めちゃくちゃ遅れてひたすら申し訳ない。
こちら、100虎 byakkoさん からいただいたリル君になります。お披露目遅くなってしまって申し訳ない。このクオリティでワンドロって、正気か?
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本気出します。
本編の予定も決まりました。あとがきの方に載せときます。感想くださった方、返事出来なかったけどちゃんと読んでます。ありがとう。
前回のあらすじ:
「なんだあの女は!?まるで駄目じゃないか!これで金貨十枚だと!?花街一の店が聞いて呆れる!」
「申し訳ありません!申し訳ありません!」
金のかかっていそうな豪奢な服に身を包む、貴族らしき人影が怒鳴る。それに対して、太ましい男は平謝りするように頭を下げていた。
「こんな場所、二度と来んよ!」
「あ、ああっ!申し訳ございません!あの娘はクビにいたしますので!どうかまたのご来店を!」
懇願する男の声に耳も貸そうとせず、貴族風の男は踵を返して去っていく。最後には、場に残った男の歯軋りの音だけが響いていた。
男は、ここ数日失敗続きだった。
まるまるとした体つき。豪奢ではないが、一目で安くないとわかる仕立ての服。ルグニカにおいて珍しくもない金の髪は動物性のワックスで固められ、男の見栄が見て取れるようだ。
男は、とある娼館の店長を勤めていた。王都といえど、全てが全て綺麗なものばかりではない。否。むしろ、王都のような人が集まる場所だからこそ、娼館のような場所は必要だ。その中でも、男の娼館は伝統が残る程度には長続きし、繁盛していた店だった。
辺境ながらもその名を轟かせる『華獄園』ほどではないが、王都にて安定した品質を保ち続け、顧客も抱えた良店。
だが、先十年は安泰だったはずの雲行きは、最近になって悪化し始めていた。客足は途絶え始め、顧客たちもひとり、またひとりと離れていく。
理由は、男にも明確にわかっていた。わかりやすすぎるほどの転機が、その心当たりがあったから。
──あのガキだ。
半年前、ふらっと立ち寄った小さな子供。身分も何も言わずに『働かせてくれ』と宣ったそれを、
それが、全ての始まり。壊れてしまっても構わないと、使い道があるかもしれないガラクタを厄介者に押し付けただけの話。
数時間後。少女は月の給金並みの大金を手に部屋から出てきた。
それだけなら特別な事を思うことはなかったろう。貧民街の子供を憐れんで客が恵んだのかもしれないと勝手に結論づけ、適当な金をふんだくって終わっていた。簡素極まりない少女の服が汚れていないのも、憐憫ゆえに手を出さなかったからだろうと決めつけて。
だが、少女は小さく自分に言った。感情が無いのではなく、感情を窺わせない顔で。心が宿っていないのではなく、宿さない声で。
『次』と。ただ、そう一言。
震えた。震えるほどの才能だった。震えるほどの発見、洞察。そして、思考が巡った。
花街で働く上で、一番大切なもの。それを少女は、幼すぎるその齢で完全に理解していた。そして、その理解を最大限に活かす行動力があった。
少女は、体を売っていなかった。売らないことで得る利益を知っているから。売らずに金を稼ぐ手段を。客を満足させる手管を。彼女は知っている。知っていた。
その夜。少女は総額にして、嬢が一年で稼ぐ金額を積み上げた。花街でその体を一切汚すことなく、どころか同衾することすらなく。町娘となんら変わらない綺麗な体のまま、売上のほんの一部を持って店を去った。
戦慄。畏敬。迎えた朝に男が抱いたのは、そんな溢れんばかりの感謝と恐怖の感情………
………などでは、無かった。
──穢したい。
それは、原始的な欲求だった。本能、というには理性的なれど、そうせざるを得ない。結果的にそうなると知って手を出したくなる。
泥沼に咲く一輪の花。
入りたくて入り込んだわけでは無い。ただ、生まれた時から自分はその沼にいた。周囲の女も、男も、何もかもがその黒い粘着質な何かを纏っていて。
