世界の中心で愛を叫んだ獣   作:ミツバチ

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第二話 キーラ三姉妹、来日

 そして、俺の意識は眠りの底から浮上した。

 

 瞼を開けた時、網膜が捉えたのは見慣れた天井。その状態でぐるりと眼球を転がして視線を横に向ければ、壁に立てかけられた時計が目に入る。時刻はちょうど午前五時。今日も俺の体内時計は正確に動いていた。

 

 体を起こし、布団から出る。

 

 寝間着を脱いで千信館学園のジャージに着替え、洗面所で顔を洗う。そうやって完全に眠気を吹き飛ばしてから、俺は外へと向かった。

 玄関を潜ると、ささやかな寒気(かんき)が全身を洗う。

 

 今は九月。四季は夏から秋へと少しずつ移ろっていて、茹だるような暑さの余韻を残しつつもほんの少しだけ肌寒い。好ましい感触だ。別段この国の風土に不満がある訳ではないし、むしろ日本人として四季の彩りは美しく得難いものだとも思う。しかしその一方で、気温は低いくらいが性に合っているとも感じるのだ。

 

 俺は家の敷地内にある道場へ向かう。

 戸を開けて中に入り込むと、靴を脱いでから上がり(がまち)を踏んだ。

 

 現在、この道場の管理は俺が行っている。

 ……元々は先祖代々――少なくとも曾祖父の代までは辿れる――(うち)が受け継いできた道場で、本来なら当代の正当な継承者は父なのだが。やむにやまれぬ事情があり、今その管理は俺に一任されていた。

 

 なんなら売却して生活費の足しにしてもいいとすら言われている。

 

 しかしそれは良心が咎めるので、実行する気はまったくない。

 今は父からの仕送りと、日々のアルバイトで得た糧で十分に生活できている。かと言って道場を再興しようとか、そんな欲を出す気も更々ないが。

 

 いつもの習慣通り、神道の礼に則って道場に設えられた神棚に二礼二拍手一礼。その後、道場の倉庫から掃除道具を引っ張り出し、一通りの掃除を行う。

 

 それが済めば軽く準備運動だ。

 簡単な体操と、腕立て伏せや腹筋などの基礎鍛錬。そして木刀を持ち出し、大上段から振り下ろす型で素振りを行う。

 

 百を数えた所で停止。

 

 呼吸は静かに落ち着いている。一連の動作も手慣れたもので、それほど時間も経っていない。ここまではあくまで準備運動。寝起きの体を温め、その日の体調を計る意味を持つ。

 

 今日の調子は――可もなく不可もなく。

 平常、普通、特筆すべき点はなし。よって稽古を開始する。

 

 この木刀はかつて大日本帝国軍が使用していた三十年式銃剣を模したもので、長さは五十センチメートル程度と一般的な木刀と比べるととても短い。これを三八式騎銃を模した専用の木銃(もくじゅう)に装着し、その上で型稽古を行うのがこの道場の習わしだった。

 

 銃剣術。

 

 現代――いわゆる銃剣道がスポーツとして体系化されるよりも以前。第二次世界大戦を前にした大正の時代に、この道場では既に銃剣の扱いを教えていたという。近所に千信館学園の前身であった戦真館学園という軍学校があったこともあり、当時はそれなりに門下生もいたそうだが……御覧の通り、今は見る影もない。

 

 生徒はおらず。

 先生もおらず。

 

 こうして、昔の兵法書や戦真館学園の教科書を読んだだけの小僧が、自己満足極まった鍛錬を意味もなく繰り返しているだけである。

 

 先祖が遺したものを形骸として埋もれさせるのは惜しいから――といえば聞こえはいいが。さて、傍からはどんな風に見えることか、と密かに胸中で溜息を零す。

 

 ともかく稽古である。

 

 銃剣そのものが多様性に乏しく、また現代の柔剣道は歴史が浅いこともあってか。基本的には突き技しかなく、そもそも構造上それ以外の動作を行う必要性がない。

 しかし戦後且つ戦前という状況――当時は総ての民草が護国の(つわもの)であるべし、という潮流があったのだろう。この道場では実用性よりもむしろ武道的な心構えを重視していたようで、槍術や薙刀術から取り込んだ型をも技として稽古に組み込んでいた。

 

 ―――突く、斬る、薙ぐ、打つ、撃つ。

 

 単純に型をなぞるだけの稽古に意味はない。型を使うのに適切な状況など、そうそう訪れないからだ。()()()()()()。どうすれば敵を型に嵌めることができるか。そうするためには――どんな状況を、どのようにして、()()()()()()()()()()。それが型稽古の肝だ。

 

 思うに、考えずに行う型稽古などただの棒振りである。

 

 重要なのは如何に敵と己を型に嵌め、勝つかということ。必殺を期する環境への誘導と構築。それを意図してできて初めて型は技へと昇華されるのだ。

 

