ロム爺のフルネームはバルガ・クロムウェルです。
ドシリアスかつ超長なので注意。申し訳ないと思っている。
人が変わっていくのが嫌いだった。
人の傷が治るのが嫌いだ。人が立ち直るのが嫌いだ。
つけたはずの爪痕が、いつの間にか消えている。確かに残した禍根が、ふと見直すと断たれている。蒔いたはずの種が、芽吹かずに掘り返されている。
自分がいた痕跡が、残したはずの形跡が。静かに、静かに。刻みつけた傷痕ごと消えていく。そのことが、傷をつけられないことの次に嫌いだった。
けれど、それはしょうがないこと。
人間は、成長する生き物だから。進化して、適応して、生きるために治して、不要なものを排出して、変化しながらも変わらず生きていく。それが人間。
だからきっと。傷は治らない方がいいだなんて、こんな願望を抱く僕の方が、人間としては終わっている。
──お前は誰だと声がする。
あとどれだけ経てば、この孤独は終わってくれるのだろう。
あとどれだけ歩めば、この虚飾は無くなるのだろう。
あとどれだけ探せば、真実は見つかるのだろう。
あとどれだけ。
あと、どれだけ。
この苦しみは、いつになれば。
時は、ほんの一時間前に遡る。
「助けに行けねーって……どういうことだよロム爺!」
「文字通りの意味じゃ。今あの子を助けに行くことはできんと言っとる」
フェルトの叫びが、盗品蔵の中で響き渡る。その激情は巨躯の老人を直撃し、しかしその意思を揺らすことなく、虚しく夜の貧民街へと霧散していった。
涙を滲ませながらのフェルトの訴えを、バルガは淡々と拒絶した。何のつもりかと顔色を伺おうにも、見上げる長駆の顔からは何の感情も覗けない。
激怒、しているのだろうか。あまりのフェルトの愚かさに幻滅しつつも、それをフェルトにぶつけまいと感情を押し殺した末に、こんな顔をするのだろうか。
「……フェルト。今は何時じゃ」
図りあぐねるフェルトに対し、窘めるような口調ながら冷たい声音で、バルガは呟く。
「………冥日四時、くらいか。それが、どうしたってんだよ」
「考えてもみい。連れ去ったのが娼館だというなら、この時間に店は書き入れ時じゃ。フィアラを欲するほどならば、貴族の顧客も相当おろうな」
「…………何が、言いてーんだよ」
バルガの話に焦れたフェルトが、結論を急く。そのフェルトの意を介さず、バルガの説明は続く。
それは延々と、子供のする言い訳のように。
「それほど大層な娼館に、フィアラを助けに行くとして、じゃ。当然真っ当な手段は取れん。意味もないじゃろう。だが、強引に押し入ればどうなる。どれほど早くフィアラを回収しても、騎士団が来てお縄が関の山じゃ」
煮え切らないバルガの態度。そして淡々と、どうでもいいと言わんばかりに言い捨てられた予測と事実に、フェルトの怒りは頂点に達しようとしていた。
事実として、それはすぐに声音という形で表面化する。
……だが。
「んなもん、フィアラが攫われてんだから関係……!」
「騎士の連中が、貧民街のワシらと、娼館の連中のどっちの言い分を信じる!? そんなこともわからんくなったのか!」
強い叱責。今まで見せなかったのが嘘であるかのように、盗品蔵どころか、貧民街一帯に響き渡らんばかりの怒声だった。剣幕ぶりは、言葉を遮られたフェルトが唖然とするほどだ。ここまでバルガが感情的になったのを、少なくともフェルトは見たことがなかった。
「……騎士団の成長は目まぐるしい。娼館の傭兵なぞ歯牙にかけん連中がわんさかおる。『剣聖』がいい例じゃ。どれだけ烏合の衆を集めようが、力で敵うはずもない」
その声に込められた感情がどれほどのものか。悔恨、無力感、怒り、嘆き、憂慮。無機質な理性の下に隠されていた激情に、フェルトは無言で瞠目した。
バルガ・クロムウェルという老人は賢い。算術や文字といった教養面でも、戦術や策といった政治面でも。その力は、かの亜人戦争をして頂点に君臨するほどに。
フェルトが考える未来予想図如きが、バルガの考えが及ばない代物であるはずがない。むしろ、真っ先に検討しただろう。その先も見据えているはずだ。その上で、バルガが一切動いていないということは。
「…………手は打っとる。だが、今ワシらに出来ることはもうない。ここで動けば、フィアラは二度と戻らなくなる」