その中で黒を押し除け、弾き、君臨する純白があれば。
手に取りたいと思うだろう。重く冷たい泥をかき分けて、進んで。愛しく、美しいその白を、自分だけのものにしたいと。そう思うだろう。
その白を自分だけの色に染めることは、人生で最高の幸せであることは間違いなく。あの無表情を、あの無感情を。汚れのない肌を、自分の思うがままに蹂躙することは、えも言えぬ充実感を与えてくれるのだろうと、そう確信できた。男の目は、少女に釘付けとなった。
少女を箱入りにした。そうすればするほど、自然と少女の価値は釣り上がっていく。噂が噂を呼び、ただ会うだけで一財産を築き上げるようになり、店先に出るたび、少女はそれ以上の金を巻き上げてきた。
このままいけば。いずれは、自分は店をもっと発展させることができる。どころか、この調子であれば貴族の席を買うことすら可能になる。元来金で買うことが不可能だろうが、身の丈よりも高い聖金貨の山があれば話は別だ。もはやそれは金などではない。単なる力だった。
そして最後には。念願の少女を手折るように、密やかに子飼いにできると。そう信じてやまなかった。
………そのはずだったのに。
そして今。男は少女を失い、店はその吊り上げられた期待に苦しめられていた。その噂がただ一人に向けられたものとはつゆ知らず、皆はこぞって店へと足こそ運ぶ。
だが、元はと言えばただの一風俗店。どれだけ噂で価値を高めようが、売れる嬢の質などたかが知れている。やってくる客の期待は、店の質に対してあまりにも高過ぎた。
蓄えはある。だが、このままいけばそれも尽きよう。花街の店は顔で成り立っている。一見の客が多く訪れたところで、顧客を失えば利益は減るばかりだ。
「くそっ!くそっ!あんの、クソガキぃぃ!よくも俺のフィアラを……!」
未だに覚えている。フィアラとは対称的な、みすぼらしい格好の金髪の子供。年端も行かない、恐らくはこちらの世界の先も知らないガキ。
その蹴りが、男の計画の全てを狂わせた。あの日以来少女が訪れることはなくなり、店の経営は日に日に傾いていく。
「殺してやる……!探し出して、殺して、フィアラをこの手に取り戻す……!」
行き場のない殺気。それを地団駄で必死に抑え込み、手を力強く握り込む。
「…………あ?」
ふと、一陣の風が吹いた。それだけなら何も思わなかったろう。しかし、その風が妙に甘い匂いを発していたから、思わずそちらを向いてしまった。
風は、窓から部屋へと吹き込んでいた。開け放しにした覚えはない。どころか、ここ数日開けた記憶すらないが。そのサッシに、一枚の紙が挟まっていた。
「これは……」
手に取ると、それは質の悪い紙のようだった。その手紙の表紙には、美しい文字でこう綴られている。
『あなたに、幸運をもたらす者』
その内容は、男にとってはまさに蜘蛛の糸だった。例え事実と仮定するのなら、まさに天啓。救いそのもの。
疑う選択肢などない。疑ったところで状況が改善されるわけでもないなら、男に記述を信じる以外に道はなかった。
だから、男は気が付かない。
蜘蛛の糸は、元来餌を捕食するために垂らされるものであるということに。
コツ、という鈍い音が響く。木と木をぶつけるような音。軽快とはいえずとも落ち着きを含む音が、一定のペースで机の上で刻まれる。
不意に、その沈黙を破るようにして声が発された。
「フェルちゃん。妓女に一番必要なものって、何だと思う?」
手の中のモノを弄びながら、白髪の子供が尋ねる。それに対する金髪の少女の表情は真剣そのもので、問いへの反応も数秒遅れた。
「………珍しいな、お前がそんな話するなんて」
ポロリ、と溢す。
実際、珍しい。白髪の少女っぽい子供は、自分の過去についてあまり触れたがらない。自分たちも触れない。壮絶かつ不快極まりない歴史を知れば、誰だってそうするだろう。話題自体、この歳でするものではそうない。
少女は机にのめり込むのをやめ、驚くのをそこそこに問いへの答えを出そうと考え込む。
