああ――こいつは、誰かを探しているのだ。

 

 そう、私は直感した。

 

 ……この夢の世界で、一体誰を待っているというのか。そんなことは最早、考えるまでもない。

 

 そもそもこの世界には、私と、こいつの二人しかいないのだから。

 

 その時私は、初めて影に触れた。それが害意のない行動であったからか、今までとは違ってすり抜けることはなかった。―――その瞬間。影が、私を視た。

 

 まるで止まっていた時間が動き出したかのように。不動の影が、沈黙を破る。

 

 首を傾けて、不思議そうに私を見下ろしている。

 そして頬に触れる私の手をゆっくりと包み込んで、何かを呟いた。

 

「■■■―――」

 

 己の意思を告げる声。それがどういった言葉なのかは分からなかったが――私は、この影の正体が私と同じ人間なのだと確信した。

 

 それからだ。

 私達が、同じ夢を共有する仲間になったのは。

 

 以来私達は、この夢の世界で逢瀬を重ねている。

 そもそも他人を煩わしく感じるのは、いちいち利害やら権謀術数やらといった処世術だのしがらみだのを考慮しなければならないからだ。だがここは現実ではない。夢の世界だ。ならば何を気にすることがあるというのか。

 

 ここでなら私は何も気にしなくていい。

 その事実が、私から毒気を抜いたのだ。

 

「なあ。おまえはこの街がどこなのか、知っているか?」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「どうやらここは鎌倉という日本の地方都市らしい。

 なに、最近になって知ったのだよ。なにせ私は今、飛行機でその街に向かっている最中なのだから。事前に下調べをするのは当然だろう? だからこそ、始めは驚いたがね。これは夢だ。だから現実に実在する場所だと思ってはいなかった」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……なあ。もしかしておまえは、鎌倉にいるのか? ありえないことだと分かってはいるが、もしも現実でお前と会えるのなら。それは、私にとって、とても―――」

 

「■■■、■■■、■■■―――」

 

「……それではなにを言っているのか分からんよ」

 

 くすりと笑みを零す。

 今の私達では、どんなに言葉を重ねても互いの意思は伝わらない。それでも話しかけてしまう自分がおかしい。そして――先程述べた台詞が、紛れもなく本心の一欠片であるということも。

 夢の中で出会った誰か(おまえ)と、現実でも出会えたら――なんて。

 

 まるでそこいらの夢見る少女のような願いじゃないか。

 

 そんな風に自嘲して。

 私の意識は、束の間の夢から浮上した。

 

「―――ん」

 

 小さく呻いて、瞼を押し上げる。

 すると二対の瞳が視界に入り込んだ。両脇から私の顔を覗き込み、端整な顔立ちが破顔する。

 

「あっ、お姉さまが起きたよ、レム~」

 

「そうみたいだね、ロム。おはようございます、お姉さま」

 

「おはようございます~」

 

「ああ、おはよう。二人共」

 

 最愛の妹達に挨拶を返して、私は凝り固まった背筋を伸ばす。

 

 現在、私達は飛行機に乗っていた。ファーストクラスの広々とした座席に深く腰掛けて、欠伸を噛み殺す。

 両隣の席に座っているのはロムルスとレムス。私の可愛い妹達。三つ子である私達姉妹は、いつ何時であろうと一緒だ。

 

「もうすぐ着陸なんですって、お姉さま」

 

「もうすぐイヴァンに会えるね。懐かしいな」

 

 口々に二人は言う。それに対して私は、「そうか」とか「そうだな」と我ながら気のない返事をしてしまった。どうやら起き抜けで頭が呆けているらしい。蟀谷(こめかみ)の辺りを指先で押さえ、気持ちを切り替える。

 

 目的地は日本の地方都市・鎌倉。

 

 空港には私達の幼馴染が待っている。そういう手筈だ。そしてこれから先、私達三姉妹はその幼馴染の家に住むことになっていた。そして彼と同じ学校に通う。全ての手配は、恙なくお父様が済ませていた。

 

 私達の幼馴染――イヴァン。

 

 それはいわゆる洗礼名で、彼の本名はまた別にある。確か、木井(きい)重信(しげのぶ)だったか。久しく会っていない男の顔を思い出そうとする。しかしどうにも上手くいかない。

 

 私はあの頃とは違う。だからきっと、彼も変わっているだろう。

 

 そんな思惟が頭を巡る。

 そしてそれはきっと正しいのだと、私は確信していた。

 

 ……その一方で、それでも変わらないものがあるのだと思いたい。私の中の彼は好ましい人間だった。不愛想で朴訥(ぼくとつ)で、けれどそれが味でもあった同い年の少年。それが失われていては、あまりにも惜しい――と、少しだけらしくないことを考える。

 

 その時、機内に着陸を告げるアナウンスが鳴り響いた。

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