雨が降っていた。光すらない暗い夜道に、舗装されていない地面を踏み締める、びちゃびちゃという音が響く。
静かな夜だ。静かな街だ。……閑散とした閉じた世界の音。感覚は否応なしに鋭敏になり、手の中の温度を伝えてきた。
変に曇っているより、雨が降ってくれた方が冷たくて楽だった。体の熱が奪われることが、少しでも自分への罰になった気がしたからだ。そんなこと、誰も望んでもいないのに。単なる自己満足だと知って、嫌悪は更に募っていく。
フェルトとフィアラの間に、会話はない。未だ戸惑うような表情を浮かべるフィアラを、無理やりフェルトが引っ張っているだけだ。ただでさえ重い足取りは、水を吸った靴のせいでよりその鈍重さを増していた。
伝う雨粒は、腫らした目と涙の跡を誤魔化していく。雨が降っていることは、かえって良かったのかもしれない。
馴染んだ大きな木製の扉に辿り着く頃には二人ともずぶ濡れになって、体も随分冷え切っていた。傍目から見れば湿気ったドブネズミと、水も滴る美少女くらいの差はあるだろうが。体が震えるのを止められない中で、それでも離さないように、強く繋ぐ手を握り直した。
「帰ったか」
ノックも合言葉もなしに開いた扉の先で、しゃがれた老人の声を聞いた。前を向いていなかったから顔は見えなかったが、その声からは安堵は窺えても、驚きや疑問の類は聞き取れなかった。情報通で経験豊富なロム爺のことだ。大方、起こった事情の大半は把握しているのだろう。
起こった、事の。
そう考えた途端に胸が苦しくなって、手をキツく握りしめた。ひどく浮世離れした、今にも消えてしまいそうな儚さを持つ少女の存在を確かめるように、強く。
唇を噛み締めた。悔やんで、悔やんで、それを引き起こした自分自身が許せなくて、血が出るほどに。
ふと、何か分厚いものが自分に投げられた。視界を覆ったそれは、途端に水分を吸って垂れ下がっていく。
「まずは体を拭け。話は、それからじゃ」
渡したタオルケットごしに、ロム爺はフェルトの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
頭がもげるかと思うほど雑で粗野な手つきが、ほんの少しだけフェルトに落ち着きをもたらした。
落ち着きと共に、悔しさがぶり返して泣きそうになった。
盗品蔵の中は、大きさとは対比的に静かだった。ラグマイト鉱石が生み出す小さな光を中心として、毛布に包まる二人と、それを見守る老人の一人が、暗闇に満ちた空間で数少なく形容できるものだった。
たどたどしくも、フェルトはおおよその経緯を話した。できる限り、思い出したくもない記憶を辿って、拙いながら思いつく限りをロム爺に話した。フィアラが話そうとするたび、それはフェルトが止めた。これ以上その口から決定的な何かが発されたら、フェルトはもう、自分の正気を保っていられるかも怪しかった。
途切れ途切れに言葉を紡ぐたび、自分の思慮の浅さへの嫌悪と、後悔と、訳のわからない感情が混ざり合って、吐きそうになる。それを必死に堪えて、フェルトは洗いざらいをロム爺へとぶちまけた。
「………それ、で。アタシは、コイツを連れてここまで帰ってきた」
途中口を挟むことなく、黙々と話を聴き続けたロム爺は、フェルトの語りがひと段落したところで、ようやくひとつため息をついた。
話し終えたことで、フェルトも沈黙する。毛布に包まっても体はまだ少し冷たくて、歯の奥がカチカチと音を立てた。この冷たい事実に現実味が出てきたのが、より一層辛かった。
何から話したものか。流石のロム爺でも、少し迷ったようだった。フィアラを見つめるその目は同情的ではあったが、その程度で目を曇らせるほど、ロム爺は愚鈍ではない。
「フィアラ。お前さん、出身はどこじゃ」
「……わからない。生まれた時から孤児。ルグニカのどこかだとは思うけど、それも曖昧。親の顔も、兄弟の顔も知らない」
ロム爺の改まった問いに対して、あくまでシンプルに、無感情に答えるフィアラ。だが少なくとも、嘘をついていないようには思えた。つく理由もない。
それは貴族などとは、かけ離れた出生の話。驚くことにフィアラは、フェルトと全く同じ孤児だったというのだ。
けれど、同じに思える境遇のうちで、決定的に違ったのは──
「そこで………多分、だけど……拾われた。魔女教の……『色欲』に」
「魔女教………『色欲』じゃと?」