 ……とはいえ、それがこの現代社会で活かされる機会はまずないだろうが。

 

 自嘲して、体勢を自然にする。

 素振りとは違い、息が上がっていた。全身に汗が滲んでいる。敵を想定して行う型稽古は疲労感が桁違いだった。

 

 今日はここまでにしておこう。

 

 区切りをつけ、道具を片付ける。そしてきっちりと道場の戸締りをしてから、寝食の場である自宅に戻った。

 脱衣所でジャージを脱ぎ、シャワーを浴びてから、予め用意していた普段着に着替える。

 それから自分で朝食を用意し、十分な栄養を摂ると、時間を潰しがてらテスト勉強をする。それから頃合いを見て一段落付けてから、家の外へ出た。

 

 徒歩で駅まで移動し、電車に乗って空港を目指す。

 

 その間、俺は遠い昔の記憶を思い返していた。

 

 まだ十にもなっていない時分。

 異国の地――ロシアで過ごした頃の記憶。雪で覆われた純白の景色の中を、自分と同い年の三人の雪の妖精(スネグーラチカ)と遊んだ楽しかった日々。幼馴染との愛すべき思い出。それが俺のすべて。俺の裡には、それ以外のことは何もなかった。

 

 端的に言って、木井家は裕福ではない。

 

 母は刑務所にて服役中。

 逮捕時にやらかした内容があまりにもアレだったために各メディアで大々的に実名報道され、結果として公務員であった父は退職を余儀なくされた。そして国内での再就職は絶望的であったため、今は海外に出稼ぎに出ている。

 よって、先祖から遺された邸宅に住んでいるのは俺一人だけだった。

 

 母が逮捕されてから、色々なことがあった。

 

 善いこと、悪いこと。後者の方が多かった気もするが、一つ一つ上げ連ねれば総数そのものはあまり変わらない気もする。なにせ生きているのだ。何が起こったとしても、生きていればそういうこともあるだろう――と、そうとしか考えられない。

 

 単に思考停止しているのだと言われれば、全く以ってその通りだ。

 

 他人から向けられる好奇や誹謗中傷。あるいは憐憫。その全てがどうでもよかった。そんなものを視界に入れる気にはならないし、そもそも入る余地がない。

 

 しかし、最近はその心境にも変化があった。

 そして今の俺を取り巻く環境も変わろうとしている。

 

 事の運びそのものはありふれた話だ。

 

 俺の幼馴染の父ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフはロシアの貿易会社――取り扱っている主な商品は麻薬に人身や銃砲火器など――の大幹部である。当然、娘達はその令嬢だ。ともすれば教養のため十代の内から外国へ長期間留学するというのは今時そう珍しいことでもないと思う。

 ちなみに今のロシアの裏社会は荒れに荒れていて、幹部の身内にも危険が及びかねない状態になっているらしいが、そのことと今回の件の因果関係は一切不明だ。

 

 と――まあ、そういう事情により。木井家に新しい同居人が訪れるという訳である。

 

 キーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 ロムルス・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 レムス・ゲオルギエヴナ・グルジェワ。

 

 俺の母とグルジエフ氏が知古の関係ということもあり、キーラ達三人は留学の名目で来日し、そして俺の通う千信館学園へ編入する手筈となっている。それに伴って下宿先に我が家が指定された――というのが事のあらましだ。

 既に部屋の用意は終えている。

 しかし(うち)の部屋数は多くなく、彼女達の引っ越しが完了し次第俺は道場で寝起きすることになるのだが。特に不満はないし、むしろ当然の差配だと考えている。

 

 俺は俺の理性に全く自信がないし、そも信用していない。

 間違いを起こさないためにも必要な措置だと弁えている。

 

 ……そもそも保護者がいない環境が不健全だと言われれば是非もないが。

 

 などと、考えている内に。

 俺の体は機械的に動いている。恙なく電車を乗り継ぎ、県境をまたいで空港へと到着していた。

 

 さあ、再会の時だ。

 

 * * *

 

 予感があった。

 

 物心ついた時から見続けている明晰夢。その舞台は鎌倉。海を隔てた先にある極東の島国――そこにある一都市だ。そしてそこには私の幼馴染が住んでいる。その二つのことには何か関連があるような気がしてならないのだ。

 

 脳裏に浮かぶ影。

 あの影は、おまえなのか―――?

 

 そう思うと同時に、しかしそんな筈がないと頭を振る。夢見がちな妄想を否定する。所詮、あれは夢だ。私が見る夢の中に、他人の意識が入る筈がないではないか。だが一体――この予感は、なんだ?

