前後がわからない。上下がわからない。
漆黒に包まれる。目の前が見えない。視覚が、聴覚が、触覚、嗅覚が。正常に機能せず、背筋に寒い感覚が走る。
そこは、無理解の世界。一切の思考が闇に呑まれ、朧げに霞んで忘れ去られていく。
そもそも、何をしようとしていたのだったか。
自分が、空間ごと溶けてしまうよう。
絶叫しようとする。声が出る。ただ、それは耳に届かない。
きっと、もともとこうなると理解していなければ。もっと深いところに沈んでしまうことだろう。
思い出せ、思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ。
自分が何をやろうとしていたかを思い出せ。
口の奥。何かをしなければならなかった。何かを。何かを。
暗闇に取り残された■■が、ただ別の暗い場所へと連れ去られていく。そして、意識に真っ黒の幕が降りてきて…………
喉の奥から湧き出てきた熱が、その暗幕を切り払った。
「……ぁっ!!」
喘ぐのは一瞬。浮かされた熱を振り払うため、凍え切った手足に血を流すための一声。
噛み締めた『火酒実』の味が、大きな声を上げるのを焼き付くような熱で無理やり止めた。燃えるほどの熱が体内を駆け巡り、脳内をかき回し、それでもなお、己というものを確固として意識させる。
ナツキ・スバルのやった、ボッコの実シャマク。その応用。
ギリギリだった。もし自分に陰魔法の適性が欠片もなかったのなら、この作戦は失敗に終わっていただろう。マナを大量に注ぎ込めば使ったことのない魔法も辛うじてなら使えるのではないかという土壇場の発想は、どうやら功を奏したようだった。
今まで使ったこともなかった陰魔法を使用した代償は大きかった。念を込めて一段階上のエルシャマクを撃ったせいでゲートがぐらつき、もう暫くは魔法が撃てないことは明らか。もしかすれば後遺症として、一生魔法が使えなくなるかもしれない。
でも、これでいい。これしか手段を思いつかなかったのだから。
なんと他人任せな刃。なんと他人任せな方程式。
それでもいい。今この瞬間、勝つことができれば。
そして自らというものを思い出した手は、滑らかに懐の武器を掴みとり。素人のように洗練されない、無骨で無様な早技で………
「
未だ意識の戻らず、目を陰らせているパンドラ。鬼族の秘宝『極滅刀』はその絶世の美貌ごと、彼女の脳漿を容赦なく貫いた。
陰魔法の使い手は、かなり珍しいと明言されていた。その上、陰属性は6属性の中では練度が低ければ最弱のものであるとも。
そして『シャマク』は、その中でもさらに使い道すらない、せいぜい自分以下の相手か獣にしか通じない魔法であると言われていた。
で、あるならば。
まさか最大の強敵ともいえるパンドラに、わざわざこの魔法を使う者が400年間いたとは考えられない。最弱の属性の、そのまた最弱の魔法。格下の相手にしか通用しない、肉体と意識を『分離』させ、あやふやにさせてしまうだけのもの。
その肉体と意識の『分離』。言い換えれば『分断』という点が、パンドラという虚飾の魔女には、致命傷になり得ると知ることができなかったばかりに。
パンドラの『虚飾』の権能は、あるものを『見間違え』として無かったことにしたり、あるはずのないものを『実はこうだった』と書き換える、現実改変系の権能だ。
ならその権能は、
では、パンドラの権能は?
言葉……ではない。彼女は一度自分を他人と『見間違え』させたとき、何の発言もせずにそれを成している。どころか、喋る暇さえ与えられず殺され続けても延々と復活する悪夢っぷりすらも。自衛として常に自分に触れていないことから、物理的接触という線も考えにくい。
とすれば。残る可能性はひとつ。『彼女自身が、権能の使用を意識する』こと。権能の存在を認識し、どのように使用するかを思考し、発動させる。言葉はあくまで、その補助と考えるのが妥当だ。
勿論、本来はこれがわかったところで無意味だ。どんな拷問を使おうと、どんな揺さぶりを使おうとしても、彼女はそれら全てを『見間違え』として無かったことにできる。そもそも、そんなものは彼女にとって認識を遅らせるほどの脅威足りえない。
だが。もしその『権能の認識』を、意図的に阻害できる魔法があったなら。そしてその存在の使用を、彼女が許してしまったなら。
認識を遅らせること……つまりそれは、彼女の権能を使う時間が、僅かでも遅れることを意味している。
「らっ!!」
続ける裂帛。この程度で、彼女が死ぬはずがない。きっと十秒もすれば『何かの見間違え』として蘇って、「少々不意を突かれました」なんて言うだろう。
だから、これはあくまで時間稼ぎだ。本命は、心の奥に隠すもの。
パンドラの飛び出す思考回路。赤と薄橙が合わさった血の泡。頭の臓物。
それらに一瞬目をやって、目的のものがないことを確認。すぐさま僕は二撃目を───本命の一撃を、パンドラの喉から下半身までに躊躇なく突き立てた。
