(今話はRe:ゼロから始める異世界生活、偽りの王選候補のネタバレを含みます。未プレイの方はご注意ください)
そこは、光のない暗い部屋。窓こそあっても差し込む光はなく、どことなくおどろおどろしい雰囲気が漂っている。
中には、床に座り込む儚げな少女。寝起きでもあるかのようにその服は乱れ、白い布をその側に、水着同然の服を着た妖艶な女が立っていた。傍目から見れば、育ちのいいお嬢様と暗殺者か何かに見えたことだろう。尤も、少女は怯えとは無縁で、退屈そうな表情さえ浮かべているが。
音ひとつもなかった空間で口を開いたのは、意外にも女の方だった。
「そういえば。あなた、言っていたわね。あの子はすぐに戻るって。結局外れたみたいだけど。あれ、なんのことだったのかしら」
抽象的な主語のない会話。傍目から聞いては何もわからないその言葉は、尋ね返されることを前提として紡がれているのでさえと思える。しかし、返ってきた言葉にはこれといって疑問は含まれていなかった。
「あぁ?別に、特殊なことした覚えはねーですよ。ただ、テキトーにストレス弄って、認識に齟齬ができるようにしてやったんです」
半裸の少女は自らの格好を気にすることもなく。徐に、足元に転がっていたシャトランジ盤を取り上げ、黒い駒だけを床に並べた。赤いカーペットの上で無機質な黒い駒はあまり目立たず、ほんの少し霞んで見える。
「これが下々。有象無象の虫ケラ共。アタクシにとっちゃどれも同じですが、下劣でブッサイクなアイツらは、そのちっちぇー頭で、それぞれの違いを必死こいて覚えてるわけだ」
そして少女は、嘲笑でもするかのように、手に持った白い駒を勢いよく突き立てた。黒い駒のいくつかが、生み出された衝撃でコトコトと倒れる。そんな惨状を生み出しておきながら、黒い駒の中で目に眩しい白は、暗い室内ではさながら道標か何かのように見えた。
「天才の前で、塵芥は霞んで見える。わかりやすい輝きから目を逸らして、わざわざ影を、それに隠れた醜いものを見ようとするモノ好きはそういやがりません」
「………それだけじゃないでしょう。その理屈だと、あなたと関わった人間が全員あの子と同じようになる」
「そりゃ、簡略化しただけでもっと難しい
くあぁ、と欠伸を噛み殺す少女。当人から欠伸が出るほど退屈な理論だろうが、内容の次元は常識の範疇から遥かに飛び抜けている。
人を操るのではなく、人を変える。改造する手管。精神だろうが肉体だろうが、全てを心一つで玩ぶ、冒涜的なまでの才能。力。それを肌身に感じ、女は軽く身震いした。
「例えばその芥が、自らに恐怖を与えてくるものなら?例えばその芥が、自らに苦痛を与えてくるものなら?顔も覚えたくなくなるくらい嫌な思いをして、顔を覚えたくなくなるくらい嫌いで、嫌で、嫌悪して、顔を覚えて、顔を知って──感じるだけですら、不快で、不快で、死にたくなったら」
少女はまたも乱暴に、今度はシャトランジ板を床に立てる。ちょうど、白い駒と黒い駒を分ける位置に壁を築くかのように。
盤に遮られ、黒い駒たちの様子は完全に見えなくなってしまった。倒れるような音は響くが、その状態は想像で補うしかない。すると却って、白い駒はその色彩を強めたように見える。
「そりゃあもう、自分から蓋して見なくするしかなくなります。一つの輝きに縋り付いて、その安心を得て。そうしないと、世界すら見えなくなるほどに」
シャトランジ盤が、黒い駒をボウリングのバーのように隅へ掃き捨てていく。白以外はどうでもいいというように。それらを認識などしたくないとでも言うように。拒絶を見せて、最終的には白だけが残った。
場に、沈黙が降りる。
女は何も言わなかった。そして言葉の代わりに、慮らんばかりの小さな溜息をつく。
「そしてあなたは、あの子が帰ってくると確信した。あなたの存在が白駒だから。その割に、期待は外れたみたいだけど?」
「そこがわかんねーんですよねぇ。アタクシ抜きでこの壁を越える人間なんぞ、
或いは、と。続けて。少女は手中の、もう一つの白い駒を眺める。指し示す可能性は一つ。他の
「………くだらねー」