フィアラを助ける手立ては、今現在、全くないということだ。あのロム爺でさえ、フィアラの救援には両の手を挙げる状態なのだ。
バルガは虚しく腰を落とし、拳を握りしめる。万感の思いが込められたその動作に、フェルトは何も言えずに黙りこんだ。
盗品蔵に、沈黙が降りる。重い空気に押しつぶされそうになりながら、フェルトは下唇を噛み締める。
──誰のせいでこうなった。そもそもの原因に、どうしてロム爺を責める権利がある。
自分自身への糾弾が、終わらない。今はそんなことをしている場合ではないと知っていながら、静かになると、胸の内からその声が侵食してくる。
フェルトは、フィアラを傷つけた。自らの欲望が叶わなかったからと身勝手な言葉を吐き捨て、そんな自分に向き合うのが嫌で逃げ出して。挙句の果ては捕まりかけたのを、フィアラに庇われた。回想すればするほど、自分がいかに救いようのない存在かがわかる。
今この瞬間も、フィアラを助けるという目的がなければ、フェルトは自責の念に駆られてどうにかなりそうだった。フィアラの状態如何では、正気を保つ自信すら、あるいは。
幸か不幸か、その思考を止めたのは、あまりにも荒々しい乱入者の存在だった。盗品蔵の中からでも聞こえてくるどたばたという足音と共に、老朽化した扉が労わられることなく乱暴に開いた。
「バルガ、いるか!?」
ひどく焦燥した様子のその男に、フェルトは多少の見覚えがあった。顔に傷の刻まれた強面の男。確か、ロム爺が懇意にしている情報屋だったはずだ。走ってでも来たのかその息は荒く、開口一番の言葉を口にし、二の句を告げず雑にせき込んだ。
「なんじゃ、合言葉もなしに騒々しい! 娼館に動きでもあったか!?」
「動きっちゃ動きなんだが…………いや、言ってる場合じゃねぇな!」
会話から察するに、娼館の見張りをしていたらしい男の言葉。そう認識し、フェルトもロム爺と共に男に注目する。次ぐ言葉を待った。男は少し早口で、大粒の汗を流しながらも口を開く。
「逆だ。客が一人も出てこないくせに、中からどんどん人の気配が消えてやがる。変な女が店に入ってからだ。娼婦にしても正面から入るなんておかしいとは思ってたが……多分、中で何か──」
そして。
フェルトが耳に入れたのは、そこまでだった。
「アタシ、行ってくる」
フィアラと離れる。フィアラがフェルトのせいで再び体を売る。そんな未来図を予想していた。
だが、考えもしなかった可能性。フィアラに
フィアラは、特別に見える。他の子供とは違う、特別な力を持っているように思える。
それでも。根っこでは子供なのだ。年相応の、見た目相応の。大人ぶっているだけで、怖いことも嫌なことも苦手な、ただの子供なのだ。そのことを、フェルトは何よりも知っている。
「な、おい! 待たんかフェルト!」
健脚が唸り、目にも止まらない速度を叩き出す。クロムウェルが引き止める頃には、盗品蔵に残るのは一陣の旋風と開けた扉だけだった。
フェルトは駆けた。のろのろと辿っていた帰路を、何倍も、何十倍も早く走った。自分の全身を使って、きっと今までで一番早く走っただろう。
それでも、一分一秒が惜しくて。スローモーションに感じる世界の中で、フェルトは自らの鈍間さを呪った。
フェルトがその店に到着したのは、男の報告から僅か四、五分後のことだった。
店の場所は、嫌でも脳に焼き付いていた。道順で思い出す記憶は昏く、足取りが何度も重くなりかけた。それでも通常は半刻とかかる道のりを走破したのは、偏にフェルトの能力ゆえであったが。
「……暗い?」
店を見て一番に感じたのは、確信の持てないそんな印象。
だが、娼館を渦巻く何かを、それ以外に言い表しようがなかった。
不気味な、とは違う。得体の知れない圧力のようなものが渦巻いているだとか、そういうことでもない。
ただ、娼館は暗かった。以前はピンクの光が汚らわしいほどに満ち溢れ、悪趣味極まりなくも妖しさと活気を放っていたが、それもない。質量が変わるわけもないのに、フェルトにはどうにも、以前より店全体がこぢんまりとしているように思えた。
周囲を観察すれば、人通りは夜ながらも多く富裕層の人間が行き来しているが、誰も娼館には目も止めようとしていない。
以前は貧民街の住人たるフェルトに奇怪な目を向ける貴族たちも見受けられたが、今やそれもない。誰一人として娼館の存在など目にもくれず、悠々と夜の街を闊歩している。