 

 今日この日から――なにかが始まるような。そんな気がする。

 

「行きましょう、お姉さま!」

 

「ああっ、待ってよレム~!」

 

 飛行機から降り、荷物を受け取って空港の中を歩く。この先で案内人――木井重信(イヴァン)が待っている手筈だ。

 

 私達三姉妹と重信は幼馴染だ。

 

 彼の祖父は私と同じロシア人であり、また私の父と彼の母に交友があったが故に引き合わされた間柄だ。許嫁などという色気のある関係ではないが、しかしただの友人以上の仲だったと言って差し支えないことは間違いない。

 

 少なくとも、ロムルスとレムスは彼のことを心から慕っていたようだ。

 

 けれどそれも昔の話。

 彼が日本へ足ってから、私達に親交はない。電話はおろか、手紙のやり取りすらしてはいなかった。だから私は、今の彼を知らない。

 

 ……彼はどんな男になっているだろう。

 

 昔は不愛想で朴訥な、けれど誠実で優しい子供だった。だが月日は人を変える。少なくとも私は変わった。変わってしまった。お父様の後継ぎとなるべく帝王学を叩きこまれた結果として、それは私という人間を構成する人格の根元深くにまで突き刺さっている。

 自分で言うのもなんだが、今の私の性格と言動は男勝りで可愛げがない。それが悪いことだとはまったく思わないが、しかし思うところがない訳でもないのだ。

 

 私はもう、昔の私ではない。そんな私を見て――彼はどう思うだろう。

 

「……いっそ、あちらが見下げた軟派男にでも成り果てていれば気が楽になるのだがな」

 

 苦笑と共にひとりごつ。

 それに反応して、ロムルスが首を傾げた。

 

「? どうかしたの、お姉さま?」

 

「ロム。お姉さまはイヴァンに会うのを心待ちにしているんだよ」

 

「なっ!? なにを言うんだ、レムス! べっ、別に私は、そんなこと……っ」

 

 何やら妙なことを耳打ちしているレムスに突っ込む。思わず口から言葉が出たが、その語気が妙に荒い。……ああいけない。これではまるで、本当に私があいつに会うのを心待ちにしているみたいじゃないかっ!

 

 そんな私の謂れのない羞恥を他所に、ロムルスとレムスは二人で盛り上がる。

 

「ふふ、そうなのね。私も楽しみよ、お姉さま! きっとイヴァンは素敵な男性になっていると思うわ」

 

「そうかな。もしかしたら(ケダモノ)になっているかもしれないよ。狼みたいに、ロムをぱくりと食べちゃうかもね」

 

「もう、レム。そんな意地悪は言わないでちょうだいな」

 

「ごめんごめん。そうだね、きっと大丈夫だよ。私も、ロムも、お姉さまも、みんなあの頃から変わってない。だからイヴァンも同じだと思うな。―――ねっ、お姉さまもそう思うよね?」

 

 不意に、ロムルスとレムスが私の顔を覗き込んでくる。それに対して、私は曖昧に頷くことしかできなかった。

 

 ……ロムルスは小児喘息を患っていて体が弱く、レムスは生まれつきの弱視でほとんど目が見えない。だから長女である私がこの二人を護らなければならなかった。そのことを重荷に感じたことは一度もないが、しかしやはり思うところはある。

 

 二人の妹は病弱な体で。

 なのに私だけが健康体となれば――引け目に感じない方がどうかしている。

 

 だからこそ夢のことを想う。

 

 何故、夢の中で私はいつも一人なのだ。もしかして、私は一人になりたいのか。あの影はなんだ。あれは、私が無意識下で生み出した願望の産物なのか。

 

 そんな筈がない。

 

 私は妹達を愛している。私はゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフの後継だ。ロシアの裏社会に君臨する女王となるべき女だ。いずれも事実、全てが真。そこに嘘はない。

 私はキーラ・ゲオルギエヴナ・グルジェワだ。

 夢に逃避するなど、なおのこと輪をかけてありえん。

 

 ―――だと、言うのに。

 

「……あ」

 

 呻くように、喉から声が漏れる。

 

 かちり、と歯車が嵌まり動き出す音が聞こえた。

 

 気が付けば――そこに、影がいた。

 黒い靄が人型に浮き上がり、三次元空間上に影法師を映し出している。

 

 その輪郭が少しずつ像を結ぶ。

 

 齢は十代の後半――私達と同じ、十七歳だろう。

 しかし背はこちらよりも一回り以上大きい。百八十センチはあるだろうかという偉丈夫だ。この国の人間にしては肌が白く、黒い髪も脱色したように照明の光を反射して銀灰色に輝いている。切れ長な瞳は髪と同色で、まるで獣のような風貌だ。しかしその派手な見た目に反して、着ている服はシャツに黒の長穿と酷く飾り気がない。

 

 顔立ちは整っているが、暗黒星人と評したくなるほど陰気だった。

 

 どこか呆けた面持ちで、男は口を開く。

 

■■■(キーラ)―――」

 

 男は、影がしきりに呟いていた名を口にした。




 主人公である木井重信の名前の元ネタはスラヴ神話の英雄キイと帝都物語のフサコ・イトー及びそのモデルとなった重信房子です。

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