握りしめられた白の駒が、粉々に砕けて床に落ちた。さながらチョークが如く、石製の駒は簡単にその姿形を変える。
「そんなこと、当人に訊きゃ済む話です。
一年。よくも逃げ切ったものだと称賛しよう。逃げ切った、と言うより。耐え切った、の方が正確か。モノクロだらけの、モザイクだらけの何も見えない世界で。果たして、常人はどれほど正気を保っていられるか。それを知る少女は、あの少年の精神の強さを評価していた。
「珍しいのね。あなたが一人を気にかけるなんて」
「金の鳥をわざわざ逃そうって奴のほうが珍しいでしょうよ。それに──」
歯を見せて、獰猛に笑う。その体に、どこぞの誰とも知れない他人の返り血をつけたまま。
「迎えに来いって泣き喚くガキを迎えに行くのが、親の義務ってやつでしょう?」
カペラ・エメラダ・ルグニカは、母親の慈愛とは程遠い笑みを浮かべて、幼く笑っていた。
その
耳だけとは言わず、フィアラは身体能力全般が高い方であると自負している。一部は
そしてフィアラは今、自らの高い身体能力をこれ以上無いくらいに呪った。
「────ぅ、ぇぇ……」
げんなり。というのが、フィアラの表情を表すのに最適な表現だっただろう。食べ物を食べている最中に下水の匂いを嗅いだ、とか。リラックス中に工事が始まったとか。心底嫌な、最悪なことがあったと言わんばかりの表情と声音だった。心なしか、その顔色も普段より青白く見えた。
「ふ、ふひ……フィアラちゃん、久しぶりに声、出したね。そんなに、鞭打ちが辛かったのかな?」
変わらずフィアラを鞭で打つ店長の声が、フィアラにとって一瞬にして癒しへと変貌した。気色は悪いが、ハッキリ言って
同時に、フィアラは憐れむ。この男と、ついでに先ほど出て行った傭兵の男。その他店の客、従業員。この店にいる全ての人間を。
エルザがベストだったろう。あれは究極のマゾヒストでサディストで。しかし秘密主義者だ。依頼でない殺しは目撃者だけで済ますし、大ごとになるのも極力避ける。被害も最小限で済んだことだろう。メィリィは、こういったことには向いていないから来る可能性は低かった。それでも、現状よりだいぶマシなことになるはずだ。彼女は根の根がトんでないから、殺しを積極的にしようとはしない。
他にも候補は何人かいたが、これはその中でも最悪……から、三番目のパターンだ。二番目はある男
それでも下から数えた方が早い事態に、フィアラは大きくため息をつく。これから訪れる事態と、その末に待つ自分の苦労に、予め備えるように。
飾らなくなったフィアラの様子に、店長の男は怪訝な顔を見せた。痛がるでもなく、俯くでもなく、げんなりして突然ため息をつきだしたフィアラに困惑しきりだ。
それもこれも、全て。
「……ん、なんだ?この音……どんどん、迫ってくる……?」
ここにきてようやく、店長の男も気がついた。耳のいいフィアラがずっと聞かされていたその音色に。
何か。何かの、重なるような音。重厚で、どこか耳が痒くなる。聴いたことのある音。日常的に聞くことはないが、必ず聴いたことがあって。不快な気分になるそれ。
それが、徐々に、徐々にだが。近づいてくるのだ。いるはずの傭兵の声も聞こえない。聞こえてくるのはその不快な声だけ。
そう、それはまるで。
大量の虫の、羽音のような。
「はい。選手交代の時間ですよぉ」
男が扉の前にいなければ、そこまで悲惨な末路を辿ることはなかったかもしれない。男が立っていなければ、そこまで壮絶な目に遭うことはなかったかもしれない。男が服を着ていれば、最悪の事態だけは回避できたかもしれなかった。
だが、なんの奇跡も、慈悲も起こることなく。それらの条件は全て噛み合わなかった。
「む、ぐぉぇ」
男の口から、悲鳴とも取れない蛙がひしゃげたような声が捻り出された。意識して出したものではない。何か。何かが、背中から。何かを、何か。
「げ、ぐぎ、が……ど、ぎぃ」
声が、声が。もれ、も、れた。もれ、もれ。も。奥に、に、腹と、目と、鼻と、口と、頭に、何か、が。
何か。
悍ましい何かが。いて。
「あらら。豚にたかっちゃいましたかぁ。特殊な人たち垂涎の光景です、ねぇ!」