まるで、店近くのこの一帯だけが、裂け目か何かで断絶されてしまったかのようだ。
「中で、何が……?」
超常的にも感じるその様子に、一瞬気後れし。しかし、引くという選択肢もフェルトは持ち合わせなかった。
そうして惑う時間も惜しい。中で何かが起こっているというのなら、事が一刻一秒を争うということも考えられる。
逡巡の後、フェルトは意を決して正面の入り口に足を踏み入れた。
…………正確には、踏み入れようとした。
その足の第一歩が床を踏み締めかけた、その瞬間。
「ゔっ……!?」
背筋に、猛烈に冷たいものが走った。怖気すら催すそれはフェルトにたたらを踏ませるのに十分なもので。フェルトは差し出しかけた足を一瞬で外側へと向けてしまう。
吹く風の囁きか。或いは加護が何かを悟ったのか。正体はわからない。ただ、何となく察した。
ここは危険だ。とてもではないが踏み込めない。一歩足を入れれば最後。フェルトという存在はあまりにも儚く消え去ることになるだろう。最低でも罠か、最悪の場合フェルトの及びもつかない何かによって。
……だが、どうする。このままおめおめと帰るわけにもいかず、フェルトは頭を巡らせる。
この道は使えない。さりとて、他に侵入経路の心当たりなど。
「……いや、ある」
詰まりかけたフェルトの脳裏に、一筋の光が差す。忘れたくも忘れられない記憶からその場所を引っ張り出して。フェルトは徐に、娼館の裏手へと足を運んだ。
それは、娼館脇の細道を通った先の、ある種路地裏を思わせる場所だった。至るまでの道は日陰の影響によって暗幕が如き暗闇に隠れ、存在を知らなければ途中で途切れた行き止まりにすら見えただろう。
業務員用の裏口。簡潔に述べるならば、その扉はそういうものだった。フィアラが使っていた出入口はこちら側。ともすれば、フェルトの感じた嫌な予感が対侵入者用のトラップか何かであるならば。身内が利用することを前提とするようなこの出入口は、使えるのではないか、と。
フェルトの浅い予想は、意外にも的中した。あっさり、というのが的確だろうか。表で感じていた嫌な空気は、こちら側からは微塵も感じられなかった。恐る恐る足を踏み入れて、一秒、二秒……三秒。
──何も、起こらない。
ほぅ、と安堵のため息を吐く。ほんの一歩で、確かな一歩。この程度かと思う心と、これからだと高ぶる心。二つを両存させながら、フェルトはゆっくりと歩を娼館の内に進める。
そこからは、全くと言っていいほど障害にぶつかることなく進んだ。嫌な気配がする正面を避け、すぐそばの階段に。上と下で迷い、人を閉じ込めるなら下かと地下へ下った。
人の気配はない。ない。感じられないし、何なら物音一つも聞こえない。こんな立派な箱物に人がいないことの異常性を感じつつも、フェルトは足を止めることなく、慎重に階段を下っていく。ゆっくり、ゆっくりと。娼館の最奥を目指した。
……そうして目的の部屋を探し出すのに、さほど時間は必要はなかったろう。それこそ、フェルトが娼館に走った時間よりもよっぽど短かったはずだ。
その部屋を一目見た途端。降りられるだけ降りるつもりだったフェルトは、すぐさま足を止めた。直感したからだ。フィアラの空気を。あの浮世離れた色気づいた雰囲気を、間違えようのないほど濃密に。
それは地下五階にまで連なる娼館を、わずか二階層降りた場所に設置されていた。
広間、というべきか。大をつけるには狭く、部屋と呼ぶには少々広い。飾り気はなく、ただ少しせりあがった場所に、無機質な鎖と十字架を模した磔台が鎮座している。この部屋がどんな目的で作られ、用いられるのか。それを考えることすらおぞましいが。しかし、しかし。
「……フィアラ」
フェルトが求めていた人影は、確かにそこに鎮座していた。
地の底でなお、月の光を吸い取るような外側の白と、夜闇を孕む内の藤色。何物をも弾き、蠱惑する玉の肌。左右の眼は水と紅を宿し、灯のようにぼんやりと漂う。可憐すぎて壊したくなる小柄さを兼ね備え、子供ながらに残酷さと冷酷さを伴う振る舞い。
まず間違えようもなく、それはフィアラという幼子だった。
部屋の中には、
……ならば、フィアラはうまく逃げたのだろうか。フェルトやロム爺の心配などものともせず、かけられたであろう枷を外し、あっさりと逃げ遂せていたのだろうか。