「そ、そりゃあれだろ。え、えっ……床上手かどうか!」
「フェルちゃんのスケベ」
「なんでだよ!?」
えっち、と隠すように自分の体を抱く少女擬き。話題を振ってきたのはそっちだろうに、フェルちゃんそういうとこあるよね的な目で見られるのは非常に納得いかない。
「そんなフェルちゃんの育て親であるロム爺、正解をどうぞ」
「話の流し方に悪意があるの!?言っておくが、フェルトがこうなった理由の大半お前さんじゃからな!?」
「こうってなんだこうって!ロム爺までそんなこと言い出しやがって!」
始まった老人の遺憾極まりない釈明に、思わず立ち上がって抗議する。おかしい。この盗品蔵の中にフェルトの味方はいないのか。というか、その言い方ではまるで、本当にスケベのようではないか。
「まぁ、それは置いといて」
「アタシの尊厳を軽く置くなよ」
「捨て置いて」
「捨てたぁ!?」
繰り返される暴挙。人のプライドをなんだと思っているのだ。
フェルトの責めるような視線を物ともせず、少女擬きは老爺に視線で答えるよう促す。フェルトをいくらか見て軽くため息をつき、少し考えるような仕草を見せる。
「………教養、かの」
「はい正解。流石ロム爺。略してム」
「減りすぎじゃろう!?流石とロと爺どこ行った!?」
「おいフィアラ!流石に教養は無茶ありすぎんだろ。
「なんか上手いこと使われとるんじゃが!?返ってこいわしの『ロ』と『爺』!」
「ム。ノリがいいな」
「…………褒めたのか!?今ワシ褒められとったのか!?『流石ロム爺』の『ム』じゃったのか!?わかりづらいわ!」
相も変わらずからかい甲斐のあるロム爺の反応に失笑。しかし話が気になるのも事実。正面へ向き直り、話の大筋を戻す。
「んで?なんで教養がいんだよ。別にいらねーだろ。その、そ……そういうことして帰るだけなんだし」
若干目を逸らしながらのフェルトの発言に、しかし目の前の白髪は淡々とかぶりを振った。
「
「………いい加減、何が言いてーんだよ」
向き合う。ピリピリとスパークする頭の中で、机の上と、その意図を読むことで思考のほとんどを費やす。
こんな緊迫しきった状況で口にされた世間話。果たしてそれにどんな意味があるのか、慎重に測り続ける。
そして、そのピリついた空気を引き裂くように、フィアラはその口を開き。
「フェルちゃん────この盤面、詰んでる」
「またかっ!!」
その言葉を聞いた途端、フェルトは大仰に頭を抱え、机の上の駒を見返す。何度も何度も模索し、逃げ道がないことを確認し、今度は落胆。
シャトランジ、というテーブルゲームがある。
将来的にはチェスと呼ばれる競技の原型となる、一対一の対人遊戯。その戦術の幅広さ、盤とコマさえあればできるという手軽さから、この世界では広く親しまれている。
それはフェルトとて例外ではなく。今までロム爺と、何度か盤を対したことがある。もちろん、ロム爺相手にフェルトが勝ったことなど、ハンデなしなら10回に一度あるかないかくらいなのだが。
だがしかし。目の前のフィアラはその上を行く。そのロム爺を20戦20勝で完膚なきまでに叩き潰し、挙句フェルトを五秒以上考えないというハンデ付きで撲殺し始めた。
「くっそ!性に合わねーってのもあるが、こんだけハンデついて負けるのは納得いかねー!」
「客に付き合うための、ボードゲームの技量。これも花街で生きていくなら必要なスキル。シャトランジでフィーに勝とうなんて無謀」
「お前に言われると倍で腹立つ!」
涼しげな顔でフェルトの猛攻を難なく受け流し、いつかの固パンとは違い本当に好物らしい砂糖漬けにしたリンガの皮を齧るフィアラ。優雅さすら感じさせるその姿は、ぶっちゃけ立ち向かう気力を折りにかかってくる。
「フェルト、お前さんの腕前では……」
「わかってるよ!十年経っても勝てねーってんだろ!」
「いや、百年経っても……」
「そこ訂正する必要ねーよな!?わかってるよそんなこと!ダメ押しとかいらねーから!」