予想だにしなかったビッグネーム、というより悪名に、さしものロム爺も驚いた様子を見せる。
魔女教。世界各地で『嫉妬の魔女』の信仰を言い訳に、様々な被害をもたらしていくある種の災害。特に『怠惰』の名くらいは、フェルトでも聞いたことがある。市政一般で知れ渡るくらいには、その悪名は轟いているのだ。
『色欲』とフィアラは言った。ならば、それが指す魔女教においての立場は恐らく、一つ。
「魔女教、大罪司教の、か?」
「……流石に、驚きじゃの」
無言の肯定を返すフィアラ。その瞬間、フィアラが持つ狂気の一端を、ようやく理解できた気がした。
育て親が、魔女教の大罪司教。ただそれだけでも、子供が歪むには十分も十分すぎる理由だ。狂わずにはいられないだろう。平然と体を売ってでも誰かに尽くそうとするその姿勢も、そんな歪んだ環境が生み出したものだったと言われれば納得はできずとも、辻褄は合う。それが『色欲』と名乗るものであるのなら、余計に。
………例えば。同じ孤児のフェルトが。ロム爺という恵まれた育て親を持ったフェルトが。フィアラと境遇を交換していたら。フェルトが第二のフィアラになっていた可能性だってあり得る。絶対に無いとは言い切れないだろう。相手はあの魔女教だ。
「……多分……っつーのは」
「フィーは、その頃の記憶があんまりない。覚えてなかったわけじゃ、ない。……本当に、忘れた。あったはずなのに……自分の名前も。家族の顔も、声も、思い出も……全部、全部。……思い出せない。だから、多分。拾われたのか、攫われたのか。そこはわからない」
フィアラはぼやくようにそう話した。……その姿は、どこか寂しそうに思える。あの日と全く同じ、置いてけぼりにされた子供の呟き。
ずっと建前だと思っていた。そういう体にしておけば、フェルトからの追及を避けられるから。『設定』だと思い込んでいた。
違ったのだ。あの日。出会ったあの時に、フィアラは既に、フェルトたちに真実を話していた。嘘偽りのない、フィアラ自身がわかる限りのことを話していて。
それに気が付かなかったのは、間違いなく先入観で目を濁らせたフェルト自身の怠慢だ。
つまり。
───防げたかも、しれなかった……?
あの日。あの時に。より深く追及すれば。フィアラは自らの出生について語ったかもしれない。魔女教に育てられたという経緯についても触れて、この会話の続きを話したかもしれない。そうなれば、フィアラが身売りするようなことは、起こり得なかったのではないか。
否。そもそも、フェルトがフィアラを貴族だなどと勘違いしなければ………
「フェルト。自分を責めるのは後にせい。反省は、いつだってできる。今は、過去ではなく現実に向き合う時間じゃろうて」
「………ロム爺」
ガシガシと、頭を強く撫でられる。いつものその動作が、悪い方向に陥りかけた思考を止める。
数瞬の迷い。それを振り払って、フェルトはそのまま自分の両頬を強く叩き、頭をリセットさせた。
フェルトの顔を見て満足げにしたロム爺は、再びフィアラへと疑問を投げかける。
「フィアラ。なぜ魔女教は、わざわざ子供を育てる?言っては悪いが、それは奴らに似合わんじゃろう」
確かに、そうだ。そんな慈善活動まがいのことをしていれば、魔女教は世間一般で此処まで嫌われてはいないだろう。
教徒を増やすため、と言われればそこまでになる。魔女教には確か『福音』という教本まがいのものがあって、それがひとりでに教徒を増やしていくはずだ。フェルトも『悪いことをしたら『福音』が届く』という脅し文句を聞いたことがある。わざわざ育てるという過程を経てまで、魔女教が教徒を増やそうとするとは考えにくい。
「………育てる、とは。違った。正確には、実験。集められた子供たちは、みんなその実験体。『色欲』は……母さんは、ずっとそれを研究してた」
母さん、と呼ぶあたり、『色欲』は女なのだろう。家族……のようにも思えた。だが、フェルトにはそれがまるで、その呼び方が醜悪なおままごとか何かのように感じた。まるでその称号自体が、人体を縛り付ける鎖であるかのように。
その怖気を抑えて、フェルトが問う。
「実験……何の?」
そしてその答えは、フェルトの想像を遥かに上回る、下劣かつ醜悪なものだった。
「愛」
陳腐で、簡素な答え。
だが、それ故にその言葉が持つ重みは、果てしなく大きかった。ロム爺やフェルトが、言葉を発したフィアラから、目が離せなくなるほどに。