希望的な観測を胸に。二度と会えないことを覚悟した目の前の存在を認められたことが嬉しくて。言葉を必死に探そうとして。
「──フェルちゃん。帰って」
それでも
フェルトの感動を、フェルトの感想を。意に介さず、どころか見向きもせず。
「ここはもう、フェルちゃんが来ていい場所じゃない。だからお願い。帰って」
天使の囁きを思わせる甘いトーンで。まるで親が子を叱るように、窘めるように。
ただ、帰ってほしいと懇願だけを口にする。
唖然。としか。フェルトの心情を表すものはなかっただろう。
「……ふ、ざ……!」
次の瞬間。フェルトは、目の前がかあっと、赤くなっていくのを感じた。それはもしかすれば、顔に宿る熱が持つ焔が如き錯覚だったか。いずれにせよ、フェルトが抱く感情など、その一つをおいて他になかった。
つい数瞬前の心震わす感動も、感情も。何もかもが吹き飛んで、その一色に染まっていく。
そしてそれが、怒号となって部屋を満たす、コンマ数秒。
「また、フィーを傷つけるの?そうやって言いつけを破って、フィーのことを裏切るの?」
悲しむようなその声が、吐き出されかけた熱情を悍ましい早さで奪っていった。
「……ぁ」
声が、取るべき形を失って小さな吐息に変化を遂げる。意思と予想に対して、その音は余りにもか細く、ひ弱だった。
フィアラらしくないといえば、そうなのだろう。弱みに付け込むような言い方を、それもフェルトに対しては、全く以てフィアラらしくもなかった。
だが、それが冷たい現実の刃であることは、フィアラのらしさ以前に確かなことではあった。
自らの身勝手な言動。忘れたわけがない。数時間前のことも。そのずっと前の、この場所で起こり続けていた凄惨な悲劇も。どれもがフェルトの心に深く刻まれ、その胸の内を苛んでいた鎖だった。
そして今。事実の刃は楔となって、その鎖ごとフェルトを繫ぎ止めた。憤りを、荒ぶりを留め、無理矢理に押さえ込んでしまう。
フェルトから漏れた弱弱しい吐息を感じ取ったのか。フィアラは、最後通告のように重い口を開く。
「お願い。もうお別れは終わったでしょ?フィーも死ぬわけじゃない。
懇願する声。
何度もフェルトを正し、導いてくれたその声。フェルトの危うさを支え続けてくれていた声。
逆らうなと、声がした。
本当に、フェルトがやっていることは正しいのだろうか。こういった大切な盤面で、フィアラが間違えたことを口にしたことが、一度でもあっただろうか。もしかすれば間違っているのはフェルトの方で、フィアラは、何か別の正しいことを見据えているのではないか。
そんな予感が、芽生えて。
──ふと、その物言いに不信感を覚えた。
「その言い方」
それに気が付いたのは、ただの偶然か。それか、本当に運命の悪戯だったとでもいうのだろうか。
「お前、ここで過ごすわけじゃないのか」
フェルトと、フィアラにあった認識の行き違い。
フィアラは言った。生きていればまた会えるなどと、慰みの言葉を。
けれど、このままここでフィアラが過ごすのだとしたら。果たして、こんなセリフが出てくるだろうか。
「……」
「おい…………どこ、行こうとしてんだよ」
しまった、とでも言うように口を噤んだフィアラ。この場では答えなどより何倍も雄弁な無言に、たまらずフェルトは食って掛かる。戒めの楔は、感情のままに外れようとしていた。
「アタシから離れないって言ったよな!? アタシに、嘘つかないって言ったよな!」
フェルトの日に焼けた小麦の手が、陶器のような白磁の肌を強く掴んだ。逃れようとする力を抑え込み、フェルトは俯くフィアラにまっすぐ向かい合った。
「なら答えろよ! フィアラ! どこに行くって!? どこに帰るってんだ、お前は!」
至近距離からの問いかけ。部屋中に響き渡る轟音。その言及に返事はなく、フィアラは静かに目を伏せていた。
フェルト如きに、まともに取り合う気はないということか。ならば、その気になるまで何度も問いかけるまでだ、と、フェルトは再び息を吸った。
だが。
それが余裕や倦怠ではなく、純粋に放つ言葉に詰まっていたのだと分かったのは、次いだ言葉に乗った感情の重さ故だ。
「……もう、暴かないで」
表情は、未だロクに見えなかった。ただ、その声には今までとは違う