敗者への気遣いどころか、死体蹴りを超えて死人に鞭打ちだ。実力差があることは承知の上だが、自分よりも数段は上のロム爺にそうまで言われてしまうと、その差がより明確になる。これでも、そこいらの大人よりも強いくらいの実力を持っていたつもりだったが、その自信も無くなってしまいそうだ。
「それがわかっとるなら、どうしてわざわざ挑むんじゃ」
「………悪いかよ」
「悪いとは言わんが………お前さんらしくはないわな」
「フェルちゃんらしくない……らしくない……つまり催眠……?閃いた!」
「衛兵、コイツだ。連行しろ」
「わかったわい」
「あ〜れ〜」
ここぞとばかりに差し込まれた余計な合いの手を叩き落とす。なにやらとんでもなく『お前がそれ言っていいのか』と言いたくなる衝動に駆られつつ、自らの言動を振り返る。
………確かにおかしい。フェルトは勝てればなんでもいい主義だ。負けてもう一度再戦しようなどという殊勝な精神など持ち合わせていないし、負けるとわかっている戦いにわざわざ挑むほど愚直でもなかった。むしろ、相手の得意分野で挑むなど愚の骨頂と言っていいだろう。
ただ、なんとなく思うのだ。フィアラに負けたままではいられない、と。他の誰かならともかく、フィアラにだけは負けたくない。他の誰かに負けても、フィアラにだけは。
だからフェルトは、負け惜しみとしては下の下の失言をした。
「いや、にしてもこんなにボードゲームが上手いなら、妓女ってか賭博士みてーだよな。いっそそっちに転職しちまえばどうだ?」
瞬間。
ケラケラと笑い転げていたフィアラが、一瞬にして能面のように表情を失い。ロム爺がやっちゃったのう、お主。と言わんばかりに頭に手をやった。特にロム爺のそれは、かなり深刻な時にしか見せない本気の焦りの表情だ。
「……なんだよ。二人してそんな妙な顔して」
「……フェルト。お主、未だにフィーの琴線わかっとらんかったのか」
呆れた、というよりは哀れなものを見る目でフェルトに視線を送ってくるロム爺。訳がわからない。というか、フィアラの無表情は、明らかに出会った当初のそれそのもので。
これは、あれか。
「アタシ、また何かやっちゃったか?」
「………ワシ、ちょっと用事思い出した」
「あ、こらロム爺!逃げんな!」
「悪いのフェルト!風の刻になったら戻って来るわい!ほどほどにな!」
孫の嘆願を無視し、そそくさと老人は自らの屋敷を後にする。軽く開いた扉から肉体に見合わない素早さで扉を抜け、変わらず荒れた貧民街へ繰り出す。
堪忍袋の緒が切れた普段怒らない人間ほど厄介かつ危険な存在はないと、長年の経験で知っていた。そしてフィアラは、間違いなくその中で一番怒らせたらダメなタイプであることも。
「………どれだけ呪われていようが、自分の才能じゃからな」
嫌いなものでも、それが自分のものなら、思い入れというものはどうあっても出てきてしまうものだ。訳もなく貶められれば怒りもする。嫌いなものであるということは、嫌う理由がある程度にはそれを知っているということだから。何も知らない人間がずけずけと踏み込んで良い領域でもない。好きと嫌いは表裏一体。嫌よ嫌よも好きのうち、とはよく言ったものだ。
底冷えするようなあの視線。昔、戦争で蛇人族の同胞を怒らせた時も、同じものを感じたのだったか。あの時は執拗な嫌がらせを受けただけで済んだが、はてさて。今回はどうなることやら。
「ありゃ、荒れるの」
嵐の吹き荒れる予感に軽く身震いし、バルガ・クロムウェルは目的地に向かって歩き始めた。
じりじり、と迫って来る恐怖に、フェルトは思わず後退りした。そのままソファに尻餅をつき、それでもなお迫って来るフィアラと顔を突き合わせた。
そうしていると、ふと。
「陽魔法、『シナプス』」
「うお…………」
フィアラの指から、何やら光るものがフェルトへと向かう。光はそのままフェルトに追突し、急激にその質量を膨張させ、体を包んだ。
………が。特にこれといった変化はなく、それだけで終わった。
「……おぉ?………何した?」
「これは、感覚を鋭敏にさせる魔法。やり過ぎると