服が裂ける。肌が割れる。
顕になる、神すら触れることを躊躇うであろう美しい肢体。純白の肌と、未発達故の、ガラス細工のような美しく瑞々しい果実。
服という布一枚を取り払うだけで、その体は見るもの全てを魅了するであろうことは間違いなく。男、雄……否。生物という範疇であるならば、その様子を舐めるように見つめることは本能。或いは『色欲』よりも、よほどの色気を放っていた。
まるで花。魅惑の香りで蟲を誘う、美麗な妖花の一輪。
その体が、ゆっくりと、開かれるように裂けていく。白亜のような肌が無骨な鍍金に切り開かれ、骨と、
───その中に。
「見つ………けたぁぁっ!!」
汚濁した不気味な魂のようなものがあるのを、鬼化で強化された目は見逃さなかった。
………
そしてそれこそが、作戦の根幹。パンドラという不死の化け物を倒す、唯一の算段。たった今、パンドラという少女は
「『虚飾』の魔女因子っ!!僕を、次の宿主として選べっ!!!」
刀を振り切ったまま、力任せにパンドラへと飛ぶ。鬼族の脚力は、角を削がれてもなおその力を十分に発揮し、僅かコンマ1秒でその目的を達成した。
………即ち。魔女因子を、リルの胸元に触れさせること。
「認めろっ!!次からお前を使うのは、この僕だ!!ラムとレムの弟、リルが!『虚飾』の権能を貰い受けるっ!!」
───さぁ、チキンレースだ虚飾様。お前が傷を治すのが早いか、僕が権能を取り込むのが早いか。
紫の光が、触れた箇所から溢れる。眩く幻想的な光が、礼節に溢れたパンドラという宿主から、リルという存在を呑む。
その一瞬、パンドラと目があった。痛みに顔を顰めながらも、しかしどこか満足げな表情を浮かべ、緩んだ口から……
───リル。良い旅を。
祝福の言葉が、紡がれた気がした。
無限の闇の中にいた。
昏い世界。明けない
自分すらわからない常闇に、一つの声が響く。
愛してる。
愛してる。
愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
愛してる。
愛してる。
愛……
────
…………ふふ。
ふふふふふふふふっ!!
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハっ!!
「………あぁ、
数多の嘘を聞いた。数多の虚飾を見た。
世界全てが偽りに見える。世界全てが、偽物に見える。
どうすれば、自分をどう偽れるのか。それすらも、完璧に理解して。
…………なら、その生き方にも、納得してしまいそうだ。
そうして。
「………戻って、きた!!」
覚醒。それはあまりにも早い、ほんの一瞬の出来事。
倒れ伏すパンドラ。立っている僕。
勝負の結果は、克明だった。
「………よくも。………よくも、まぁ。私の因子を取り込んでくれましたね…………」
口から血を流すパンドラが、ひどく恨めしそうにそう零す。……傷は塞がっているが、その有様を見れば命があと僅かであることは明白だ。
どうやら、彼女の権能が中途半端に成功して、傷口だけは塞がったらしい。表面だけを取り繕うなど、どこまで虚飾なのだろうか。
「僕の勝ちだ、パンドラ。お前の『虚飾』の権能は、もう僕のものになった。お前の400年の歴史は、ここで終わる」
……薄氷の上の勝利、という言葉ですら生温い。足場が崩れて、その落下中に、幸運にも勝利した。そんな戦いだ。仮定に予想と推理を重ね、それらがたまたま的中した結果。陰魔法が使えなければ作戦そのものが成り立たなかったし、ボッコの実の代わりがなければ自爆。魔女因子に至っては、なぜ適合したのかすらわからない。
……だが、それでも結果は一つ。パンドラは敗北し、僕は腕と角を代償に生き残った。
「………ふふ、ふふふっ……そう、ですか。終わり。……終わり、ですか……あぁ、はは。いざ迎えてみれば、なんとまぁ、呆気のない………」
片手で、握った刀を向ける。元・虚飾の魔女は、力なく、おかしそうに微笑む。その笑みは、やはり誰からも愛されるものであった。
「……ここで僕が君に『虚飾』の権能を使えば、権能は戻らずとも君の命は助かる。命乞いでもしてみるか?」
「命乞い………命乞い…………なんて、甘美な響き。……それを提案するあなたの甘さ……
「……………」
………図星だ。
正直に、正直に言えば。
僕という男は、この女と出会う前から、パンドラという女がずっと好きだった。薄っぺらい嘘で適当に誤魔化して、甘く優しい言葉を囁くこの白金の女が、どうしても嫌いになれなかった。
それは、前世からずっとそう。ナツキ・スバルが最も好ましい存在であることは間違いなかったが、一番好きだった女性というのは彼女だ。
だって、その姿は、まるで───
「…………いいでしょう。パンドラの名において、あなたの強い意思、決意………そう