「お願いだから。これ以上、フィーに関わらないで。これ以上はないの」
拒絶にしては、それは弱弱しく。懇願にしては、その意思は強固すぎる。
「フィーの全部を、フェルちゃんは知った。ここから先は、もう空っぽ。行き止まりの最底辺。これ以上の設定は、これ以上の歴史は、フィアラには用意されてない。だから……」
駄々をこねる子供のように。フィアラは情けなくも懇願する。
「帰って。お願い」
その小さな頭を、似合わずも必死に下げて。
「~~ッ!」
全てが、フェルトの神経に障った。
この場から走り出して、目の前の光景から逃げたくなる衝動に、フェルトは必死に抗った。
──違う。
違うのだ。
フェルトがもう一度フィアラに会いたいと願ったのは。会って話したいと思った言葉は。見たいと思った光景は。
決して、こんなものでは。
「さっきから帰れ帰れって、いい加減にしろよ! とっとと教えろ! 今お前が隠してるもんは、なんなんだ!?」
「……じゃあ」
声音に。今度は、ほんの僅かな棘が混じった。
親心を感じたと思えば、今度はこどものようなか弱さ。次にはそれも消え、代わりに意地っ張りを思わせる棘。
複数の人間の相手をしているような錯覚が、フェルトを襲った。でも、それはまるで、情緒を失いかけ、泣くまいと必死になる……
「じゃあ、フェルちゃんも。包み隠さずに答えてよ。フェルちゃんが、そんなにフィーを連れ戻そうとしてるのはどうして?」
「どうしてって……」
思いもよらぬ質問に、言葉が詰まる。
どうして、か。どうして、だろう。
理由を言葉にしろと言われれば、それは簡単なようで難しい。
感情が邪魔をする。何か。大切な何かがあって。それを出そうととすると、その感情が蓋をするために出口を塞いでしまう。
頭の中にいくつも言いたいことが出てきて、言葉にならずに消えていく
その無言に、フィアラが口を開いた。
「フェルちゃんの意思? フェルちゃんがやりたいから? ……ううん、違うよね。本当は」
自ら用意した問いに、フィアラは躊躇なく首を振る。
「自分のせいで、誰かが犠牲になったなんて思いたくないから」
強い語勢と共に、伽藍洞のような空白の眼がこちらを見据えていた。フェルトの。フェルトの、さらに何か。じっと、じっと。離れることなく、狂ったように。
執着とは違う。ただそこには、フェルトには推し量れない、確信めいた感情が渦巻いている。
それこそが、フィアラの根底にのさばる『何か』であるのだと、フェルトには思えた。
「それって、本当にフェルちゃんの意思なのかな。罪悪感を感じたくないから。ロム爺に面目が立たないから。そんな不透明で不純な理由が。本当に、フェルちゃんの意思なのかな」
言葉は重く、上手く。継ぎ目なく紡がれていく。
その言葉に返すものを、フェルトは迷った。
迷った、が。
「フィアラ。────お前、馬鹿か?」
困窮したわけではなかった。
「あれこれあれこれ、理屈ばっか垂れてんじゃねーよ」
ただ、その理屈があまりにも愚鈍すぎて、幼稚すぎて。呆れてこれ以外の言葉を発することができなかったのだ。言葉は重い。ただ、それだけだ。重いだけのフィアラの言葉は空虚で、理解不能で。何一つとしてフェルトの心に響かない。
「自分の意思かそうじゃないかなんて知ったことか!アタシはアタシだ!それ以外のなんでもない!アタシが行動してるなら、それがアタシの意思だ!他の何があっても、んなもん関係ねーだろうが!考えすぎだ、この馬鹿!」
フェルトは、今度こそ揺るがずに言い切った。目標がどうこう理由がどうこう、知ったことではない。それを理解する頭の良さも、そんなことに悩む馬鹿さ加減も。フェルトは持ち合わせていないのだ。
フェルトの言葉に。再度、フィアラが止まる。
そうして。返されたのは。
「…………そんな風に開き直れたら、どれだけ」
堪えるような。何かが軋むような音を、聞いた気がした。
「どれだけ、楽だったか……!」
初めて。初めて、だろうか。
フィアラの顔に、声に。感情らしきものが浮かんだ。フィアラをよく知るフェルトが注意深く観察しなければわからないほどの一瞬。あのフィアラが、人間味のある感情を露わにしたように見えた。
「やっぱり。フィアラは、一人ぼっちだ」
だが、それは本当に瞬間的なものだった。