「どうやったら自分が愛されるのか。一人を愛せない人に、愛という感情を持てない人に、愛という本能を知らない人に………生まれたての赤子に。どうやったら、自分を、自分だけを、愛させることができるのか」
迫力、ではない。
その言に宿っていたのは、紛れもない狂気だった。言霊、とでも呼ぶべき何か。人を震撼させる、その見えない執念じみた何かだ。それは善良なものでは決してなく。長く溜め込まれた汚泥のような、粘つくような不快感すら伴っている。その『実験』とやらの過程が、果たして人道的であるかなど。火を見るよりも明らかだった。
「……狂ってる」
フェルトの呟き。それは、おかしいだとか、気持ち悪いだとか、疑問や感情といったものを集約した一言だった。溢れ出る罵倒、詰問、猜疑心。そういったものが詰め込まれた言葉。ロム爺も、フェルトの言に焦燥を見せながらも頷いた。
どうしてそんなことを、だとか。そういう言葉を言える次元ではない。ただ、そんな人間がいることを想像すらしたくないと、本能が叫んでいた。
理解することを、たった二言三言の言葉で放棄させる。それだけの相手が『色欲』だった。
フィアラは、そのことについてどう考えていたのだろう。ただ、『色欲』について深く語ることはせずに、続ける。
「……フィーは、その実験の成功例。誰からも愛されるように作られた『
ラブドール。その言葉が一体何を指しているのか、フェルトには理解しかねた。……けれど。
「……ふぃ、フィーは……ずっと………そこで………そ、こで………」
けれど。
「フィアラ……?」
震えていた。
今の今まで感情の欠片程度しか見せず、春を売らされかけようと、売られようと。ほとんど無表情に等しかったあのフィアラが。今この時に至っては明らかな恐怖を思い返し、尋常ではないほどに震えていた。
あ、う、と。声にならない詰まりが、フィアラの声に混じり始める。それがもう、どうしようもないほどにラブドールという言葉の意味を示していて。
「……もういいっ!フィアラ、もう……!」
「やめんか、フェルト!」
もう話さなくていいと、フィアラの肩を掴んで止めようとした。しかし、その行動は、全く予期せぬ人物からの声で妨げられる。
「なっ………!?ろ、ロム爺!これ以上、フィアラに話せってのか!?話す前から、こんなになってるんだ!もう、答えなんてわかりきってんだろ!?」
「だからどうした!!ここで聞かねば、ワシらはこの子の事情を知らぬままじゃ!勝手な妄想で事実を補っては、同情も憐憫すらもしてやれん!過去は過去じゃ!向き合うかどうか決めるのはその持ち主!部外者が口を挟んでどうなる!?お主がそうやって、ずっとフィアラを変えられもせん過去から逃し続けられるとでも言うのか!?」
「………そ、れは……」
剣幕。まさに鬼の形相のロム爺に、そう叫ばれる。……この温厚な老人がここまで怒るのなど、一体いつぶりだろう。少なくとも、それがフェルトに向けられたのはこれが初めてのことかもしれなかった。
言葉を失う。……反論は、できなかった。
「………フィー、話したくないなら話さんでもいい。自分で決めい」
そう言って、ロム爺はどっかりと椅子に座り込む。沈黙して坐す。その姿からは無情とは違う、何もかも受け止めるという頑固たる意志が感じられた。
「………フィー、は……フィー、は……!」
息は荒い。呼吸が乱れて、それを何とか整えようとふーっ!という深い呼吸音が聞こえる。その中で、目に涙すら溜めながら、フィアラは。
「そ、こで……ずっと…体を売らされてた……」
「なっ……!」
それはようやく現れた、今回の件に繋がる過去だった。だが、それはまさしく、聞きたくもない言葉の羅列。耳すら塞ぎたくなる、一生に一度体験するかしないかの、壮絶な体験の数々。
「肉に囲まれて日々を過ごした……身体中に、いっぱいいっぱい、色んな汁をつけられて……寝てる時も、ずっと。髪も、口も、手も、お腹も、下半身も。………全部全部、使われ続けてた」
なにもかもがおかしいやつだと思っていた。
勝っているつもりでいる。見下している。フィアラという子供は、ずっと遠くからこちらを見るように、微動だにせずこちらを眺めていることがあった。それはきっと、自分が貴族という立場だから。何もかもが自分とは違うから、さぞ珍妙な貧民街の自分達を見下しているからなのだろうと思っていた。
違う。違うのだ。