怒りと、若干の愉しみが垣間見える声音で、フィアラは本気を出す合図をするかのように首を鳴らして見せる。そのまま人差し指をチロリと舐めて、『しーっ』をするようにフェルトの唇へと押し当てた。
「ちょっと本気で魅せてあげる。フェルちゃんのプライドボッコボコにするから。覚悟、すべし」
魅せる。その単語に込められた意味を、フェルトは数秒にわたって吟味した。吟味して………
「ぷっ」
吹き出した。その言葉が指す意味が、あまりにも自分とフィアラの関係に縁遠いものであると理解したからだった。
「何言い出すかと思ったら、今更お前に欲情しろって?ないない。それこそ無理な話だろ。やれるもんならやってみろっての。悪いが、アタシは下心とか抱かねーから」
うん、大丈夫だ。いつもあんなセクハラまがいのことをしてくるフィアラを相手に欲情など。前回の風呂では………そう。不意を。卑怯にも不意をつかれてしまったことで動揺してしまったが、今回は予め準備ができている。そんな状況で、欲情などするはずもない。はずだ。
自信満々にそう言い切ったフェルトを、フィアラは侮るでもなく睥睨し、無言で近づいてきた。その顔におよそ表情といったものはない。けれど決して不気味というわけでもなく。寧ろ、余計な表情が消えたせいでその顔立ちの良さが際立って見えた。
そんなことを考えているうちに、フィアラとの距離はどんどんと縮まる。普段の距離感を無視したあまりにも近い距離。フィアラが四つん這いのせいで、見ようによっては服の下の素肌さえ見えてしまうほどの近さにまで至る。
「いや、流石に近すぎ……」
「………へぇ。ふーん。でも、下心とかないんでしょ?なら、いいじゃない?」
揶揄うようなフィアラの口調。
自問自答する。問題はあるか。果たして、フィアラに対してこの距離で、問題はあるか。
ない。ない、筈だ。ないから、なにも、問題はない。ない。
ない、はずなのに。
「………っ」
どうして、その顔から目が逸らせない。顔だけではない。口から、鼻から、整ったその顔立ちから、白い肌から、何故か。
───どうして。
心臓が、ドクリと大きく脈打った。体がぐにゃりと、曲がっていくような。そんな錯覚。自分が自分でいられない感覚。けれど不思議と、その変化に嫌悪は覚えない。
これが初めてだったとは言わない。盗みで緊張した時、衛兵に捕まりかけて隠れていた時、夜遅くまで起きていた時。胸は高鳴って、身体は熱くなって、同じような高揚は感じた。
だが、今胸に渦巻くこれは、それとひと纏めにできないくらい違う。なんて………いやらしくて、気持ちいい。これが本当の高揚であるとするのなら、あれらはどれほど退屈なものだったのだろう。
視界がチカチカと明滅する。やけにゆっくりと感じる世界の中で、その魔性の笑みと艶やかな肌が自らを侵食していく。それ以外のものなど、もう、見えない。
暑い、熱い、暑い、熱い。
思考にモヤがかかっていく。興奮とか、そういうものだけが鋭敏になって、理性なんてものが薄ぼんやりと、溶けるようにわからなくなっていく。
血が巡って、巡って、落ち着かなくて。とてつもなく長い距離を走り終わった後のような熱っぽさを感じる。息切れと震えが止まらない。
乾いて、渇いて。これが満たされなくてはならないと、どこからか湧いてきた渇望が欲望を正当化していく。
「………手、出したくないの?」
蠱惑する声が聞こえる。と同時に、ただでさえ近かったフィアラとの距離がゼロ距離になった。
「こら、フィアラ……てめ……」
「聞こえなーい。ほら、すり、すり」
服越しに猫のように体を擦り付けられ、いやでもその艶かしい肌の感触を想像させられる。
揺れる髪と、仄かな芳香が鼻腔をくすぐった。暖かさすら錯覚させる、菓子のような甘い香り。甘ったるくて胸の内を疼かせる。他の誰でもない……フィーの、匂いだ。
心臓がうるさい。ドクンドクンと、これが外に聞こえていないのがおかしいと思うほどの鼓動を繰り返して、けれどそれを耳にしている体は止まらない。