目を閉じて開けば、そこにあるのはやはり冷たい眼を宿した無表情の貌。無感動で無機質な、人を見ていないどこか虚な瞳だ。
そうして。何者をも通さない氷の目つきで、フィアラはフェルトをどこか哀しそうな目で認め、小さく俯いた。
「ありがとう。……
フィアラが動いた。悲しそうな眼をしたまま、フェルトの脇を抜け、部屋の外を目指して。
「じゃあね、フェルト」
「おい……どこ行く気だ!話はまだ、終わってねーぞ!」
離れるその手を、フェルトは、掴む。フィアラはそれを力づくで振り払おうとした。さっきとは違う、強い力で。
だが、それはフェルトも同じだった。力も、感情も、より大きく。絶対に離さないようにしっかりとフィアラを掴んだ。
手を掴めることに、フェルトは安堵する。たとえ、どんなにフィアラが嫌な気をしようと。それができる限り、フェルトは話をやめてやらない。
「……離してよ。もう、話すことはない」
「……だったら、話すことがねーんだったら。なんで。なんで、アタシはこの手を掴んでられるんだよ」
フィアラの力は、フェルトのそれよりずっと強い。無理矢理振り払うことだって、本当はできるはずだ。掴む程度でフィアラを止めることなど、できるはずがないのだ。
「本気で別れたいなら、なんでてめーはそんな寂しそうにしてんだ!そんな、わざと気を引くような別れ方しようとしてんだよ!お前なら、もっと突き放す言い方だってできんだろ!」
「……そ、れは」
こうして掴まれていることこそ、フィアラが言葉を望んでいる、何よりの証拠だ。掴んでいるのはフェルトではない。他の誰でもない、フィアラの方だ。
「アタシはてめーを連れ戻す!意思も決意も知ったこっちゃねえ!無理矢理にでも、何をしてでも連れ帰る!」
そうだ。フェルトの目的は、最初から最後まで決まっている。目の前のバカを連れ戻して、盗品蔵に帰ること。それだけが、フェルトの願いで、意思なのだ。そこに他人が介在する余地など、あるはずがない。
「──は。連れて……帰る?」
フェルトの啖呵に、再びフィアラの顔に感情らしきものが浮かぶ。今度こそ、間違えようのないほどの熱を。
それは、憐れみのようだった。淡白な嘲笑を含めた、フェルトに対する悲しみのようで。呆れのようで。様々な感情が混じり合った、言葉にするには難しい表情。その中で、最も強く感じるのは。
「何も……」
握られた拳と共に滾る、怒りの感情。
「何も知らないくせに……!何もできないくせに……!ずっと、気づかなかったくせに……!勝手なこと……!」
漏らされる怒りの言葉の断片は、普段のフィアラからは考えられない重さを孕んで、部屋の中で強く響く。色気も妖艶さも孕まない真っ直ぐな声が、純粋にフェルトを貫いた。
「フィーが……
怒りがあった。
でも。それ以上に、その声には多分の迷いが含まれている。懇願のような必死さの込められた掠れた声は、どこか。
「今更、好き勝手なこと言わないでっ!!」
迷子を認めようとしない、意固地になった子供の嘆きに似ていた。
───何を、馬鹿正直に取り合ってる。
怒りが弾ける頭に対して、フィアラの理性は極めて冷徹に感情を抑圧しようとしていた。
……おかしい。こんな予定ではなかった。サクラを言いくるめてフィアラ一人でフェルトを待ち伏せたのは、フェルトをこの場所から追い出すためだ。こんな下らない、口喧嘩の応酬をするためでは。
下らない?ああ、下らないとも。こんな論争になんの意味がある。無駄に感情的になれば、フェルトを却って煽ることになる。
これ以上はマズい。このまま感情に身を任せれば、フィアラが望む展開からどんどん遠ざかってしまう。
引かなくては。落ち着いて、冷静に。相手は小娘一人だ。騙すことなんて、いくらだってやってきた。ほんの少し、自分を偽るだけでいい。
息を、吸う。言い淀むことなどない。子供を家に帰すことくらい、『慧眼の加護』を用いて思考を読めるフィアラにしては役不足もいいところだ。それこそ、呼吸をするのと同じくらい……
「……僕だって、怖いよ」
……簡単なことの、はずだった。
そのはずなのに。口から出るのは、どうして。
『本気で別れたいなら、なんでてめーはそんな寂しそうにしてんだ!そんな、わざと気を引くような別れ方しようとしてんだよ!お前なら、もっと突き放す言い方だってできんだろ!』
──引き止めて欲しいとでもいうのか?