そうするしかなかった。フィアラは、そうすることでしか正気を保てなかったのだ。生きるために日常を捨て、異常に適合することが、フィアラにとっての処世術だったのだ。その結果だけ表面に出てきて、ただ見えるだけの『フィアラ』という存在を形作っているに過ぎない。
そして今、過去という日常を持っていた頃を思い出したことによって、その皮が、生きるためのメッキが、剥がれていく。
「だからね。フェルちゃん。もし、もしも、ね。フェルちゃんが、フィーにお金を稼がせたことで、何か……なんでも、いいから。ほんとちょっとだけでも、何か思ってくれたなら……もう、気にしなくてもいい。フィーのことを思ってくれただけで、フィーはすごく嬉しい」
今になって、全てのことに合点が入った。
どこかおかしいのではない。おかしくならなくては、フィアラは生きてすらこれなかったのだ。
春を売ることを、日常に主観を持たないことを、動かないことを、自己主張しないことを。それらを当たり前にしなければ、フィアラは。
「慣れてる、から。体を売ることも……人に、媚びることも……みんな、みんなみんな、フィーは平気だから……!だから……もし何かを思って、思って、くれたら……フィーは……他に、なんでも……!」
「……そんな、こと……」
フィアラは、そんなことしか望まない。望めない。……期待することを、恐れているからだ。
希望を持つと言うことは、絶望を待つと言うことだから。望むことは裏切られることと表裏一体で。大きく望めば、その分帰ってくる絶望は大きくなってしまう。
そのことを、フィーという子供はあまりにも早く学んでしまって。そしてその末に、裏切られ続けることばかりを、知ってしまったから。
「なんだよ、それ……!」
だから、そんなちっぽけなことを望むことしかできない。当たり前のことを裏切られ続けてきたから。当たり前のことを、当たり前に思う。その『0』を。それ以上の優しさを。期待することすら、フィアラには許されなかった。
自分が損なうことも。傷つくことも。自分に期待することも、絶望することも。フィアラにとっては、既に日常。捨て去った過去。気にすることですら、無くなっているのだ。それを嘆く機はとうに失われていて。もうそんな段階は、とっくに通り過ぎていて。
人の善性という当然。フィアラはもう、誰もが知っているような、そんなちっぽけなものを確かめることで、幸せを感じられるようになってしまっていた。
『人が自分に何かを思う』という、たった、それだけのことにすら。優しさを与えられてこなかった子供は、幸せを感じるようになってしまった。
「そんなの、当たり前じゃねーか……!」
他人が当然と感じうることに、幸せを感じる。
それが、どんなに優しくて、悲しいことだろう。
胸の奥が、きゅぅぅぅっと締め付けられた。それと同時に、枯れ果てたはずの目頭に、再び熱いものが湧き上がってくる。
何を言えばいいのだろう。さまざまな感情が湧き上がって、消えて、浮かび上がって、新たに生み出されて。自分の感情が、広大な世界そのものであるかのような錯覚を受けた。
怒り、悲しみ、憐れみ、思慕、慈悲。それらが混じり合って、反発して、融合して。言葉にできない想いが、次々と生まれていく。こんな複雑な感情が自分の中にあるということが、フェルト自身驚きでしかなかった。
生きる環境に応じて、人間は変わっていく。その変化は、フェルト自身にだって言えることだ。貧民街に生まれていなければ、盗みを生業にすることもなかっただろう。こんな口調になることもなかったかもしれない。大層な野望を持つことも無かったかも、しれない。
それでも。
これは、ないだろう。
こんな悲しい変化があっていいものか。こんな寂しい適応が、存在してもいいものか。
これ以上聞いてなんていられない。言わせたくもない。こんな幸せの形が。歪の歪があることが。もう、フェルトには耐え難かった。
「………もし、フィーが、フェルちゃんを、ロム爺を、信じて、いいなら……!い、いっぱい稼ぐから……!ずっと、働くから……!だから……いつか、きっと、いつか……フィーのことを………褒めて、くれたら……」
ずっとそうしてきたのだ。その笑顔は、芸術品のように綺麗で。
人間味の一つすら感じられない、無機質な『笑顔』というだけの。それに似せた、顔の動き。
………何を見ていた。