男は突然、背後からの衝撃で吹っ飛んだ。凡そ4分の1にまで減った質量は、ゴム毬のように宙を軽く舞う。
空を飛ぶ男の視界に。あと少しで手に入ったであろう一人の少女が入る。闇の中でも黒に染まらない白い髪と、勝気ながら穏やかさを残す目つき。その何もかもに焦がれ、光に飛び込む夏の虫が如く、その手を伸ばして。
───あ、フィアラ、ちゃ
ぐちゅ、と嫌な音がした。
男は、息絶えた。
女から蹴りを入れられた男が、宙を舞う。
そして僕は、欲しいものを目の前にして死んだ男を見下ろしていた。男というにも、腹に、頭に、無数の穴を開けたそれを生物として認識するのは、些か憚られた。言うなれば肉塊。そんなところだろう。
冷たくなったものだ。こうして見ていても、なんの感慨も湧いてこない。いくら非道なことをしてきたやつとは言え、目の前で人が死んだというのに。最後の表情すらも、フェルトのいない今は見えすらしなかったが。
「はぁい。お久しぶりですね、リルちゃん。お母様のアジトで会った時以来でしょうかぁ。二年前くらいですけど………覚えてます?」
カールがかった紫の髪。冴えないながらも加虐を燃やす真紅の瞳と、興奮からか赤く染まった頰。どこか甘さと気だるさを含んだ声音で呼ぶ名前は、きっと僕のもの。今や認識することすらできない、ティフィといた頃の名前。
わかる。その顔を、理解できる。他とは違うその女の正体を、僕は知っていた。その名前も、当然。
「サクラ・エレメント」
「わぁ、名前。覚えててくれたんですかぁ。嬉しいですぅ」
この場に似合わない朗らかな声音で、心にもないことを言ってのける女性、サクラ・エレメント。
彼女は僕やエルザと同じ、カペラの『
当初から敵対していたと言うわけでもなく、経歴を隠してルグニカに潜入していた。怠け者の皮に隠れていたが、その正体は。
「サディストと虫好きは相変わらずか。変わらないな、お前」
「それを言うなら、リルちゃんは変わりましたねぇ。あの頃のリルちゃん、殺気ビンビンでゾクゾクしちゃったのにぃ。今じゃなーんにも感じない。この数年で、つまらなくなりましたね」
声のトーンを落とした、わかりやすい落胆。おもいきり感情が出る分、やりとり自体は単調だった。変な腹の探り合いも化かし合いもない。その点においては『慧眼の加護』を持つ僕が圧倒的に有利に立てるので、むしろそちらの方がありがたかったのだが。
「昔の話はいい。それより、一応聞かせて。──他に店にいた人たちは?」
「ええ、それはもう!すっっごくいい声で鳴いてくれましたよぉ!何十人もの方の悲鳴をいっっっぱい聴けるなんてぇ!こんな楽しいお仕事、久しぶりです!」
嬉々とした笑みを浮かべて。生存の有無を尋ねた質問に、回答ではなく殺害を前提とした感想が返される。
だから、コイツは嫌いなのだ。結局は狂人。根っこのところで、どうしようもなく狂っている。
「……さぁ、無駄話はこのくらいにして。いい加減、ここから出ましょうか」
何も言わない僕に焦れたのか。或いは、時間が惜しい理由でもあるのか。何にせよ、ここに長居するつもりがないらしいサクラは笑みを引っ込め、指をパチンと鳴らした。
サクラは、この世界でも屈指の実力者である。エルザほどではないが体術を齧っており、僕ほどではないが色気やらのハニートラップの類もある程度は押さえている。
だが、それらはあくまでカペラの娘であれば誰でも備えている最低限の手管だ。それだけで、サクラという存在を表現しきることはできない。
サクラ・エレメントという女を形容する上で、最も特筆すべきこと。それは──
「養魔蟲ちゃんたちぃ。出番ですよぉ」
──『蟲使い』である、ということだ。
合図した途端、サクラの背後から黒いモヤが発生する。モヤ、のように見えるそれは、一匹一匹が小指ほどの大きさの、黒い針のついた蟲の大群だった。
フォルムは
常人であれば。常人でなかろうと発狂したくなるような光景。それを背後に、あろうことかサクラは恍惚とした笑みさえ浮かべてみせる。
「ちょうど身動きも取れないみたいですし、このまま蟲さんたちの毒で、痺れてもらいましょうかぁ」