本当に。フェルトの言う通り、本心ではそう望んでいるとでも。
あるわけがない。そんなことが、フィアラに限って、あるわけがない。
「帰りたくなんてない……あの地獄に……母さんの場所に自分から戻りたいなんて、思うわけない」
言葉が、止まってくれない。理性がブレーキをかけようとするのに。動く口は、それよりも先に音を紡いでしまう。
「でも、しょうがないじゃないか。そうじゃないと……そうしないと。誰も、誰にも。……向き合うことなんて、出来ないんだから」
言って。
言って、しまうのだろうか。このまま感情に任せて、フィアラは。
この眩しい金の子供に。打ち明けてしまうのか。薄汚く濁った、『僕』という存在のすべてを。そうして、洗いざらいを話して。嫌われるのが嫌だったから、フィアラはその前から姿を消そうとしたのではなかったのか。
「ふざけんな!お前がやりたくないことまでして、それをやらなきゃならねーのか!?」
美しい、姿だ。この体の何倍も、何倍も。
生き方も、その在り方すら。
「……うだよ」
なんて、眩しくて。
怨めしい。
「そうだよ!僕にはなんにもない!君とは違う!」
──言って、しまった。
もう止められないと、心のどこかが囁いた。そうだろうな、と。ぼんやり思った。
もう、止めるつもりもなかった。
「僕の全部は空っぽで、嘘っぱちで、他人から与えられたもので取り繕ってるだけの、虚飾だらけのツギハギだ!」
ツギハグ。ツギハグ。ツギハいて、ツギハいで。いつか、辿り着くと信じて創り上げていく。
そうやって何もかもを我が物として生かざるをえなかった男の姿を、フィアラはよく知っていた。
その姿の何を笑えよう。フィアラとて、そう生きるしかなかった。自分自身を保つ為には、そうせずにはいられなかった。
ツギハぐパーツがどこにもなかったのが、フィアラだったというだけで。
「───嘘しか、ないんだ」
嘘しか、持っていなかった。
「『フィアラ』は、嘘だらけだ。あんな変なこと言いたいわけじゃないし、あんな話し方でもない。声も、顔も、性格も、髪の色も、全部、全部。……本当の僕とは違うんだ」
人。夜の華。奇人。鈴のような声。珠のような肌。
全て。全て。フィアラにとっては偽りでしかない。
どれが本当か噓か分からない。けれど、記憶を失う前のリルにはなれなかった。だから、『フィアラ』になった。『色欲』に溺れ、フェルトという少女に助けられた哀れな子供を、愛想笑いを浮かべて演じ続けた。
けれど、気がついた。偽りの『フィアラ』を見る人たちを見て、気づいてしまった。
「本当の僕って、何?」
てんしと呼ばれた前世の記憶。他人の不幸を悦とした、歪んだ人間か。……本当に?本当に、そうだろうか。
その一生を知っている。記憶もある。ただ、そこに実感だけがない。
ビデオで見ただけの人間の一生を自分自身だと思い込むようなものだ。そんなことはできない。
『フィアラ』は僕ではない。『てんし』も違う。
……なら、本当の僕とは一体なんだ。
そう気がついてから、日常は容易く地獄へと変化した。
嘘を吐いた。噓を吐いた。本当がないから、嘘の上に、さらに嘘を塗り重ねた。本当のことを言おうとして、それでも嘘しかなかったから、嘘を吐いた。
ツギハグ、ツギハグ。嘘を縫い合わせて『フィアラ』は出来上がっていく。噓をついて、どんどんと溜まる嘘にオボレて。それでも心を殺して、嘘をついた。
そうして、いつか。
『お前は誰だと、声がする』
いつしか自分と、嘘の自分の境界すらわからなくなっていることに気が付いた。
それは、あまりにも明白な混濁だった。嘘をつき続けて、虚飾を続けた挙げ句の果て。0と1。嘘と真実。全く違う二つを分かつ境界の崩落という過程を伴う、
真実だったはずの『僕』はあまりにも無価値すぎて、ついに偽りだったはずの『フィアラ』と、同価値になってしまった。
「僕は、フィアラには……!本当なんて、これっぽっちだってなかった。盗品蔵で話してる最中も、自分がなんなのかって思い続けてきた。ねぐらに潜り込んだ時も、本当の自分が分からなくて眠れなかった。遊んでるときも、馬鹿やってるときも、軽口叩いてる時も、一緒に戦ってる時も!…………ずっと、一人だった。心の底から笑ったことなんて、一回もなかった」
記憶の底から、冷たい記憶が甦る。
『絶対に、殺してやるっ!!』
死を願う呪いが、数多。
『いいんだよ。いってらっしゃい、リル』
生を願う呪いが、たった一つ。
あの日から、『僕』はその一つを希望に生きてきた。幸あれと。命を賭してそう願った少女こそが、きっと正しいのだと信じて。
けれど、与えられた生は苦しみに塗れていた。どう足掻いても幸せなど見つからず、次第に自分自身さえ見失った。
ずっと、ずっと。フィアラは、自分自身を認められずに生きてきた。
フィアラとして過ごした一年間。
ただの一度として、ない。
「フェルト。君の知るフィアラなんて、どこにもいない……全部デタラメ、全部嘘なんだよ!」
否定したいわけじゃない。否定なんて、したいわけがない。それでも。他人から受け取った情報だけで完成した人間を、自分と言い張ることは終ぞできなかった。
実感の伴わない過去。てんしと呼ばれた前世の記憶。
記憶にない感情。抜け落ちた、この世界で過ごしたはずの家族たちとの思い出。いつまでも抱けない自覚。自分が自分であるという認識。
てんしとして生きるには自覚が足りず、リルとして生きるには過程が無い。生まれてからティフィを殺すまでの
何もない。フィアラには、本当に。人格として必要なものが何一つとして完成せず、何もかもが欠落していた。
フェルトは、驚いたような、ハンマーで殴られたかのような、衝撃を受けた顔をしていた。
傷ついただろうか。いや、傷ついたに違いない。今まで共に生きてきた思い出を、全て嘘だったと否定したのだ。嘘はそういうものだ。秘すれば時として薬となることこそあれ、暴かれれば全てを傷つける刃物でしかない。
「幻滅したでしょ!?傷ついたでしょ!?なんで騙したんだって、そう思ったでしょ!?