「……は。今更僕が、魔女教徒……大罪司教になるとでも?」
「……その未来も、いずれは見てみたいものでしたが…………えぇ、あぁ、そう。一つ、言い残すとするなら………」
パンドラは、ゆっくりと息を吸い、口の中の血を喉へと流し込む。
「………私も、愛というものがなんなのか、理解、してみたかったのかもしれません……」
それが、本心だったのか。
或いは、最後まで貫き通した
真実は、本人にしかわからない。
「そう。愛してるよ、パンドラ」
「……ふふ、ふふふ……最後の最後まで……面白い子…………ええ。私も愛していますよ、
「だから────」
……敗因があったとすれば、それは年の功だった。
──あなたの
「んっ!?」
「ん……ちゅ……」
最後の力を振り絞ったのか。パンドラは顔と片手を上げて、無理やり僕の唇を奪った。
深い、深い、冷たく、血の味がするキス。この世界……二度目の人生で初めて奪われた、ファーストキス。
離れようともがけば、逃げられたかもしれない。それを逃さなかったのは、パンドラの最後の意地か。或いは、彼女の言う通り僕の甘さだったのか。
舐めとられていく。怒りも、痛みも、疲労感も。全てが上書きされていくように、快楽に飲まれていく。
パンドラという少女からの接吻は爛れていて、官能的で、情熱的で、屈辱的だ。
その愛の交わし合いが、どれほど続いたのか。短い時間であったことは、纏まらない頭でも理解できた。
「……っぷはっ!!……………初めてだったんだけど……」
その美しすぎる顔から口を離し、息を整えて不満を漏らすと、虚飾の少女は皮肉を込めて微笑した。
「………私たち、互いを……愛しているのでしょう?」
「………失言だった。あぁ、わかった。僕の……リルの
「………ふふ…………愛。……少し、分かった………ような…………気が………します……」
だが、今度こそ終わりだ。パンドラの目から光が消えていき、四肢から無かった力が絶えるように消滅する。
「………パンドラ」
言葉もなくこちらを向いた少女に、僕は──
「良い旅を」
最大限の
「ありえない」
顔を上げて、彼女と二人きりの時間が終わった後。黒煙が晴れてから聞こえたのは、一人取り残された狂人の声だった。
「パンドラ様……パンドラ様が!!やられるはずが、ないのデス!!愛の信徒!!愛の裁定者!!パンドラ様が!!」
頭を掻きむしり、信じられないと言うように狂乱して叫ぶペテルギウス。
パンドラの権能を知らなかったペテルギウスは同士討ちという最悪の事態を避けるために、シャマクの中では『見えざる手』を使うことができなかったのだ。
「……その愛ってさ。どんなもの?」
少し気になって、尋ねてみる。
愛、愛という彼は、愛を理解しているのだろうか。
リルと彼女の間には、愛はあっても、それの正体はわからなかった。愛とは自然に生まれ、意味もなく、訳もなく、質量すら、感情ですらないものだったのだから。
「愛は全て!愛が、愛が愛が愛が愛が!!全てなのですっ!!それ以外など不要っ!!その事実を思い知るが良いのデスッ!!『怠惰』の権能!見えざる──」
「『ペテルギウス・ロマネコンティがこんなところにいるはずがない。彼はきっと、ここではない遠いどこかで、リルのことを忘れて指先と共に魔女の復活を待ち望んでいる』」
権能の使い方は、手を取るようにわかった。結局、一度も目の前で実践してもらったことはなかったけれど。
にべもなくそう口にすると、目の前にいたはずの『怠惰』なる狂人は、跡形もなく消えてしまった。
残ったのは、もう燃え尽き始めた民家の焼ける音だけ。そこには、人がいた痕跡などさっぱり消え去っている。まるで、『ここにいるはずがない』というリルの言葉を肯定するように。
「『虚飾』の権能………パンドラのから変わってないっぽいし、ヤバイな、これ」
これはラスボスが使う技だわ。うん。しばらく封印しよう。……… ペテルギウスが消えたというのに傷が治らないのは、使い手が変わったからなのか。
「……とりあえず……姉様方のところに戻ろう…………この角と腕……は、まだ治さなくていいかな……」
いい加減、ロズワールも来ている頃合いだ。上姉様の角が折れたかどうかはわからないが、ここでロズワールの目に止まらなければ姉様方と離れ離れになってしまう。最低限、命に関わりそうな傷だけは傷口だけを『見間違え』として塞いでおく。
「……魔女教大罪司教『虚飾』担当……リル」
ふと、彼女の最後の言葉を思い出してそう口にして。
「いや、ナイナイ。これ、リルには似合わないなぁ」
首を振って、前へと歩き出したのだった。
ヒロイン:ラスボス(死亡済み)という新ジャンル。
これが作者の思いついた限りのパンドラ討伐案です。できるかどうかは猫先生、もとい長月先生次第です。できるって言って。
次次回くらいから愉悦入ります