虫たちの尾についている長い尾。産卵管を思わせるあれが、おそらくは毒針。神経毒か、或いは別の何かか。どうあれ、碌なものではないことは確かだ。
「この、性悪女」
「あはぁ。負け犬の遠吠えなんて聞こえませぇん。そんなうるさい口には………」
その言葉が何かの合図だったのか。
「う……づっ……」
数多の虫は、一斉にその尻針を僕の全身に突き立ててくる。一切の差別なく、容赦なく、区別なく。ありとあらゆる場所に集り、群がり、灼かれるような痛みを伴って、その液を肉体に注射していく。
そして、痛みで反射的に開いた口に。
「蟲さんをプレゼント、です」
サクラの左指が、思い切り虫を押し込んだ。
口の中で、いくつもの塊が蠢くのを感じる。不快という言葉で言い表しきれない感覚。痛みと違和感。
サクラは、うっとりするような目でこちらを見つめている。虫が腹から産まれてくるところでも見たいのだろうか。
生憎と、その期待には応えられそうにない。
「───ッ!」
覚悟を決め、両奥の歯を思い切り噛み締める。ペキパキ、という硬い物体を強引に押しつぶした音が口内に響いた。そして激痛と共に、文字通り苦虫を噛み潰した酸味とエグみが口いっぱいに広がる。
「……ぉえ………固いな。それに酸っぱい。苦いゲル状じゃないだけまだマシだけど」
躊躇なく、えづきながら虫の残骸を吐き出した。息つく暇を与えず、手の拘束も外して身体中の虫を淡々とひっぺがし、潰す。数匹潰すと、痺れる様子を一向に見せない標的に動揺したかのように、虫は体から剥がれていった。
拘束から抜け出したことか、虫を噛み砕いたことか、虫の毒が機能しないことか。そのどれかか、或いは全てか。予想外の反応を見せられたらしいサクラの表情に、驚きが刻まれる。
「母さんから聞いてないの。フィーに、薬と毒は全部効かないってさ」
薬物実験の被験体。その過程で得た副産物。今では体液自体が薬と化している僕に、痛みも毒も大した影響を及ぼすものではなかった。それもまさか、こんな形で役に立つとも思ってはいなかったが。
「……これだから、リルちゃんは好きですよぉ。行動は読めないですけど、全部合理的で、理解できますからぁ」
薬が効かないのは初耳でしたけど、と。驚きを引っ込め、代わりに感心を示すサクラ。僕が自由になったと言うのに、臨戦態勢にすら入らないその様子は、こちらの意図が何なのかを完全に見透かしているかのように思える。
「………戦う気、ないのか」
「それはリルちゃんのほうでしょう?ここまできて、わざわざ私を殺すメリットがありませんしぃ。寧ろ、私がここまで来たことが、
あくまで飄々とした態度。『交渉』の姿勢を崩さないサクラ。交渉にしては些か手段が乱暴だった気がするが。
『連れ戻しに来たから暴れるな』とも。『無理矢理連れていく』とも言わない。彼女は確信している。僕が、カペラの元に帰りたがっていることも。
「あんなに見え見えの情報ばら撒いたってことは。久しぶりの
妖艶に、余裕ぶって。退屈そうに、サクラは指を立て、いちいち理屈詰で説明する。
「それに、ここで私を殺したら、お母様への伝手は無くなっちゃいますしぃ」
「………降参。抵抗する気もないから、好きに連れてって」
アジトの場所を知らないからこそ。カペラの子供に僕を迎えに来させたこともお見通しらしい。
大人しく両手を上げ、利害の一致を示す。僕はあの場所に戻るつもりだし、サクラは僕を連れて帰らないと大変な目に遭うことだろう。虫の分の意趣返しくらいはしてやりたいが、変に行動をして無駄に不信感を高めたいわけでもない。ここは大人しく連れ去られるのが得策だろう。
「えぇ。仕事が手早く済んで何よりです。じゃあ早速………と、行きたいところだったんですけどぉ」
サクラは、不意に頭を押さえ、わざとらしく困った様子を見せる。
ありきたりな、ごくごく普通の動作だったはずだ。ただ。僕は何故か、その動作によって。
「招かれざるお客さん、みたいですぅ」
脳裏を、一人の少女がよぎった。
ヒロインその3、名もなき店長のおっさんが死にました。
かけた時間は多分モブの中では最長でした。黙祷。
嘘でも『次回が楽しみです』と感想に書いてください。次話投稿が早くなります。