その苦痛が、理解できるだろうか。吐く言葉に、受け取る意思に、温かな言葉に、涙すら出そうな優しさに、自分自身にすら嘘をつき続けるしかないその苦痛を。
どれだけ報いたいと願っても、どれだけ正しくありたいと信じても。口から溢れるのは、どうしようもなく嘘ばかり。
知っているとも。嘘をつくことの悪辣さを、フィアラは誰よりも知っている。嘘を重ねることほど見苦しいものはない。
知っているからこそ、苦痛なのだ。
嘘にオボレテ、嘘でツギハギ、嘘で
「だから探さなきゃいけない!戻らなきゃならない!この目の……フィーを……この体の僕を知ってる、ソアラとティフィがいたあの場所に!」
ティフィに関する何かでも良い。カペラに会って、記憶を見るだけでもいい。この世界に来て、生きた、七年ほどの記憶。失われたリルの記憶があれば、真実を取り戻せる。この世界で生まれ、この世界で生きたリルという本物に、なることができるのだ。
だって、それが正しいのだから。不完全で嘘しかつけない自分よりも、ありのままの自分が良いに決まっている。誰しもが求め、願うのは真実だから。
「本当が大切なんだ!本物だけが全てで、みんな真実が欲しいんだ!嘘なんて誰からも求められない!嘘だけじゃ、誰にも向き合うことなんてできっこない!だから、
自分がとてつもなく惨めに思えた。そう思えて、ならなかった。認識した途端、目の奥から熱いものがツンと湧き上がってくる。
もう、泣いてしまいたかった。
泣いてしまって、良いだろうか。偽物の僕でも。嘘っぱちの僕でも。泣いても、良いのだろうか。
堪えて、堪えて。声が、掠れた。目の前が霞んで、景色が歪む。それでも、目から流れる熱い液体が涙であることを、どうしても認めたくなくて。フェルトに掴みかかりながら目を伏せた。視界が塞がれて、『慧眼の加護』が切れる。
何も見えなくなった世界で心に残ったのは、苦しみと絶望だけだった。
フェルトは、見下ろしていた。
自分に弱弱しく縋り付いて、嗚咽を漏らす幼子の姿を。
それは、あまりにも想像からかけ離れた光景。普段のフィアラからは考えられないほどの、異常すぎる暴走。
──いや、違う。
フェルトは浮かび上がったその考えを、首を振って否定する。
フェルトの知るいつものフィアラは、目の前の子供が作り出していたハリボテの幻想に過ぎない。今目の前にいる存在こそ、苦悩し、逡巡し、『フィアラ』という存在を仕立て上げた張本人。
泣きじゃくるその様子からは、いつもの軽薄さも、強かさも、何も感じられない。そこにあるのは、ただ純粋無垢な渇望。
『真実になりたい』
嘘で満たされた、空の器の願いだった。
話している内容を、馬鹿なフェルトは理解しきれなかった。
嘘をつかれていたと知って、傷つかなかったと言えば嘘になる。
それでも。いや、それ以上に。
──なんだ。この、気持ち。
フェルトの心を震わせる、何かがあった。
それはフェルト自身の胸から沸き上がり、心を止めどなく満していく。
『フェルちゃんが、そんなにフィーを連れ戻そうとしてるのはどうして?』
「そっか……アタシ……」
満足のいく答えが出なかった質問に、今更になってフェルトは回答を思いつく。
今なら、恐らくフィアラは簡単に連れ戻せるだろう。一言二言甘い言葉を囁けば、フェルトに逆らうどころか、ずっとフェルトを離れないようにすることもできる。
だが。葛藤することすらなく、フェルトは口を開いた。
「フィアラ、聞いてくれ。こんな状況で言うべきことじゃねーと思うけどさ。あの質問の答えを、返す」
この胸に秘めた思いが。言葉に出来なかった心が。今、フェルトの中で形を成していく。
笑う。こんな簡単なことに、こんな分かりやすい感情に、自分は気が付かなかったことがおかしくて、フェルトは笑って。笑いながら、吐露した。
「アタシは…………アタシは、さ」
フェルトは。
フェルトは、ずっと…………
「お前のこと、大嫌いだ」
そうだ。
だからフェルトは、何度でも。きっと『フィアラ』ではなく、フィアラを助けに来た。
フェルト√は嘘に『オボレテ』、自分を『ツギハグ』ルートです。
ここぞとばかりに原作推し。