そうだ。これは仕方のないことだ。こんな気持ちになったのだから、もう仕方ない。どうしようもない。目の前の存在を求める以外に、この渇きを癒す手段などない。相手だって、そうして構わないと言っているんだ。いつもそう勘違いされてもしょうがない行動ばかり取ってくる相手だ。どこに我慢する理由がある。
背筋に走るゾクリという感触も、綺麗なものを穢してしまう背徳感も、ありとあらゆるものが、快楽を求める踏み台となっていく。
だからただ今は。
欲するままに、ただ、その手を。
「はい、お試しはここまで。フィーのこれの凄さ、わかった?」
「………ぇ?」
その声で、現実に引き戻される。焼かれていたはずの、焦がれていたはずの熱から離されていた。いつの間にか、フィアラとの距離も離れてしまっている。
あれだけ熱っていた頭が急激に冷えて、認識の中にフィアラと自分以外に、現実という異物が混ざった。
………胸の焦がれは、残ったまま。
「でも、初めてにしてはすごいね、フェルちゃん。こんなに耐えられたのは初めてかも。えらいえらい」
頭を軽く撫でられる。ロム爺がやる乱暴で、けれど落ち着くようなものとは違う。相手を労るような手つき。赤子にやるような、優しい触れ方だった。
けれど。
──なんだ、それ。
そんなものか、と思う自分がいた。
あれほどの熱情に駆られて、あれほどの葛藤に耐えて。得られたのは、たったこれっぽちの達成感と報酬なのかと。
これでは、ついさっきまで耐えていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
まだ、まだ。こんなに心は満たされないのに。こんなに胸の奥が疼いているのに。これでは、生殺しもいいところだ。
そう思うと、とんでもないやるせなさが湧いてくる。熱は肩透かしの空白に変わり、何か、自分がとんでもなく勿体ないことをしてしまったような。そう感じてしまうほどの何かを受けて。
そして、その感情のまま────
「……アタシには、なんもしないのかよ。他の奴には、軽く体を売る癖に」
思わず口から出たその言葉に、フェルト自身が一番驚いた。咄嗟に自らの口を手で覆い、吐いた言葉を飲み込むように呼吸を止める。本当にその言葉を言ってしまったのか。熱で浮かされていた頭では判断が効かず、驚きの奔流に呑まれていく。
そしてその報いは、息を吸うほど簡単に訪れた。
「───」
その顔を、どう形容すればよかったろう。
今にも泣いてしまいそうな、苦痛と悲嘆に打ちひしがれるような。親に家を出て行けと言われれば、こんな顔になるのだろうか。大切な誰かが死んだという報告を受ければ、或いはこうなるのだろうか。
否。たとえそれらだろうと、きっとここまで酷い顔にはならないだろう。家族のような親しみを感じていた相手に裏切られた傷に勝るものなど、きっと他にはない。
それが自分がもたらしたものであると実感した途端、フェルトの胸を割くような罪悪感が襲った。性欲に支配されていた心が、理性を取り戻してジクジクと痛む。
「悪ぃ。……今のは、アタシが悪かった。ちょっと、頭冷やしてくる」
堪らず、フェルトは盗品蔵を飛び出した。それが逃げだと知っていながら、そうせずにはいられなかった。フィアラの顔を見ることが辛いのもそうだったが、これ以上一緒にいて、フィアラを傷つけるかもしれない自分が怖かった。
無意味だと知りながら、フェルトは外の世界へと放逐された。
「──あぁ。ダメだよ、フェルちゃん」
そんな顔をしたら。
思わず食べたくなっちゃう。
フェルト√の大体の流れが決まったので説明させていただきます。フェルト√は一章終了で一旦の区切りとさせていただき、その後、本編三章を王戦リンチ終了(4巻)まで書き、フェルト√三章という流れになる予定です。
つまり、
フェルト√一章
↓
本編三章(書籍四巻)
↓
フェルト√三章
という流れになります。文句は言わせません。
次回が愉悦クライマックスになるかな。ファイ・オー