今の今まで。フェルトはこの笑みを見て、なぜ平然としていた。どうして、放っておいた。
気づけたはずだ。わかったはずだ。どこか一つでも目を配れば。その違和感に気がつけたはずだ。こんな、面のような模範的な笑みに。どうして、フェルトは──
「もう、いい」
その顔を覆い隠したのは、ひどく大きな、老人の抱擁だった。
「わかった。もう、わかった。お主の気持ちは、過去は、よくわかった。何も言わんでいい」
「………え、ぁ……?」
クロムウェルという老人は、それだけ言って、きつくきつく、フィアラという少女を抱きしめた。
肯定や否定ではない。行動で、フィアラの感情を、正面から受け止めていた。
「………今までよく、よく頑張った。その力は、もっと別の方向に生かせばいい。もう、そんなことをする必要はないんじゃ。当たり前のことに、礼など言わんでいい。幸せなど、覚えんでいい」
「う……ぁ……」
「辛かったじゃろう……苦しかったじゃろう……もう、大丈夫じゃ。ここにいる限り、お主はもう、そんなことをせんでええ」
強くて、優しくて、思いやりに満ちた言葉に。フィアラの壁が、歪が、歪んで、溶けて、剥がれていく。フェルトには決してない、歴史の重さを込めた声音が。じっくりと、けれど確かに、フィアラが積み上げてきた心の壁を、動かしていく。
「あ、あぁ……」
フィアラの目から、一筋の涙が零れ落ちた。ずっと与えられ続けた恐怖が、ようやく麻痺して。安堵を、認識できるようになって。
フィアラは。名前もなかった子供は。
「うわああああああぁぁん……!えぐ、ひぐっ……!ああぁぁぁぁっ!」
やっと、泣いた。
「こ、怖、かった……!いだがった……!い、いっぱい気持ちいいの、気持ち、悪くて……!ずっど、嫌で、嫌でっ……!」
嫌悪して当然のことを嫌悪して、嘆いて当たり前のことに嘆いて。喚いて、漏らして、叫んで。苦しみと膿を吐き出すように、ひたすらに。
「ぐすっ、ううううぇぇぇえぇぇっ……!」
泣いて、泣いて。嗚咽を漏らして。
自分のために、泣いた。
「………寝た、か?」
「あぁ、ぐっすりな。……余程、気を張り詰めておったようだ。無理もないじゃろうて」
フェルトは、カウンターからソファに移されたフィアラの寝顔を覗き込んだ。その目元にはフェルトと同じく、泣き腫らした痕がくっきりと残っている。それでも寝顔は、美少女そのものなのだから驚きだ。
「………ロム爺は、わかってたのか?フィアラが、こんなだったって」
「……ここまでは予想しておらなんだが。身売りをする子は、数十年前の亜人じゃ珍しくもなかったからの」
それでも、違和感は感じていたのならフェルトよりも上等だ。フェルトは気が付かなかった。気が付かずに、迂闊にも願いを述べてしまって。結局、フィアラに体を売らせてしまった。
「フェルト。お前さんはまだまだ若い。今回のことが仕方ないとは言わんが、自分を責めるのは間違っとる。責めるべきは、この子を産んだ悪意じゃ」
「……ロム爺……」
「………周りの大人たちが、誰も言わなかったんじゃろうなぁ……そんなことはせんでいいと。あんな小さな子供が、頑張る必要などないと」
過去に、何かあったのか。遠い目で、ロム爺はそう呟いた。
……そういうロム爺についても、思えばフェルトは知らないことだらけだ。いつも謎だらけ。巨人族という種族くらいのことしか、フェルトはその素性を知らない。
自分は、フィアラよりも、よっぽど恵まれた環境にある。……だからどうというつもりもない。
が、それに甘えることは、今からでも辞めていこう。それを言い訳に、何かを諦めたり、何かに目を瞑ったり。そういうことは、今日限りで、終わりだ。
「………ほれ。暗い話は終わりじゃ。今日は飲むぞ。ミルクも大盤振る舞いじゃ。好きに飲め」
「………ロム爺がそんなに上機嫌とか、珍しい。ミルク、薄めてねぇだろうな」
「馬鹿言え。そんなケチケチした真似はせんよ。なにせ……今日は、あの子の誕生日じゃからな」
なんだそりゃ、と笑う。
「………まずっ」
飲んだミルクは、冷えていてもあまり美味しいモノではなかった。濃い味は、やたらと舌に残って、雑な甘さだけを残して……消えた。
ちなみに、フィアラたんが泣いたも怖がったのも両方ガチです。実際怖かったのは本当だし、不快な思いをしたのも本当ですし。というか、嘘は一つもついてないわけですから。ついでに、本編で未だ明かされていない過去のことも関係していたりします。